2020年12月26日土曜日

現代の呪いの考察-1  2020年12月26日

 現代における「呪い」というのは「暗示」と言えるかもしれない。暗示をかけて、人から視角を奪うことはとても簡単なのだ。時々サスペンスドラマでそういうのがある。日常的に人が人に対して行っていることかもしれないし、自分で自分に暗示をかけてしまうこともよくある。また、たくさんの人に同時に同じ暗示をかけることは、何がしかの「権威」や「公正な機関」を使って行うことも可能だ。政府の発表、医学会、国際機関、学校、NHKなどなど。でも、今までの経験上、必ずしも本当の情報だけが流されているわけではない。本当に「公正な」機関というのは存在しないからだ。

公の情報を信じるか、様々な俗説を信じるかの二者択一ではなく、私たちのまだ知らない何がしかの真実がある可能性について探し続けるという選択肢もあると思う。

いろいろな感じ方をする人がいて、そこからいろいろな推論がある。それらは相反したり、部分的に重なったり、部分的に妄想が激しかったりすることもあるが、全てを机の上に並べたままにしてみる、ということもできる。留保する力というのはとても大切だ。そうすれば、お互いに攻撃し合う必要もなくなる。

また、さまざまなことに依存することで成り立った生活があり、おかしいと思ってもそれをするしかない、悪い方に加担するしかない、言うことを聞くしかない、そういうのをなんとかできないだろうか?

2020年8月28日金曜日

不安の波をやりすごすと小さな奇跡が力をくれる 2020年8月27日

ずっと、同じことばかり書いている気がする。

でも、書けるようになる時というのは自分の深い部分に何がしかのエネルギーというか希望というか、そういう底力が戻ってきた証拠でもある。あるいは、底力を取り戻そうとするエネルギーが蘇ってきた証拠でもある。

本当に奇跡をなかなか信じられずにいたけれど、今は新しい部屋に住むことができている。しかも、ずっと無理かもと思っていたパートナーの渡航も叶った。だから言うことなしなはずなのだが、やはり大きな不安を抱えたままでいる。このような不安の火種がなくなることはないのかもしれない。でも、自分のことで具体的な不安と向き合っていると、漠然とした不安を感じずに済むという利点もある。

息子の学校が決まらない。コロナ禍の中であることも大きいけれど、小さな軌道のズレがどんどん大きくなっているように感じる。元担任の先生から始まって様々な公共機関の責任関係が私には測りかねているけれど、それら一人一人に悪気はなくて、でもちょっとした小さなめんどくささや諦めの積み重ねが軌道を逸らす役割を果たしてしまっているように感じてしまう。私自身がもっと全力でその辺のところをリサーチしておくべきだったかもしれないけれど。

でも家が決まらなかった時も、二度と見つからないと感じていたし、住民票が取れなかった時も、いつまでも取れないように思っていたけれど、それらは様々な人の信じられないような大きな全力の支援があってここまで辿り着いている。だから、きっとこの状況も改善する日がくるだろうと信じるしかない。そして、私もいつか誰かにそういった全力の支援をしようと心に誓う。

ベルリンでは、特にコロナ禍の中では、様々なことが簡単には済まない。様々な小さな障害が生じて、時々どうにもならなくなる。荷物一つ届かなかったりする。そのかわり、今では、荷物がちゃんと手元に届くというだけでも奇跡のようにうれしい。それらは難しい状況の中にいるからこそ、ほんとあたりまえのようなことがとても嬉しいことに感じる。もし、当たり前のことであり続ければ、それが届いても別に喜びは感じないのだから、結局そこの差が喜びの元になっているのだ。その度に、また頑張ろうと思えてしまったりする。不安は波のようにやってくる。人生の中で味わう心の痛みが波のように繰り返すのと同じように。その波を、ただの波なのだと思ってやり過ごし、小さな奇跡で励まされるときもう一度底力が蘇ってくる。どこを見るかによって、どの部分にフォーカスするかによって同じ現実が全く違って感じてきて、その感じ方がその人の現実になるのだから、と、頭ではわかっていても見える景色が灰色に見えるのをどうにもできない時もある。でも、突然霧が晴れる瞬間があって、その時にもう一度それを肝に銘じる。

