2020年3月27日金曜日

街と体の観察 感じていること テンペルホーフで見た人々の小さな変化 2020年3月26日

今日もまた、自転車でテンペルホーフに行った。
人ができるだけ少ない場所に行って、息子が凧揚げを始めたので、私はシートの上で紅茶を飲みながらそれを眺めていた。ここ数日、おそらく一週間くらい信じられないほど良い天気が続いていて、今日も気持ちよく空が晴れて、風がとても強くて凧揚げにはもってこいだった。しばらく、夢中になって息子が喋りながら凧を揚げていたのだが、突然「あっ!切れちゃった!」と声を揚げたので息子が見てる方を見ると、凧の糸が切れたらしく、ものすごーく遠くに凧が飛んで行くのが見えた。息子は慌てて凧を追いかけていって、どうやらドッグラン(犬を遊ばせる広場)の中に落ちたらしく、声をかけて拾ってもらって帰ってきた。そうしたら糸がものすごく絡んでいたので、二人で糸を解き始めたがなかなか進まない、やってもやっても絡んでいるところがなくならない。凧を揚げてる時間より糸を解いている時間の方が長いくらいだ。だんだん日も暮れてきた。そして、よく見ると、なんだかテンペルホーフにいる人たちが、コロナの騒ぎで規制が始まる前のようなとてもリラックスした雰囲気になっていることに気がついた。昨日までとは様子が違う。どうしてかはわからないけれど。よく見ると4人組や3人組もいる。規制が入ってから、私も息子も、道行く人が何人連れかをチェックする癖がついてしまった。ベルリンの人たちがどのくらい規制を忠実に守ろうとするか?とか、ベルリンの人たちの生態を観察するのが私たちの習慣になってしまっているからだろう。もともとベルリンでは本当にいろいろな種類の人が生きているということを実感できる。特に、人目を気にせず面白い振る舞いをする人たちを見るのがとても好きなのだが、最近は緊張感がまして、人と人が目を合わして挨拶することも少なくなったり、笑い合うことも少なくなって、とにかく距離を測ることに神経を費やしているような印象だったのだ。けれども今日の夕暮れのテンペルホーフで、あのうっとりするような人々のざわめきが帰ってきた。それは夕暮れの野原と風と共に私たちを包み込んでとても幸せな気持ちにする。それはヴァーチャルな共感とは全く違って、また意識的に「連帯」することとも全く違って、全く別々の人生の、別々の目的の、いつか語り合うことも、再会することもないであろう人々のざわめきなんだけどその中にいると本当に幸せな気持ちになる。その間に漂っているものはいったいなんだろう?私の中にあった緊張や欠乏感がうそのように溶けていくのを感じた。本当に何気ないただのひとときが、自分を生かしている。

体の観察
自転車に長く乗ったせいで少し痛くなったお尻に意識を向けてみる。腰が少しこわばっている。意識的に腰を緩めると腸がすこしグルグルと動いている。首に意識を向けると、首が時々反射的に痙攣する。力を意識的に抜くと、大きな息が入ってきて、深い呼吸がおこった。

2020年3月26日木曜日

街の観察 感じてること 体の観察 2020年3月25日 

日々、体の観察を基本にしようと思っていたのに、状況や人の言葉に翻弄されてしまうような感じになっている。本来日記というものは人に見せる目的ではなく自分との対話のためのものなのに、それを公開するというのもなんかおかしな話だ。でも、自分と対話しながら何かをアウトプットするということが自分に必要なのだろうか?

自転車のタイヤの空気が抜けていたので、近所の自転車屋さんに空気入れを買いに行ったとき、ものすごくたくさんの人が自転車を求めてきていた。もしかしたら、電車が運行を中止する可能性があって、あるいはそう人々が予想して自転車を買い求めにきたのかもしれない、とふと思った。

その自転車で今日はテンペルホーフに行った。久しぶりに自転車に乗ったら、慣れていないものだからとても疲れた。でも良い運動になった。いつものように卓球がやりたくて、卓球台のある場所まで行ったら、卓球台の周りに鉄の柵が張り巡らされていて、張り紙があり、コロナウイルス蔓延の心配があるので封鎖するということだ。こうなったら、テンペルホーフ自体の閉鎖もありうるかもしれないと、覚悟しておこう。最終的には外出禁止までいく可能性すらあることを覚悟しておこう。

本当に大切なことは、誰かに見られていることを意識せず書ける場所に書くべきかもしれない。自分との対話から物事を見るには深く潜らなくてはならないから。

ただ、夢想する。人が自分なりの感じ方や考え方でいろいろな工夫をする余地のある世界、それらが人によってそれぞれ違って互いに正しさを主張せずにすむ世界、それによって、互いに視点を動かして物事を見ることで、いろいろな可能性が開かれる世界を。

そのためにはまず自分が視点を動かし始めなければとも思う。そして、この先のことを考えよう。たとえ、様々な状況の変化の渦に投げ込まれたとしても、その中でどう生き抜くかについて。

