2022年3月6日日曜日

ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の招待を暴く ナオミ・クライン 岩波書店 抜粋その2

第6章 戦争に救われた鉄の女

p187

ニクソンの在任中、フリードマンは厳しい教訓を得た。資本主義と自由はイコールであるという教義を打ち立てたものの、自由の国の人々にはかれの助言に従う政治家に投票する様子がまったく見えない。もっと悪いことに、自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった。このため70年代を通じてシカゴ学派のなだたる学者たちはアメリカ政府による裏切りに不満を漏らしつつ、世界中の軍事政権を飛び回った。右派独裁政権が成立した国という国のほとんどにシカゴ学派の影がちらついていた。ハーバーガーは1976年、ボリビアの軍事政権の顧問となり、79年にはアルゼンチンのトゥクマン大学から名誉学位を授与されている(当時、同国の大学は軍事政権の管理下にあった)。さらに彼ははるかインドネシアでも、スハルトとバークレー・マフィアに助言を与えた。フリードマンは抑圧的な政策をとる中国共産党が市場経済への移行を決めた際、経済自由化計画を立案した。

 カリフォルニア大学の筋金入りの新自由主義政治学者ステファン・ハガードは、「発展途上世界におけるもっとも広範な改革への取り組みのいくつかが、軍事クーデター後に行われた」という「悲しい事実」を認め、南米南部地域やインドネシアのほかに、トルコ、韓国、ガーナといった国をあげている。また、それ以外に改革が成功した例として、メキシコ、シンガポール、香港、台湾といった一党支配体制にある国を挙げている。ハガードはフリードマン理論の中心をなす主張とは正反対に、「良いこと_例えば民主主義と市場志向型の経済政策_は必ずしも両立しない」と結論している。実際のところ、80年代諸島には全力をあげて自由市場経済化を進めている複数多党制の民主主義国家はただの一例も存在しなかった。

中略

 


大西洋湾の向こうでは、サッチャーが「所有者社会(オーナーシップ・ソサエティー)」とのちに呼ばれるようになった政策を掲げて、イギリス版フリードマン主義を実行しようと企んでいた。その要となったのは公営住宅である。サッチャーは、国家は住宅市場に介入すべきではないという思想的根拠から、公営住宅に反対していた。公営住宅の住民の大部分は、自分たちの経済的利益につながらないという理由で保守党には投票しない人たちが、もしその人々を市場に参入させられれば、富の再分配に反対する裕福な人々の利害を理解するようになるはずだとサッチャーは確信していた。

中略

公益住宅売却は、民主主義国家における極右経済政策の成功へのかすかな望みをもたらしたものの、サッチャー政権が一期限りで終わりそうな気配はまだ濃厚だった。1979年、サッチャーは「労働党は機能していない」というスローガンを掲げて政権の座に就いたが、1982年には失業者は倍増し、インフレ率もしかりだった。サッチャーはイギリスでもっとも強力な労働組合のひとつである炭鉱労組と対決し、組合潰しにかかるが失敗に終わる。首相就任から3年後支持率は25%にまで低下、政権の支持率も18%にまで落ちた。総選挙が迫るなか、保守党が大衆民営化と労働組合解体という野心的な目標を達成するのを待たずして、サッチャー主義は早々と不名誉な終わりを迎えるかに思われた。サッチャーがハイエクに対し、チリ型の経済改革はイギリスでは「とうてい受け入れられない」と丁重に断りの手紙を書いたのは、この困難な状況のさなかのことだった。

中略

シカゴ学派の提唱する急進的で高い利益をもたらす政策は、民主主義体制かでは生き延びられないということだ。経済的なショック療法が成功するには、クーデターであれ、抑圧的な政策による拷問であれ、何か別の種類のショックが必要なのは明らかに思われた。

 こうした見方は、とりわけアメリカの金融業界にとって憂慮すべきものだった。というのも80年代始め、世界ではイラン、ニカラグア、ペルー、ボリビアなど独裁政権が次々と崩壊し、まだ多くの政権が後に続く様相を呈していたからだ。のちに保守派の政治学者サミュエル・ハンティントンは、これを民主化の「第三の波」と名づける。これは危惧すべき状況だった。第二、第三のアジェンデが出現してポピュリズム的政策を打ち出し、人々の信任と指示を得ることを防ぐ手立てはあるのだろうか。

