2015年7月3日金曜日

神道?仏教?そんなんじゃなくお宮!

今日、現在住んでる地区のお宮で行われる茅の輪くぐりの準備に行って来ました。
そこで、近所の雑草を摘んで準備されたものをプラスチックの輪にくくりつけて茅の輪をつくる作業をお手伝いしながら、その行事についてなんとなーく聞いてみました。
「茅の輪くぐりの意味はどんなことなんですか?」
「なんか〜、疫病とか払いよるとでしょ」
「この行事色々な所でありますね?」
「うん、お宮では大体みんなやりよるよね」
「お宮って神道の場所ですか?」
「いやいや、神道じゃなかよ。」
「じゃ、仏教とかですかね?」
「いやー、仏教じゃなかよ!」
「ですよね〜。何を祀ってあるんですか?」
「天照大神よ、伊勢神宮からね」
「伊勢神宮は神道じゃないんですか?」
「伊勢神宮の人は〜、神道って言いよるかもわからんね」
「は〜なるほど。でもお宮は神道じゃないんですね」
「うん、お宮は神道じゃなかよね、氏神様祀ってあるとよ」
「ご先祖様とかじゃ…」
「違う違う」
「かなり古いんですよね?ここのお宮」
「そうよ、ここらが出来たときからだから」

というような会話をしながら、そうだよな「神道」だの「仏教」だの線引きしたのはきっと明治以降なんだろうし、ずっと名もなき、他に二つとないその土地の神さまを分類する言葉なんてなかったのだし、その名もなき感じをずっと感じ取り続けたからだがここまで繋がれて来たんだな〜と感慨無量でした。

2015年7月1日水曜日

はじめての署名活動

生まれて初めて署名活動というものをやりました。
「玄海原発の再稼働に関して糸島市の同意見を求める署名」というものです。
しかも戸別訪問しました。もう、いろいろ嫌な記憶がたくさんやってきて始めるのに勇気が行った。例えば、店の宣伝をするバイトでやった戸別訪問とか、だいたい嫌がられるし、自分でも逆の立場だったらいやだと思うしとか。また、宗教の勧誘や販売で来る人の必要以上に流暢なしゃべりとか、一方的に質問を浴びせられたりとか、話を途切れないように続けざまにしゃべったり質問したりを織り交ぜたりとか、もう、本当に嫌な記憶がいっぱいなので、個別に訪問した時まずは怪しまれ、疎ましく思われるのは分っていながら行かねばならないわけで。
でも、無条件に話を聞いてくれるお年寄りというのはやっぱりいるのですね。そして、ご自身のお話を聞かせていただける。また、糸島の中でも原発20キロ圏内に近い場所の方々は、内心怖いと感じていたり、ない方がよいと感じていたり。でも、反対することへの精神的自主規制がとても大きく、誰かに見張られているように感じる空気感というものはやっぱり感じました。そんな中、大声で「原発はなくてよか!」と家族全員のお名前を書いて下さる方もいらっしゃる。もともと、原発に関していろいろな対話ができるような状況をつくろうというための署名でしたが、やっぱり「なくてよか」の人は話を聞いてくれるし、「それについて考えたり話したりはしない」というスタンスの人は話すキッカケというのがない、というのが現状だなと思いました。でも、小数派の人と邂逅する瞬間というのがやっぱりある。そういう瞬間のためにやる価値があると感じ、土地に関して私なりに何かやってる、繋がっていこうとしている、そういう実感がはじめて持てた一日でした。地域の行事とはまた少し違った、土地との愛情関係とでも言おうか…。もしかしたら土地というよりは「私たちという感覚」みたいなものを少し感じたということかもしれない。少しだけど、とても強い感慨があります。

2015年6月25日木曜日

関東での見学、トーク、WS、上映会

6月の2週目は関東へ行き、まず捩子ぴじん氏のリハーサルを見学する。直前のわりに落ち着いてる。つまり自分に普通に自信を持って試行錯誤できてる感じが、なーんか大人になったねえ、と本人にも伝えたほどだった。人としての成長も作品づくりにかかせないよね(私にとっても)、順調じゃん!と思った。この時点でもかなり興味深いシーンがあり、この先ますます練り上がって高まっていくのだろう。本番見れなくて残念だけど映像送ってもらう。