体の観察
珍しく肩の力がすっかり抜けて腕がすっきりとしている。頭も、顎の周りも力が抜けているから、口の中の唾液が潤沢にある。全身の血管が小さく脈打っているのを感じる。その脈の音が聞こえるような気がする。

2020年3月25日水曜日

街の観察 感じてること 人とは違う生理的恐怖について 2020年3月24日

昨日の夜「サバイバルファミリー」という映画を見た。或る日突然電気が使えなくなるという設定のパニックものだが、映画の中では情報が全く入らなくなるし、次に状況がどう変わるか全く予測がつかないので人々は自分の感覚をフル活用して、あるいはどうなる可能性があるかを予測しながら各自が自分の判断で動く。独自に判断した人ほど、安全を確保するのが早くなるような感じで、指示や変化を待っていることによって事態が悪化する。パソコンもスマホも全く使えなくなって、全身の感覚を使って生き残るための判断を見つける感じだ。今はその逆で、独自に判断してはいけない。全身の感覚を使うリアルな世界から切り離され、また人との関わりもオンラインのみになり、パソコンやスマホの中に世界があるようにそこでのやりとりを生きる。

今日は昨日より精神状態が良いようで午前中に英語の勉強とかフローティングボトルのウェブでのまとめに関することをやったりして過ごし、午後はホームセンターに行った。どんどんお店が閉まっていくので開いているお店は本当に貴重だ。でもいつ閉まるかわからない。人が店の前にたむろしているなあと思って見ていたら、入場制限があってお店の前で列を作って待っているらしかった。しかし、人と人の間が1.5メートル離れているので並んでいることに気づくまでに時間がかかった。

人々がみんな私のように感じているわけでは当然なく、問題なくこの状況を楽しんでいる人や、引きこもるのが楽しいから大丈夫という人も少なくない。また、必要な施策だと理解できれば苦痛はないと感じている人も多いかもしれない。人によって、何に対して反応するかは違ってくるので当然だ。私の場合はおそらく、一つの目的のために同じルールを全員で守る、しかもそのルールが段階を踏んで厳しくなるという状況がとても苦手なのだと思う(この部分だけ見るとまるで2018年に初演した『点にダイブ』のようだ)。この施策は必要なことだと頭で理解できていても、生理的な恐怖感みたいなものがあるのかもしれない。また、人と人の間から立ち上がる何かが人を支えるように感じることが多く、ベルリンの街ではフェイスブックではきっと絶対友達にならないような、繋がらないような種類の人たちであっても、「間」の感覚を分かち合ってるような気持ちで生きてこれたということかもしれない。だから、「切り離されている」という感覚がとても強い。ネットで繋がるというのとは全く別の種類の共有感というものについて考えさせられる。今私が求めていることは、魂に水をやるようなこと。魂に触れる「人の正直さ」みたいなものなのかもしれない。
でもだいぶ落ち着いてきた。また、こういう状況を経過することが自分にとって必要だったのだとも思っている。

自分の危機感を察知していろいろな人がメッセージやコメントをくれてとても心強く暖かく感じている。そういう意味でもちろんネットでの繋がりも本当に助けになっている。

2020年3月24日火曜日

街の観察 体の観察 精神的な危機の予兆 2020年3月23日

ベルリンでは日々、禁止事項や注意事項が追加されていく。特に、人と会えないという方向の禁止事項というのは本当に人を疲弊させる。というか、その閉塞性がエネルギーを奪い、体温が下がってくるような無力感を感じてしまう。人が何によって「生きて」いるのかを痛感する。このある意味での「飢え」のような状況の中で、自分を「生かそう」とするときに出てくる創造性を信じることで、この状況を切り抜けたい。
例えば、家から出ないで自分の好きなことを家でやるというのは、今までにも経験があり、むしろ家にいたいとさえ思ったりもした。実際ほとんど外に出て人に会うことをしなかった時期もあったかもしれない。しかし、禁止されるというのはそれとは全く違った種類の心理的恐怖を与えるもので、それは呪術的な効果と言っても過言ではないかもしれない。

昨日はテンペルホーフフェルドという広場に行って久しぶりに息子と卓球をし、草の上でお茶を飲んだりおやつを食べたりした。その時に、他の人たちは家族や友人で三々五々集まってビールを飲んだりコーヒーを飲んだりしながら楽しんでいた。あるグループはきっちり1.5メートル離れて座って話していた。信号待ちでは人々は互いに1.5メートル離れて待っている。この状況でできることはしながら、自分の心を満たす行為をしているように見えた。こうやってなんとかやり過ごせたらいいと思っていたけれど、3人以上集まってはいけないということが決まったらしい。人々の精神的な苦痛は計り知れないと感じている。その状況が終わる日程が、せめてわかればいいのだけれど。

体の観察
両方の手首から力が抜けてくるような感じがある。呼吸に意識を向けていくと指先に血が戻ってくるような感じがある。心理的な状況と血液の関係を感じる。両肩の付け根が少し縮んでいる。

