2012年1月29日日曜日

ブオ~ブオ~、カンカンカンカン!

国東半島の修正鬼会という芸能を見た。
お寺の裏から少し山を登った所にちょっとしたパワースポットがあって、小さな神社といくつかの石仏が並んでいて、何故か異様に神々しい気を発していた。おでこが眩しくてしかたなかった。
仏事が始まった瞬間、法螺貝の笛と鐘が激しく鳴り響いて褌姿のお坊さん達が松明を持って走り出て来た!お経は、常にありがたく響いて胸に迫り続けた。仮面をつけられてお神酒を吹きかけられた瞬間の鬼が豹変して、飛び上がる様も目に焼きつく。ありがたいということばの真意について思った。

2012年1月27日金曜日

ひそんでいる暴力

批判的に人を見るときに起きること。自分がされたことを反射的に別の人に対してする感覚のひとつで、評価の値踏みをされる状況が、連鎖する。それを受けると、左の肺の裏が冷えるような感じがする。身体的に受け入れる器官が変質してしまうことで、互いの生きづらさを助長する。

そういうのも「なってしまう」ものと考えれば反応のひとつなのだろう。
観察することができなければ、人は自然に暴力を振るい続ける生き物なのだろうか?
それが自然なのだろうか?

意識的にではなく、人に心を傾けて関わりあって自然に受け止め合うこともあったはずの、その連鎖はどのように脈を失っていったのだろうか?肯定感覚を生み出す連鎖と、失わせる連鎖と、またそれ以外にも様々な連鎖の脈が入り交じって人を媒介として流れ続けて行く。だから、失っても、また取り戻したり、拒絶されて絶望しても別の所で受け入れられてよみがえったりできるはずだけれど、そのバランスが崩れてどんどん冷えて行く気がするのは、脈の流れをいっぺんに変えてしまったり断ち切ってしまったりするような、想像を絶する某かの「力」が人工的に、意識的に、計画的に加えられていることによるのかもしれない。その「力」がなんなのか?それというのが「暴力」と呼ぶにふさわしい何かなのではないだろうか?最終的に誰も望まない(暴力の首謀者でさえも)状況になっていくことを厭わない行為。そのような真っ黒何かが確かにあって、そういった中で見いだそうとする「可能性の世界」というのをどうやって思い描けるだろう?

2012年1月25日水曜日

暴力はメディアか?

中間発表を終えて、何人かのひとに、「暴力はメディアだと思う」というメッセージをもらった。
反応というのは「なってしまう」人の状態で、だから暴力はれっきとした一つの反応だ。望まずに暴力を振るってしまうという自分の反応に、なす術もなく苦しむ人もたくさんいるのだろうと思う。しかしそこには、別の反応にシフトする可能性が全く無いのだろうか?

暴力はメディアとなって次の暴力を呼ぶ、あるいは、主体もなく人を媒体として連鎖し続ける、または、暴力によって世界にメッセージを突きつけるかもしれない。そうだとしたら確かにひとつのメディアなのだ。暴力とは何か?もう一度考えようと思う。何度問いを重ねても掴み切れない言葉の数々に、何度でも観察を重ねてたちもどる。
見た目は暴力に見える何かが、実質的に別の何かを映し出すメディアであることもある。逆に親切に見える何かが実質的に暴力そのものであることもある。けれど実質が何かなんて誰に決められるだろう!

自分の反応に反応するとき、次元を超えて自分を生かし、人を生かすメディアになることができるか。それが、どんなにきつい経験であったとしても。

2012年1月18日水曜日

中間発表「実験して接近する」に向けてのムズムズ

先日、アートラボオーバでスズキクリさんに会った。そこで、今まで調査した民俗芸能を見てもらって、音楽においてのノリについていろいろブレインストーミングした。ノリの気持ちよさというのは、リズムや音のズレや揺らぎによってもたらされるのではないか?という話をした。花祭りには花祭りのズレや揺らぎがあって、それを継承して来た、ということなのだろうか?それって面白い。

また、「実験して、接近する」が近づいてきている。
合宿に突入。

民俗芸能が、その時々の時代に対してメディアの役割を果たしているとするなら、現代においてどんなものが人々のメディアであるのか?
テレビやマンガやゲームは圧倒的大多数の人々を同じ共有のノリや感覚に誘う役割をしているかもしれない。
その最先端をAKB48と仮定してみる。そして秋葉ダンスなどのストリートでは自然発生的になんらかのアウトプットが始まっていると見ることができるかもしれない。それらは、フィクションの世界の恋や友情などを現実に引き出して行こうとする衝動のようなものなのだろうか?
それらは、現実の生きにくさ、関わりにくさと深く関係しているのだろう。しかし、それらに向き合うというよりは、それらと向き合わないことを肯定する方向に加速してきたのかもしれない。

