2011年12月21日水曜日

銀鏡神楽 2 〜ノリについて〜

銀鏡神楽の舞われている中で、やはり踊り手を囃すノリというのがかつてはとても盛んであったらしい。
それらは、七五調の歌で、音の高低、テンポなどが決まっている。(それら含めて調子、と言うのだろうか?)その中で男女が愛をかわしたり、エロ話で盛り上がったり、踊り手をやじったり、早くやれとか、なんとかかんとかいろいろ言ったらしくて、それをもう一度最盛するべく何人かのおじさまが(神楽の当事者の方々が中心だったのかもしれませんが)盛んに囃していた。しかし、現在の私たちがそれを学んで囃すというのはかなり難易度が高い気もした。

民俗芸能が残っている地域でのそういう、そこでしかないノリというものが残っているところでは、本当にうらやましいほくほくとした雰囲気に包まれる。人はそういうものを今でも欲しているのだろうと思う。共有できる「ノリ」というのがたぶんとても狭い範囲の中でしか通用しない関係になって来ているのかもしれないけれど。2人とか3人とか。

ノリというのは、内側をつくると同時に外側をもつくる気がする。
外側を内側に巻きこんでしまうようなノリというのはやはりすばらしいのだろうと思う。
そういうことと、人々を煽動するというのとどう違うのだろう?

2011年12月17日土曜日

銀鏡神楽

宮崎に行って銀鏡神楽を見て来た。
車で3〜4時間走って、どんどん暗く人気の無い寂しい地帯へ突入すると、空は満天の星。宇宙にいるという感じすらする。
遠くににぎやかしい明かりが見えて来て、一安心。そこはにぎやかでほかほかした夜店がたくさん並んだ楽しげな場所だけど、松明が掲げられ、最初にイノシシの首を7体くらいお供えする、とても神聖な儀式が行われるところから始まった。
恐ろしく寒い中、白い息を吐きながら、渾身の舞いが一晩中舞われる。
跳躍の軽さ、身体からみなぎる気迫、強さに感服。

寒くて眠いので、ベッドやソファーの妄想に襲われながらみていた。

つづく。

2011年12月13日火曜日

チェルフィッチュとサンガツ

日曜日に熊本でチェルフィッチュを見た。
熊本でチェルフィッチュを見るというのはなんとも感慨深い。久しぶりに役者の人たちとも再会。
それぞれが自分なりの模索をしているのが本当に刺激になった。お客さんの反応も関東とは違う感じがして面白かった。

サンガツの演奏は、淡々としている中に突然胸を突く瞬間があって打たれた。励まされた。

今日は、民俗芸能調査の為に来ているメンバーといろいろな試行錯誤をしている。
何かに対して感じたこと、それを自分にとって本当にそう感じたか、本当はどう感じているか?そういうことを、自分に対して取り繕ったり嘘をついたり適当に答えを出したりしないで、おそろしく馬鹿正直になるにはどうしたらいいか?について、その状態をつくって調査するための実験に取り組む。

2011年12月10日土曜日

気分の共有の危険

気分を共有する、と言えばツイッターやフェイスブックもそういう効果をもたらしてくれる。
結局人は時代を超えてもそれを求めていることは確かなのだろう。
ただ、別の面では多様な価値観を認めてもいる。と同時に、自分の気分を誰かと共有したいという基本的な欲求があるように思う。だから、会話とかでもほとんど意味をなさない「お天気」「テレビの話題」なんかで気分を共有した時間を過ごしたいと願う。そこに、「違う」気分を持ち出されると気分を害してしまうこともある。私も、そういうところがあるなあと思う。逆に、あんまりそう思わなくても「そうだよねえ」と波長を合わしてしまうこともある。それを望んでいる空気を読んでいるのだ。そういうことの延長線上に「空気読み」というのはあるのだろうか?
でも、空気を読ませる強い圧力を感じる時はその圧力がいったいどこから発せられているのか分からないというときがある。もう、圧力の主体が分からないのだ。きっと空気の中で圧力も感染するのだろう。それも連鎖の一つなのだろうか?

人が別々の感じ方を持っていることを許容し受け止めながら、何かを共有している満たされた感覚を持ち合うことはできないのだろうか?

2011年12月9日金曜日

合唱 賛美歌も共有された感覚なのか?

私は子供の頃合唱団に入っていて歌うのはとても好きだった。
そこはキリスト教系の合唱団だったので、賛美歌なども多かった。
それを歌っている時は気分としてそういう気分になっていくというのはあったように思う。

でも考えてみれば50人とか100人とかの人々がみな同じ気分を共有するなんて普通に考えたら無理な話なのに、合唱というフォーマットを使えばそれが成立しているように感じる。実際はもちろんいろいろなはずだけど、あきらかに気分じゃないのに歌うというのは逆に無理があるわけだから、自分の気分をそこに持って行くということだよなあと思う。

だから逆に宗教に勧誘するときにそういうフォーマットを使って同じ気分にさせてしまうということも考えられる訳だ。

お経はどうなんだろう?
お経は、簡単にその気分になるなんていうことはない気がする。なぜなら意味がすぐに分からないから。
もっと違う効果がある。もっと潜在的なところに働きかける効果というものがあるのだろう。

阿波踊りは、あの踊りをしている人々の醸し出す空気と音楽があれば、かなり同じ気分を共有するところに行く気がする。

2011年12月8日木曜日

共有された感覚とは何か?

コミュニティーの中の共有された感覚を引き出すとはどういうことか?

うわさばなし
伝説
コトホギのことば
願いが動きに変換される
衝動が動きに変換される たとえばエエジャないかとか。

そのためのフォーマットが芸能であったということか?

今継承されている芸能を一つのフォーマットと考えてそこに現代の共有された感覚をぶち込むことは可能か?

共有された感覚→自分ではない感覚といえるか?