山縣太一氏の公演アフタートークをやる。
私が最初に「私的解剖実験−2」を上演したSTスポットで、その作品にインスパイアされたことがきっかけで今の太一の活動があると思うと、そうやって全身全霊で受け取ってくれたこと、そのことで自分をぶれさせずに立って自治的な活動していこうという流れになっていったこと、すべて本当にうれしいことだ。しかも、彼自身が受け取った事を彼の中で昇華していったことが作品に結実している。見事だった。彼に出演してもらった「私的解剖実験−4」のとき、観察することによってかなり苦しい思いをした彼だったが、まだ私も未熟で「観察」と「監視」は違うということを強調できずに、苦しい思いを防ぐことができなかったことを後悔している。後悔してもしかたがないけど、今彼に伝えたい事はそのことで、自分に対しても、人に対しても「監視」じゃなく「観察」だよと言いたい。どう違うかと言えば、「観察」は善悪の判断をしないこと。裁かないこと。これが「観察」の大前提だと、太一だけじゃなく今まで振付けに出演してくれたみんなに伝えたい。

連続ワークショップと耐久上映会をやった。
たくさんの人が参加してくれて、それぞれに切実な動機があって、それに答えることの重要さが大きかった。上映会でも、見てくれた人に役割があるそういう実感がとても大きかった。「私的解剖実験−6」は実際に上演したとき以上に、あのエッセンスを欲している人々との出会いが止まらない。そしてやっぱり重要なテーマは「観察」と「監視」は違うということ。みんな一様に自分に対する「監視」という枷を抱えている。「観察」は、ただ見る感覚。感じる、と言い換えてもいい。感じた事、認知したことに対して判断しない。たとえば「誰かを殺したい」という思いを抱えていたとしても、それをただ感じる感覚「観察」の感覚があれば殺したりしない。連続ワークショップの最後は「内発性」から声を出すワークだったけれど、内発的な状況に移行するときに、それらを邪魔している何かに対する感情が少なからず湧いてしまうものだ。それらは悲しみだったり怒りだったり恐怖だったりする。そういった感情が湧いて来るからこのワークは危険な部分もある。そういったときに「観察」がないと、より危険になると思った。「観察」の感覚を手放しさえしなければ大丈夫。そして何かあったときにそこに戻れる。しかし「観察」できる力にはおそらく時間がかかるから、本当は長期のワークショップが必要なのかもしれない。

2015年6月22日月曜日

大阪 逍遥と学びの旅その五 七墓巡りと語り

しばらく滞在させていただいた逍遥舎を立ち上げた陸奥さんにやっと再開し、七墓巡りをしました。地図を片手に大阪の街をぶらぶらあるきながらかつての街の様子が透けて見えてくるような、別の層を手探りするような巡りをしながら、陸奥さんが何かに取り憑かれたようにパワフルなトークを繰り広げる、ライブを聴いてるような感じ。ご一緒した皆様がまた素敵な方達でした。大阪のことに詳しい方や、自給の生活を模索してる方、民俗芸能調査クラブで一緒に活動してる武田さんとか、いろいろな人がいて、知ってる人どうしも多い。知らない人でもなんらかのキーワードで繋がってたりしていました。

語りでは引き続き来てくださった方、新しい方入り混じって陸奥さんが知っているたくさんの大阪の話を聞き、最後にわたしの考案した「間にあるもの音頭」をちょっとだけやってみました。陸奥さんがすごく反応してくれてるのがほんとうれしかったです。踊りも、わたしのダンスから出発したものが全く未知なところに転がってみんなでそれを踊ってみる瞬間、つながる瞬間がかなりワクワクします。この取り組みが、8月のお盆の七墓巡りでいい感じに練られていくといいなあ。興味のある方ぜひご参加下さいね。