今日も、自分が追い詰められたような精神状態になっていく感じがやばいと感じ始めていて、パソコンでの作業がどうしても手につかなかったのでテンペルホーフに向かった。その途中で、昨日まではあったレストランの通り沿いの椅子や机がすべて撤去されていた。トルコ系のお店が多く、その前に呆然と立ち尽くしているトルコの人たち。みんな立ち話したり立って食べたりしている。昨日まではまだ笑顔があった人たちの顔に血の気がない。それをみて、自分にそれが跳ね返ってくる。人と会ったり喋ったりするということが人に与えるエネルギーの大きさに愕然とする。そんな憂鬱な気分でテンペルホーフに到着してみると、人々は二人ずつの友人同士かあるいは家族のみになっている。草原に寝転んで、雲ひとつない空に羽ばたく息子があげている凧の鷲を眺めながら、その近くでたった一人でギターを弾きながら歌っている人の声を聞く。生演奏がこんなに胸にしみるのは何年ぶりだろうか?そのあと、卓球する場所に行くとそのテーブルは使われていてなかなかあかない。あきらめて帰りかけたとき、やっとテーブルがあいて卓球をしてみると、一気に気分が晴れてくる。いままで、卓球なんて求めてやったこともないのに、今の私にとってこれなしでは生きていけないほどに飢えていた感じがする。いったい私は何に飢えているのだろう?

体の観察
昼間に比べるとだいぶ落ち着いている。外に出たり卓球をやることの効果が自分に絶大なことに驚く。体は疲れているが、状況を受け入れる準備が少しずつ進んで来ているような気がする。また、息子の存在にとても助けられている。


2020年3月20日金曜日

街の観察 感じてると 体の観察 2020年3月20日

街の観察
メルケル首相からドイツ国民へのメッセージで、人と人の間隔を空けてください、1.5メートル!というのがあって、人々にその注意が少しずつ行き渡ってきているような気がする。たとえば、昨日はスーパーのレジの前、人が並ぶ所の床に、1.5メートル感覚のテープが貼ってあった。まるで高速道路での車間距離みたいに。あるレジでは人々がそれを無視しているが、あるレジでは人々がそれを順守している。まだばらつきはあるものの、その前の日に電車に乗った時も人との距離をとってる感じがあった。こういう人々の自由が一斉に束縛されるようなときには、信頼する人が本当に一人一人のことを考えて行われている政策だと思わないと心理的に受け止められないものだけど、メルケルさんは、かなり信頼されていると実感する。また、ドイツの人たちはルールを守るのが好き、ということを聞いたことがあるけれど、そういう国民性みたいなものもあるのかもしれない。公共のためにルールを守るというもちろん意味だけれど。状況によってはそれがとてお窮屈に感じるけれど、今はそれが功を奏するのではないだろうか。あと、FB上でドイツ語での宣伝でマスクが登場した。これもすごい。ヨーロッパでのマスクは黒なんだね。ベルリンの人たちがみんなマスクつけるようになったら、いよいよすごい自体だ。

表面的なことだけでなく、深い井戸の底に降りていくように、街や人々を眺められないだろうか?そのためには、自分の体の状態や、感度が重要になってくる。

また、感が良いとか悪いとかの「感」とはなんだろう?第六感?経験の延長線上でその感が働く場面は思いつく。例えば、料理の塩加減とか計らなくても、料理自体の量が違ってもだいたいわかってくる。そういう、感を磨いていくことでできることを少し考えたい。

体の観察
深呼吸して、その空気がとても気持ちよく体に入ってくるのを感じる。呼吸の方法だけで自分の状態をだいぶ変えられる気がしている。匂いを嗅ぐように呼吸をしてみる。匂いを特別嗅いでるかんじではないけれど、良い匂いを嗅いでいるような気分になる。また、吐き方、息を吐く時に体全身に細かくいきわたるように意識すると、全身に細かい気泡が入ったように柔らかくなる。まずい、続けていると瞑想状態になって…キーボードが打てなくなってくる…

2020年3月19日木曜日

街の観察 感じてること 体の観察 2020年3月19日

街の観察
昨日、久しぶりに一駅だけ電車に乗って買い物に行った。電車の中では、基本的に人は黙って離れて座っている。一箇所だけお酒を片手に、飲みながら二人でおしゃべりしながら大笑いをしている男性がいた。買い物をしている人々の様子は比較的普通に見えた。外で、男性同士が肘をくっつけ合う挨拶をしていた。そういうのも馴染んでいけば普通になってくるのかもしれない。新しい発想を行き渡らせるのがヨーロッパでは早いようにも思う。

感じていること、考えていることの観察
太極拳で、オンラインでのレッスンがあると言うが、あまり乗り気になれない。こういう状況だとインターネットでのいろいろな工夫が展開しているが、なぜか、今、そういう流れに心が動かされない。というかどちらかというと、力が抜けていくような無力感が生まれてしまう。なぜだろう。

こういう時だからこそできる工夫をしたいと思って数日前にはとてもエネルギーが湧いてくる感じがあったけれど、インターネットの情報を見ているうちに、あるいはインターネットでの展開をみているうちに、何かそういこととコミットできない孤立感みたいなのを感じ始めている。