2011年12月7日水曜日

モッコスコーヒ前コンサート

今住んでいる小川の町には大きなイオンモールがあって、息子はそこに行くのをあまり好まないのですが、雨が降りそうな憂鬱な日にはどうしても「町」的な所に外出しないと気持ちを持ち直せないという時もあって、今日も買い物ついでにモッコスコーヒでお茶をした。今日はイオン内でのお店オープンの日だったらしく店の屋外側の出入り口前で、バイオリン、チェロ、コントラバスのトリオがコンサートをした。こういう、ところでコンサートするというのはどういう気持ちなのだろう、とか斜に構えてみていたものの、音が鳴ったとたんになんだか涙がでそうになった。生演奏の力というものを思い知った瞬間だった。311以降、どこかにとても過敏になっている。文化的なことに飢えている?あるいは、そういった「何か」によって自分を生かしたいと思っている?その演奏は本当になんの前触れも、インフォメーションも、司会も曲名を告げることもなく、淡々と準備が終わったら唐突に始まり、曲間も少しの拍手があって客に顔をみせるでもなく軽く会釈をするとすぐに次の曲にうつるというような感じで、曲もどこかで聞いたことのある音楽だけれど、懐かしいという思いがこみ上げるような選曲になっていて私の心の扉を叩き続ける。自動ドアが開いたり閉まったりして、そこを通る人の足音や姿も違う景色に映る。何も気張ったところのない行為でも人を動かしたり救ったりするのだ。何を特別なことをしようなどと思い上がることがあろうか?と自戒。

どこでも見つけられる

梅田哲也氏の「大きなことを小さく見せる」展示を見てきた。
それぞれの展示の部屋で、一見して飛び込んでくる視界の状況から、細部に目を凝らさなければ見えてこないもの達に意識が行き始めると、はっと息をのむような神聖な瞬間に立ち会うことになる。そうすると、もうその部屋の意味がそれまでとは全く違う物になる。そうやって、旅をするように歩いたり止まったりして、思ってもみなかったことを発見する、そういったことが無限に続くかと思われるような時間を味わう。

今朝、憂鬱な曇り空で今にも雨が降り出しそうな窓の外を何気なく眺めていた。鳥の群れが千々に乱れながら行き来していて、背の高い柿の木の枝にたくさん止まったり移動したり、去ったり、落ち着き無くしている様をよく見ると、葉の先に何か、そうか虫がいるのだなきっと。そういう見えないレベルの小さな蠢きを、別のものから見て取ることができるとき、その日は景色の意味がもう変わっている。

見つけようと思えば、見つけられる、そういったことごとと共に生きることができたらどんなにいいだろう。

2011年11月30日水曜日

男の子たち

今日は息子の友人が来て、同じ学年の男の子なので二人ともハイテンションな一日を送っていた。
ばかでかい飛行機をつくって飛ばしてみたけど重くて飛ばないらしい。
ハイテンションな音楽セッションをして、ハイテンションな物の投げ合いから、新聞紙の棒で殴り合っていた。
こういうハイテンションな欲求って私はあんまり知らない。男の子だなあ。ちょっとうらやましい。
素敵なおばかさん。陽のエネルギーというか…。

その間に、仕事上で書かなければならない文章を書いた。
文章を書いているとき、自分自身が何を求めているかいつもチューニングする。
前より、自分の欲求が少しはっきりしてきているように感じる。焦点が合わせやすくなっているように感じる。

2011年11月29日火曜日

メンテナンス

昨日に引き続き午前中調子があんまり良くない。
関節がもやもやと重い感じで、寝たくなる。

今日はやらなければならないこともあるので、なんとか状態を良くしたかったけど、家にいるかぎり無理だなあと思って、外に出かけてモッコスコーヒーに行った。いつも、外でコーヒーを飲むというのは何かのきっかけになることが多い気がする。単純に午後になったので調子が良くなっただけかもしれないけど、午前中からもやもや考えていたことに少しけりがついた。

私は小さなメンテナンスをし続けることが苦手で、とくに家のことや植物のことや電気製品のことはそうだ。
なんとも、かんとも、どうでも良くなってしまうことが多く、子供がいるので、あきらめないでなんとかしようと思ってきた。
結局今、大きなお題目を考えて盛り上がったりするよりも、小さなメンテナンスをやりながら観察するということを続けるほかは無いし、作品作りに関してはそうやってつくって来たわけなんだから、できるんじゃないだろうか?また挫折するのだろうか?

作品づくりや活動に関しても、自分がどうしたいかよくわからなくなったり、何かを発想してみても、すぐに気乗りしなくなってしまったりということがあるけれど、自分が何に引っかかってるか、どこに行きたいと思ってるか、潜在的な欲求を丁寧に観察するべく、小さな違和感や不快感をつもらせずに観察していくより他はない。

2011年11月28日月曜日

背中の観察

立禅をするといろいろなからだの状態を観察することが出来る。
何もしないよりずっといろいろ見える気がする。

背中の中程の感覚がすごく無い。
首のところで何かが途切れている。

立禅中に回復できる可能性について探ったけれど今はだめで、腰の腎臓あたりに手をあてると気持ちいいしからだが求めている感じもする。

ともあれ、低気圧の呪縛から少し解放された。

低気圧

気圧が下がって行く沼みたいな感じが近づいている、というかその中にいる感じがする。
沼に引きずり込まれそうに手足から力が抜けて行く。

おっくう、というからだ。

どうやってやりすごそう。

2011年11月27日日曜日

とりあえず生活していくということ

とりあえず生活していくという地盤があって、それぞれのダンスなり演劇なりの活動というのはあるけれど、それはフリーターという労働形態でかろうじて生活して行くことができる。そういういう条件が満たされる場所、つまりある程度の都市的空間でのみ可能なのだということか?

どこから文化的なエネルギーは発生するのだろう?

どこから創造的な関わりやそれによる動きというのは生まれるのだろう?

何が人をそうさせるのだろう?