2020年6月26日金曜日

未来の妄想も自分の一部 2020年6月26日

部屋探しをしている中で少しずつプロセスをじっくり味わえるようになってきた。ベルリンでは一つの部屋の希望者がものすごく多いので、見学に行く時から、部屋を見にいくだけなのに自分の挙動で判断されるかもしれないと思うと、うまくやらなくちゃと思いすぎてすごくすごく緊張する。見学をした後、申し込みをしたりして自分が選ばれるか結果待ちをしている時、自分が断られたら、と思うととても緊張してしまう。これって、恋愛における告白をして結果待ちしてるみたいな感じだろうか(告白とかはしたことないけど)?恋愛にしても、部屋探しにしても、こんな風に緊張したり、断られたらすごく痛みを感じるはなぜだろう?ともう一度自問してみる。それは、部屋を探したり、見学したり、申し込んだりする過程で、未来の妄想が自分の体の一部みたいに感じるからではないだろうか?それが断ち切られた時、体の一部が捥がれたみたいに痛みを感じてしまう。でもそれは止めようがないというか、自分を形成しているアイデンティティーみたいなものは常に、過去と未来の可能性を無意識のうちに繋げて形成しているものだからだと思う。断ち切られる痛みを先回りして想像して、恐怖や緊張を感じる。すべての可能性にゆだねて心を開くにはまだまだ修行が必要。と、そうやって自分に言ってみると少し楽になる。

2020年6月23日火曜日

可能性の交差点 2020年6月23日

部屋探しをしていると、次の部屋が決まるまでの間は時間が止まっているように感じる。部屋を見学に行く予定があったりして、その部屋を見た後にその部屋に住んでいる未来の自分と、その部屋に住めない未来の自分と両方あり、同時に別の部屋に住む別の未来についての可能性もある。いろいろな自分の未来の交差点みたいなところに音もなく立っているような感じ。時間の流れが止まったところに立ち止まって周りを見回しているような感じ。その止まった感じを面白いと感じられるようになってきた。まだ、何も決まっていない宙ぶらりんな感じがちょっと前まではとても辛く感じたのだけど、今は、そこに立ってあたりを見回す余裕が出てきた。

そういえば、コロナが蔓延し始めて、人々が家の中に引きこもり始めたとき、1日がとても長く感じた。外に出て閑散とした街を歩いていても、時間が引き延ばされているように感じた。これも考えようによっては次にどうなるかわからない、可能性の交差点みたいな所にいるということなのかもしれない。

日本からドイツへの渡航、およびドイツから日本への渡航がいつできるのか?息子の次の学校はいつ決まるのか?私たちが住む次の家はいつ決まるのか?すべてが宙に浮いているけれど、無数の可能性がそこにあって、その真ん中に立っていると考えると少し楽しいような気もする。


2020年6月18日木曜日

引越し 苦日記〜歩くという行為の意味するところ〜 2020年6月18日(木)

引越し先がなかなか決まらず、見学に行っては希望を抱いたり、決まらない不安との間でフリーズしたりしている時、自分の視野がどんどん狭まっていくのを感じる。そして、誰かに楽しそうなことを提案されたり紹介されたりしても、どうしてもそっちに視点を移すことができなかったりする。何かを必要以上に待ってしまい、心に血が通わなくなったように麻痺してしまう。自分を観察したり、自分に何かを言い聞かせたりして改善しても、少しすると、またすぐ元に戻ってしまう。

