2013年11月21日木曜日

マイノリティーの自分が役割を見いだすため

間にあるものとしてそこに置く
という、盆踊りがその場で作られるような作品は、コミュニティーのためのよう一見みえるかもしれない。しかし、娑婆、真っ当に普通に行きている世間の人々に向き合うということが私はとても苦手で、いつも後ろめたく、罪悪感や、背徳感を感じてしまう。なんだろう。要するに自分はマイノリティーで、どうしても世間一般という(そういう人は本当はいないのかもしれないけれど)状況の中で浮いてしまう。私からするとマジョリティーの人々は「世間一般」という壁のように感じる。そこを細かく見て行くと、その向こう側にあるシステム、俯瞰した評価基準の下で線引きされたシステムがあるということかもしれないけれど。

ただ、そういうマイノリティーの私が、コミュニティーのためのような作品を作るというのはいったいどういうことなのだろう?それは、自分がその中に居場所を見つけようという行為なのかもしれない。マイノリティーである自分が、あるコミュニティーの中に役割を持つことができれば、自分はこの世界で生きることができる。また実際その役割が、コミュニティーにある活力をあたえることができれば、自治的なコミュニティーが活性化される。自治的なコミュニティが活性化されれば、システムに迎合する方向の力は弱くなる。そうすると、そういう人々の間で生きる自分が少しだけ楽になる、そういうことかもしれない。

2013年10月23日水曜日

間にあるものとしてそこに置く

という名前のパフォーマンスを行った。
dividualということから派生して、人と人の間にある何かが人を包むようなことについて考えている。それで、人と人の間にあるものが動き出す、ということが実はノリということなのかもしれない。またそういった動き出したものが結局は政治であったりしたのかもしれない。それは、individualな人々が意識的に一緒に行動したり仲良くするということとはとても違う気がする。もし違った感覚の人同士がいたら、その人と人の間にある何かというのは必ずあって、そこにはいろいろな可能性が含まれる。人と人の差があればあるほど、可能性は広がって行くと考えることもできる。間にあるものが動き出すには何が必要なのか?

2013年10月1日火曜日

偽の目的意識 3


さて、もうひとつ違う話。ちまたで大流行りする何か、例えば洋楽とか、日本のポップミュージックとか、全世界的なアイドルとか。そういう人たち自身が一つ一つ自分の歌を歌っているような気分でいるときに、常に、そこには別の次元の人々による、別の思惑のような何かがある。そういうときに、人々は、偽の目的意識に飛びついているのだと思う。そして、それ以外の思惑のことは思いもよらないのだ。大流行りする商品のコマーシャルもそうだろう。そのコマーシャルが告げている効能に飛びつく。でもそこには別の思惑があって、まんまと引っかかっていく。偽の目的意識「一人一人の健康のために」とか、「美しく自立した女性像」とか。

つづく

2013年9月27日金曜日

偽の目的意識 2


それとはまた違った話。自分にとって切実に何かを見いだしたい、あるいは伝えたい、押し出したい、という思いがあって、それを生々しい形で作品にしてしまうということが自分にはよくある。自分の中の何かがそれを押し出してしまう熱を持っているのに抗えないような感覚である。そのときに、もう少し利口になろうよと。人にとって表面的に受け取りやすい偽の目的意識をひとつ作ることで、また違った可能性を手にすることができるかもしれない。たとえばある種のハリウッド映画や、宮崎駿作品のように。

つづく

2013年9月26日木曜日

偽の目的意識

何をするにも、目的意識を持って何かをやることによって、目的を遂行するという、ひとつの当たり前のような事柄がある。けれども、目的を遂行したときに、その目的を遂行する目的は一体なんなのか?あるいは、「目的を遂行すること」が目的になってしまうのではないか?という問いがここにある。

なにがしかの作品を作るときに、「●●を伝えるため」とか「●●を見てもらう」とかそういう目的を持ちがちだけれど、それがどうしたの?という罠にはまってしまうことはよくあることだ。