2015年6月19日金曜日

大阪 逍遥と学びの旅その四 求めるものを知る人々

関西方面で出会った人たちはみな、それぞれに自分が何を求めているかということを言葉にできる人たちだった。そういう人々にこれだけの確立で出会うというのはすごい。例えば、舞台表現としてのダンスや演劇、音楽には興味ないけれど、人と人の関わりや、そこに役割を持ったりする即興の何かに興味があり、コンタクトインプロビゼーションにも最近興味がわいているという若者に出会ったり、劇場で行われるような演劇には興味が持てないけれど、街の中で何かが起きるというような演劇にはとても興味があるという女性がいたり。私が若かった頃は、とにかく「野田秀樹」になりたい、とかいうレベルの低いあこがれから今のような表現に辿り着いたけれど、なんかみんな意識高いなあと思った。陸奥さんをはじめ、ココルーム、無職イン レジデンス、たんぽぽの家の様々なイベント、佐久間さんのかえるオールナイトピクニック、花嵐をやってた時に出会った伴戸千雅子さんの取り組みなどなど、関わりに役割を持つ場を作ったり実験を行ったりしている人がすごーく多い。それぞれ自治意識が高かったり、人と人の線引きが薄かったりすることにも要因があるのかもしれない。そういったところでいろんな人が出会ってまた何かが始まるというような肥沃な土壌に感じる。

2015年6月18日木曜日

大阪 逍遥と学びの旅その三 交流いろいろ

●有田美香子氏との再会と合気道
合気道をしている人の手の柔らかさが深いところに伝わって来るような時間を過ごす。
美香子氏とも合気を通じて体を交わすなんて、未だかつてないことなのでとても新鮮だったし、彼女の知らなかった部分に触れた気分。合気道は互いにこだわらないことに向かうから、相手に助けられるけれど、生きているといろいろな人と出会う。固い人に対して固くなってしまうという反応をどうしたらいいのだろう?システムの中に引き戻そうとする人に対してどう向き合えばいいのだろう?現代に反応する人々の中でサバイブする武道の新しい可能性について考えてみたい。

●佐久間さんと交流ワークショップ
体を叩くとまるで打楽器みたいな音がする佐久間さん。話していると思ったらいつのまにか踊りの入り口が待っていたり、急に普通にしゃべりだしたるする気軽な出きりがとても魅力的。人間としての暖かさ、深さ、愛情深さ、誠実さが他に類を見ないほどすごい。

●砂連尾さんと交流ワークショップ
「フィクション」という言葉の認識が私とは違って徹底している砂連尾さん。そういった細かい差異がわかって、彼の創作の立ち位置が見えて来る。現実的でとても誠実な創作をしていると思った。「うさんくさい」というキーワードがいろんな人の中で共有されてるのが面白かった。

●たんぽぽで佐久間さんやたんぽぽに関わる人々と踊る
踊りが立ち上がる瞬間は誰も意識しないような時間になら可能かもしれないと思った。
手を八の字に動かすやり方でいろんな踊りの道筋に通じると感じた。
リズムが体を立ち上げたり、さましてしまったりする原因になるらしい。普遍的な部分と、習慣や好みの問題との両方がある気がする。人がやめたり雑談したりしてもいい時空間、でありながら盛り上がる瞬間もあるというようなゆるい包括感に向かいたい。

2015年6月12日金曜日

大阪 逍遥と学びの旅その二 監視しあわない人々

京都から大阪に移動して、電車の雰囲気が徐々に変わって行く感じがする。
なんていうか、空気がゆらーっとしているような気がする。人と人の境が曖昧な空気が満ちている。陸奥さんなんか道路の信号いつも無視して、道路も真ん中を歩いたりする。でもそういったことはわりと普通らしく、誰もそれを注意したりしない。つまり、人同士が監視しあう関係じゃない、その感じがとても生きやすいゆるさだなと感じて、関東、福岡との違いとして感じて来るようになっていった。

ワークショップでは関東から、演劇をやってる人が来てくれたり、自転車で来れる距離の人が来てくれたり。わたしのワークショップを受けてくれる人は、ダンスをやってる人よりも演劇や美術をやっている人の方が多いのかもしれない。




2015年6月8日月曜日

大阪 逍遥と学びの旅その一 京都っておもろい

大阪に一週間行って、陸奥賢氏の拠点「逍遥舎」というところをねぐらに、かつそこでワークショップも交流も上映会も全部させていただきました。そういった合間に京都で友人にあったりお寺を見学したり、おもしろいスペースにお邪魔したり、古いダンスの友人が夫婦でやっている合気道の道場で胸を借りたりと、本当に漂ってうろうろしている中でのそれぞれ今の私にとってまさに必要な学び、合うべき人々との刺激的な出会いだらけで、なんと幸せな人生かしら、と感慨に浸ってしまいます。これも、2ヶ月学校の行事でスコットランドに行っている季林さんのおかげです。彼もきっと同じような刺激的な経験してるのでしょう。いいね。ほんといいね。あまりにもたくさんの、しかも重要なことが起きたので軽く短く書くのは難しいなと思って、やっぱりじっくり時間かけて思い出しながら書くにはブログかな。