胃の裏あたりの背骨が硬くゆがんでいる。時々心臓がドキドキする。
首と肩の付け根あたりに力が入っている。

なんでもないような曇り空の朝、草刈機の唸る音とスズメのさえずりが聞こえる。
昨日部屋を見学に行った時、私たち以上に切羽詰まった感じの人たち、おそらく海外からこの国に来ている人たちがたくさんいた。見学の人数は25人。お互い困っているのに、競合相手になってしまうなんて…。帰りに、私たちが乗った電車が故障し、長引きそうだったので他の電車に乗り換えて家に向かう。乗り換えようと思った別の駅が工事中でバスしかなかったので、もう一度別の駅に向かって別の乗り換え場所に向かおうと思ったのに、間違えて反対側の電車に乗ってしまい、2〜3駅してからやっと気づいて、ものすごく遠回りしながら帰ってきた。でも、イリイチが書いていたことを思い出した。人は自転車や車が発明されたことによって、歩くという行為の意味を見失ってしまった。人が移動するということは、ただ目的地に到着するための手段という訳ではないはずだったのに、もう、歩くという行為でさえも、目的の手段としてただ時間のかかるだけのものになってしまった、と。歩くという行為は、本当は歩くことそのものの中にある無限の奇跡と遭遇することなのかもしれない。私は、目的に目を奪われすぎて、その途中にある様々な無限の奇跡を見落とし続けているかもしれない。生きることも、死というゴールが目的ではなく、その途中にある様々な奇跡を味わうことなはずなのだ。

もう一度それを思い出す。また忘れてしまうかもしれないけど、ひとまず、今朝はそれを思い出す。

2020年6月9日火曜日

重圧と奇跡と解像度 2020年6月8日

引越しのために見学に行った家に申し込みをしてから、返事が来るまでの間のこの時間が、重圧というか、期待と失望することへの不安の間で押しつぶされそうなので、なかなか自分が物事を深く感じたりすることが難しい。けれども、昨日の夕暮れ時に夕焼けの空がとても綺麗で、もう太陽の光は見えなくなっていたのだけれど屋根の上のアンテナに残り日が反射して、そこだけピンク色に照らされて、間接的に夕日を見ることができた。この瞬間、この光を見ているのは私だけだろうか?こういう小さな奇跡は、瞬間瞬間にいつも起き続けているのだ、ということをもう一度実感した。わずかな時間ピンク色に照らされたアンテナも、最後にはうっすらと闇に包まれたけれど、そこに一匹のカラスが風に吹かれ凛と街を見下ろす、その姿がまた何か雄々しく美しく感じた。

コロナの影響のただ中で、様々な事件が起き、瞬く間にインターネットで拡散しながら、今世界に何が起きているのだろうか?と思う。テレビに加えて、SNSによって情報が均質化していく。世界が均質化していく。また、テレビでもインターネットでも全く拡散されないたくさんの物語が潜在している。ジグゾーバズルのピースをそれぞれの人がつなぎ合わせて世界を認識しようとする。自分自身が、世界で何が起きているかを知ることの難しさ。世界は大きくなりすぎて、細部で起きてることの解像度はむしろ下がって行くのかもしれない。

2020年5月26日火曜日

引越しの不安との戦い 時々 桃原郷 2020年5月26日

家探しをし始めて、果てしなく続くインターネットでの検索の日々。良さそうな物件があると勝手に妄想のスイッチが入ってしまうが、プロバイダーから返信が来るのはほんの少ししかないし、そのやりとりがドイツ語だからわからないことがあると焦ってしまって、数々の失敗を繰り返しながら、少しずつコツをつかんでいく。そんな中では「不安」との付き合い方と、「不安」を手放すコツも同時に習得していかないと自分がもたない。

引っ越すということ自体がもう高い壁の向こうにあるかのような無力感になんども襲われながら、実現したあとにこの苦労話を笑って話すってことをできるだけ強くイメージしてみる。時々、「100年後のための森」の妄想で自分を癒しながら。

そんな中で、昨日はハラサオリさんのアパートにお邪魔して「ラジオ桃原郷」に出演させていただいた。ハラさんは、移住前の年にベルリン視察を3ヶ月ほどやった時ライブハウスで偶然出会って声をかけていただき、そのあと稽古を見に行かせていただいたり一緒にフォルクスビューネが当時就任したばかりのディレクターに反発して占拠されてたときに、その占拠した状態でのパフォーマンスを見に行き、不思議な参加型パフォーマンスを行ったりした。その時から比べて、またぐっと美しくなっていて、タジタジしてしまうくらいだった。今回は久しぶりの再開で、またベルリンで何か一緒に模索できる予感がしている。

