2014年2月25日火曜日

共有と統一の違い

物事を人と共有する感覚というのは、統一される、あるいは分配されるのとは大きく違う。同じ教科書を使うことで何かを共有するかというとそういうことでもないだろうと思う。ただ、みなが同じテレビを見ている、あるいは同じコマーシャルを見ていることで、同じ情報を共有することが、何かを共有している感覚であるように思うこともあるだろう。でも、何かを共有する感覚を本当に得るために必要なことは経験を共有するということだと思う。そこに統制する人がいる場合と、いない場合でもずいぶんその感覚は変わってくる気がする。例えば、指導者に指揮されて何かをやる場合と、リーダー的な存在はいるものの、対等な関係のメンバーで試行錯誤しながら何かをやるのとでは大きく違う。

民俗芸能を見ていると、その芸能を行うことで共有感覚を強く醸造していると感じることが多い。ただ、「みんなで楽しく」とか「みんな一緒」というような安いキャッチコピーが全く当てはまらないような、理不尽さや、意味不明さ、過酷さなどが付きまとうのだ。しかし、それゆえにその共有感覚の濃厚さも半端ない。それが一体なんなのか?それに近いことをやろうとしても、そういった濃さには到底近づけない。その秘密についてずっと考え続けていて、なんとなく見えて来たこと、それは強度の拮抗を起こして場を練っていこうとする行為なのではないか?と思えてきた。そして、その拮抗は、人々の共有される強度のイメージとともに呪術性をも持ちうるし、宇宙的な規模で影響を与えうるような何かとしてさえ感じられてくる。

2014年2月17日月曜日

庶民感覚での芸能(12月に投稿しそびれていた記事を今日公開)

バリのウブドにて、バリ舞踊のレッスンを受けた。先生は関西方面で教えていた方なので日本語(関西弁)が上手。そして、日本人から見たバリ舞踊の難しいポイントについてとても整理して教えていただけた。バリの芸能には3つに分けて考えるのが常で、例えば
1)王宮でやられるもの。これはピカピカした衣装で踊る。
2)寺院でやられるもの。ケチャなど、簡素な衣装や照明でやられる。
3)庶民の間でやられるもの。竹など、住まいの近くで切って作れる楽器を使って演奏し、誰かが叩いていたら、別の誰かがやって来てそれに合わせて自然に音楽が紡がれて行くようなもの。

この3)というのがとっても魅力的だなあ〜と思っていた。すると、きりんがウブドの楽器屋さんで10000ルピア(100円くらい)で買った竹笛を吹いて遊びはじめ、ホテルの敷地の周りのどこか、姿の見えない誰かからの口笛の音だけが、それに応答して始める。それを聞いてきりんも応える、そんなやりとりをしばらく続けていて、でもお互い姿は見えない。そんな時間を過ごして、3)の意味が身にしみるような思いがした。

2014年2月8日土曜日

歌の切り口

やっとのことで歌の入り口を探す生々しい方法を見つけ出した。ただ、探す方法を見つけ出しただけなので実際に探し当てることができるのか?リスクの森の中をわっさわっさとかき分けて一日一日進むしかない。本番までのサバイバルを楽しみたい。最後まで。