可能性のある場所に、何か、ある条件がひとつ加わることで、爆発するように生まれるというようなことを夢想してみる。

だけど、生活、という地盤について考えると、重い…。

経済の変化によって、もしお金というものが価値をなくしてしまったら、何が地盤になるのだろうか?そういったことを現実に考えて行かなければならないと思う。想像力がそういうことに働かないのは、過剰に依存して生きてきたからだと思う。退廃的になりたくないとしたら、依存と共犯からできるだけ等身大にに脱却する方法を探さなければ。

きりんがおしりと名付けたトマトを食べる




2011年11月26日土曜日

きりんなりの消化


効率の悪いメディア

からだというのはメディアなんだ。
アデェの芸能は古くから伝わっているものでも、歌に載せて送る内容は現在の彼らが共有する何かだ。
それはメディアとしての機能が今でも生きているということで、そこにはまだ、芸能の生きた脈というものがある。
私たちがやっていること、ダンスであるとか演劇であるとか音楽であっても、ジャンルというものには関係なく、身体というものを通してからだに何かを伝えるメディアで、それは当たり前と言えばそうだけれど、からだというものがどういう性質のメディアなのか、それは簡単には言えない。ひとつ言えるのは同時に大量の人には伝えられないということであり、また、相手が一人であってもそこからどこかに繋がっていけるようなメディアでもある。伝染力と言ってもいい。それは、とても潜在的なところに響くし、無自覚的に受け取るものだ。それがとても面白い。と今ではすごく思える。

2011年11月24日木曜日

流れの受け取り方

音楽というのはどこからか流れてくるもので、それを身体で自然に受け止めることが出来るという意味で、ダンスよりはずっと自然な脈を保っているように感じる。「ダンス」といっても「踊り」といってもいいけれど、自然に流れてくる何かを知らないうちに身体で受け止めてしまっていた、というような無意識の領域の作用というのは、芸能を継承して来たコミュニティー以外ではほとんどないように思う。

今は、無意識に流れてくるのはテレビの情報が一番大きいのかもしれない。そこで流されている内容以上にそこに存在する身体というものが、見流している人の身体のどこかに侵入していくということも起きているかもしれない。でも、そうか、近くにいる人のからだ、指示をしてくる人のからだ、その指示を受け取ろうとするときに「からだ化」というのは起きているのだろう。そしてそれを知らないうちに発信してもいる。

「からだ化」の観察方法について、見て行くということか?

突き上げ

すごく何かがやりたい。
という衝動がやんわりと突き上げてくる。
創作に関わる何か、実験なのか、行動なのか、文章を書くことなのか、誰かにしゃべることなのか?
たぶん、とりあえず誰かにしゃべりたい。しゃべりながら吐き出したい。
吐き出すことで見いだしたい。

2011年11月22日火曜日

中学生の遊び

家の近所に大きな瓦屋さんのお屋敷があって、最近そこを舞台に中学生たち数名がモデルガンのようなものを持って遊んでいる。
今日は、お屋敷の屋根にまで登って、まるで刑事映画さながらの風情で打ち合って?いる。
ちょっとだけゾッとするけど、顔は何ともあどけなくて、まあ微笑ましいと言えなくもない。
ゲームの中だけの打ち合いにくらべれば、現実感があるような気もする。

小学生だったころ、トランシーバーのおもちゃを買ってもらって、それを使って近所をうろつき回って人の家の塀まで伝って歩いたのを思い出す。あれだって、ゾッとされてたかもしれない。

2011年11月21日月曜日

寒くなって代謝が落ちる

寒くなった。昨日の夜から急に寒くなって足の付け根あたりがキューキューと縮こまってそれでもなかなかあったかくならない。
家はすきま風が入るから、藤野の家と同じなのだ。
そして、いろいろやらなければならないことが溜まって代謝がわるい。焦る。焦ると余計に詰まってくるので余計に効率が悪くなって行く。
身体のことをやっても焦っているから上滑りだ。
少しずつやって行くにつれ落ち着いて行くだろうとは思う。
気が高まるときというのが少ないので、晴れていてそういう時は焦ってばかりだ。
晴れと雨の身体の差、気持ちの差をうまく乗り越えたい。

2011年11月20日日曜日

家の湿気と身体の湿気

家は古いので、雨が降る日はなんとなく家全体に湿気がしみ込んで重くなるように感じる。
そうすると、やっぱり身体も同じように湿気がしみ込んで重くなる。
今日は夕方日が差し込んで久しぶりに乾いた空気が流れた。そうすると家の風景もいっぺんして、呼吸を吹き返すように見える。
それで、自分もなんだか心が軽くなっていろいろ明日からの計画を考えたりする。
熊本での活動というのはどういう可能性があるかどうか?少しずつ動いて行こう。
コンテンポラリーダンスにおいての、あるいはもう少し広域にはみ出した芸術活動の可能性、また、「インフラ」とは何か?
どこにアウトプットするのか?だれにアウトプットするのか?どんな役割の可能性があるのか?
丁寧に考えて行動を積み重ねて行こう。行き止まりになっても、その感じを観察して根気よく行こう。

2011年11月18日金曜日

迷いのからだ

若いダンサーと関わっていると時々自分とは違った問題を抱えていることを発見する。
かなり長く関わって、作品でも深くやりとりしているつもりなのに、時々全く分からなかったことが判明して驚く。
いったい何を見ていたのだろう…と自分の観察の至らなさを思う。
問題の要は、「本当に感じていることが自分で分からない」ということがあって、それを本人も気づかない。
そうすると、本当にどうしたいか?というのが分からなくなる。
けれど本当に、本当の要というのは、本人の問題というよりは連鎖の問題としてあるということにも思い当たる。
結局は連鎖性の問題が人を本質的に抑圧しているのだとつくづく思う。その問題にどうやって向き合ったら良いのだろうか?
そういう意味では自分もその問題にとって例外ではなく、渦中にあるということをもう一度深く思い直し観察する必要がある。

2011年11月14日月曜日

鬼の斧

花祭で、山見鬼が斧を振るうその瞬間、空間に何かの衝撃が走って自分の深い所で何かが弾ける。始めての感覚で震えが来た。見終わってその神聖さに深く打たれた。
昼から始まって次の昼までの長い祭典の一日に様々なドラマが散りばめられていた。
ほとんど心身のギリギリまでやりきったさらにその先を超越していく、恐ろしく長い旅のひとつひとつが重ねられる。

2011年11月11日金曜日

フトコロの深さって何だろう?
御園の花祭の準備に同行させてもらえて、だしがしみるように内臓にしみてくる思いは、とにかく御園の人々の懐の深さへのありがたさだ。かけねなしに、さりげなくおもてなし、湧き出る乳のようなふるまい。

今日、誰もいない舞庭を見たとき、胸にこみ上げる何かが沸いて来た。

2011年11月9日水曜日

ジェコの幼少期には、男も女も裸で森を駆け回っていたのだろう。
私にとって裸というのは、家の中と温泉の中以外では考えられないし、考えて来なかった。
服を着る事について、文化としての裸について。舞台表現としての裸について考えてみよう。

