2012年1月27日金曜日

ひそんでいる暴力

批判的に人を見るときに起きること。自分がされたことを反射的に別の人に対してする感覚のひとつで、評価の値踏みをされる状況が、連鎖する。それを受けると、左の肺の裏が冷えるような感じがする。身体的に受け入れる器官が変質してしまうことで、互いの生きづらさを助長する。

そういうのも「なってしまう」ものと考えれば反応のひとつなのだろう。
観察することができなければ、人は自然に暴力を振るい続ける生き物なのだろうか?
それが自然なのだろうか?

意識的にではなく、人に心を傾けて関わりあって自然に受け止め合うこともあったはずの、その連鎖はどのように脈を失っていったのだろうか?肯定感覚を生み出す連鎖と、失わせる連鎖と、またそれ以外にも様々な連鎖の脈が入り交じって人を媒介として流れ続けて行く。だから、失っても、また取り戻したり、拒絶されて絶望しても別の所で受け入れられてよみがえったりできるはずだけれど、そのバランスが崩れてどんどん冷えて行く気がするのは、脈の流れをいっぺんに変えてしまったり断ち切ってしまったりするような、想像を絶する某かの「力」が人工的に、意識的に、計画的に加えられていることによるのかもしれない。その「力」がなんなのか?それというのが「暴力」と呼ぶにふさわしい何かなのではないだろうか?最終的に誰も望まない(暴力の首謀者でさえも)状況になっていくことを厭わない行為。そのような真っ黒何かが確かにあって、そういった中で見いだそうとする「可能性の世界」というのをどうやって思い描けるだろう?

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