いつも、私を助けてくれるシアターハウスミッテのガビが家探しで困ったことがあると助けてくれる。叱咤激励されながら、その暖かさがこの不安定な状況の自分を支えてくれている。私もいつか、誰かを支えられるくらいにベルリンにしっかり根を張っていかなければ…。そして、日本とベルリンのいい感じのネットワークを構築していけたら…。

2020年5月18日月曜日

未来の妄想2 狩猟採集区とその周辺 2020年5月18日

昨日の妄想が、なぜか私にすごく良く効いている。精神安定に効果がある。とても不思議だ。あのあと、森の絵や、木の根っこの絵を書き始めた。それも自分自身になぜかとても深く響いてきている。そして妄想がどんどん膨らんできている。

森を狩猟採集区にして、狩猟採集ができるレベルまで森を回復するまでには少なくとも100年以上はかかるだろう。例えば、明治神宮の森は300年かけて森にするという計画だったようだが、100年ですでにだいぶ回復しているらしい。様々な野生動物が住んでいるらしい。しかし、100年、その狩猟採集区を企業などが買収したりするのを防ぐためには、工夫しないといけない。明治神宮は、「神社」という領域だから可能だったことなのだろう。そこで、狩猟採集ができるくらいになるまでのあいだ「森のお墓」みたいな場所にして、散骨か、樹木葬ができる特別な場所にするというのはどうだろう?そうすれば、むざむざとビルを立てたりしにくくなるかもしれない。故人に一番近しい人は故人の命日に森に入ることができる。そして、森の周辺のどこかに、そういう人用のお葬式ができる場所をつくる。様々な宗教に対応できる葬儀場を。そうなると、循環した場所にしたくなるので、助産院みたいな場所も近くに作る。この森がゆりかごと墓場の両方の機能を持ったら楽しい。さらに、芸術家のレジデンス施設や、屋外劇場も作る。

未来の妄想 2020年5月17日

新人類と言われている人間の種類が、この地上に現れたのは20万年前ということで、

ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内という説もある。

太陽の周りを地球がどのような軌道で巡るかで、地球全体が氷で覆われる氷期と、暖かくなって氷に覆われていない間氷期が順繰りに訪れている。今まで、およそ氷期10万年、間氷期1万年で巡ってきているらしい。

私たち新人類はこの地球で経験する2回目の間氷期を生きていて、その間氷期も1万3千年経過しているそうな。いつ氷期に突入してもおかしくないということなのだろうか?

一説によると、地球温暖化によって海流が止まってしまうと、むしろ急激に氷期が訪れる可能性があるらしい。

もし、地球全体が氷に覆われたら、農耕や牧畜も難しくなるだろうなあ。そうなると、狩猟採集しか道は残されていないということかもしれない。もっとも、そうなれば地球環境は1万年くらい前と同じレベルまで回復するかもしれないけれど。いや、技術を駆使して、ものすごい人工的な街を作り、遺伝子を組み替え、生き残るための最大限技術を使って、かつ人を管理する社会になって生き残ろうとするかもしれない。



そんなことをつらつら考えながら、いろいろな妄想を考えている。

地球の中で、自然保護区をもう少し強化した、狩猟採集区を作って、狩猟採集できるレベルに自然が回復するまで立ち入り禁止にする。その周辺に、自然素材でつくる機織りの作業所やカフェなどをつくる。狩猟採集が可能になった場所では、希望者が3年間の狩猟採集研修を受けることができる。将来的に、文明社会の側が行き過ぎた過管理社会になったとき、その社会で生きることを受け入れられない人は狩猟採集に移行することでのみ、そこから逃れることができる…。とか…

