2011年12月21日水曜日

銀鏡神楽 2 〜ノリについて〜

銀鏡神楽の舞われている中で、やはり踊り手を囃すノリというのがかつてはとても盛んであったらしい。
それらは、七五調の歌で、音の高低、テンポなどが決まっている。(それら含めて調子、と言うのだろうか?)その中で男女が愛をかわしたり、エロ話で盛り上がったり、踊り手をやじったり、早くやれとか、なんとかかんとかいろいろ言ったらしくて、それをもう一度最盛するべく何人かのおじさまが(神楽の当事者の方々が中心だったのかもしれませんが)盛んに囃していた。しかし、現在の私たちがそれを学んで囃すというのはかなり難易度が高い気もした。

民俗芸能が残っている地域でのそういう、そこでしかないノリというものが残っているところでは、本当にうらやましいほくほくとした雰囲気に包まれる。人はそういうものを今でも欲しているのだろうと思う。共有できる「ノリ」というのがたぶんとても狭い範囲の中でしか通用しない関係になって来ているのかもしれないけれど。2人とか3人とか。

ノリというのは、内側をつくると同時に外側をもつくる気がする。
外側を内側に巻きこんでしまうようなノリというのはやはりすばらしいのだろうと思う。
そういうことと、人々を煽動するというのとどう違うのだろう?

2011年12月17日土曜日

銀鏡神楽

宮崎に行って銀鏡神楽を見て来た。
車で3〜4時間走って、どんどん暗く人気の無い寂しい地帯へ突入すると、空は満天の星。宇宙にいるという感じすらする。
遠くににぎやかしい明かりが見えて来て、一安心。そこはにぎやかでほかほかした夜店がたくさん並んだ楽しげな場所だけど、松明が掲げられ、最初にイノシシの首を7体くらいお供えする、とても神聖な儀式が行われるところから始まった。
恐ろしく寒い中、白い息を吐きながら、渾身の舞いが一晩中舞われる。
跳躍の軽さ、身体からみなぎる気迫、強さに感服。

寒くて眠いので、ベッドやソファーの妄想に襲われながらみていた。

つづく。

2011年12月13日火曜日

チェルフィッチュとサンガツ

日曜日に熊本でチェルフィッチュを見た。
熊本でチェルフィッチュを見るというのはなんとも感慨深い。久しぶりに役者の人たちとも再会。
それぞれが自分なりの模索をしているのが本当に刺激になった。お客さんの反応も関東とは違う感じがして面白かった。

サンガツの演奏は、淡々としている中に突然胸を突く瞬間があって打たれた。励まされた。

今日は、民俗芸能調査の為に来ているメンバーといろいろな試行錯誤をしている。
何かに対して感じたこと、それを自分にとって本当にそう感じたか、本当はどう感じているか?そういうことを、自分に対して取り繕ったり嘘をついたり適当に答えを出したりしないで、おそろしく馬鹿正直になるにはどうしたらいいか?について、その状態をつくって調査するための実験に取り組む。

2011年12月10日土曜日

気分の共有の危険

気分を共有する、と言えばツイッターやフェイスブックもそういう効果をもたらしてくれる。
結局人は時代を超えてもそれを求めていることは確かなのだろう。
ただ、別の面では多様な価値観を認めてもいる。と同時に、自分の気分を誰かと共有したいという基本的な欲求があるように思う。だから、会話とかでもほとんど意味をなさない「お天気」「テレビの話題」なんかで気分を共有した時間を過ごしたいと願う。そこに、「違う」気分を持ち出されると気分を害してしまうこともある。私も、そういうところがあるなあと思う。逆に、あんまりそう思わなくても「そうだよねえ」と波長を合わしてしまうこともある。それを望んでいる空気を読んでいるのだ。そういうことの延長線上に「空気読み」というのはあるのだろうか?
でも、空気を読ませる強い圧力を感じる時はその圧力がいったいどこから発せられているのか分からないというときがある。もう、圧力の主体が分からないのだ。きっと空気の中で圧力も感染するのだろう。それも連鎖の一つなのだろうか?

人が別々の感じ方を持っていることを許容し受け止めながら、何かを共有している満たされた感覚を持ち合うことはできないのだろうか?

2011年12月9日金曜日

合唱 賛美歌も共有された感覚なのか?

