2012年7月26日木曜日

稽古見せ in テトラ

稽古見せはやっぱりいいな。
テトラ入りして、始まった時、なんだかとても自分の中の何かがうずうずとして突き上げられそうになっていて、参加してくれている人たちを前に張りつめていった。すごくいい緊張が走って、面白いやりとり、対話が続いて行った。それゆえにいろいろ、新しい試みの入り口が見えて来た。こういう興奮すごく久しぶりだ。

桑野さん、小山さん、ありがとう。

2012年7月19日木曜日

「イシ」〜二つの世界に生きたインディアンの物語〜

「イシ」〜二つの世界に生きたインディアンの物語〜
という本を読んだ。これは、ゲド戦記を書いた人のお母さんが書いた。
ある民族が、白人に根こそぎにされて行く過程を当事者の視点から描いている。この視点から見た当時の白人の彼らに対する行為は、書かれている通り「気が違っている」。
日本に黒船が来て、有無を言わさず土足で踏み込んで行く様、無理な条約を取り付けて行く様にも重ねて見えてきてしまう。その延長線上で戦争に引き込み、計画的に原爆を落とす、「気が違っている」。すごすぎて、どう反応していいか分からない感じなのかもしれない。そういう人(国?)に監視されつつ生きるということを認識したら、普通に考えたらものすごく卑屈に生きることになるだろう。いや、卑屈に生きているのだろう私たちはきっと。卑屈に生きていることをごまかすための娯楽、サブカルチャーなのだろうか?自分たちを、または自分を、なんとか肯定したかったり、踏みつぶされた誇りを麻痺させて装いをするしかないというような。あるいは、人より秀でていることを圧倒的に証明する戦いに生きる(上昇志向的に)。人を罵倒し踏みつけることで誇りをかろうじて維持しようとしてしまう。怒りの下には踏みつぶされた「誇り」が眠っている。その中で窒息しそうになっている人は、空気を吸うために外に出ざるを得ないだろう。そのときに、自分を位置づける方法を自力で見つけて行くしかない。だれも傷つけること無く、自分の踏みつぶされた誇りをもう一度目覚めさせる方法を見つけて。

2012年7月17日火曜日

媒介する次元

人が「個人」という線引きによって自分を認識するということと、線引できない共有された意識の層というのと、またそれ以外にも様々な意識のありよう、あるいはありようの可能性というものがある。寅雄氏が見て来た盆踊りの、歌い手が自分の中から節に即興でうたをのせるその感じ、そういうのが本来日本の中で、あるいはアジアの様々な地域で「うた」と呼ばれるものだったろう。かごめかごめ、とうりゃんせ、そういった子供のうたも、わらべ歌も、百人一首も、七五調で歌われた都々逸も、「私の思い」というような線引きされた個人の思いなどではなく(たとえ恋のうたであっても)、何かしら共有された気分を言葉に浮かび上がらせる媒介者みたいな存在だったんじゃないだろうか?「dividual」について考えるきっかけになりそう。とはいえ、ずっと同じことを考えているような気もする。自分の中にそういう層があることを確認できるのだろうか?実験してみたい。どうやったら実験できるだろう?

2012年7月15日日曜日

プールと実年齢

昨日、豪雨の中プールに行った。友達の子供たちと息子と一緒に温水プールでじゃぶじゃぶとやった。プールに入ると、自分が子供だった頃の感覚に戻ってしまうようなめまいがあって、子供みたいにはしゃぎたくなるのだけど、あ、しまった私大人だったんだ、ってことを改めて思い出す。どうしようもなく、自分の身体の中にある感覚が「まだら」なんだと思う。子供のままの部分、学生のままの部分、二十代のままの部分、三十代のままの部分。そして、現時点の感覚というのが良くわからない。服を選ぶときに、自然にいいなと思う物が必ずしも今の自分の現時点に合っているとも限らない、そういうズレに遭遇して唖然としてしまう時もある。

2012年7月13日金曜日

七夕学習発表会

子供の学習発表会的なものを企画してやってみた。どうしてかというと、学校ではなく家で学習するというスタイルで我が家はしばらくやってみているけれど、やっぱり何かしらイベントが欲しくなる。そして、こうやって自分たちなりにちゃんとやってます、というのを誰かに目撃してほしくもなる。そうすることで、自分でも自分を認めることが出来る、というようなことはやっぱりあるのだなあと思ったりした。

はじめて三線で一曲弾いてみたり、逆立ちして歩くっていうのを目指してみたり、影絵を作ってみたり。本当に本人が行きたい方向を共に見ながら時には共感し、時にはけんかしながら、突き放しながら進めて行くのは、私にとっても貴重な体験で、こんなに濃厚に子供に関われるんだなあと思ったり。逆立ちして歩くところまでは行けなかった彼だけど、そうやって今はできないという時間もそのまんま見てもらって何も失うことが無いという経験は、案外一番大事なのかもしれないと思ったりもした。

つきあってくれた友人、おじいちゃん、おばあちゃんが、本当に素敵なオブザーバーで私たちは幸せでした。足りない物を自分で補うのも試行錯誤で、本当に大事な物は何かをいつも問い続けることになるんだなあと実感している。

夜の雨と読書

最近、熊本は本当にすごく雨が降る。夜になってふいに「来たな…」という感じでザーっとやってくる。雨だれの音が完璧なシンコペーションになって、そういった音の一つ一つも大事に聞いてみたくなるような、私にとってかなり大きな出会いになる本を今読んでいる。

「ゲド戦記」1 影との戦い

である。今までに自分が引き寄せられて来た方向の先にある一つの世界観であり、実は元々息づいていた世界観でもある。元々息づいていたものを何かの理由で葬り去ろうとしている何かが現在存在していて、葬り去ろうとする力にも長い歴史があるのだろう。

雨はやみ、静かな雨だれと遠い車のうなりしか聞こえない。急に静かになると、雨の音が恋しくなる。