2010年3月26日金曜日

100326 内省する人種

世の中には内省する人種とそうでない人種がいるかな?
銀色夏生という人の本を立ち読みしたら、内省っぷりがすごくて、それを文字にするということのすさまじさを目の当たりにした。
こういうのは同じ人種にはたまらなく面白い。
内省したことを自分のノートには書くけど、周りの人をここまで巻き込む内省の状態を文字にして本にしてしまうというのはすごいというかなんというか。文字の世界はいろいろな制約もあるだろうけど、ダンスよりずっと肉感的に何かを感じる可能性があるのかもしれないと思うと、ダンスだから、パフォーマンスだから「体を直接に見る」とか「感じる」とか簡単には言えないなあと思う。

2010年3月22日月曜日

100322 保護者会

まさか、自分がお母さん達のコミュニケーションをするようになるとは想像できなかった。
しかも保護者会の会長という、なんともはやな役割分担を担うとはビックリ仰天です。
ただ、息子の保育園もあと一年となったので、最後の一年保育園のママさんたちと仲良くするのは楽しい。
学校に入ってもそういった感じでいられるのだろうか?お母さんどうしって怖いイメージがあるけど。

2010年3月21日日曜日

100321 ファンタジー

日記を目の前にすると、何を書いて良いか全く分からなくなる。
それがメモ帳との違いだなあと思う。書くために何かを無理やり引き出してくるような感じがある。

まあとにかく。

リアリティーとファンタジーの違いについて考えることが多い。
着る服にしても、昔から何を着ていいのかよく分からない。
それぞれの立場とか身分とかを示すものだったのだろうか?昔は?
今は、なんとなく主婦だからとかサラリーマンだからとか、学生だからとか、そういうカテゴリーに入るために着る部分もあるかもしれないけど、それ以上に他者からカッコ良く見える、そういうイメージを持って着るのかもしれない。何を着ても自分に本当にしっくりくるものはあまりない。選択肢が多すぎるってことなのか?何を着ればリアリティーのある服を着てることになるのかな?

子どもはお下がりが案外、しっくりくる。

どのような家に住むのか?どのような食べ物を食べるのか?何処に住むのか?
選択肢が多いし、必然性が見いだせなかったりする。
結婚式もお葬式も、きっとそうなのかもしれない。

リアリティーのある物事というのは、激しい苦痛の中にいる人の選択の中くらいにしかないのかもしれない。
昔からそういうものなのだろうか?それ以外はすべてファンタジーのようなものなのだろうか?
ここに住んでいるということも?

だけど、瞬間的に何かを実感できたり至福感があふれたりすることの中にはファンタジーとはいいきれない何かを感じたりもする。

2010年3月15日月曜日

100415 親ばか

昨日あるイベントでちょっとだけパフォーマンスに参加して、その際どうしてもきりんを一緒に連れて行かなければならなかった。
それで、パフォーマンス時にどうするか検討したけれど、私がきりんと共にパフォーマンスするということになった。
きりんは最初ごねていたけれど、抱きしめ作戦で説得したら、「おんぶしてくれるならいい」ということになって、おんぶして始めた。
私は完全にパフォーマンスに集中していた。きりんはそういう時いつも、私のパフォーマンスに対する集中を最大限容認してくれる。そして、息を殺して推し量って、集中してついてきてくれる。いつもは完全に自分のペースでしか物事を進めない彼だけれど、私のパフォーマンスに関することは本当にオブザーバーとして受け止めてくれる。それがすごすぎて、完全に親ばかだけど、いつも感動してしまう。

2010年3月10日水曜日

100310 欲求のいろいろ

そうはいっても、自分というものをしっかり人に認識してもらいたいという欲求はすごくある。
直接話しかけて欲しい。自分で自分を認識したい。人の視点に依って自分を認識したい。
そういうことと、「自分を押し広げたい」というのは延長線上の物事なのか?あるいはどこかで枝分かれしている物事なのだろうか?

息子は自分の作った物事に自分の名前をつける。
「きりん弁当」「きりん温泉」etc.
それって、親がそんな風に誘導しているのだろうか?