「目的意識」というのは、ひとつの壁のようなもので、それを打ち砕くような行為が実際に何かを見いだすきっかけになることが多いように思う。ただ、目的意識を取り払うというのはたかなか難しいときに、「偽の目的意識」を打ち立てるという方法がある。「偽の目的意識」は、自分にとってできるだけどうでも良いことを目的に持ってみることだ。あるいは、人にとって表面的に受け取りやすい目的と言ってもいい。

つづく

2013年9月8日日曜日

労働が醸すノリ

労働者階級と支配者階級というような区分があるというふうに、とらえたことがなかった。それぞれに、グラデーションのように収入の差異があるだけのような印象をどこかで持っていたように思う。けれど、財産を保有することによってそれを守ろうとする動きをする人々というのは、思った以上にその財産や権利をたくさん持っていて、そういったものを持ったことが無い圧倒的多数の人々は、労働によって圧倒的な時間を過ごすわけだ。また、電気、水道、ガスとそれに伴う便利な道具、洗濯機、ガスレンジ、冷蔵庫、冷暖房、それぞれによって、過酷な環境で過酷な労働をしなくてすむことと引き換えに、けっこうなお金を支払い続けなければならないから、その分他のことで労働をするということになる。それを引き換えないで、自力でできることを少しずつ増やすことで、自治的なコミュニティーのあり方に少しずつ引き戻すことができないだろうか?過酷な労働に耐えるためには、その労働している人を生かすために労働歌がいる。労働歌から派生する踊りがいる。それらは、自分たちのことを自分たちでやっている自負と、それが醸すノリによって立ち上がるだろう。



2013年8月30日金曜日

ノリが紡ぐ文化

地域のコミュニティーにとって、あるいはある種のグループにおいて、その中から発生した、あるいはどこかから流れて来たものの影響にしても内発的な要素が強い文化が必要不可欠だと思う。そのコミュニティーが、その人員である必然性のような何か、例えば家族のように代替えが効かない正員でなりたっているという切実さのような何かが不可欠だし、それはそこにある「ノリ」があって、それが文化を紡ぎだす。「ノリ」は人間の体を媒介にする以外に伝搬のしようがない。「ノリ」というのは何かに反応する態度のようなもでもあり、また媒介する「波」それ自身でもある。

2013年6月19日水曜日

お金という切実さ

お金がひとつの切実さであることは確かだ。
いつの時代も、人々が生き抜くために最善を尽くそうとする。そういうエネルギーの延長線上としてお金を獲得するために手を尽くすという行為はあるのかもしれない。

あるときは個人単位で、でもあるときは組織単位でそれをする。組織単位であるということは、個人であるときより、お金を獲得するためにする行為を正当化するだろう。個々人がそこに何かを感じる、という余地はどんどんなくなるだろう。正当化されている論理を、自分の感じている事にすり替えていくだろう。組織単位の利益というのは、線引きされたコミュニティーの中における一つの利益。そこの一人ひとりは部分に徹するということになるのだろうか?

線引きされた内側の利益というのは、その外側の何かと利益が相反する。
たとえば、野菜を作るために肥料と農薬をまく、それは野菜の収穫という線引きの内側の利益。その外側では、多様な環境がある。多様な環境と野菜の収穫は、利益が相反する。それは線引きする事によっておきる。

利益に線引きをしない、というのが自然農の考え方なのだろうと思う。

ただ、線引きの世界の中で線引きをしないという方法はいろいろな齟齬を生むだろう。そこに固執することで、結局は余計な線引きを生んでしまうという矛盾がつきまとうのかもしれない。

2013年6月18日火曜日

関わりの中にふわりと浮くことができるか? 2

人にとって、頼りになる規範というのは、経験だけでは足りないのだろうか?個人の経験だけでは足りないのだ。コミュニティーとしての経験を積み重ねなければならない。そうでなければ、不安から解放されるのは難しいのだ。