私は子供の頃合唱団に入っていて歌うのはとても好きだった。
そこはキリスト教系の合唱団だったので、賛美歌なども多かった。
それを歌っている時は気分としてそういう気分になっていくというのはあったように思う。

でも考えてみれば50人とか100人とかの人々がみな同じ気分を共有するなんて普通に考えたら無理な話なのに、合唱というフォーマットを使えばそれが成立しているように感じる。実際はもちろんいろいろなはずだけど、あきらかに気分じゃないのに歌うというのは逆に無理があるわけだから、自分の気分をそこに持って行くということだよなあと思う。

だから逆に宗教に勧誘するときにそういうフォーマットを使って同じ気分にさせてしまうということも考えられる訳だ。

お経はどうなんだろう?
お経は、簡単にその気分になるなんていうことはない気がする。なぜなら意味がすぐに分からないから。
もっと違う効果がある。もっと潜在的なところに働きかける効果というものがあるのだろう。

阿波踊りは、あの踊りをしている人々の醸し出す空気と音楽があれば、かなり同じ気分を共有するところに行く気がする。

2011年12月8日木曜日

共有された感覚とは何か?

コミュニティーの中の共有された感覚を引き出すとはどういうことか?

うわさばなし
伝説
コトホギのことば
願いが動きに変換される
衝動が動きに変換される たとえばエエジャないかとか。

そのためのフォーマットが芸能であったということか?

今継承されている芸能を一つのフォーマットと考えてそこに現代の共有された感覚をぶち込むことは可能か?

共有された感覚→自分ではない感覚といえるか?

2011年12月7日水曜日

モッコスコーヒ前コンサート

今住んでいる小川の町には大きなイオンモールがあって、息子はそこに行くのをあまり好まないのですが、雨が降りそうな憂鬱な日にはどうしても「町」的な所に外出しないと気持ちを持ち直せないという時もあって、今日も買い物ついでにモッコスコーヒでお茶をした。今日はイオン内でのお店オープンの日だったらしく店の屋外側の出入り口前で、バイオリン、チェロ、コントラバスのトリオがコンサートをした。こういう、ところでコンサートするというのはどういう気持ちなのだろう、とか斜に構えてみていたものの、音が鳴ったとたんになんだか涙がでそうになった。生演奏の力というものを思い知った瞬間だった。311以降、どこかにとても過敏になっている。文化的なことに飢えている?あるいは、そういった「何か」によって自分を生かしたいと思っている?その演奏は本当になんの前触れも、インフォメーションも、司会も曲名を告げることもなく、淡々と準備が終わったら唐突に始まり、曲間も少しの拍手があって客に顔をみせるでもなく軽く会釈をするとすぐに次の曲にうつるというような感じで、曲もどこかで聞いたことのある音楽だけれど、懐かしいという思いがこみ上げるような選曲になっていて私の心の扉を叩き続ける。自動ドアが開いたり閉まったりして、そこを通る人の足音や姿も違う景色に映る。何も気張ったところのない行為でも人を動かしたり救ったりするのだ。何を特別なことをしようなどと思い上がることがあろうか?と自戒。

どこでも見つけられる

梅田哲也氏の「大きなことを小さく見せる」展示を見てきた。
それぞれの展示の部屋で、一見して飛び込んでくる視界の状況から、細部に目を凝らさなければ見えてこないもの達に意識が行き始めると、はっと息をのむような神聖な瞬間に立ち会うことになる。そうすると、もうその部屋の意味がそれまでとは全く違う物になる。そうやって、旅をするように歩いたり止まったりして、思ってもみなかったことを発見する、そういったことが無限に続くかと思われるような時間を味わう。

今朝、憂鬱な曇り空で今にも雨が降り出しそうな窓の外を何気なく眺めていた。鳥の群れが千々に乱れながら行き来していて、背の高い柿の木の枝にたくさん止まったり移動したり、去ったり、落ち着き無くしている様をよく見ると、葉の先に何か、そうか虫がいるのだなきっと。そういう見えないレベルの小さな蠢きを、別のものから見て取ることができるとき、その日は景色の意味がもう変わっている。

見つけようと思えば、見つけられる、そういったことごとと共に生きることができたらどんなにいいだろう。