2011年11月8日火曜日

口笛の体

長距離バスに乗って大阪に到着すると、高架下の殺伐とした道路脇で、ひょろっと背の高い猫背のおじさんが口笛を吹きながら交通整理をしていた。自分の中には歌がある、そういう誇らしさを染み込ませた体の領域が生き生きと、そこに一つの景色を密かに生み出している。

労働歌と、生きるモチベーションの関係について思いを巡らしたくなる。

2011年11月7日月曜日

掃除した

今仮住まいしている場所はとても古くて土台も多少腐っているといううわさですが、ときどき猫が珍入して、鰹節とか食い散らかしたりゴミをあさったりしてしまうので、汚く臭くなっていく。それで昨日はその中心になる猫の部屋を(本当は息子が自分なりの神社をまつった場所だけど)塩を撒いて掃除機で掃除して、酢水でぞうきんがけして、それから息子の気が済むようにきれいに物を配置した。おまけに、お香を炊いた。どうしてもこの辺で炊きたくなるというような場所がある。隅のじめじめした所。お香を炊くとそこの悪い気がなくなるような気がする。
また、うちはボットン便所だから時々虫が出るのだ。恒常的に虫とつきあうし、そうじゃないクリーンな住宅での生活というのがちょっと客観的に見えてくるということもある。


風の谷のナウシカのコミックを今更ながら読んでいる。ちゃんと読んだのは初めてで、その両方の経験がなんとなく私の中でつながるような感じがしている。

清めるとか払うとかそういうことについて考えさせられた。

2011年11月6日日曜日

塩屋

熊本に移住して4ヶ月近くが経とうとしている。
私が住んでいる小川には塩屋という文化拠点がある。
そこは商店街の中にあって、不思議な出会いの場となる素養がある。

昨日は、そこで友人たちと企画したはんてんづくりのワークショップを行った。
元々熊本出身の和裁が専門の女性が先生だった。

そのワークショップとは別に様々な人が塩屋に訪れた。
小川は最近避難してくる親子がとても増えて来ている。
その人たちがぞくぞく訪れてとても活気に満ちた時間になった。
それというのも、たぶん森田さんというものすごいパワーのある女性がキーパーソンになっている。
私も、森田さんのパーソナリティーに引かれてここに引っ越したのだ。

そこで、はじめて東北から引っ越しを考えているという家族に出会った。
彼らは、本当に疲労と悲しみと様々なストレスを抱えているということが身体に現れていて、それはとても壮絶だった。
はじめて、そういう壮絶さを目の当たりにしたように感じた。
放射能に過敏な体質のせいで、放射能によるやけどのような皮膚のただれも引き起こしているという。
帰り際は少し明るい顔になって、「いっしょに踊りたいです。あなたは、気持ちよく身体を使っているように見える。ワークショップやってください」と言われた。なんかだか、とてもうれしかった。再会が楽しみだ。

2011年11月2日水曜日

また、だましだまし書こう

なんとも、時間がずいぶん経過した。
自分のダンスの仕事に対して、集中しきれないなにかを抱えていたように思う。

少しずつ、そういう動機を取り戻しつつある。
捩子ぴじんの公演を見て、忘れていた何かのスイッチが入った。
彼にはいつも、何かのきっかけをもらってる気がする。

寅雄氏はエンジン全開だ。
私も慎重にもう一度、自分を起動する。

もう一度観察から。
しかし、観察とは何か?
観察とは、全てに意識的になるということだけではないはず。
の、意識的ではないままでいいことに対する観察の方法とは何か?

まずは自分の身体の不調から観察。
夕方くらいに過剰に眠くなる。
手首の外側を細かく感じるように観察してみたら、身体全体が何か違う状態にシフトして、乗り越えることができる、ということをもう一度思い出す。

2011年6月29日水曜日

交換

手法の交換を、禅問答のようなやり方で進められないか?

物々交換を、福袋の交換みたいに、相手にとって分からない何かを交換することはできないか?
プレゼント交換とかもありだが、マーケットなのに福袋的なものしか売っていないマーケットとか。

子供の未来

息子が大人になるまでにどんな力をつけておくのが良いのだろうか?
今6歳の息子が大人になるときに、どんな世界が待っているのだろう?

横並びで同じことができるかどうか、そういう力ではもう生きてはいけないだろう。
かなり絶望的な状況を生き抜かなければならないだろう。
そのためには想像力を持ち続けるエネルギーが必要なのだろうと思う。
どんな状況に陥っても、そこに必ずある別の可能性について心を開いていられる強さ。
突出して他の人と違った何かを持って、役割を担える力。でもナルシズムにもヒロイズムにも陥らないバランス感覚が必要だ。

そして、言わずもがな、体力が必要だろう。電力や化石エネルギーの枯渇は目に見えているので、人力が必要になることは間違いないし、奪い合いに巻き込まれずに独自に生きて行く力が必要になるだろう。
どれだけ歩けるか、どれだけ空腹に耐えられるか、どれだけ身を潜めたり、身をかわしたりできるか。
また、生きることを肯定し続けたり、いやな物事や関わりの中にいるとき、観察することでその場を切り抜けたり、自分を否定せずに生き抜けたりする力。不快なことを不快と認識する力、快を快と受け止める力、良し悪しや目的意識に足を取られずに、感じていることに正直になれる力、長い目で感じ取れる力。

でも、本当は、子供自身の中にプログラムというものはあって、それを確実に実行したり押し進めたりしているのかもしれない。なぜなら、赤ん坊が少しでも大きくなればすぐに立とうとする、歩こうとする、そういう欲求がプログラムされているのだ。だから欲求に従って動いてしまう遊びというのは、実は訓練のようなものなのかもしれない。それが見抜ければ、確実に無駄なく育って行くということなのかもしれない。この時代に必要なプログラムをされて生まれて来ているのかもしれない。

2011年6月16日木曜日

流れを変える方法

センター(中心)を持たずに場が生まれるシステムについて考えている。
経済の近視眼的なシステムを、長期的な富の流れにするために必要なことについても。
できるだけたくさんの過程を経て獲得する→段階を経る。
先に支払って予想外のものを手に入れる。ことで流れを変える。
目的意識を捨てる方法、ズラシ、拡散、逆走。