どんどん変わって行く環境。どんどん変わって行く倫理観、どんどん変わって行く政治情勢。
さまざまな卓越した手口で、どうどうと人の思想的な枠組みに入り込むべく狙っている、政治的倫理思想の代弁者達。ファシズムの方向に進む真面目な規範を標榜する人々。そういうことが入り込んでしまっているコミュニティーの中で、どうやって波長をあわせることができるのだろう?あるいは、異物としてふわりと浮くことができるか?旅立っている人として受け止められる方向での、やわらかい存在の仕方、俯瞰した評価基準を感知できないように自分の中を感じていることでいっぱいいっぱいにしておく。歌う。描く。踊る。そうか、そういったことは、ありのままの自分でい続けながら、かつ個人という線引きにとらわれずに媒介者として浮いていられる。そういう存在なのかもしれない。きりんのように。

関わりの中にふわりと浮くことができるか? 1

わたし自身の周りで起きること、わたしの心を動かすもの、わたしを反応させるもの、そういった事ごとには区切りがない。子どもの事でも、夫の事でも、近所の人々のことでも、そういった事情に包まれることでわたしは生きているし、心情や哲学や信仰やそういったこともわたし個人の枠組み内で立ち上げることはできない。ということを、今住んでいる土地で学んでいる。「人々」という単位の経験だけが、人の存在に働きかけることができる。
だから個人に固執しないように。個人の感情に固執しないように。それでいてありのままの自分でいたい。ただ、「思い」を個人という単位だけで線引きしないようにしてみる。
もっと人々を観察してみる。ここに住む人々の体を観察してみる。その人といる自分の状態を観察してみる。


関係の中にふわりと浮く。きりんといるとそれができる。波長をあわせることができるのは、自分の固執をほどく事が出来たときなのだ。その訓練をもっとできるはず。それがdividualityなのだ。

2013年6月10日月曜日

「線引きされた団体」と「村」

「空気を読む」ということが必要になるコミュニティーというものがある。
そういうコミュニティーを「村」的と呼ぶことがあるが、本当の村は「空気を読む」のではなく、習慣的な法則によって生きるのが当たり前になっているので、それ以外に慣れていない、だからそれ以外の様を見るとビックリしてそれを笑ったり、怒ったり、噂したりするかもしれない。でも、「空気を読む」ことが必要になるのは、そこにある法則が空気を読むことで成り立っているからではないだろうか?そして、そこには空気を読み損なった時に、あるいは故意にその読みと外れた行為をした時に、権力者の感情を害するというような要素を含んでいるように思う。そこを一緒に考えない方がいいしもっと細かく観察したい。そうすれば、かつての村が持っていた要素のうまい再編成というものが可能かもしれない。そうすれば、もう少し先に進んで行けるのかもしれない。

2013年6月4日火曜日

多様さが淘汰される強い流れ

息子と一緒にメダカを探したけれどなかなか見つからない。
調べてみたら1999年に絶滅危惧Ⅱ類に記載されたらしい。

田舎の田んぼや畑も、行政主導で効率的で清潔な水路に変化したり、農薬などが流されたりそれによって稲や畑の実りも多くなったりしたのかもしれない。田舎の人々にとって、収穫量は生活に必須な条件だ。そしてその切実さを、コミュニティーで共有している。だからみんなにとっていい方法として進んで来ているに違いない。

そういった方向に流れて行く強い流れというのがあって、その流れに逆らうというのはものすごい孤立を伴うことになるのだろう。し、流れに逆らうという行為自体が、ある意味で不自然さやカタクナさを伴ってしまう。

そういう中で、自然で柔軟な方法で、流れとは別の流れを見いだしたりそれを何かに繋げたりする行為ができないものだろうか?