 アメリカ政府は1979年、イランとニカラグアでまさにそのシナリオが現実になるのを目の当たりにした。イランではアメリカの指示を受けた国王が、左翼陣営とイスラム主義者の連合勢力によって打倒された。最高指導者アヤトラ・ホメイニやアメリカ大使館人質事件などが報道を賑わせる一方、アメリカ政府は新政権の経済的側面にも懸念を募らせていた。まだ本格的な独裁政権には以降していなかったイラン・イスラム政権は、まず銀行を国有化し、次には土地再分配計画を導入。また王制時代の自由貿易政策から逆転して輸出入の統制を行った。五ヶ月後、ニカラグアではアメリカを後ろ盾にしたアナスタシオ・ソモド・ドバイレ独裁政権が市民の蜂起によって倒れ、サンディニスタ民族解放戦線による左派政権が誕生した。サンディニスタ政権はイランと同様、輸入を統制し、銀行を国有化した。

 これらの動きはすべて、グローバル自由市場への見通しを暗くするものだった。80年代初頭フリードマン主義者は自分たちの進めてきた革命が10年も経たずして、新たなポピュリズムの波に押されて頓挫するという状況に直面していた。

p191

救いの神としての戦争

 サッチャーがハイエクに手紙をしたためてから6週間後、彼女の考えを改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きる。1982年4月2日、アルゼンチン軍がイギリス植民地主義の名残で同国が実効支配していたフォークランド諸島に侵攻、フォークランド紛争が火蓋を切って落とされたのだ。もっともこれは歴史的に見れば、激しくはあったが小規模な武力紛争にすぎなかった。当時、フォークランド諸島には戦略的な重要性は何もなく、イギリスにとって自国から何千キロも離れたアルゼンチン起きに浮かぶこれらの島々は、警備や維持に高いコストがかかった。アルゼンチンにとっても、了解にイギリスの前哨基地があることは国家の自尊心への侮辱ではあるにせよ、この諸島の有用性はほとんどないに等しかった。伝説的なアルゼンチンの作家掘るヘ・ルイス・ボルヘスはこの紛争を、「二人のハゲ頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と痛烈に揶揄した。

 軍事的観点からも、三ヶ月にわたった戦闘にはほとんどなんの歴史的意義も認められない。しかし見過ごされているのは、この紛争が自由市場プロジェクトに与えた影響の甚大さだ。西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分をサッチャーに与えたのは、ほかでもないフォークランド紛争だったのである。

中略

自国の労働者を「内なる敵」と位置付けたサッチャーは、国家の総力をあげてストライキの鎮圧にかかった。ある一回の対決だけでも8000人もの負傷者が出た。ストライキは長期にわたったため、負傷者は数千人にも及んだ。『ガーディアン』紙のシェイマス・ミルン記者による炭鉱ストライキのドキュメント『内なる敵_炭鉱労働者に対するサッチャーの秘密の戦争』によれば、サッチャーはセキュリティーサービスに、炭鉱労働組合とりわけアーサー・スカーギル委員長の監視を強化するように明治、その結果「イギリスでは前代未聞の監視活動」が行われることになる。

中略

1985年、サッチャーはこの戦争にも勝利した。労働者たちは生活の逼迫から、もはやストを続行できなくなったのだ。その後966人の労働者が解雇された。

中略

イギリスでは、サッチャーはフォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。

中略

 ミルトン・フリーマンが『資本主義と自由の序で、ショック・ドクトリンの本質をつく影響力のきわめて大きい次の一節を書いたのは1982年のことだ。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんな構想があるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち既存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可避になるまでそれを維持し、生かしておくことである。」新しい民主主義の時代において、この言葉はフリードマンの提唱する改革にとってのスローガンとなる。アラン・メルツアーはこう解説する。「構想というのは、危機の際に変化の触媒となるために控えている選択肢のことだ。フリードマンの功績は、そうした構想を正当な理論として十分耐えられるものにし、チャンスが到来したときに試す価値のあるものにする、その道筋を示してみせたことにある。」