2011年5月10日火曜日

individual ←→dividual

自分という感覚について
個人という単位によって成り立っている世界に移行した時に
何が起きたか?
もう一度考えている。

「無限に分けられる部分としての自分」



「歯車として何かの体(たい)の一部でしかない自分」

の違いについて考え直す。

2011年4月29日金曜日

誰かのことを考える範囲

ずっと気が立っている。
時々寒気のような孤独感が襲う。

自分が誰かのことを考えられる範囲の狭さについて思い当たる。そういうのはコミュニティーの中で育まれるものなのだろう。そういった、お互いに誰かのことを考えるコミュニティーの中で育つということは都市的な場では稀なのかもしれない。何かの事情で人々は切り離され、管理との関係だけで生きなければならなくなってきた。その息苦しさが、よけいに他者に対して無関心になっていく。今はそれを取り戻そうとしている。大変なことが起きるとき、それを取り戻そうとする力がよみがえるのかもしれない。そういう意味では、何かが変わって行くのかもしれない。管理に依存しない関係において何かを取り戻したい。

ただ、マスメディアは相変わらず人々をコントロールしようとしているように思える。慈善を装った管理が強められるのが怖い。
人々がマスメディアから離れる方法はないのだろうか?

自分の中の何かが萎縮し、同時に何かが目覚め始めている。
麻痺させていたどこかの部分が目覚めて、いやでも過敏になって不安や絶望感を伴う。
と同時に何をするべきかということについて潜在的な部分が動き出そうとしているようにも感じる。

2011年4月25日月曜日

隠蔽の時代到来

様々なレベルで隠蔽が強められる。
隠蔽が強まると、そこには必ず暴力がある。

隠蔽が暴力の生みの親なのかもしれない。

例えば不安の隠蔽。
気持ちの中に不安があってもそれを隠蔽する。
それが複数の人々の中で暗黙の了解となる時、隠蔽した不安の火はどこに行くだろう?
それは決してなくなりはしない。深く深く潜って行く。そしてどこに行くのだろう。
八つ当たりの小さな連鎖を巡り巡って弱いものの上に降り注がれる理不尽な「叱咤」となるだろう。
そうやって今までも繰り返されて来た八つ当たりの連鎖によって、人々の間に見えない圧がかかっていく。
ますます息がしづらくなる。

我慢や元気や連帯を強いる空気が、不安を隠蔽する。かの戦争の時のように。
もっとも信頼できる人に不安を吐露して、あとでそれと距離を置く方が、長い目で見て健康でいられるように感じる。
だから空気圧ではなく、しばし身の内に耳を澄まして静かにしている方が良いのかもしれない。
そしてできるだけ信頼できる人の側に居よう。

2011年4月21日木曜日

「平和」など一度も無かった

戦後や、60年代の様々な動きのあと、平和な日々が続いていると思い込んでいたような感じがある。でも何か嘘くささというのが常にあった。それは学校の教室の中で、先生の様子の中で、あるいはテレビや、街の楽しげな様子の中に感じていた。もう少し意識的に見れば、平和等どこにもなかったことが分かるはずなのに、本当に何も見えていなかったのはなぜだろう?近代化という状況が世界全体に暴力的とも思われる速度で満たして行ったときからすでに、国家というシステムが暴力的な強さを競い脅し合う関係であり続けたし、弱いと判断すれば奪い続ける、そういう世界になっていった。

もともとそれが人間の性質なのかどうか?自分が暴力的にならないためには、自分が暴力を甘んじて受けるしかないのだろうか?自分から固持を放棄することで世界が変化する一端となるのだろうか?ガンジーのやり方というのはもう一度勉強しておく価値があるかもしれない。

核実験一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/核実験の一覧

癌の発祥推移
http://www.menekiplaza.com/siryou/suii.html


いかに戦後(米ソ冷戦の最中)、
原発が平和利用の名の下に
日本に導入されてきたか、その歴史。

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_1
http://www.youtube.com/watch?v=k0uVnFpGEms

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_2
http://www.youtube.com/watch?v=C5gA18Q5UZ0&feature=related

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_3
http://www.youtube.com/watch?v=rQuvSIvu6gk&feature=related


アメリカと日本の関係推移
http://blog.goo.ne.jp/kohay/e/38e3bffbbb58adf6be8724aca4e32471

ガンジー ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンディー

2011年4月15日金曜日

不安の合間 SF 過去が試される

不安の合間、つかの間の幸福。
不思議にそれらはクッキリとしていて、フィルムに刻まれたような感覚に襲われる。

卒園祝の望遠鏡で、初めて見た月の白いお盆のようなでこぼこ、入学準備のための手縫い、学校へ初日の息子の浮かれ姿、つかのまの帰省と旅先の観光。


アニメのSF映画DVDを最近よく借りて見る。テレビの情報だけを見ることに耐えられなくなったり、それでDVDを借りにいっても普通のエンターテイメントを見て現実逃避すると余計に悲しくなりそうで、迷った末にSFを見る。それらは、今の状況がすでに未来の範疇に入っていることを告げている。特に宮崎アニメを見ると、様々な予言と思えるような側面があり、もはやファンタジーとしてではなく、かなりリアリティーのある示唆に富んでいる部分がクローズアップされてくる。それで、すごく興奮する。萩尾望都の漫画も、読み直す時期にきている。すごく興奮する。今は、かつてのファンタジーであったSFが、どのくらいリアリティーがあったか、それが試されると感じる。

現代作家の作品も、演劇につけダンスにつけ音楽や美術につけその他のあらゆるものについて、過去の作品が今の現実と呼応するかどうか、どれだけ現実に感覚を開いていたものかどうか?問われるだろう。それらは、徐々にクッキリと浮かび上がってくるだろう。

2011年4月14日木曜日

様々な可能性

被災地の民俗芸能の力
http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201103260142.html
思いもよらないところに可能性というのはある。細かいところに思いもよらない豊かさがひっそりとあって、いつも呼吸している。
この2年くらい、様々な民俗芸能を見て歩いていて本当にそう思う。

低周波を出さない風力発電
http://www.mecaro.jp/

放射能の土壌の再生
http://ameblo.jp/dragonart/entry-10839848725.html

バイオディーゼル
http://journeytoforever.org/jp/biodiesel_make.html

ダイエット商品と発電機は相性が良いのではないだろうか?
手回しのラジオを試してみて思った。
車によるたくさんの運動不足を、発電式ルームランナーで発電、その分を歩けばどこかに着くかもだけど…。