別のところで、生きにくさ、関わりにくさに向き合って来た、反応してきたメディアはあるだろうか?
メディアというのはあまりにも広範囲の言葉だが、現実に起きている様々な物事を映し出す、あるいは、人々に同じ物語や愛着を共有することで、ある種の一体感や仲間意識をもたらし、人々を位置づける役割をするもの。それは映像や文章、体をつかった何か、舞台、美術、他にもどんなところにそれらの可能性があるか?まだまだ、可能性はあるはずだと思う。

2012年1月12日木曜日

町の景色

この町に引っ越して来てから、いろいろな自分自身の反応があって、この町とのつきあい方もいろいろな変化を経て来たように思う。
今、近くの商店街に新しい「まちや」とうい場所を見つけて、そこは誰でも立ち入ってお茶を飲めるコミュニティーセンターのようなところだ。町の人が物を売ったりすることもできるし、教室が開かれたり、飲み会が開かれたりする。最初に知った「塩屋」にばかり目を奪われてこの場所の存在を知らなかったし、いつも前を通り過ぎるだけだったけれど、息子がここに入ってみたいと言い出た。それまで、私は誰でも入れる場所だと思ったことがなかった。通り過ぎ様に眺めて、そういう場所ということが分からなかったのが不思議だ。よく見れば、そういう場所なのだった。それで、そこに入って、お茶をしたり、そこのおばちゃんといろいろ話したりするのがとても心地よかった。そういう場所を町の人が自分たちの手で作っているというのが素敵だ。この町にとってまだ部外者の空気を出している私が、その場所に救われる。

そうやって、受け止められてる感覚を持って町を歩くと、町は今までとは違った親しさを見せてくれるように感じて、とても不思議だと思った。いつも、眺めていたはずの場所が、遠くなったり近くなったりするのは、ちょっとした心の変化によるのだなあとしみじみ感じた。

2012年1月11日水曜日

くやしさ

息子とババ抜きをした。
子供の頃は良くこれに負けるだけで泣いていた。息子も負けると泣いて、もうやりたくなくなったりしてしまう。それを指摘すると今度こそだいじょうぶだと言ったのでやったら、私が負けた。ババ抜きで負けると息子でも悔しい。
まだ、数を順番に並べるだけでも精一杯だけれど、ババを引かせたり、相手のババを引かないように気をつけたりする時はすごい集中している。別に、自分がどうなるってことじゃないし、何かの実力が上になったり下になったりするってわけでもないのになんでこんなに悔しい気持ちになるのだろう?

くやしいという気持ちもすごく不思議だ。
この感情も、すごくエネルギーがある気がする。
これによって突き動かされることっていうのもある。
トランプくらいじゃならないけど。

2012年1月9日月曜日

人と土地と

私は特定の土地に住んでいるということを、自分の中であまり大きく考えないで生きて来た。
けれども、本当に遠い土地に住むことになった時に、人と土地の関係は簡単でないということを思い知らされる。
それは、特別にトラブルがあるとか、ないとか、そういう具体的なことではなく、何か、自分という存在のありようが、しっくりくるかこないか、そいう曖昧な何かだ。

横浜に生まれて、関東のいろいろなところに引っ越しして住んだけれど、自分の存在ということについて不安を感じさせるような何かというのはほとんどなかった。けれども、九州の熊本という本当に、遠い土地で、知人が突然ほとんどいないような状況の中に身を置くと、自分の存在がほんとうに良くわからなくなって、心もとない。どれだけ時間をかけても、この土地の中で自分は外側でありつづけるだろうと感じる。しかし、それでも時間が経って、外側のポジションで生きるということに慣れて行けば、そういう中での自分のありようがしっくりくるということもあるかもしれない。

どんなところにいても、自分はいつもなんらかの意味で外側にいる感じだったし、それが結果的には良かったのだ。
自分のありようがしっくりくれば、力が湧いてくる。それで力が発揮できる。調子が上ったり下がったりする不安定さとは一線を画した、「しっくり」をどうやって手に入れるか、そこにかかっている。

2012年1月5日木曜日

寂しさについて

寂しさ、という感情は本当に不思議だ。
小さな子供は、親の姿がちょっと見えなくなっても耐えられない。
それは、自分の生命を守る本能かもしれない。
けれども、大人になっても寂しさから逃れることは決してない。
寂しさは、悲しみを生み、怒りに転じ、さらに様々なねじれを生じさせながら変容していろいろな所に影響を与え続ける。
だから、なるべく寂しい思いをさせないように子供を育てようと思っていままでやってきた。

だけど、寂しさもエネルギーのもとなんだと思う。
良しにつけ、悪しきにつけ、それが何かに変換するときにエネルギーは倍増するように思う。
エネルギーというのはそれ自体悪い物でも良いものでもない。何かを動かす力なのだ。
けれども、それはやっぱり明るい方向と暗い方向に引き裂かれた二つの方向性を持っているように感じる。