コミュニティーと前提について

コミュニティーというのはそもそも、某かの前提を共有する人の関わりのことなのかもしれない。例えば古い歴史を共有している、自然発生的な慣習法を共有している、ルールから発生したがそこから自然にある前提を共有するようになったコミュニティーであるとか、そういうのがいわゆる「村」的な印象を持つものであって、でも例えば新しい価値観を持っている人たちが自然にある場所に集まったり、あるいはアーティストコミュニティーとかであってもやっぱり、ある前提を共有するようになっていくものな気がする。

ただ、前提の共有し方が違うということなのか?

経験を共有することと、「正しさ」(こうあるべきであるという前提)を共有することは全然違う気がする。

前提を共有する人々の所にそうでない人が来た場合、その前提にどっぷり合わせないとうまく行かない場合が多いのかもしれない。しかし、前提が違うと感じる所を、ありのままでいられないとたぶんなかなかつらい。

2013年6月3日月曜日

慣習法について


ウィキペディアによると
慣習法(かんしゅうほう)とは、一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになった行動様式などの慣習のうち、としての効力を有するものをいう。

ということで、例えばコンテンポラリーダンスを取り巻く環境もそういう風に慣習法としての「ダンス」という概念の共有化というのがあったり、それがコンテンポラリーといってもどういう経緯を経てどういう人々とかかわっているかに寄って微妙な差があったりする、そういうものなのかもしれない。

前提を疑う、というのはそういう慣習法のコミュニティーに対しての暴力的な行為になるのかもしれない。

dividual←→individual
で考えた時

ある特定の地域で、そこでの慣習法というのが強くある場合、その中でうまくコミュニケーションを取って行こうとしたら、それはその慣習法に対してできるだけ従順でいるということなのだろうか?そうじゃなくて、そこで自分が大切にしている気づきみたいなものに基づいて、ありのままに生きることも受け止めてもらいつつ、コミュニケーションを大切にする何か柔軟な方法というのを見つけられるのなら、それが一番いい。コミュニティーが大切にしていることに敬意を持って尊重しながら、かつ自分が大切にしていることをありのままに受け止めてもらうことができたら、dividualの新たな可能性に繋げることが出来る。

2013年5月31日金曜日

供養(くよう)というコミュニケーション

福岡市博物館にて、常設展示室(部門別)の解説があって、その中の文章で面白い部分を発見した。

チベット仏教コレクションⅤ
1、供養の意味
供養は、もともとはインドにあった習慣が仏教に取り入れられたもので、ブージャー(=尊敬)という言葉が語源になっているといわれます。つまり、供養とは仏を敬うことをあらわす行為に他なりません。仏像に対して合唱し、花や水、灯明、香を供え、仏の名を唱えることも実は仏に対する尊敬をかたちにしたものなのです。
 このようにみると、供養は私たちの日常的な人間関係と極めて似ていることに気がつきます。それは、例えば大切な相手に向かってお辞儀をし、素敵な品物をプレゼントし、そして言葉でほめたたえることと全く同じだからです。そして相手が喜んでこちらの働きかけに応えてくれた時、そこに初めてコミュニケーションが成立します。供養の場合も同じであり、ご利益は仏と人との関係が成立した証ということになるでしょう。

相手を立てたり、自分がへりくだったりするのは「卑屈」ということではなしに、相手に対してまず尊敬するというアクションでコミュニケーションを始めるということなのかもしれないと思った。
これは、自分と相手とを対等にしてフレンドリーに振る舞うというのとはちょっと違う文化な気がする。まして、互いが自分をアピールしあうという関係とは反対のように感じる。

2013年5月25日土曜日

根っこについて 

だいたいの植物は、根っこをぶちっと切ってしまうとそのあと土に植えても根を生やし直すのは難しくなってしまうけれど、稲のような植物は、ぶちっと切ってしまってから植えたら、その分より強く根をはろうとするらしい。また、夏にわざと水を抜いてしまう時期を過ごすと、その時に水を求めて凄く深くまで根を伸ばして行くらしい。