不安の観察−5

放射能の被害が実際に現実に目に見える形であらわれていくまでの時間はどのくらいだろう。
3年後、5年後、10年後あたりに、浮上するだろうか。
少しずつ、少しずつ、病気が増えて初めて人は何が起きたのかを知るだろう。
非常に長期に渡って裁判が開かれる。裁判に勝つのは至難の業だ。いまのところ、放射能と癌を直接結びつける証拠などない。そういった現実世界をどのように生きるか?できるかぎり想定して、受け止めつつ、自分を見失わずに乗り越えて生きる心の準備をするなら、悪いことについて想定するのは決して悪くない。それらを見据え、私たちはあらゆる可能性にいての試行錯誤に心を開いていかなければならない。

今、何を選択して食べたら安全か分からない。水も野菜も牛乳や肉も、食物連鎖の中で放射能は濃縮されるし、遺伝子の深いところを傷つけるから何世代にも渡って被害が出る。でも、予言めいたことをいっても、実際の世界に現れないと人は認識できないものだ。それなら予測するだけ自分を傷つけるだけになるのかもしれない。
でも、考えてみたら、化学調味料にしても保存料にしても農薬にしても、空気の汚染にしても海の汚染にしても、本当は今に始まった事じゃなくて、ずっと前から本当は、何を食べたらいいのか分からない今と同じ状況だったのだ。たぶん。でも、できるだけ鈍感でいた方がのほほんと生きられるのだし、人はいつかは死ぬのだし、病気の原因は分からないから、そうしていただけなのだ。私自身も結局そうやって生きてきた。でもだから今もそのままでいいじゃん、とは思えないでいる。はっきりとした危機感を肌に感じている。

鎌仲ひとみの「ヒバクシャ」と「六ヶ所村ラプソディー」を見て、現実を一番動かすのはなんといってもお金なのだと実感。その力の大きさを思い知ると絶望的な気分になる。人は動くと思えるときは自分も動くし、動かないと思っているときは自分も動かない。
今起きていることは、動かせる僅かな契機となりうる、今日はそう感じている。

2011年4月13日水曜日

不安の観察−4

「別の可能性」をマイノリティーの価値と言い換えるとして、それらについて表面的には語られたとしても本質的には価値として機能する可能性は絶望的に削がれ続けているように感じる。様々なNPOがそれらと戦っている。私自身もある種のマイノリティーだ。だから、そういった戦いに共感するし、励まされるし、何かが動くかもしれないと希望を抱く。しかし、デモに参加したあとの選挙結果を目の前にしてつくづく感じたのは、それでも、私たちは限りなくマイノリティーで、圧倒的にマジョリティーを動かす力からは遠いところにいるという実感だった。

それで、どんな戦いも、ネガティブなシステムについての理解無しには非常に難しいのではないか?という思いを強くするようになる。それは、善意を前提にした戦いになってしまう場合、単に無視され、赤子の首を捻るように簡単にねじ伏せられてしまう。全うな人との関係を前提にコミュニケーションについて語ったり、自然との共生、生態系についての理解、その他言葉を尽くしたまっとうな正論を元に対応していっても、マジョリティー側にいる人々は、そのような物事に耳を貸す気は最初からない。そこにあるのは現実逃避の薄い頑丈な膜、又は前もって用意された定型の回避的思考の壁なのだ。また、普通の人々に向けて共感を起こすために、ある前提を共有した人どうしが打ち立てた正論を展開して行っても、それによって共感者をある程度得られたとしても、コアな共感者がむしろ、壁をつくって、それ以外の人々がそれについて考える余地を奪ってしまう。

そういった壁を作らずに、常に考える余地を与え続け、空気を動かす状況を生むためにはいったいどんな具体的な方法が可能なのだろうか?
人それぞれに覆い尽くされた不安として、今までの価値観を動かす事への恐怖、安定した状況への回帰願望、何も無かったことにしたい、自分が感じている恐怖を認識するのが怖い、など様々な反応があって保守的な方向に世論は動いて行くのだろうか?それとも、これだけの事が起きたのだから、前提をもう一度顧みて、本当に思いきって前提にメスを入れて新しい可能性を模索して行こうという方向に動くのだろうか?もしかしたら、両方に引き裂かれて行くのだろうか?

2011年4月12日火曜日

不安の観察−3

また、原発について、ネットなどで、テレビ以外の情報を収集。時間が経つにつれ両極的な情報発信者や思考の傾向が目立つようになる。「必要以上に不安になるな、安心しよう」という方向と、「非常に危険だという事を正しく認識しよう」という両極な情報が増えて行く。マスコミが情報をある程度隠蔽したり故意に選択したりしている傾向ははっきりと感じる。ネットは個々人の感覚からそれに深く反応することで様々な傾向に引き裂かれて行くのかもしれない。反応に反応するものだから、その両極さ加減はどんどん加速的に離れていく。基本的に、原発の設計や現場に昔関わっていた人で今は様々な危険についての証言者となっている人の情報を収集する。原発事情の背景となっている東電とマスコミの関係、政治との関係、アメリカとの関係などが浮き彫りになってくる。
人間社会を動かしている大半がネガティブな感情に端を発するコンプレックスや上昇志向や経済的優位への志向だし、それら閉塞感に伴う、八つ当たりの連鎖の世界だと、それは震災以前からも感じていた。それでも様々な可能性というのは常にあって、物事を動かす契機というのはあると思って来た。けれども、今回の状況と背景を見るにつけ、私がいかに楽観的に考えすぎていたかを思い知った。組織が大きくなるということに伴う弊害についてつくづく考える。規模がある程度以下なら、常に別の可能性や隙間が存在する余地というものがある。けれども大きくなりすぎたら、そのネガティブなエネルギーが限りなく権力的暴力的に人を圧倒し、組織の中で、あるいは、間接的に影響を受ける小社会の中で、権力に影響を受けた公的な学校などの中で自分が何を感じているか?何を望んでいるか?何をイヤだと思うか?そういった個人的な感覚が機能する余地すら失われる。そして、それら閉塞感に伴う八つ当たりの連鎖はより深まり、逆に個人的な感覚を持ったマイノリティーな人間に対する排他性も深まっていく。別の可能性を存在させる余地を削いでしまう。それが人間の現実だと受け止めきることができるか?受け止めなくてはならない。もしそれができるなら、受け止めた上で模索する「別の可能性」のありかたについて考えることもできるかもしれない。