2020年5月16日土曜日

思考の整理 一点集中の視点と死角 2020年5月15日

思考の整理 一点集中の視点と死角

ベルリンに暮らし始めてから、ひとつ、なんとなく思っていることがあって、欧米を中心としてひとつのスタンダードな考え方や問題意識というのがあって、一つのトピックをSNSで大量に拡散して、その時々のその中心のトピックを共有する強度が、ヨーロッパの中でとても強いように感じる。たとえば「ミートゥー運動」や「温暖化問題」など、その時々であまりにもたくさんの人が、同じ一つの視点からの問題意識で湧くことによって、そこにたくさんの「死角」が生まれ、かえって、その間に起きてる他のことに意識が向きづらくなったり、あるいはその問題における別の角度からの見方が全くできなくなったり、そういう感じがする。それは、その問題意識を持つことが一つのステータスとして機能してしまっていることと関係している気がする。もちろん、そうすることで、今まで問題として軽く扱われていたことが、きちんと取り上げられる機会としてはとても良いと思うけれど、一方、その死角の中に、意識を向けるべきことを見逃してしまうことで、後になってとても怖い状況が生まれてしまうこともやっぱりありえると思う。今は、世界中が「コロナ」のことに意識を向け、それこそ視点が一点に集中してしまう。こういうときに、各国の法律が変えられていて、それが表面上は大したことがなさそうでも、実際に施行された後で、とても怖い状況になる可能性のあることを見逃してしまうかもしれない。みんなが、一点に意識を向けているときこそ、別の視点から物事を見ることはとても大切だと感じる。

視点を動かすためのインストラクションの作品について考えたい。

街の観察
ベルリンの街は、コロナの蔓延を防ぐために様々な規制が引かれていた間、多様な人の姿が街から消えていった。例えば、物乞いをするロマの人たち(だと思う。もしかしたら違うか?あるコミュニティーの人たち)、音楽をやって駅などでドネーションをもらっている人たち、薬の売買をしているらしき人たち、年中よっぱらっている人たちの集い(これはなんだかとても微笑ましい。実際にはいろいろあるのかもしれないけど、各駅や道端で、馴染みのコミュニティーみたいなのがあるっぽい)、意味のわからないことを急に話しかけるような人、新聞みたいなものを電車の中で売る人。この中の何種類かの人たちはぼちぼち戻ってきた。ちょっとホッとする。

美容院、理容店、ネールサロン、カフェ、レストラン、それぞれがオープンし始めた。街の息吹が戻ってくるような感じ。街が、生き物みたいな呼吸を取り戻しつつある。

2020年5月9日土曜日

散漫な思考メモ 世界を把握する方法/対話の難しさ 2020年3月8日

散漫な思考メモ

想像上の生き物、伝説の生き物、そういうものをコミュニティーの中で共有していた人々にとって、それらは媒介者であって、それらを通して世界を把握していたのかもしれない。

科学が発達しても、その知識を実感として認識するのは難しいことで、それぞれの感覚で独自の方法で実感として認識するしかない。その時に、「事実」「科学」「現実」という、唯一の正しさのものさしは、自分の感覚の広がりを止める作用をする可能性がある。

自分の意識の中で、書き言葉という線引きによって言葉の、音の広がりや響の作用を封じられているとしたら、どうやってそれを解き放てるのか?

『ハーメルンの笛吹き男 阿部謹也』読書メモその1
魔術的なものを廃して理性的な思考を目指したり、そのために物事を外から眺めようとしたりした、そういう移行の時期に、「あいつは魔女だ」と名指しして、さまざまなありもしない妄想を共有した挙句にたくさんの人が殺されてしまった。その根底には差別や人々の生活苦があったとしても、その底意地の悪さを引き起こす原因になったことは「貧しさ」ではないように思う。そうではなく、自分の心の中の感覚の自由を奪われ、線引きの中に閉じ込められることで失う誇りみたいなものが原因なんじゃないだろうか?現代においても、ある種の「非科学的」なことを名指し、批判する人の中が、理路整然とした理性や聡明さでは決してないように思う。と同時に、非科学的な方向性を持つ人が一度相対的な視点を失うととめどがなく、バランスを欠いていってしまうことも多い。

相対的な視点を持ち、かつ視点を動かして物事を見ようとする態度は、人と対立せずに対話を進める良い方法なのだが、フェイスブックはそういうことに合っているメディアのように見えて、絶対にそうならないのはなぜだろう。