新しい状況に変わってくるときに最初にわくわくしたとき、何かしら今までの世界の中で死角の中にいたような人たちや物事が少しずつ浮かび上がってきて、新しい動きを見出すことができるのではないか?というようなことを考えていたような気がする。けれども、今のところ見えるのは、やっぱり今までと変わらずお行儀の良いおりこうさんな人たちの誘導でものごとが提案され、提示され、広まっていく世界にすぎない。それを、受け入れればそれなりに楽しい時期として受け止められるかもしれないけれど、なにかそれに心が乗っかっていかない。

とはいえ、この時期に大きな枠組みがぐらぐらと揺らいで、あるいは意識的に作りかえられて、思った以上に状況が大きく変わっていくだろうということも予想できる。何がどう変わっていくのだろう?それが良い方に変わっていけばもちろん言うことはないけれど。たとえば産業のありかた、経済のあり方、働き方、環境との関係、生活スタイル。
人とともに変えていけること、大きな組織の代表者が変えること、個々の意識の変化が大きな組織の決定を揺るがすこと、状況の変化に応じてなし崩し的に変化していくこと、自分一人だけで決意して変えていけること、それらが複合的に組み合っていくのだろう。
ネットの状況をみるだけで何かをわかったような気にならないことも大切かもしれない、と自戒してみる。

体の観察
喉のあたりの意識を緩めてみる。口の中に唾液が戻ってくる。
家にいる時間がながくなるにつれ、腰が少し痛くなる。部屋が狭く感じてくる。両肩に力が入っている。そこに意識を向け続けると呼吸が少し深くなって姿勢もよくなってくる。

2020年3月18日水曜日

街の観察 をしてる自分の観察 2020年3月17日

コロナウイルスに関してそれぞれの国々の対応がだいたい2種類くらいの違った方法で選択されているような感じだろうか?出揃ってきた。政府機関がそれらを判断するのにも時間がかかる。初めての事が多くて、本当に何が正しいかは後になってみないとわからないことが多いだろう。個々人の感じ方、考え方は違うけれど、こういうときは感じ方を置いておいて決められたルールに従わざるを得ない。だからこそ、自分が感じている事や、そこから類推できる事を自分から手放さないようにしなければならないとも思う。なぜなら、この状況が長く続いていけば、自分でものごとを判断してはいけないと考える癖がついてしまうかもしれないのが怖いから。「公共のモラルとして今自分に課されていること」と「自分が感じていることから見出された内なる基準みたいなもの」のズレをとにかく観察しながら、また友人との対話を通じて自分の感じている事や考えている事を対象化しながら、今の時期にできる自分の学びみたいなものを獲得したい。

感覚的な判断は否定せざるを得ず、専門機関がカウントされた数字やシミュレーションを元にしたデータが真実を告げていると信じなければならない状況の中で、また専門家によって違った見方と判断がある。

けれども、何が真実かを問う前に起きていることが自分にもたらす感覚、感情、思考というものがあり、それは受け取り手それぞれに独自なものだ。そして、それらの物事から何かを学ぶ事は誰にでもできる。何かが起きているときそれは全体に対してであるように見えて、個々に語りかける声でもある。その声に耳を傾けて、あらためて観察してみたい。

街の観察
友人とお茶をしながら情報交換して、ベルリンの人たちは思った以上に「外に出歩かずにじっとしているべきだ」と思っている人が多いのかもしれないと思った。けれども、実際街を歩いているとリラックスして人と交流している人が普段と変わらない程度いるように見える。カフェは日本人の方がカウンターにいて、彼女とのちょっとした会話がとっても癒される。直接人に会う効果みたいなものを強烈に感じてしまった。カフェの中は机と机が指示通り離れて置いてあり、何人かがお茶している。通りに面した席は人でいっぱいだ。スーパーの前で偶然知人にあって情報交換すると、やっぱり、また違った感じを持っているのがわかったり。やっぱり人によって、かなり感じ方考え方は違うのかもしれない。友人と別れて、駅の陸橋で背中に夕日を浴びながらしばし佇む。向かい側のSバーン入り口あたりで男性がギターを奏でている。道路の真ん中にある柵にはたくさんのイベントのポスターがあり、3月、4月のもう行われなくなったイベントのエネルギッシュな宣伝文句が並んでいる。ギターを奏でていた男性の所に行って投げ銭をすると、とても嬉しそうな笑顔を向けてくれた。そういうのも、なんか癒される。

自分の観察
何かが喉にひっかかったように違和感を持っている。こういうときは、自分の中に何かしらのわだかまりがあるときが多い。具体的に何にたいしてかよくわからないわだかまりがあって、それを言葉にするのも難しい感じ。自分の中にあるその違和感がなんなのか?これからゆっくり観察したい。両肩が少し内側に縮んできている。ネットとの距離の取り方が必要だと感じている。考え方の違い以上に感情みたいなものに反応してしまうのが苦痛だと感じている。