2011年4月11日月曜日

不安の観察−2

今現在、ある意味で、とてもリアリティーのある状況が浮上しているように感じる。つまり、ここ20年〜30年くらい何かが伏せられている見えない危険や暴力的コントロールが水面下でどんどん膨らんでいる感じがあった。その一方で、ずっと表面的に平和や作り笑顔の関係性で覆われているというような、閉塞感や嘘っぽさを感じ、それに対して、時々力が抜けるような無力感に襲われる事があった。小学生の頃からずっと、そういった感覚があった。ここ10年はそれがどんどん強化されつつあるように感じていた。今回の原発の事で、そこからある意味で解放され、現実が水面上に顔を出したと言えるかもしれない。はっきりと目の前にあらわれた現実世界。そのことによって、ときどき非常にモチベーションが上がるときがある。

反面、もう、今までのほほんと感じたり考えたりできる小さなできごとを無条件で楽しむような日々は終わってしまった。全てのものごとの背後には黒い影があってじわじわと蝕んでくる、そういった世界として生きなければならない、そういう絶望的な悲しさに覆われてしまうときがある。そういった両極な感覚が時として私を襲う。また、ある場合には強烈な不安が心身を襲って、東京や横浜には一歩も近づけない、警報のようなものが自身の深いところから鳴り響いてしまうという時がある。

福島をはじめ、震災の非常に大きかった地域の報道について、過去の状況とは全く違った感覚を持って見ることになった。それは、非常に辛くて直視できないという感覚。悲しさや絶望感を伴い、現実を受け止める力を削いでしまうこと。本当に受け止める力を持つためには、もしかしたら、現地に行くしかないのかもしれない。しかし、現在、それができないでいる。それが今の私の現実だ。自分にとって最も身近な場所における、現実を受け止めつつ観察することから始めるしかない。

不安の観察−1

私自身の不安な感覚は震災が起きた当初から様々な変貌を遂げた。

当日の夜の深い深い絶望的な悪寒から始まって、翌日以降には現実的に不穏な予感に対処しようと様々な準備に動いた。放射能の影響がどのように移行するか予測した。野菜の汚染、水の汚染に対応するため、水をたくさんためておけるタンクを買って、水道水をためておいたり、野菜をある程度たくさん買って保存食的にしたり、風呂に水を溜めたり、地震が今後また起こって、息子が生き別れになっても身元が分かったり本人を励ませるようなお守りを作ったりなど。何をやっても、まだやりたりない気がして次の行動について考え続ける。
放射能への不安から二度に渡って西に移動した。一度目は3月15日くらいからだったと思う。友人から、子どもは非常に放射能に弱いから、パニックになる前に旅行に行くくらいの気持ちでもいいから西に退避した方がよいのではないか?というメールをもらって、募って来た不安が爆発したように荷物を詰め、その日中に退避しようと決意。まわりの人々もそのように行動しているように見えてくるから不思議だ。京都に着いて、しばらくは不安の衝動がずっと続いていた。が、京都の親戚があまりにも普通な日々を過ごしているのに感染してやっと少しずつ気持ちが緩んでリラックスした。それでやっと冷静に考えられる心の余裕を持てるようになった。

息子の卒園式を挟んで二度の退避を経て3月末には藤野に戻る。息子の小学校入学に集中することでしばらく平穏な日々を過ごす。そのことで、現実に起こってしまったことについていろいろ考える余裕ができた。

2011年3月29日火曜日

ひとまず止めよう

> 本日締め切り。
> 山口県上関町の原発建設計画
> 中止を求める署名サイト。
>
http://bit.ly/hrZzuP

不穏の手応え

大地震の当日、私は息子の保育園にいた。だから、息子とともに自宅に帰って来た。実験ユニットの打ち合わせで自宅にいた、KさんTさんNさんと再会。そのまま停電になった。停電は朝まで続いた。

このことが私にとってかなり大きかったかもしれない。震災そのものが私たちと強く結びついている感覚が深くなっていった。

停電なのでテレビも見れないし、情報が入って来ない。時間の経過に従ってどんどん部屋は真っ暗になる。みんなも電車が止まって帰れないからみんなでろうそくの明かりの中で闇鍋状態の鍋を食べた。みんな、急に黙り込んだり、やたらに喋ったり、なんとなく普通じゃない気分になっていった。

私は、その夜生まれて初めてとても大きな「不穏な空気」というものを感じた。状況は分からないはずなのに、原発についてのとても悪い予感があった。身体的に腰の背骨のあたりが寒い。胸のあたりが極端に凹む。取り返しのつかない大変なことが起きている、という不穏な空気。

そのあとの情報によって感情が様々に揺れ動かされたけれど、あのときの不穏さが妙にクッキリと何かの確信のように手の中にあって、結局は情報以上に強く私自身に語りかける。何かの判断を迫られているのだろうか?

2011年3月22日火曜日

世界にとっての変革期として

今回の大地震における、原発の恐怖を受けて、私たちは本当に様々なものごとについて自力で考えたり関わったりする事を怠っていた、と痛感しています。情報や経済やエネルギー、引いては芸能、芸術に関して、ある依存の前提を形成してきた権力のシステムを疑うチャンスだし、自治的な方法を模索する、つまり別の可能性を模索するモチベーションを取り戻すチャンスだと思う。

どこか、ひとつの前提に依拠ぜず、様々な情報を、様々な角度から見て感じて議論できるような状況をつくることが大切だと思った。


原発で働いていた方の記事
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

原子力資料情報室
http://www.ustream.tv/recorded/13472627
アーティストが(という定義も微妙だが)できることは、とにかく深く感じて反応できるということだ。作品という形でなくてもいい。メッセージを発信するのではなく、内省的な反応をアウトプットすることがより重要だと思う。