まず、京都のとあるお寺では、不思議にあやしい美しさのあるお庭で念のこもった声でお坊さんがライブで解説を流してくれるという不思議なパフォーマンスのような時間を楽しみました。奥のお参りする場所では位牌がならべてあったり、なんか謎な雰囲気があって、住職さんは役者の悪役みたいな顔と声で、いろいろなとっても偉い人の相談役である事をほのめかす話などいろいろ聞かせてくれた。スペースを持つというのはそこに来る人やその繋がりを生み出すのでそれによるエネルギーというものを保持するのだな。場合によっては政治的なポジションをも生み出すのでしょうね。次に見学させてもらった町家を改装したスペースにお邪魔したのですが、そこでは芸術とは無縁の企業診断や建築をされてるのご夫婦が運営していました。さまざまな音楽やダンスの企画が持ち込まれ、そこで人が出会う事で本業の方での関わりがそこに生かされて行ったらいいなというお話だったりして、「お金」だけじゃない益として、場というものの力を思い知ったりしました。そして京都はそういうことをみんなが気軽に楽しみながら、自治的にやってるのかもなあと思ってワクワクしました。

2015年5月22日金曜日

制作日誌16 本番の日を迎えました

さて、今日は本番です。朝から当日パンフを印刷したり買物したりとバタバタしつつも、この私的解剖実験シリーズをほとんど全部見てくれた人の顔が脳裏をよぎりつつ、昨日の体調不良の中作品がもう飛べる、飛べる準備が出来たよ、という感じ。生き物になりつつある。この感じに身を任せて行こう。立ち会って下さる方々と共に空間を生き物にしていく予感がしています。写真は寅雄さんのオペ勇姿。

2015年5月19日火曜日

制作日誌15 通しまでこぎつけ、寅雄さん疲弊 

膨大な作業を終えて、ゆっぴーが関わってる神楽を観に行きたかったのだけど、通しまでこぎつける作業が時間かかってしまい行けなかった。寅雄氏は疲弊してしまって笑顔がまったく消えてしまい、打ち上げで飲んでも、温泉に入っても、お灸とマッサージをしても回復しなくてそのまま出張に旅立ってしまった…。家族崩壊の危機か…。大丈夫です。いつもなんとか乗り越えてきましたっけ。2週間前くらいが結婚記念日だったのに毎年のように忘れてしまっていた。お風呂に行こうとふたりで自転車で走っているとき、一匹だけ蛍が浮遊していたのがなんとなく奇跡みたいに見えた。本番まであと少し。 写真は私の作業場と寅雄氏撮影の亀吉&亀五郎

2015年5月17日日曜日

制作日誌14 峠を越えさわやかな夜明け

膨大な膨大な作業を徹夜で終え、夜中の3時くらいからもうランナーズハイになっていって、終わったらなんかもう今までにないくらいさわやかな気分です。自転車旅行のゴールした時にほんと似てるから不思議。この感無量さは、おそろしく自分のプロセスを振り返ることにもなっているからだと思う。まだこれからも生きて行くんだけどな。区切りなのだろういろんな意味で。本番で何が見えてくるのかゾワゾワします。イギリスに行ってるきりんのことを全く忘れてしまっている。でも夢ではかならずきりんの夢を見てる。

2015年5月16日土曜日

制作日誌13 新アイデアでパニック のち 気を取り直し…

一昨日の夜に新しいアイデアがさらに膨らんで寝られず、昨日起きてから寅雄氏に説明するも、彼の混乱を誘発してしまい一時はパニック状態に。しかし、新しいアイデアを全体に適応させる前にまずはお試しをやってみようとトライしてみたらすごく良くなっていることが判明し、気を取り直してこれからやらなければならない膨大な作業に取りかかっている。自転車旅行で峠を二つ半越えた時みたいに、いままでの小さな山、坂は峠じゃなかったんだね、これから峠を二つ以上越えるんだね、というような心境ですが、良くなるのが分っているので燃えます。