それから時々、しばらく植物の生長が止まったようにあまり育たないように見えるとき、根っこを下の方にすごくたくさん伸ばしている時期であるばあいがあるらしい。

私は今の日本のさまざまな局面で、明治以前の文化的な脈の根を断ち切られてしまった感じが、栄養を吸えない無力感みたいなものとして感じているけれど、それぞれの切り花のような状態から根をまた深くに伸ばして行く状態も観察できるのかもしれない。また、私自身がやってる事も、水を求めて根を地中深くに伸ばそう伸ばそうとしているような気もする。

精神的な免疫反応

人との関わりで、自分に取って抑圧的と感じる物事に遭遇した時に、自分の中で起きてしまう反応というのがあって、それはある種類の「不快」が少しずつ積もって行ってあるとき許容量を超えたら、過敏に反応し続けてしまうというようなことなのかもしれない。アレルギー反応のように。または、傷ついてしまって、何度も同じ所が同じように傷つけられてしまった場合に過敏になってしまうという感じもある。抑圧的な何かが個人から向けられるというより、個人を通した向こうにある法則、あるいは大きな組織の意思みたいなもの、そういうことに、ある個人を通して向き合う時に起きてしまう。
胸がそげるような無力感と、持続してしまう怒り、繰り返される妄想、そしてまた手首や足首から何かが流れ出て行ってしまうような無力感。そういった一時期を過ごして、自分のそういった精神的な風邪のような状態から、少しずつ気力を回復させてくれる何かがあるとき訪れる。その力はいったいなんだろう?土が柔らかくふっくらと豊かになっていくような、大丈夫な感じ。いつもここに戻ってきたいと思う。

2013年3月26日火曜日

非文明的と括られてしまう文化について 2


その素敵な文章というのは、岡真理さんという方の書いた
「彼女の<正しい>名前とは何か」(青土社、2000年)の抜粋
pp132-139 <文化という抵抗、あるいは抵抗という文化>
で、インターネット上でダウンロードできます。

アフリカの文化の中にあるいわゆる「女性器切除」の風習について人々が批判するそのありようについて、別の角度からするどい眼差しを投げかける文章となっています。

さらにその中の一部を抜粋します。

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彼女たちが向き合っているのは、彼女たちの誇りやその抵抗の力を生み出す源泉としての「文化」の力は保持しながら、いかにして、たとえば性器手術という女性に対する抑圧的な行為(とそれに付随する府県主義的価値観)を批判し、廃絶にいたらしめるかという困難な問いである。そして、その作業には必ずや痛みが伴うだろう。それは文化という複雑なタペストリー(織物)を解きほぐし、織り直すという作業である。植民地主義の時代に、彼女たちの抵抗の力を支える文化を否定し、根こそぎにしようとした歴史を持つ社会に生きる私たちは、彼女たちのこの困難な闘いに、どのように協力し、どんな貢献をすることができるだろうか。私たちに問われているのは、そのようなことである。

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私たちの住む社会は、無自覚に、さまざまに他文化を抑圧したり否定したりしていることをもう一度思い起こしつつ、私たち自身の住む社会にも、切り捨てて来た文化に未来への別の可能性が宿っている事と重ねて見る。そして、この文章の中の1文「それは文化という複雑なタペストリー(織物)を解きほぐし、織り直すという作業である。」は今私がやっている途上の作業にとって光を当てるものだ。日本にある民俗芸能が存続不可能になってしまう時に、そういった歴史に身体的に接続する可能性を永遠に失うのか?あるいはそこに接続する新しい方法を見いだすか?それは、タペストリーを解きほぐし、織り直す作業となるのかもしれない。

