2021年9月16日木曜日

その先に何があるかをイメージする癖 2021年9月16日

 私がスマホを持たなかったのは、未だに持っていないのは、それに依存することが何がしかの管理されることに繋がる予感があったからだ。マイナンバーが始まった時にもいやな予感があった。何かしらイノベーションがあったり、何かしら便利で合理的に思えるシステム転換があるときは、その先にどんな可能性があるのかを無意識のうちに感じ取る癖がついている。なぜだろう?昔から過管理社会になって、そこで戦っているような夢をよく見ていた。過管理社会への恐怖感が昔からあったのかもしれない。コロナの騒ぎが始まったとき、「連帯してこれを乗り越えよう」とか、「ステイホーム」とか、そういったフレーズを友人、知人がフェイスブックで投げかけるのを見て、何かしらとても居心地の悪い気持ちになった。それらの言葉が意味することが、何かからのプロパガンダや印象操作の結果のように思えたからかもしれない。ということはそれ自体が何者かのデザインされた結果の行為であり、その先に何かしら、行動規制を拡張させた非常にいやな社会への移行をイメージしたからかもしれない。そういった自分の感覚は、それを感じていない人にとっては過剰だったり偏って感じたりするかもしれない。しかし感じてしまう自分の役割みたいなものもあるかもしれない。どのように、その役割を見つけていけばいいのかは、まだわからない。

2021年9月14日火曜日

誰があなたを裁けるだろう 2021年9月14日

誰があなたを裁けるだろう

誰かに会うこと

言葉を交わすこと

肌を触れ合わせることを

一緒に食べ、笑い、歌い、楽しむことを


それらに罪悪感を感じさせる「正義」の正体はなんだろう?

「正義」の背後にある恐怖はなんだろう?

それらの重さから、体をよじって抜け出して、新鮮な空気を吸えたらきっと

魂が向かいたい流れに乗って軽々と、あなたを新しい境地に連れて行ってくれる


赤ん坊がなんども転んで歩けるようになるのは、訓練するからじゃない

ただ立ち上がりたくて、歩き出したいから

たくさん風邪も引いてなんども治り、その度に強くなる

病を経験するのも、暗いトンネルを通り過ぎるのも

すべてはその経験から新しい可能性に開かれていくためのプロセスで

私たちは今強烈なプロセスを共有しているけれど

あるいはまずます一時的にきつくなっていくかもしれないけれど

この先に何があるのかを共に見届けよう