 フリードマンの年頭にあった危機とは、軍事的なものではなく経済的なものだった。通王の状況では、経済的決断は競合する利害同士の力関係に基づいて下される。労働者は食と賃上げを要求し、経営者は減税と規制緩和を求め、政治家はこうした対立する絵視力感のバランスを保とうとする。しかし、通貨危機や株式市場の暴落、大不況といった深刻な経済的危機が勃発すると、他のことはすべてどこかへ吹き飛び、指導者は国家の緊急事態に対応するという名目のもとに必要なことはなんでもできる自由を手にする。危機とは、合意や意見の一致が必要とされない、通常の政治にぽっかりあいた空隙_言わば民主主義から解放された“フリーゾーン”なのだ。

 

 市場の暴落が革命変革にとっての触媒になるという考え方は、極左思想においては長い歴史を持つ。なかでも有名なのはハイパーインフレが通貨の価値を破壊し、それによって大衆は資本主義そのものの破壊へと一歩近づく、というボルシェビキの理論である。ある種の党派的な左翼が、資本主義が「危機」に陥る条件を厳密に割り出そうとしたり、福音派キリスト教徒が「携挙(ラプチャー)」の兆候を見極めようとしたりするのも、この理論で説明がつく。この極左理論が80年代半ば、シカゴ学派の経済学者に注目されたことで力強い復活を遂げる。市場の謀略が共産主義革命を促進するのと同様、これを極右(注)の反革命の起爆剤にもすることができるとかれらは主張した。のちに「危機仮説」と呼ばれるようになる理論である。

 

注)このばあいの”極右”は著者の言う原理主義的資本主義者という意味だと推察する。

2022年3月5日土曜日

ショック・ドクトリン ナオミクライン 抜粋 その1

ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の招待を暴く ナオミ・クライン 岩波書店

〜〜〜抜粋に入る前に、ちょっとだけ前振りとして内容を自分で整理した導入〜〜〜

自由放任資本主義推進運動の教祖的存在で、過剰な流動性を持つ今日のグローバル経済の教科書を書いた功績で知られる経済学社ミルトン・フリードマンが編み出した方法、つまり壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がる行為を、著者は「惨事便乗型資本主義(さんじびんじょうがたしほんしゅぎ) 」すなわち、ショックドクトリンと名付けた。そして、その信奉者には、ここ数代のアメリカ大統領からイギリス首相、ロシアの新興財閥(オリガルヒ)、ポーランドの財務大臣、第三世界の独裁者たち、中国共産党書記長、国際通貨基金(IMF)理事、米連邦準備制度理事会(FRB)の過去3人の議長までが連綿と連なっている。

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以下抜粋

P6

フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショックドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。彼の見解はこうである。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイデアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである」。大災害に備えてカンズメや食料水を準備しておく人はいるが、フリードマン一派は大災害に備えて自由市場構想を用意して待っているというわけだ。このシカゴ大学教授の確信するところによれば、いったん危機が発生したら迅速な行動をとることが何よりも肝心で、事後処理にもたついたあげくに「現状維持の悪政」へと戻ってしまう前に、強引に襲撃をかけて改革を強行することが重要だという。「新たな陣営が大改変を成し遂げるには半年から9ヶ月かかると予測される。その間にもし断固とした行動を取るチャンスは二度とやってこないであろう」。負傷を追わせるなら”一気呵成に”襲い掛かれというマキャヴェリ思想のバリエーションであるこの考え方は、フリードマンの提唱した戦略のなかでももっとも長く構成に影響を及ぼす遺産となった。

 大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官の経済顧問を勤めた1970年代半ばのことだった。ピノチェトによる暴力的なクーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、現在、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減規制緩和、といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようアドバイスした。その結果、チリ国民は公立学校が政府の補助金を得た民間業者の手に渡っていくのを呆然と身も守るしかなかった。チリの経済改革は資本主義の大改革のなかでもいまだかつねないほど激烈なものだった。この手法が「シカゴ学派」の改革と呼ばれるようになるのも、ピノチェト政権下のエコノミストの多くが過去にシカゴ大学のフリードマンのもとで学んでいたからである。フリードマンは、意表をついた経済転換をスピーディーかつ広範囲に敢行すれば、人々にも「変化への適応」という心理的反応が生じるだろうと予測した。苦痛に満ちたこの戦術を、フリードマンは経済的「ショック治療」と名付けた。以後数十年にわたり、自由市場政策の徹底化を測る世界各国の政府はどこも、一気呵成に推し進めるこのショック治療、または「ショック療法」を採用してきたのである。