2015年5月15日金曜日

制作日誌12 衣装却下 パソコン逝く 新アイデア浮上

昨日は冷泉荘にて通し稽古をした。その前にパソコンが志し半ばで倒れてしまい、いままでやってきた作業がパーに。 それでも、音などはUSBがあったのでCDデッキからなんとか出しながら通しをする。見に来てくれた二人からアドバイスもらって、衣装はまず却下に。家に帰って寅雄氏といろいろだべって行く中で、新しいアイデアが浮上し、計画が大幅に変更になる可能性が生じる。大変だが、今のやってみたことから新しい可能性にシフトできたのはとても良かった。ここからが難所です。それにしてもいつも公演のたびにパソコンが壊れる気がする。そしてまた買ってしまう。まるで奴隷のようで、なんとかそこから抜け出せないものか…。

2015年5月14日木曜日

制作日誌11 身振り ナンバから南蛮へ

私的解剖実験−6のファイルの中に福岡市博物館でもらった常設展示の解説「身振りー都会と田舎のしぐさー」という解説書があって読み返してまたいろいろ考えさせられた。かつての日本人の歩き方は「ナンバ」であったが、それは「南蛮」という言葉から来たと言われる。しかしこの書ではその説をあやしいとしている。日本舞踊では「ナンバ」と「南蛮」、二つの歩きの方を今に伝えていて、上体を捻らない足の運びをナンバ、人形の降矢滑稽実を出すときに用いられる手を振る動作を表現したものを南蛮といい、使い分けがあるようです。これから考えられることは、手を振らずに下半身の力だけで進む歩き方が、固有の身振りであったということでしょう。南蛮という言葉は手を振るのは西洋由来のものであることを伝えていることになりますね。現代の歩き方(つまり南蛮)の起源は明治18年から全国で実施された「兵式体操」にあるようです。西洋の身振りを取り入れた学校教育で訓練されたものです。 このように、私たち日常の身振りでさえ「正しい」とされる基準あらわれて、それまで自然にやっていたことを強制的に変更させられている。それを「虚像化」と呼んでいいのではないか?と思う。「正しい」基準は俯瞰した視点から私たちを見た結果で、その視点が私たち自身に貼付けられ続けていることが、虚像化を止められない原因のように思えます。 写真は記事とは関係なく、よもぎとどくだみ(野草茶にする)と草イチゴを庭で取ったものです。

2015年5月13日水曜日

制作日誌10 デトックス 花祭り 通し稽古

きのうは捩子さんがデトックスダウンしていたけれど、22時くらいになってデトックスおおむね完了したようで復活し、通し稽古に付き合ってくれた。自分でも覚えきれないほど段取りがあるけれど、通しにそなえてその中のひとつひとつを検証していく作業の中でいちいちその時起きていた事にトリップしてしまう。きのうは花祭りのリサーチに行ったときの映像を見返しながら、もう一度その土地の人々の深さ、自然さ、本当のやさしさに触れて涙が出た。通しでは捩子さんに的確なアドバイスをもらって更に推敲して行く。

2015年5月12日火曜日

制作日誌09 ねじさんが来てくれました

昨日は、今制作中の作品の後半部分を整理して、家でやってみた。その前に捩子ぴじん氏が釜山から船で福岡まで来て、我が家に寄ってくれたので見てもらった。「本当に名刺だね」と言ってくれた。夜にスギナとヨモギとマリーゴールドのお茶(自家製)を飲んで寝たら、ねじさんはデトックス状態で熱と汗の夜だったらしい。まだ休んでるけど起きたら初めての通し稽古に付き合ってもらう予定。それにしても段取りの番号が42もある。この作品は15年分の模索をつめこんであるだけに長い旅のような内容になってきている。

2015年5月9日土曜日

制作日誌08 今回は実験じゃないけど

いつもは実験そのものが立ち上がるまで、ピントが合うまでにかなり迷走して何をやっていたのか、何をやりたいのか分らなくなってしまう時間を長く過ごすけれど、今回の作品は目的がわりとはっきりしている上に、実験そのものを立ち上げる必要がないので、大枠を早く作ることができている。でもその中でも初めて取り組むことが一つあって、その制度をあげるための試行錯誤が始まっている。そしてやっぱり本番のその時に立ち上がることを大切にするという意味ではやっぱりその重要なところは変わらないのかもしれない。