2020年5月3日日曜日

思考の整理「内発性の発露とリスク」 2020年5月3日

人と一緒に生きていく以上、本当に様々な人がいて、自分にとって「なんて傲慢な」と思う人とも、一緒に生きていかなくてはならない。優しい人がいる一方で図々しいひとがいて、たくましいとも言えるし、たくましい人がいる一方で、繊細すぎるひとがいる。繊細すぎるとも言えるし優しいとも言える。自分のことしか考えられない人もいれば、いつも周りの人を気遣う人もいる。正直な人もいれば、自分を偽っている人もいる。人を陥れることを厭わない人もいれば、自分のできる限り誰かを救おうとする人がいる。様々なひとが一緒に生きていかなくちゃならないし、人を更生させることはできない。それらの中で、バランスをとって、あるいはその出会いの時々で何かを学んで行くしかない。それぞれの人が、自分なりの学びを得ることができれば、社会は少しずつマシになっていくのかもしれない。しかし、ストレスを感じる原因は、人の性質ではない気がする。人の性質は、その性質に作用している社会の状況によって悪化し、その違いを受け入れあったり距離を適度にとったりすることでどうにかできないところまでいってしまっているのかもしれない。

内発性の発露についてずっと考えてきた。
赤ん坊の時にはそれがあっても、成長の過程ではそれをある程度線引きの中に押し込めざるをえない。それは現代の社会の中で、リスクを減らして安定した社会を作って行こうとするプロセスの中で変化してきたことなのかもしれない。特に、産業が経済を支え、人々の暮らしを変えていく中では、「生産性」を支える人々が受動的であることが求められる。工場や会社では、それが効率的に生産性をあげるために働く人がそのための線引きの中に収まる。しかし、それは本人にとってのリスク回避でもある。生活の安定のためでもある。その線引きの中にいれば、職を失うリスクが減る。ローンで家を買える。車やテレビや冷蔵庫や生活用品を快適にできる。旅行もできる。そういった状況を快適にするために学校ではできるだけ問題を起こさないようにする。そして成績をあげてそういったリスクの少ない場所を確保するために学生時代のすべてを費やす。
人が生きていく上では様々なリスクがある。様々な危険がある。職を失うリスクだけではなく、病や、死のおそれもリスクで、それらを減らそうとして私たちは今の社会を築き上げてきた。病院の様々な設備や薬や療法を開発して、死ぬギリギリまで死を回避するように務める。リスクが減った部分もあるし、別の形にすり替わってしまったものもあるだろう。不安を少しでも減らし、安全を求めていけば、内発性の発露を抑える仕組みの中で生きざるを得ない。逆に言えば、内発性の発露を大切に考えていけば、リスクを引き受けざるを得ない。その中で、どのバランスだったら、「生きて」いく感覚を犠牲にせずに、引き受けることのできる範囲のリスクを負うことができるのだろうか?

2020年5月1日金曜日

思考の整理 「役割」についてその1 2020年5月1日


人は日常生活の中で、自分以外の誰かとの関係の中で様々なきっかけを与えられる。自分が何かをしようと思うきっかけ、何かを嫌だと思うきっかけ、何かを好きになるきっかけ、そういったものを、なんの意図もなく誰かが与えてくれる。自分もなんの意図もなく誰かに与えている。また、誰かと自分との間に何かを一緒にするタイミングが生まれて、何かを終えようとするタイミングが生じる。かといって、お互いが全てに共感しているわけでなく、わからない部分も多いからそれをどう乗り越えるかお互いに四苦八苦する。けれども、そういったことの中には自分の生が活性化する一方で苛立ちや鬱陶しさも同時にある。だからそこから遠ざかりたくなる。かといって、それが希薄になると急に自分が空虚になっていくように感じてしまう。だから、その空虚感を埋めようとして、少し面倒臭くない方向での関わりに没頭すようとする。たとえばSNSのような。
 また、人は日常生活の中で、自分という存在を誰かとの関係の中で発見する。自分というものの存在を誰かにどう見られるかというところで天秤にかける。SNSの中ではなおさら、自分をどのように見てもらいたいかを実現しようとする。あるいはありのままの自分を見てもらおうとする。でも、どのように演出しても、人は自分の見たいように人を見るものだ。人はSNSの中で自由に振舞っているように見えて、そのシステムは構築されたもので、そのシステムを使って人をコントロールすることもできる。たとえば何かを積極的に買わせることもできるし、ある種の方向に印象操作することもできる。気づかれないように。それは、SNSを使うことで空虚感を埋めようとする行為が、ある種のドラッグのような作用をすることとも関係している。空虚感を埋めようとしても決して埋まらないから依存性が増し、その依存性がシステムに利用されるというカラクリだ。