 経済的ショック療法に加え、ピノチェトは彼独自のショック療法も採用した。ピノチェト政権が数多く儲けた拷問室の中で、資本主義的変革に楯つく恐れがあるとして捉えられた人々の体に、すさまじい暴力が加えられるという形のショック療法である。多くのラテンアメリカ人は、何千万者国民を貧困に追いやる経済的ショック療法と、ピノチェト路線とは違う社会を願ったことへの罰として与えられた数十万の人々への拷問の横行が、表裏一体の関係にあると見た。ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノはこう問うている。「電気ショックの拷問なくして、どうしてこんな不平等社会が存続できようか?」

 軍事クーデター、経済改革、暴力的弾圧という三つのショックがチリに襲いかかってからちょうど30年後、ふたたび同じ手法が、より大規模な暴力を伴ってイラクの地に登場してくる。まず初めに戦争がしかけらえた。『衝撃と恐怖』に書かれた軍事戦略によれば、それは「敵の意志、認識、理解力をコントロールし、その軍事行動あるいは反撃を封じるため」だという。それに引き続き、アメリカによって送り込まれたポール・ブレまー連合国暫定当局(CPA)代表によって、まだ戦火の止まぬうちから徹底的な経済的ショック療法が導入された。それが大規模な民営化、完全な自由貿易、15%の一律課税、政府の大幅縮小、といった政策だった。当時、イラクで暫定通産大臣の役にあったアリ・アブドゥル=アミール・アラウィは、「われわれイラク人は実験台にされるのにいいかげんウンザリしている。これほどの衝撃が全土を襲ったうえに、今更経済ショック療法など必要ないではないか」と苦言を呈した。これに抵抗したイラク人たちはたちまち検挙されて収容所へと送り込まれ、さらなるショック療法をあたえられた。もはや比喩どころの話ではない、本物の「ショック療法」が心身に施されたのである。

 大惨事のショック時に自由市場がいかに便乗するか、私が調査を開始したのは2003年5月にイラクが占領統治されてから間もない頃だった。2005年、バグダッドに赴いた私は、アメリカ政府が「衝撃と恐怖」作戦に引き続いて行ったショック療法の失敗に関する記事を書き上げてから、その足ですぐにスリランカへと向かった。2004年末に大津波がスリランカを襲ってからすでに数ヶ月経っていたが、私はここでも同じような手口を目撃するようになる。災害後、外国投資家と国際金融機関はただちに結託してこのパニック状況を利用し、村を再建しようとした数十万人の漁民を海岸沿いから締め出したうえで、この美しいビーチ一体に目をつけていた起業家たちの手に引き渡したのだ。彼らは瞬く間に大規模リゾート施設を海岸沿いに建設していった。スリランカ政府は「悲惨な運命のいたずらとはいえ、今回の天才はスリランカにまたとないチャンスをプレゼントしてくれた。この大惨事を乗り越え、我が国は世界でも一流の観光地となるだろう」と発表した。要するに、ニューオーリンズで共和党政治家とシンクタンクと不動産開発業者が三者一体となり、「白紙の状態」を口にして浮き足立つずっと以前から、これが企業の目標を推進するうえで好ましい手法だという理解はすでに確立していたのだ。つまり、人々が茫然自失としている間に急進的な社会的・経済的変革を進めるという手口である。

中略

彼の解く原理主義的資本主義は、常に大惨事を必要としてきた。



2022年3月4日金曜日

アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 一部抜粋

 アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 集英社新書

p198  インドネシアへの兵器輸出とティモール・ギャップの石油利権

20世紀の戦争を動かしたのが石油であれば、その問題を21世紀に持ち越したのがインドネシアからのティモールの独立紛争であった。97年以来のアジアの金融崩壊が続いた後、98年5月にスハルト独裁体制が崩壊し、政権交代という劇的な変化をもたらしたが、ディモール独立の背後には仕組まれた罠があった。動乱1年後の99年5月から、インドネシアでは自由選挙がおこなわれ、9月1日に主要政党の顔ぶれが決定した。