2015年5月8日金曜日

制作日誌07 「監視」と「観察」

ゴールデンウィークのメインイベントとして家族で自転車旅行してきた。リュックに食料や寝袋や山用のコンロや着替えやらを詰めて山のような背中で自転車に乗って40キロあまりの距離を峠2つ半くらい越えた。体で自分の限界を知ったり、だめだと思っても大丈夫な体力って結構残ってたり、自分で持った分だけが使えるという感覚を知ったり、自分の力でやる分だけ自由だったり。拮抗する力を少しだけ強く出来たような感覚があって壮快。「達成感」とかそういうのじゃなくて、その時々の実感を生きている時間が豊かだなと感じる。自分ってこの程度っていうのは悪い意味じゃなく、人間の力は限られてることをちゃんと身を以て感じつつ、その中で最大限力を発揮できるかどうかは自分の内発性にかかってるように思う。帰って来てその日のうちにワークショップの最終回だったのでハードだったけど、受講してくれたみなさんがすごく内発的欲求高くて揺さぶられた。行く前より元気になったくらいだった。そこで重要なことが浮き彫りになった。内発的な状態は「観察」をすることによって健康的に保たれる。「観察」の視点なしに行うのは危険。また、現代では常に自分にも人に対しても「監視」の視線を投げてしまうけれど、「監視」の状態も「観察」することが可能。しかし「監視」の視点からは「観察」は見ることができない。だから常に「観察」の方に自分の主体を感じている事が重要なのかもしれない。

2015年5月3日日曜日

「15年の実験履歴」制作日誌06

ゴールデンウィークに突入して今日は雨の中寅雄氏ときりんは自転車で1時間くらい海の方まで行って神事を見ていたみたいですが、私は作品の構成を考えるために1日缶詰でした。貧血気味で頭がボーっとして午前中はテニスコーツの歌をずっと聞きいってしまった。深いところが浄化されるような感じがする。そういった役割の持てるアーティストもいる中、私はそれぞれの作品を見てくれていた人々に役割を持ってきたのだろうか?今そんなこと言っても始まらないのでとにかく今できる最大限の編集をしていこう。いくつかの角度から作品を照らしていくことで別の次元が開かれていくようなものになったらいい。しかし15年はやはり長い。一つ一つの作品の密度も濃いので、重量感が増してしまう。深刻にならず楽しめる方向に舵を切れるかどうか。

2015年5月2日土曜日

「15年の実験履歴」制作日誌05

日本の古い音楽は「作品」という概念を感じない事が多い。それは、歌やメロディーをだれが最初に歌い始めたか、だれがそのメロディーを奏で始めたか、そういったことが分らないし、それを主張するという発想がなくて、誰かがすぐ真似をしたり伝染してしまったりするのが普通だったからじゃないだろうか?「日本の文化」という線引きもおそらく西洋近代か以降の概念なんじゃないだろうか?「伝統」という線引きも、無意識に引き継いでいる間は出て来ない発想だと思う。いろいろなものは自然に発生したり流れたりその流れがうねったりしていたものなんだと思う。日本に伝わって来た仏教などにも、どこからかその流れを辿って行ったらいろいろなところに支流を見ることができるような、そして源泉をハッキリ見極める事ができないけれど、どこまでも追って行くことができるようなそういう何かを感じる。現代ではどうしても「作品」であったり「作家」であったりという線引きをもってしか芸術と接することができないような気がしてしまっているけれど、自分の深いところを打つ電撃というか啓示みたいなものは芸術という線引きが解けた瞬間の何かと邂逅したときにしか得ることができないような気がしてしまう。