2020年3月17日火曜日

街の観察 をしてる自分の観察  2020年3月16日

街の観察 をしてる自分の観察

今日は様々なイベント、劇場、美術館、図書館、学校などなど、閉鎖が続くベルリンの街を観察しよう〜!という最初の日としてちょっとウキウキと出かけた。ここはハーマンストラーセでトルコ街という感じ。夕暮れの、でもまだ日が残っている街並みはいつも通りにリラックスした人々が行き交っていた。人々の様子に何も変わったところはなく、店も普通にやっていて、今日は暖かいので人々は通りに出ているテーブルを囲んでお茶を飲んだりしている。ただ、お店は座席を少なめにして距離を置いたり、内と外の敷居を外して外気を入れたりしている。テンペリホーフフェルドという、空港後の広場まで歩く道すがら、3種類の紫色の花を見た。一つは直径1.5センチくらい、細長い花びら6枚、丈は3センチくらい、木の周りの地面に群れをなして咲いている姿はとても美しかった。もう一つは同じく直径1.5センチくらいで丸っぽい花びら5枚、葉っぱも少し太め楕円形のような葉っぱ。丈はやはり3センチくらい。これは通りの脇に咲いていた。もう一つは花びらが上に向かって中を包むような具合に生えている花の高さだけで2センチくらい、下の茎の部分は4センチくらい。長細い葉っぱが生えていて、この花は紫の色が少し赤みがかっている。テンペルホーフは相変わらずまったりの神様がいるんじゃないかというくらいにまったりとした人々の楽しむ声が全体に漂っていて深呼吸をすると特別な効果があるようにさえ感じる。テンペルホーフからの帰りに、切り株の上に動物のウンチを発見。細長くて黒い長さ2センチくらいのが数本のウンチ、誰のウンチかな?リス?匂いをかぎたかったけど、周りの人の目を気にしてできなかった…。まだまだだな…。

観察する感度をあげて、あるいは解像度をあげて、あるいは深度をあげて、日常の中の秘境みたいなものをみたいという気持ちがあるのだが、一人でただ散歩するだけでは今のところあまりそういう効果がない。

STスポットでやっていた「民俗芸能調査クラブ」のときに島くんや武田力くんらの実験で建物の外に出て観察をしたときは、景色が普段と全く違って見えたんだけどなあ。すごく新鮮な驚きで満ちていたんだけどなあ。あんな風に、自分の状態が研ぎ澄まされるために何が必要だったのか、、、思い出せない。

でもとりあえずまた明日歩いてみよう。少し電車に乗ってみるか、まだ空いているカフェにじっと座って人々を眺めてみようか…。

今日は息子が春休み(の前のコロナのための休み)の前の最後の学校だったので、カレーを一緒に作ってこれから食べる。珍しく宿題プラス春休み終わりのテストプレッシャーがあるけど、休みが長くなってとてもうれしそう。

2020年3月16日月曜日

自分の観察 2020年3月15日 エネルギーが渦巻いている

ベルリンは徹底していろいろな施設を閉めて、飲食店にも制限がついて、これからいまだかつてない状況が始まると感じている。夜は、もしかしたら星がたくさん見れるくらいに暗くなるかもしれない。明日から、少しずつ街の観察をしていきたい。友人たちとの交流はどれくらい可能なのか?こういった状況で生まれるクリエーションの可能性について何か考えたいという内側から湧き出る気持ちが生まれている。

自分の観察
自分の体の真ん中あたりに、何かエネルギーが渦巻いているのを感じる。床についている足が少し冷えている。自分の周り、背中側にふわっとした暖かさというか眩しさみたいなものを感じている。こういう状況で、自分の中にある声や言葉が、何かにつなげられる方法を見つけられるのじゃないだろうか?というちょっと興奮した気持ち。でももう少し落ち着こう。落ち着いてやろう。

部屋の観察
今日はずっと気になっていた電子機器類の埃などを取り除いて部屋も台所もトイレも廊下も一斉に掃除した。これからはこまめに、観察したあとに気になるところを掃除したり片付けたりしよう。といつも思うけど続かない。でもこの日記を書いていればそれが助けになるかもしれない。2日間晴れたので、そのせいもあってとても爽やか。

2020年3月14日土曜日

自分の観察 2020年3月13日 机の傷をサインとして読み取ってみる

ベルリンでは今までマスクをする人の姿をほとんど見なかったんだけど、今日スーパーで2人見かけた。これはなんかすごい変化が始まったのかもしれないと思ってしまった。息子も学校で一人見かけたそうだ。マスクをしている人が、うつさないようにと思ってか、自分がうつらないようにと思ってか、それはわからないけれど。

