2012年9月4日火曜日

近代美術館の実験 田仲さんの感想

2012年9月2日日曜日

芯から励まされた感想


kenkaizuさんからのツイートを抜粋させていただきました。

ありがとうございました。〜


手塚夏子さんの回に行ってきました。最近民俗芸能を気にしているという手塚さん、民俗芸能の孕んでいる<身体性・精神性・社会性>を大きな意味でとらえ直す試みだったと思います。ただその民俗芸能の<形>を派生させ伝えて来た、人々の暮らしそのものが現代的な、コンテンポラリーな社会の動きによって変わりつつある時に、その寄り添いやすい<形>を捨てて、寄る辺ない現状から何かを考え始めるというのは、もどかしくも意味のある実験だったと思います。そしてまた、美術館という場所とそこに集まる人々が、今起きているコンテンポラリーな現実に対していかに微力かということも、考えさせられました。そこから何が生まれるのか。

昨日の近代美術館 「14の夕べ」手塚夏子さんの実験の中で、子供を王さまにした架空の国を作ってみよう、というのがあった。観客の多くは国づくりに消極的で傍観しているのも「日本人的だなあ〜」と思いながら、そこには何か切実さが欠けているのだと感じたそれは、その「国づくり」に参加しなくても観客自身の生活、生命に直接関係ないからだが、各地に伝わるまつりや芸能も、それ自体何かの生産物を生み出すものではない。でもそこに地域の人々を「参加しなければ」と感じさせるモノは何なんだろう?と考えた。

実験のその後1


翌日、金曜日のデモで怒りのドラム隊を目撃した。デモ直前の国会議事堂前駅を降りるとすぐに太鼓の音が聞こえてきて、それは「なんみょうほうれんげいきょう」と唱えながら太鼓を叩く仏教の方達だった。これから何かが始まる。そんな感じだ。静かなイントロダクションのように人々がじわじわと集まってきた。警察も配備され、通行人用のコーンやバーが設置される。白い風船を持った人々の群れが多くなっていく。その中の誰かが風船に「原発ゼロ」と赤いマジックで書いたやつを一つだけバーに結びつけて去っていく。時々写真を撮る人たちが、その風船を見つけては写真を撮っていく。利発そうな美女がカメラを持っている取材の人にインタビューされている。「今回デモに参加しようと思った理由は何ですか?」

誰かが、ドラムを叩き始める。序曲のようにドラムが重なり合っていく。デモに参加する人々の顔、顔、顔。いろいろな立場の人が、内発性を刺激されて沸き立ってくる。旗が風になびく。おそろしくワクワクする。そうだ、人々はここではちゃんと反応している。切実さを共有している。そう感じた。井手さんの顔も紅潮してくる。ドラムの響きがはち切れそうになった時、デモの歩みが一歩ずつ前へと進んで行く。そして加速していく。ドラム隊の響きはシュプレヒコールとは全然違う。本当に内発的な動きを引き出す。それぞれの人が本当に内発的に何かをする行為として、それらが重なり合う行為として、それは希有な機会に違いない。限りなく芸能の発露に近い。

実験の感想2

実験を終えて、至らない部分は多々あったものの、すごくさわやかな気分です。
田仲さんも井手さんも、これ以上ないくらい切実な何かを抱えている二人で、おそらく怒りも、悲しみも、絶望も、切望もあった。そういった中で、Awayで公な場に向き合ってくれた。だから、そういう、もうどうしようもなくそのようでしかいられない居かたで実験を模索してくれた。実験としての推敲が至らなかった事実はあっても、今回はこのようにしかありえなかったのかもしれないという気もしています。これはこれで、何かを映し出し、何かを問い、また反応を生み出した。そこらじゅうに頭をぶつけながら歩き方を見つけるような、もどかしい方法で実験がメディアになるかの実験が進められて行くのだなあ。タフな作業です。そのような取り組みの私が抱える切実さを理解してくれている感想もあって、芯から励まされました。そう、「コンテンポラリーな現実」に向き合う難しさをどう克服していくのか、ですね。

とはいえ、様々な実験のアイデアが次々浮かびます。
一つは、実験を進めていくフォーマットをあらかじめ作ってしまうというもの。フォーマットにそって実験を展開せざるを得ない。たとえばお客さんの参加する仕方やタイミング、指示、時間配分、合い言葉?
マイクでしゃべるかわりに筆談で進める。紙に指示を書いてプロジェクションするとか?

近代美術館の実験終えて

国立近代美術館にて「ただの実験がメディアになるのか?の実験」を終えた。
実験を試行する二人に対して、私ができるだけ暴力的でない方法で向き合うように、実験を引き出すということに取り組んだ。二人が今いる状況は共にすごく切実だった。だから、その中に没入しているのだ。だからこそ彼らを選んだのだけれど、実験をしようとすると、自分の状況を対象化しなければならないし、疑わなくてはならない。そういう構造を自分の中にもつに至るにはあまりにも、問題が切実だった。また、切実な問題に時間や集中力を裂かれている分、実験に時間や集中力を裂くのも難しい状況だったのかもしれない。

ツイッターはほとんどやっていないけれど、どうやらいろいろな厳しい反応もあるようです。また、なんらかの刺激を持って帰ってくれた方もいたようです。それらの感想の全体的な印象は、「悪い意味でゆるい」「実験として貧困」ということと、「濃い」「今の現状そのものの観察ができた」などで、ゆるくて濃いのは民俗芸能のそれに近いような気もしました。

いずれにしても、私にとって、今まで以上に濃い経験であったことはまちがいなかったです。難しさも含めて経験を踏み越えて先に進むしかないですね。