2015年5月1日金曜日

「15年の実験履歴」 制作日誌04

こちらに来てから武道の稽古を少しずつ受けている。武道をやっていると思う事は、本当にいつ殺されてもおかしくない環境で身につけた体の使い方だなあということだ。そんなに切迫していたのだね武士。農民だっていつ戦に巻き込まれるか、あるいは不当に税を取り立てられて命捨てる覚悟で一揆やったり、なんていうかみんなギリギリで生きてたんだなあって思う。現代において、そのギリギリ感と言うか、立ち向かう相手ってなんなんだろう?と考えるとやっぱり「システム」みたいなものなんじゃないかなと思う。でもシステムは、立ち向かわないように人間を飼い馴らす役割も果たしているから、私たちはシステムからの圧迫みたいなものをどこに向けて押しのけていいのか分らないし、押しのけられないから互いに八つ当たりするしかなくなる。でそれはますますもって生きづらくなるだけだったりする。システムの向こう側にその圧迫するもとみたいなのがあるはずなんだけど見えないように出来ている。でも、日々の生活で良くよく観察するといろいろ見えて来るはずだと私は思う。だから、武士が殺されないように周りを見ながら自分の立ち振る舞いを洗練させて行ったように、私たちも観察して圧迫されない方法を編み出す事も可能なんだろう。人は狩猟時代から命をはって拮抗して生きていたんだから、そういった拮抗をもって自分を本当に生かすという意味ではいつの時代も変わらないという事なのかもしれないと思う。

2015年4月29日水曜日

「15年の実験履歴」 制作日誌03

きりんがいない間に作品をつくらなくちゃならないので、寮制の学校に送った月曜日の午後からようやく第二案を作り始めて3日目の午後に発表というハードスケジュールだった。今日はお馴染みになりつつある近所の権九郎稲荷神社で稽古見せをやった。糸島芸農で関わっている人たちがたくさん見に来てくれて、いろんな反応を示してもらえてとてもうれしかった。第二案はおそろしく重量感のある、かつ赤裸裸な内容になってしまったが、やっぱりすごく面白がってくれる人と、つらくなってしまう人に分かれてしまうのかもしれない。いろいろな人と、今まで関わって来なかったような人ともコミュニケーションをできるようにと考えたつもりであったけれど、自分にうそをつくことを避けて行くと必然的にある方向性というのが生まれて行くことになるので、やっぱりどうしようもない偏りというのはさけられないのかもしれない。大きく偏りながら、あるバランスを探して行く作業。そして自分がやってきたことにいちいち向き合う作業である。おそらく今後の作品制作が大きく変わって行く、そのターニングポイントなのだろう。隣で全力の支えをしてくれてる寅雄氏と権九郎稲荷神社にも感謝!

2015年4月28日火曜日

15年の実験履歴 制作日誌02

作品の水面から出ているところだけを合わせても、15年の量は多い。にもかかわらずその水面下をもう一度精査していると、あまりの情報量の多さに今日は溺れかかって水をしこたま飲んでしまったように体が重い。情報量が多すぎると私はそれを処理しきれないので、これをどうするのか?明日には一度、稽古見せをすることになっているのだから、ひとまず明日なんとかしよう。

2015年4月27日月曜日

「15年の実験履歴」制作日誌01

最初の作品アイデアを試したあと、それを一度壊すといういつもの儀式を終え、やっと第二案に向けて動き出す。 自分が書き溜めていた大量のメモは二度と見返さないと思っていた。それをひとつひとつ見ていると、そのとき自分がどのくらいの深さに潜って観察したり思考したりしていたのかが見えて来る。と同時に現在の私がそのときの私の中に潜って行くという作業でもある。潜水するのは疲れるけれど抜けられない。こういう作業が好きなのだろう。作品制作以外に周りで起きていた事、景色もうっすら見えて来る。メモ帳が役に立つときが来るとは。まだ役に立つとは限らないが。メモの途中で「インターネットで日記を公開する人が増えている。変化の兆しなのか?」といった文章もあって、この数年自分も日記的なものをこうやって公開してるよ、って思う。書いていた時点では想像すらしていないのだろうに。作品を作り始めた96年当時はインターネットも普及したてでまだやってない人の方が多かったのだろうし、この時代の変化ってすごいなと思った。これから潜ってるだけじゃだめで、遠くから眺めたりいろいろな視点を持って作品に取り組もうと思った。

2015年3月4日水曜日

体の歪みについて

自分の体の歪みに、強い力で正すという方向は逆に体からの反発のような何かを引き出すようなことになる。「正しい」「正常な」体のあり方という基準は、俯瞰した視点によって自分を見る方向を強いる。そうではなくて、歪みに対して、別の可能性もあるということを体が知る、ということが大切な気がする。