昨日の夜ちょっとしたことで目が覚めてから眠れない時間が長かったせいで、血流が悪いような感じがする。

自分の観察
後頭部、首筋、肩のあたりが何か滞った感じがする。でもそこにじーっと意識を向けているとくぐもった感じが少しだけ晴れてくるような感じがある。一番の要は肩甲骨の少し上の背骨で鈍いグレーな感じが覆っていて感覚が鈍い。と思ってじっと意識を向けてると今度はその感じが胃の裏あたりに移ってきた。そのあたりの背骨の左側の筋が長細く自己主張している。これを書いていると息子が左の肩をぎゅっと掴んだんだけどそこがすごいツボで、痛きもちいポイントで、息子はいつも私の体に何気なく触ったり押したりしたところがだいたい、今マッサージの必要な場所であることが多い。

部屋の観察
昨日は、スタジオの部屋でいろいろな場所をサインとして読み取ることをしながら、部屋の解像度がどんどん上がっていったので、今自分のいる机の上を見つめてみる。そこにはいろいろな傷がついている。体と違って机の傷は自己治癒をしないからずっと残っている。何かの履歴みたいだ。誰かがそこで作業をした、その時間を刻んでいる。
人の中にある傷も、その人が作業をした痕跡みたいに本当はそこに残っているのかもしれない。でもそれが目に入らないだけ。でもその傷に意識を向けるとそれは生きていて自分に何かを語りかけてくるのかもしれない。
もしこれが昔からの自分の机ならその傷は自分に何かを語りかけてくるのかもしれない。私が昔使っていた机は今どこに行ったのだろう。今誰かが使っているなら、私がつけた机の傷はその人の顔を見つめているのだろうか?

2020年3月12日木曜日

自分の観察 2020年3月12日 苦難の中の良い兆候

昨日、電車に乗って毎週行っている劇場のスタジオに行くと、劇場の周りの少し木や草が生えているところがあって、もう「春ですよ〜」と言わんばかりに鳥がさえずり桜が咲き(多分桜だと思う)リスが走り回っている。そして、気がつくといつもものすごく汚かった駅がとても綺麗になっている。これはコロナの影響で一斉に清掃でもしたのだろうか?
また、イベント中止の勧告が出されているけれど、私や友人が企画している小規模なものは大丈夫かしら?基本的に人数の多さが基準になっているようだ。

今日はうってかわってすごい風。晴れたり曇ったりを繰り返している。雲がすごい速さで空を流れている。

20日に行うパフォーマンスのために友人とリハーサルをして、何もない部屋の様々な痕跡、床の傷や窓に貼られたテープ、机の上のコーヒーのしみ、などなど、様々なものをサインとして読み取りながら歌にする。情報なんてなにもないような空っぽの部屋の解像度がどんどん上がっていく不思議。

ネットではいろいろな人が苦しみながらも、自分の意識を新たな可能性に展開させている様子が見えてくる。本当に苦しい時、自分を、自分たちを救おうとする瞬間に、新たな可能性が開かれるのかもしれない。今まで見えてなかった死角に光が当たるような瞬間ともいえる。そこに希望を見いだすことはできるかもしれない。

体の観察
額の真ん中あたり何かがあって、目を動かすとその感じが変化する。腰の後ろ側が少し重い首の後ろあたり、頚椎が突っ張ってるように感じたところの力を抜くと顎関節の力も抜けて唾液が戻ってくる。それが腰にも良い影響を与えているように感じる。こうやって、観察しながらパソコンを打っていると、多少効率は悪いけれど体にとっては良い感じ。

部屋の観察
毎日のように部屋の観察をすることが自分でわかっているので、散らからないように少しずつ気をつけるようになってきた。観察の良い効果と思われる。今は陽の光が燦々と部屋を明るく暖かくしてくれている。洗濯機の回る音、道路を車が走る音は遠くに聞こえる。ときどき部屋がきしるような音も聞こえる。








2020年3月10日火曜日

自分の観察 2020年3月10日

1日観察さぼってしまったけれど気を取り直してぼちぼち続けましょう。
昨日は週2回の太極拳の日で、体の重さをすべて足のほうに流していくことで、体重移動したときでも、両足にむけてその流れがいつもあり、どちらの足の重さをも失わないようにする練習をしていて、それがとても難しくて、ものすごくゆっくりその重さを観察しながらやったら、先生に「何かに意識を向けた状態でやらないで」と言われてしまった。でも、やってることが難しいからそれに集中していたと言ったらもちろん理解してくれたけど、太極拳は私の観察の手法では手に負えないところが確かにある。

自分の課題について少し思いついたことを書く。
相手からどう見られているか?という意識は人によっていろいろな強弱があると思うけれど、ある観点から見た「正しさ」で自分が計られていると感じるときに、また、それが複数人からの視線であるときに、私はとても息苦しさを感じる。それだけじゃなく、自分自身で、その「正しさ」の尺度から自分を計ってしまうということが起きてそれをやめたいと思ってもやめることが難しいということが起きる。と同時に苦しいからいろいろな怒りが噴き出してくる。そんなときに、観察によってその尺度の「正しさ」フィルターを等身大の自分の側から観察するということができるといいなとずっと思い続けてきたけれど、いざとなるととても難しい。自分を観察し続けることで、なんとなくそれに向き合えるんじゃないか?と少し希望を持ってきた。