 主要5政党のうち、東ティモールの独立を認めなかったのは、第1党の紛争民主党だけであった「人権外交」の国際社会から強く批判されたのが、彼女と支持者が望んだのは、東ティモールの独裁的支配ではなかった。過去に東ティモールの独裁的支配をおこなってきたのは、逆に欧米の石油メジャーの傀儡政権だった与党ゴルカルと国軍のスハルト体制である。それを知るメガワティは、東ティモールをインドネシアから切り離して、欧米の利権者が「新たに独立した小国・東ティモール」に群がる未来を望まなかった。

メガワティの父は、インドネシア独立の父スカルノ大統領であった。背後に欧米の情報工作機関が動くなか、スカルノは失脚し、スハルト体制に移行した。99年総選挙は欧米支配体制を再度ひっくり返し44年前の気運を再来させる出来事であった。しかし、欧米が黙ってこれを見過ごすはずがなかった。インドネシアは石油と天然ガスの宝庫だからである。オーストラリアとティモール島のあいだにあるティモール・ギャップ海域には、石油と天然ガスが埋蔵量数十億バレルあると推定され、オーストラリアのBHP(ブロークン・ヒル・プロプライエタリー)、モービル、ロイヤル・ダッチ・シェルのメジャーが70年代から探査をおこなってきた。

 75年7月、ポルトガル本国で政変が怒ると、これに乗じて、ポルトガル領の東ティモールで独立運動が高まり、8月11日にクーデターが発生して、欧米の石油利権が消失する寸前まで事態が進んだ。そこで現地は、欧米の石油企業による代理戦争に様相を一変し、内戦に突入していった。12月7日にはインドネシア軍が介入し、首都ディリを占領して臨時政府を樹立すると、インドネシアによって東ティモールが併合されたのである。

 しかしこのインドネシア軍の東ティモール真縫う二日前に、首都ジャカルタでスハルトと会っていたのは、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官であった。彼ら二人は、スハルトに対して東ティモール侵入にゴーサインを出し、同時にアメリカからインドネシアへの兵器輸出の約束をとりつけた。しかもその購入資金は、IMFやアメリカ輸出入銀行など欧米の金融機関やペンタゴンからの援助によって、アメリカに還流するよう仕組まれ、インドネシア財閥のサリム・グループやリッポ・グループらがアメリカ軍需産業の代理人となっていた。

 バハルディン・ハビビが当時その主役をつとめた。のちにスハルト失脚後、大統領に就任した人物である。彼は西ドイツ時代のメッサーシュミットで育てられ、副社長に出世して、同社が提携したボーイングとも関係を持っていた。そのためインドネシアに帰国すると、76年から大臣として大幅な軍備拡張を推進し、反乱軍鎮圧用の航空機ロックウェル・インターナショナルOV10、ロッキーオドの大型輸送機C130、GMの軍用車などを続々とアメリカから輸入した。それに乗じてアメリカ軍需産業は、ライフルなどの消化器やヘリコプター、大砲に至るまであらゆる種類の武器を送り込み、やがてハビビはインドネシアに国産飛行機工場を建設するまでに勢力を拡大した。さらにカーター政権になると、副大統領モンデールが攻撃機スカイホークA4を提供する交渉に当たり、フォード時代の4倍以上という膨大な兵器貿易を行うようになった。特に東ティモールで住民殺戮に効果的だったのは、ベル車の軍用ヘリコプターであった。

 カーターがインドネシアに深いリシア動機は、いらんと同様、ベルの親会社テクストロン社長から財務長官に転じたミラーの差し金にあった。アメリカの企業最高幹部は、退任後に事業に口を出さないが、その会社の株券と債権を大量に保有し、株価が私生活の財産を保証する関係にある。レーガン政権になっても、インドネシアに対する兵器輸出はほぼ同じ規模で続いたが、86年になって突然それまでの5000万ドル規模とは桁違いの3億ドルを超える兵器がインドネシアに流入した。フィリピンの独裁者マルコスが失脚したアジア動乱の機器を米良って、ゼネラル・ダイナミックスの戦闘機F16が初めて12機売却されたからである。以後、ブッシュ政権で少し落ち着いたが、クリントン大統領が再び大幅な武器輸出に踏み切ろうとした矢先、インドネシアに政変が怒ってホワイトハウスは沈黙を保たざるをえなうなった。