無視されるというのが、一番きつい。
無視するというのが一番の暴力になってしまう。
それは尊厳を傷つけられるからか?
尊厳を傷つけようという意志が時々人の関わりの中で起きる。
誰かの尊厳を傷つけたいという欲求が人の中にあるのはなぜだろう?
自分の尊厳を守ろうとする時に起きるのかもしれない。
もちろんそんな欲求はなくても、ざっくりとやってしまうという人もいるだろうけど。


どんな状況でも、相手に対して敬意を持ち続けるにはある程度努力がいる。
自分の子どもであっても、むかつく相手であっても。それを踏み外しちゃうと必ずトラブルが起きる。
人の関わりの状況は、このようなトラブルだらけといっていいかもしれない。ジャングルだ。
その中にあっても自分の原則を破らない努力がジャングルを生き抜くサバイバル方法なのだろう。結局は。
自分があくまで暴力を振るう立場でいる努力をする人は大勢いるけど、サバイバルになってるのだろうか本当に。
それって、爆弾を抱えていて、その爆弾を大きくして、貯金しているようなものかも。

2010年3月9日火曜日

100309 欲求の種類

1)自分を押し広げる欲求と、
2)自分を壊して無くしていく欲求

この2つの欲求はどこかで繋がっているのか?
全くちがう種類のものなのか?

自分を押し広げようとしている物事や人々を見ると、気分が悪くなってしまう。
でも自分にそのような欲求が全くない訳ではないかもしれない。
自分のなかにあるそれを刺激されるのがいやで気分が悪くなるのかもしれない。
そこから逃れるように、私は二つ目の欲求を追いかけようとしているのだろうか?

また、二つ目の欲求はその先に何かがあるという予感がある。
手探りし、触れることのない何かへと先へ延ばされる手。

「欲」──人は神を仰ぎ見て、その到来を待ち焦がれます。その期待を「欲」といいます。「サイ」を供え、開口して羨望する形です。それに応じて、神は霊気のようなものをただよわせて、その出現のきざしをほのめかします。(神様がくれた漢字たち 白川静香監修 山本史也著 理論社)

2010年3月8日月曜日

100308 神楽


土曜の夜から翌日の朝まで、布川の花祭りを見てきた。
場所や様々な物を一つ一つ丁寧に清めて行く儀式があって、本当に隅から隅まで浄化する。
それが済んでしまえば、極めて緩く祭礼が始まって、いわゆる舞台上の決まり事とはまったく違うそのコントラストに驚き、またいろいろと考えさせられた。いわゆる緊迫感が全くない状況の中で、踊りは始まり、しかし一つの踊りに40分以上はかある。同じ動きの繰り返しが基本だが、興にのる部分が必ずかる。踊り手に話しかけたり本人もだべったりする。見ている土地の人は体がうずうずして、常に踊りたいのを我慢しつつ揺れているというような感じの、その体がすごく印象に残った。外から来ている人たちは緊張して見つめて、写真を構えたりしていて、すごく温度差があった。都市文化とは違ったローカルな文化の濃厚さ、そこにしかないノリというものがある。移動が何処にでも行けて、情報もどこのものも手に入りやすい状況は、地域の人にとって何をもたらしているのだろう?そして何を奪っているのだろう。

2010年3月5日金曜日

100305 物忘れ

物忘れがひどくて困る。
自分が何かやろうとして、後でやろうなんて思ったら、もう最後。
そのあと思い出そうとする時間で埋め尽くされる。

子どもがいると、さらに、その思い出そうとしてる時に話しかけられて絡まれているうちに、完全にどこかに行ってしまう。
でも忘れることにも何かの役割があるのかもしれない。

2010年3月4日木曜日

100304 情報処理

私は情報処理能力が欠けている。
それでも自分の能力を超えて何かをやりたくなって、
いつも破産する。
やりたいことのモチベーションがとても高くても、維持できなければ意味がない。
モチベーションをほどよい力で持続するには何が必要なのだろう。
たぶん、心身の体調管理に違いない。
観察を本業にしている割に、ぜんぜんうまくやれてない。
昨日はキリンと高尾山に登った後、お灸に行った。
お灸先で、瞑想を勧められた。