自分の観察
朝だからかもしれないが、鎖骨の上あたりと、両足の付け根に鈍い痛みというか滞りがある。リンパ腺みたいなところかもしれない。座っている腰の体重のかけ方を少し変えると滞りの感じが少し変化する。よく観察すると首の後ろの骨にも滞りを感じる。これも、少し首の角度を変えると楽になる。両肩が内側に閉じ気味。胸骨にも鈍い滞りの痛みを感じる。

部屋の観察
雨がバルコニーのビニールシートに当たるポツポツという音が聞こえる。プリンターやスピーカーに埃がたまっている。このパソコンの画面よりのボタンのところにもだいぶ埃が溜まっている。スズメの声が聞こえる。スズメの鳴き方が日本に比べると少し長いトーンでチューンチューンと聞こえる。もしやスズメじゃないのか?

2020年3月9日月曜日

自分の観察 2020年3月8日

今日は息子がパソコンを独占していたので、さっきまで台所で肉じゃがを作りながらメモを片手に観察していた。

自分の観察
台所で野菜を切ったりしているとき、右足の裏をほんの少し浮かせる癖があるが、今日もそうなっている。右足の付け根が縮まってしまう癖があるのかもしれない。あるいは背骨の歪みのせいかもしれない。
右足の裏を意識していると、少しずつ右足が床に密着していく。
そのあと上半身を右に捻りたい感じがして、少しだけねじっていくと、今度は左脇を伸ばしたい衝動に駆られて少しだけ伸ばす。このとき、尾骨に少しだけ小さな痛みが走る。首の両脇は万年的に少し凝っている。
観察を続けていくと、背骨が少し伸びたような感じがして、首のあたりがポキっと鳴る。歯の噛み合わせが少しよくなったような気がする。唾液が戻ってくる感じがする。

部屋のと心の部屋の観察
最近は少しずつ部屋に意識を持っていく癖ができて少しずつ整理ができている物の、いつも紙にメモを書き付けて机の上に積み重ねてしまうので、そこが地層みたいに溜まっていく。いつになったら整理できるのやら。明日から、様々なやらなければいけない書類仕事、ウェブ仕事、銀行での振り込みいろいろあるけれど、そういったことが頭の中で散らかっていると、焦るわりに全然進まないのがわかっているので、明日、気合を入れて優先順位を決めて整理しよう。ひとつひとつ、楽しんでこなせるように自分を整えないと…。

2020年3月8日日曜日

自分の観察 2020年3月7日

定期的に自分の体に意識を向けて観察することで、日々の基本的な落ち着きが戻ってきた気がする。

ネットでの人々の見解の違いみたいなものが、それぞれの人の「恐怖を感じるポイント」の違いなんじゃないかとふと思った。例えば、コロナウイルスの重症化や致死率にたいして恐怖を感じるひと、コロナウイルスのまだ不明な部分がたくさんあることへの恐怖、間違った情報によって事態が悪化することへの恐怖、経済的な危機への恐怖、医療的な抗生物質の開発が加速することでウイルスの変化も加速することへの恐怖、不安を煽られることによって人々が冷静でなくなることへの恐怖などなどキリがないけれど、またそれらが複雑に絡み合っていると想像できる。私の場合、「情報の正解は一つである」と人々が思うようになり、それ以外の正しくない情報への恐怖が高まったり、その延長線上で情報を統制することを人々が望むようになる可能性について、怖いと感じているのだと気づいた。そのポイントが違うことを共に理解しあえれば、それぞれにもう少し緊張感が和らぐのかもしれない。

体の観察
自分が手を置いているパソコンと机の接点に意識を向けて、そこから床、壁自分の背後にも意識を向けてみる。時々、心臓がドキドキと鼓動が大きく感じる。そんな時はそこに意識を向けて観察してみる。息を吐く時に、背中の一番背骨が硬く歪んでいるところに吐きかけて、力を抜くことができることを発見。

部屋の観察
息子のピアノ練習の音。車が道路を行く音は昨日より小さく明るく響いている。その音が時々とても小さくなって、あたりがシーンとなる。時計の音が聞こえる。

2020年3月7日土曜日

自分の観察 2020年3月6日

ネットで情報を集めようとすればするほど、肩に力が入って精神状態が悪化してきた。なので、もう一度体を観察することにして、深呼吸をしていったら、ちょっとした執着状態が解放されてくる。特に頭の両側面あたりの興奮状態みたいのものが和らいでくる。ネットの情報は顔が見えない他者のパーソナリティーや、匿名性や、正当性の有無のような何かが自分の何かしらの身体的、精神的反応を引き起こしてしまう。それらをもう少し和らげることができないとシンドイのかもしれない。また、それが本で情報をみつけるのとはちょっと違った点なのかもしれない。テレビの場合はまた違ったストレスがあるのだろうけれど。