 この経過が物語る通り、欧米が意図したのは、スハルト体制にほるインドネシア軍の利用であった。その負担は、インドネシアにとって重かった。18世紀にはじまったコーヒーさいばいで、ひとり当たりの生産額が年間400ドルにしかならない東ティモールに大金を次子m刺されたのは、独裁者スハルトであった。

 ところがこれら欧米の利権車は98年5月以来、手の平を返したように、東ティモールの独立を支援する側に転校した。飼い慣らしてきたスハルト体制が崩壊し、インドネシア国民が一人歩きしはじめたからである。99年8が雨t30日には、国連管理下で東ティモールの住民投票が実施され、欧米の宣伝工作が功をそうして投票率98・6%のなか、独立先生はが圧倒的な勝利を収めた。突然寝返った欧米に不満を抱くインドネシア国軍は、ブリティッシュ・エアロスペース製の攻撃機ホークを使って、東ティモール独立賛成派を威嚇した。このホークはイギリスのメジャー政権が96年にインドネシア向けに16機売却を許可し、99年4月に、ブレア政権が2機納入したものであった。

 さらにインドネシア系住民による東ティモール独立はへの弾圧が横行し始めるのを待って、人権外交を看板に掲げる欧米は、99年9月に国連の主導という形で東ティもオールへの国際舞台の投入に踏み切った。そのしれ意見を握ったのは、アメリカから膨大な額に上兵器を輸入してきた隣国オーストラリアであった。ところが99年9月14日〜17日にかけて、イギリスで過去最大規模の国際兵器見本市が開催され、50カ国600社以上の軍需産業が出展するなか、この兵器ショーに、東ティもオール問題で国際的に批判されていたインドネシア政府が招待され、イギリスの二枚舌が大きな問題となった。

 欧米のメディアに踊らされた市民運動家と国際世論は、背後の事情も知らずに、独立を求める東ティモール住民の味方についたが、東ティモーオルの住民感情を巧みにコントローオルしてきたの誰だったのか。

 オーストラリアはその10年前の98年12月にインドネシアと石油・天然ガスん共同開発プロジェクトに正式調印していた。その調印こそ、当時インドネシアが肝炎に制圧していた東ティモールと、オーストラリア北部のあいだに位置するティオール会でのプロジェクトに関するものであった。その海域には、推定10億バレルの原油が埋蔵されていると見られたが、共同開発計画は難航し、10年の歳月をかけた交渉の末に実ったものであった。しかも正式調印がなされても、まだインドネシアとオーストラリアの領域の線引きは確定しなかった。その後、原油と天然ガスの推定埋蔵量は数十億バレルにふくらみ、オーストラリアは一応の了解の線引きをおこなったが、何としてもインドネシアから東ティモールを独立させようと、時期を狙ってきた。独立させることによって、小国を相手に、原油の利権を自由に獲得できるようになるからである。 

 東ティモール住民を弾圧するインドネシア国軍を非難するのは容易である。オイル・メジャーの罠にはまったのは、国際世論であった。


注)2001年ごろに書かれたもので、著者の視点による調査と見解なので、ひとつの側面として見ています。


2022年3月3日木曜日

メディア・コントロール ノーム・チョムスキー(1991年)

「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」ノーム・チョムスキー

注)これを書かれたのは1991年のようです。現状はもちろん変化していると思われます。

p23 広報(Public Relations)

広報(PR)産業を開拓したのはアメリカである。

業界の指導者たちも認めるように、その目的は「大衆の考えを操作する」ことだった。彼らはクリール委員会の成功や、「赤狩り」とそれにつづく世論形成の成功に多くを学んだ。

広報産業は巨大になり、1920年代には大衆が企業の原則にほぼ全面的に従うまでになった。その成功があまりにもみごとだったので、1930年代に入る頃には、連邦議会の委員会がこの業界を調査しはじめたほどだ。このときの調査によって、私たちは広報産業に関して多くのことを知るに至った。