2011年2月24日木曜日

L.Aでズルさんに会う

またもや夜中に全く眠れず、ヒマを持て余している。

今日のデモンストレーションでは「プライベート トレース」の一部を英語指示で行った。
反応として、まず英語での指示が男の声であったことに反応を示す人が多かった。「男に指示されている」とか、「アメリカン英語なのでアメリカ人の言いなりになっている」などの文脈を想像してしまった人が多くいたことに驚き、そういう可能性について全く考えもしなかったのは少し甘かったなあと反省。まあやってみないと分からない。もう少し時間とか余裕とかあったら、もう少しワークショップを入れ込んだり、様々な可能性を模索できたのだがこればっかりは状況が許さなかったのでしかたない。

現場で偶然、マレーシアのズルさんに会った。アジアダンス会議で一緒だったダンサー/振付家/ライターだ。なんだか偶然とは思えない。私のリサーチ(Asia Interactive Research)に関することで彼に伝えられたし、今後の何かに繋がったらうれしい。なにより、彼のそばにいるとなんだか落ち着く。(彼自身はちょっと落ち着きが無いけど)。もっと話せたら良かったのに残念。今年の夏マレーに行けたらと思うが、タイやインドネシアにも行きたいし、時間が許すだろうか?

私的解剖実験シリーズは、結局「individual←→dividual?」という問いや、「常に内在する別の可能性」について考え続けていたのかもしれない。そうであれば、Asia Interactive Researchに突入したのも自然の成り行きなのかもしれない。不思議だ。

2011年2月23日水曜日

真夜中のL.Aのホテルにて

飛行機でビューンとひとっ飛びにL.Aに来て、昨日の夕方到着した。今日は体を調整するというか休んで明日は、デモンストレーションを見せる。全く別世界に突然、移動した感じ。現実感があまりにもない。ドラマとかで見たことのあるような風景の中に突然入り込んだようだ。だだっ広い道路、大柄な植物、きつい日光、夜は花の甘い香りがする。

ここ一ヶ月あたりの間にあまりにもたくさんのことが去来した。

丁度一ヶ月くらい前に、アジアインタラクティブリサーチの中間発表を森下スタジオにて行った。
お囃子の源泉となるようなお囃子を見に行って、その人たちの懐の広さと柔軟さに感動する。

蛭が谷の田遊びという、スーパー不思議な芸能を静岡に見に行く。
フィンランドのリアリティー・リサーチセンターの人々と交流しながら作品制作。
その合間にTPAMの企画でアジアインタラクティブリサーチのことを発表
We danceの企画でスロベニアのアーティストと手法交換
象の鼻テラスにて、Sacred city の発表

ひとつひとつこのブログに書こうと思いつつ、手を付けるまもなく過ぎて行ってしまった。
この後は、ヨコラボの発表会に力を注ぎ、息子の卒園と入学に心を傾けることになる。
これから、少しずつ、いままでのことを遡って、書いて行きたい。

2011年1月11日火曜日

リサーチの手法

リサーチをどのように行うかという方法が、今ひとつ確立できないでいる。
どうしても漠然としてしまう。

ただ、点的に芸能を見たというだけでは何も見えて来ない気がする。その土地の何を観察すれば良いのか?

例えば、その土地に生きている人々をインタビューする。
会話を採集し、所作を観察する。
そこで行われているコミュニケーションがどのようになされているか?を見る。
どのような自治的動きがあるか?を観察。

など。
何をどのように組み合わせてみて行けば良いのか?自分の身体的実感とともに何かを考察できるためには何が必要か?

Asia Interactive Research のアイデア

1)共同リサーチをコーディネートしあう。
それぞれの国又は地域で、アーティストがその地の民俗芸能リサーチをコーディネートする。
例えば3箇所の祭り又は芸能、又は文化といえる暮らしそのもの。

2)言葉についてのワークショップ
国の違うそれぞれのアーティストが、それ自体がアートワークになるように言葉を教え合う。
また、同じ言語圏においては、言葉をそれぞれどのようにイメージしているかについて、そのズレを観察するワークショップをする。

垂直な緊張感VS「いずこ」への祈り


高千穂と壱岐の神楽(花祭り・獅子舞などとの対比)

12月18日高千穂の夜神楽、20日壱岐の大大神楽に思いがけず行く事になる。
夜行バスに乗っている間、最果ての異界に行くようなワクワク感に襲われる。
どちらも、交通の便が悪いので時間もお金も懸かる。けれども、それだけの価値があった。

どちらも九州だけれど、まず福岡に入ったとき、あまりの垢抜けた感じに度肝を抜かれた。
東京以上に東京的というか…。東京ってどんな感じかというのも曖昧だけれども、要するに中央的な匂いがするということか?
高千穂も、記紀神話のど真ん中と言ってもいい。また、花祭りと違って、そこに浸かるというよりは人々は見に来ているという感じがはっきりある。また、神様というものをある場所に祀ってあるその特定されるどこかに対する緊張感というものを感じる。愛知県の花祭りや、関東一帯に残っている三匹獅子舞などには、そういったものを感じない。特定され得ない「いずこ」に対する祈りの感覚とでも言ったら良いだろうか?その違いをもう少し観察できたら良いのだが。そういう意味では壱岐の神楽は、その具体的な神様に対する緊張感が、こんなに強烈な祭りは見た事がないという感じで、これまた度肝を抜かれた。垂直に神様に向かう線とでもいうような何かが共有されていて、そこには得体の知れない緊張感がある。とにかく、九州のあたりは、かつて中央であったであろうという実感と、それらは韓国や琉球など外側を意識させる、文化や行き交いによって生じた物事なのではないか?などいろいろな興味が湧く。

マイノリティーなエネルギー

ヨコラボ中間発表

12月23日に横浜の小劇場STスポット主催の「ヨコラボ」中間発表が行われた。
人のマイノリティーな側面というものがとてもいとおしく感じられた。どうにもならないマイノリティーな感覚や判断というものを、無条件に肯定したいという衝動。そういった部分を抑圧する表層的な「正しさ」への嫌悪感がある自分に気づかされる。
もう一組の中村さんチームはとても洗練された作品に仕上がっていてビックリしてしまった。
我が自己探求チームのメンバーには、なるべく具体的な判断やアイデアを言わないように気をつけた。自分の感覚を信じる訓練でもあるからだ。他者の判断を勝手に想定しないで自分の実感を信じる事の難しさも感じたが、今回発表してくれた皆は果敢に挑んでくれて、私の活動を更に勇気づけてくれた。