体の観察
目の周りの今は緩んでいる筋肉をよくよく観察してみる。側頭部が興奮して感じるときは目の周りの血の巡りがとても悪くなっているような気がする。
ついでに耳を澄ませて音を聞いてみる。遠くの車の走る音が何かに反響してゴワーっと淡い音を響かせている。それが雨の音に混じっていてぼやけている。息子がボードゲームのアイデアをノートに書いていて、その書いている鉛筆が床になんども落ちる音が聞こえる。色鉛筆をいろいろ取り替えながら描いているのか、なんどもなんどもコロコロと音がなる。筆箱のなかの色鉛筆がカラカラなる音が聞こえる。時計の音が聞こえる。

部屋の観察
パソコンにだけ向かっていると、周りが見えなくなって部屋が見えなくなっていることが多いことに気づく。時々、改めて部屋をじっと見てみると、自分の死角になっているものがいろいろ見えてくる。いつも死角になってる部分を改めて見たり、そこのものを動かしたり、ものを少し捨てたりしてみる。一気にいろいろやろうとすると難しいので、気づいたときに少しだけやることで、ちょっと部屋の中の空気がよくなる気がする。

2020年3月5日木曜日

自分の観察 2020年3月5日

いつの間にかひな祭りも過ぎて「春」といってもおかしくない季節になってきた。
昨日はいつも水曜日に行くスタジオの近くで鳥が虫を探している姿を見た。「啓蟄」という言葉が頭に浮かんだ。っと思ったら暦を調べたらそれは今日だった。

体の観察)
後頭部から肩にかけて少しの興奮状態みたいなのがあるらしく力が入っている。力を抜くと呼吸が楽になってくる。胃の裏あたりの骨が硬く少しゆがんで感じる。歯を少し噛み締めている。それを緩めると口の中に少し唾液が戻ってくる感じがする。

部屋の状態)
机の上に書類が散らかっている。
窓が閉じたままになっていることに気づいた。
窓を開けたら気持ち良い風が入ってきた。
しかし、机の上の書類にはいろいろな最近の事柄が複雑に絡み合っていて、それを紐解くのが少し気が重い。
・いくつか行った英語でのWSに使った原稿
・Encounter the process というイベントで作品を推敲していたときのたくさんのメモ
・感想を書きたいと思い続けているハンブルクでみた作品のパンフ


2020年3月4日水曜日

コロナが流行って思った事

正確な情報を巡って様々な対立が生まれる。
それは間違った情報が蔓延する事の恐怖心みたいなものがあるからかもしれない。その信憑性は、「政府の」発表とか「WHOの」発表とか、できるだけ大きな機関の正式な発表に依存することが多い。しかし、今までの歴史的な観点から言えば、大きな機関の正式な発表でも様々な嘘や捏造は起こってきた。だから本当に何を信じれば良いかわからないから、様々な憶測が生まれるし、そのぶん、それを利用したフェイクな情報も生み出される。片や、それぞれ自分の感覚を基にした見解も記事になっている。それらは科学的であるかどうか、というような検証はしていないけれど、自分が生きてきて感じてきたことを基にしていると思われる。そういうものに対しても、それにさしたる害がない内容であるにもかかわらず「科学的」であるかどうか、真実であるかどうかなどの観点から手厳しい批判を投げる人が結構いる。311が起きた頃からそれは何度も繰り返されてきた。
しかし、何が「科学的」であるか?その信憑性はどうやって確認できるのだろうか?現在正式に発表されている「科学的」と言われている内容であっても、必ず別の見解から間違っていると言う意見がある。全ての物事には、別の見解というのが常にあるものだ。そこで、自分の見解が絶対に正しいという態度で批判し合うほど無駄なことはないと思う。様々な見解があるということを前提として、投げかけや対話がなされるべきだし、その中でお互いにいろいろ考える材料にもできる。

科学的な事は、様々な仮説に対する実験や実践によって確かになっていくかもしれないが、今の所、解明できないたくさんの事が含まれている。今正しいと思われている「科学的」な正解が、覆される可能性はいつでもある。
また、今は「科学的」に正解という認識がないものであっても、実際に有効である経験を積み重ねる事もある。

また、何が「本当の情報」であるか?見極める事はとても難しい。だから結局は自分がどう感じるか?ということがとても大切になると思う。本当に危険かどうかを判断するとき、全てを検証していては間に合わないときがとても多い。結局は感に頼るしかない。感を磨いていくしかない。感を磨くには、まず物事を観察することから始めるのが良いだろう。手始めに自分を観察するのが一番良いと思う。自分がどう感じているかを言葉にする。しかし、自分が「感じていると思っている」ことの下に、本当に感じていることが隠れていることはとても多い。その隠れている部分が見えてくるまで観察を進めないと、感を磨くことはできないだろう。
そして、自分の感覚を使って何かを考え、「問い」が浮かび上がってくる、そしてそれを推敲してあらたな「問い」が浮かび上がってくる、その繰り返しによって自分なりに考えることができるようになる。


「偏った考え」VS「常識的な考え」という構図が生まれてしまうのはなぜだろうか? そのような印象をあたえる仕組みが埋め込まれた記事を見ることが最近多いと感じている。それはある種の印象操作であり、そこに何がしかの目的があるのではないだろうか?