広報は、いまや年間10億ドル近くが注ぎ込まれる一大産業となっている。そして、その目的は一貫して「大衆の考えを操作する」ことだった。だが1930年代に、第一次世界大戦時に生じたのと同様の大問題が発生する。大恐慌が怒って、堅固な労働者組織ができたのである。労働者は1935年に初めて合法的な勝利まで勝ちとった。労働者の団結権と団体交渉権を認めるワグナー法、いわゆる「1935年全国労働関係法」の制定によって、とまどえる群が団結する権利を手にしたのである。

中略

大衆の組織化などあってはならないことだ。大衆が組織されれば、行動の傍観者にとどまらなくなる恐れがある。かぎられた資源しか持たない人びとが大勢集まって団結し、政治に参入できるようになったなら、彼らは観客ではなく、参加者になってしまうかもしれないのだ。それはまぎれもない脅威である。二度と労働者が合法的勝利を得ることがないように、民主主義社会を危うくする大衆の組織化がこれ以上進まないように企業側は対策を講じた。その目論見は当たった。労働者はそのあと二度と合法的な勝利を得られなかった。

中略

これは偶然ではない。何しろ相手は財界である。こうした問題を処理するのにいくらでも金と労力をかけられる。知恵もある。広報産業を利用し全米製造者協会やビジネス円卓会議などの組織に働きかけることもできるのだ。

中略

そして1937年に、最初の試みがなされた。ペンシルヴァニア州西武のジョンズタウンで大規模な鉄鋼ストライキが起こったときのことである。企業が労働者を制圧する新しい手法を試したところ、それがことのほかうまくいった。(中略)スト参加者への反感を世間に広めスト参加者は世間にとって有害な、公益に反する破壊分子だと思わせるのが狙いだった。

 公益とは、ビジネスマンも労働者も主婦もすべての人間を含む「私たち」全員の利益である。私たちは団結して調和をはかり、アメリカニズムの名のもと、一緒になって働きたい。それなのに、ストの参加者のような破壊分子が問題を引き起こし、調和を見出し、アメリカニズムを侵害している。

中略

必要なのは、誰も反対しようとしないスローガン、だれもが賛成するスローガンなのだ。それが何を意味しているのか、誰も知らない。

中略

彼らをつねに怯えさせておくことも必要だ。自分たちを破壊しにやってくる内外のさまざまな悪魔を適度に恐れ怯えていないと、彼らは自分の頭で考えはじめてしまうかもしれない。それはたいへん危険なことだ。そもそも彼らには考える頭などないのだ。したがって、彼らの関心をそらし、彼らを社会の動きから切り離しておくことが重要である。

p33 世論工作

1954年、バーネイズがユナイテッド・フリーツカンパニーのために広報作戦を展開すると、それに乗じてアメリカはグアテマラに進出し、資本主義を報じる民主的な政府を転覆させ、凶悪な暗殺者集団が牛耳る社会を出現させた。

 その体制は今日まで続いており、ずっとアメリカから支援されている。もちろん、アメリカの目的はグアテマラが空虚なかたちで民主的な変更をしないようにすることだった。国民が反対する国内政策を実施するには、ゴリ押しをつづけるしかない。だが、国民にしてみれば、自分にとって有害な構内政策を支持するいわれはない。

 この場合も、大々的な宣伝が必要になる。そういう例はこの10年のあいだにいくつもあった。たとえば、レーガン政権の数々の計画は圧倒的に不人気だった。1984年の「レーガン圧勝」時にも、有権者のおよそ5分の3はレーガンの政策が法制化されないことを願っていた。軍備の増強にしろ社会的支出の削減にしろ、レーガンの計画はことごとく国民の強い反対にあった。

 しかし、国民が社会の周辺においやられ、自分の本当の関心から目をそらされて組織をつくることも自分の意見を表明することも許されず、他人の同じ考えをもっていることを知るすべさえなかったら、軍事支出よりも社会支出のほうが大事だと考え、世論調査にはそのように答える人々も、そんなばかげた考えをもっているのは自分だけだろうと思い込んでしまう。現実に、圧倒的多数がそう思い込んだのだ。