非文明的であると括られてしまう文化について 1


民俗芸能の調査をしていくことで、明治初期に、「日本」というアイデンティティーに向き合う日本の政治家や文化人が、どのような視線を日本自体に向けたのか?という問いを持つようになった。その当時残っていたさまざまな芸能は猥雑だったり呪術的だったりしたものがとても多かったけれど、「文明開化」という言葉が表すように、文明というものはそういった芸能を排していかなければならない、そして新しく学び作り出さなければならないと考えた人が多かったのだろう。そうやって、民衆にとっての「文化という抵抗の仕方」を法の名の下に奪ってしまった。そう感じる。だから私たちの多くは、文化としての抵抗の仕方を知らない。

非文明的である、暴力的であると批判される文化というものがある。そういったものに出会ったとき、それにどう向き合うか?とても悩ましい気持ちになる。先進国であるとか先進的で、一般的な文化とされる物事が基準になる視点というものの醸し出す「正しさ」の匂いみたいなのがすごく嫌だから。

と思っていたら、本当に素敵な文章に出会った。

つづく。

2013年3月15日金曜日

身体と信仰関係について

ダンスをする身体。
その身体性の根本にあるものとして、信仰について考えるということはどのくらいされてきたのだろうか?

鑑賞を基本に据えられたダンスという欧米のシーンがどかんとあって、元々のバレエを基本にした身体技法の脱構築があって、モダンダンス、舞踏。

鑑賞を基本に据えられていないダンスという考え方があるらしくて、その中に信仰に元づいた呪術的な物は分類される見方がある。

しかし、キリスト教などの一神教が、身体に与える影響もあるだろうと思う。それについて考えた事がなかったなあ。キリスト教圏から、一般的に芸術と呼ばれるものは発生したような印象があるけれど、信仰から切り離された芸術として、という前提自体の中に、ある種のキリスト教的な身体感覚があったりするのだろうか?

ダンスとは何か? 2

ダンスという言葉の語源を調べようと思ったらウィキペディアが出て来た。
その解説がなかなか面白い。

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ダンスオランダ語dans英語dance)は、感情や意思の伝達、表現、交流などを目的とした、一定の時間空間内に展開されるリズミカルな身体動作。ダンス用音楽のジャンルを指して、「ダンスミュージック」もしくは「ダンス」と呼ぶこともある。
日本では、坪内逍遥の「新楽劇論」(1904年(明治37年))でdanceの訳語として舞踊(ぶよう)が初めて使われた。舞踊とは、坪内逍遥と福地桜痴による造語で、日本の伝統的なダンスである(まい)と踊り(おどり)をくっつけたものである。現在では、同じ訳語として、舞(狭義の「ダンス」)と、踏(「ステップ」)を組み合わせた舞踏(ぶとう)も使われる。
動物全般の非言語コミュニケーションの他にも、なんらかの規則性を持って行われているように見える無生物の動きをダンスと呼ぶこともある。

概説

ダンスは人類と同様に古く、その発生について詳しいことは分かっていない。

ダンスの目的は、鑑賞を主たる目的としたものと、それ以外のものに大きく分けられる。前者は演者とそれを鑑賞する者から成り立つ、芸術行為としてのダンス全般を指す。後者は、娯楽・社交としてのダンスや、スポーツとしてのものなど、ダンスへの参加を主たる目的としたものや、宗教・呪術行為としてのダンスなどが含まれる。


アジア地域



一方、民間のダンスには、宗教儀式や豊作を願う呪術的行為に起源を持つものが目立つ。例えば、日本の盆踊りはその名の通り祖先の霊を祀る行事であるに人が集まった時に行われるものである。また、秋の収穫の時期にも同様の習慣がある。韓国・朝鮮農楽舞や中国のヤンガー(秧歌)も収穫に関係したものと言われている。
収穫祭の踊り以外のものとして、仏教や巫俗に関係した踊りが上げられる。日本の念仏踊りや朝鮮半島の サルプリ・チュム(サルプリ舞)、僧舞(スンム)などがこれに当たる。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/ダンス