 そういう意見はどこからも聞こえてこない。誰もそういう風にはかんがえていないのだろう。したがって、そういうことを考え、そういうことを世論調査で答えようとする自分あhきっと変人にちがいない。意見を同じくする人、その意見に自信をもたせてくれる人、その意見を表明させてくれる人と知り合って団結する機会はどこにもないので、自分が変わり者のような、ひねくれ者のような気がしてしまう。


p45 敵の量産

医療、教育、ホームレス、失業、犯罪、犯罪人口の激増、投獄率、スラム地区の治安の悪化など、これら数々の深刻な問題に、真摯な対策は何一つ講じられていない。こうした状況は誰でもしっているのだが状況は悪くなる一方だ。

中略

こうした状況にあっては、とまどえる群の注意をなんとかして別のところへ反らす必要がある。彼らがこれに気づき始めれば、不満が噴出するかもしれない。これによって苦しむのは彼ら自信だからだ。

中略

いつでお都合よくつくり出せる怪物は、かつてロシア人だった。ロシア人なら、つねに自分らを守る必要のある敵に仕立てることができた。ところが昨今、ロシア人は敵としての魅力を失いつつある。ロシア人を利用するのは日を追って難しくなっている。そこで、何か新しい怪物を呼びださなければならなくなった。

中略

そこで、国際テロリストや麻薬密売組織、アラブの狂信者、新手のヒトラーたるサダム・フセインなどに、世界征服に乗り出させることになった。そうした輩を次から次へと出現させなければならないのである。国民を怯えさせ、恐怖におとしいれ、臆病にさせて、怖くて旅行もできない、家にじっととぢこまっているしかない状態にさせる。(中略)

架空の怪物を仕立て上げては、それをたたきつぶしに出向いていく。

p49 認識の偏り

恐ろしい敵をでっちあげることが長きにわたってつづいてきた。その例をいくつか紹介しておこう。

1986年5月に、獄中から解放されたキューバの政治犯、アルマンド・バヤダレスの回想録が出版された。メディアはさっそくこれに飛びつき、盛んに書き立てた。メディアはバヤダレスによる暴露を「カストロが政敵を処罰し、抹殺するために巨大な拷問・投獄システムを用いていることの決定的な証拠」と表した。

この本は「非人間的な牢獄」や血も涙もない拷問についての「心を騒がせる忘れがたい記述」であり、また新たに登場した今世紀の大量殺人者の一人のもとで行われた国家暴力の記録である。

 この殺人者は、少なくともバヤダレスの本によれば、「拷問を社会統制の手段として正当化する新しい独裁政治を構築している」のであり「[バヤダレス]がくらしていたキューバはまさに地獄だった」。

 これが『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された批評である。カストロは「独裁者の暴漢と称された。極悪非道な彼の行為はこの本で完全に暴露されたことでもあり、「よほど軽率で冷酷でもないかぎり、この暴君を用語する欧米の知識人はまず皆無だろう」(ワシントンポスト)とされた。

だが、これはある個人の身に起こったことの記述である。

これがすべて真実だとしよう。バヤダレスは拷問されたと言っているのだから、彼の身に起こったことについて被疑を呈するのはやめよう。ホワイトハウスの人権デー記念式典で、バヤダレスはロナルド・レーガンから名指しされ、血に飢えたキューバの暴君の恐ろしい残虐行為に耐え抜いた勇気を称えられた。

 その後、バヤダレスは国連人権委員会のアメリカ代表に任じられ、そこでエルサルバドル政府とニカラグア政府を擁護する意向を述べた。いくら仕事とはいえ、、バヤダレスの被害もささやかに見えるほどの残虐行為を避難されている両政府をどうして擁護できるのだろうと思うがそれが現実なのである。

中略

1986年5月のことだった。なるほど、「合意のでっちあげ」とはこんなところから始まるのかもしれない。同じ5月に、エルサルバドル人権擁護委員会の生き残りメンバー(指導者たちは殺されていた)が逮捕され、拷問された。

 そのなかには、委員長のエルベルト・アナヤも含まれていた。彼らはエスペランサ監獄に送られたが、獄中でも人権擁護運動をつづけた。法律家のグループだたので、囚人から先生供述書を取りつづけた。監獄には全部で432名の囚人がいた。彼らが署名した430人分の氏先生供述書には、囚人たちが受けた電気ショックをはじめとする残虐な拷問について詳細に記されている。