今のような状況では、人は人と関わろうとすればSNSに頼らざるをえず、そうなれば一層SNS上の中にあたかも現実の全てがあるかのように思えてしまうことが怖い。

でも本当は、人は、人との関係の中で何かしらの「役割」を担うことを願っているのではないだろうか?「リア充」という言葉はそれを象徴しているようにも思える。自分がだれかにとって大切な存在でありたい、ということはすなわちそこに役割があるということだ。しかし、逆説的に、誰かが自分にとっての大切な人であって、自分に役割を果たしてくれていると思えることが、一番自分を満たす方向に物事が動き出すきっかけのように思う。それは子供を育てることでより強く感じるようになった。子は、親にとって大切な存在でありたいといつも思っている。実際に、ほとんど言葉がしゃべらない頃から、いつも親を助けたい、励ましたい、役割も果たしたいと思っているように感じる。そして、実際に助けられ、励まされ、たくさんのきっかけを与えられて役割を持ち続けてくれる。親子の関係に限らず、どんな人との関係でも大事なのは自分がそれを受け取ることなのだと思う。自分が誰かにとっての役割を果たすことに固執するより、誰かが自分にとって役割を担ってくれていることに気づき受け取ることに重点を置くことができれば、ある種の依存から少しずつ解き放たれるのではないだろうか?

2020年4月27日月曜日

街の観察 電気専門店の親切なお兄さん 2020年4月27日

街の観察

土曜日に久しぶりに電気専門店に行った。長く並んだ上に、2階のフロアーには入ることができず、2階に売っているものについて店員さんに相談して持ってきてもらうシステムになっていた。それも、一人一人に対してすごく丁寧なので結果的にものすごくものすごく待たされた。でも、息子が手作りのパソコンを夏休み明けに購入する計画なので、その下見に行ったわけだけど、見れなかったのでカタログがないかを聞くと、ウェブページで調べて購入できることを詳しく教えてくれた。ドイツ語でどの言葉で検索すると良いかということを丁寧に一つずつ教えてくれる。待つ間はじれったかったけど、実際こうやって丁寧に解説してもらうとなんだか心が癒される。人と人にとってコミュニケーションの交換というか、親切な心の交換みたいなものが欠かせないのだなあと思った。

街を歩くと、椅子を置くことを禁止されていると思うけれど、何気なく椅子っぽいものが置いてあったり、何気なくそこに座って数人が喋っている姿を見るようになった。なんとなく妥協点を探っているような感じ。禁止する側も、そういうことを計算に入れているのだろうなとも思ったり。いきなり解禁にすると際限なく人が集まるといけないから、ものすごくゆっくり解放していくために、禁止事項はそのままに、お店を少しずつ開店させたりしてこういう状況になっているんだろうな。

「役割」ということについて、ずっと書こうと思い続けているけど書き始めることができていない。
母親とか、店員とか、アーティストとか、そういうのもひとつの役割かもしれないけれど、これにはいろいろな賛否があって、そういうもののないただの「自分」というものに戻れるのが良いという考え方があるけれど、私はむしろ「役割」というものの強さというか、それによって強くなれて、かつ満たされるということもあるように感じていて、うまく言葉にできていない。明日書いてみたい。

体の観察
とにかくここ数日とても眠い。ちょっと前までは逆に冴えていたのにどうしてだろう?
この眠気の源泉は、どうも腸のあたり、あるいは腸と胃のつながっているところあたり、の脈のあるあたりだろうか?そこにものすごく暖かいマグマみたいなのがあって、意識を遠のかせる。そこに意識を向け続けると唾液が満ちてくる。腕や足が脈打っているのを感じる。

2020年4月20日月曜日

境界が曖昧になる感覚/イメージのリセット 2020年4月20日

Theaterhaus の庭で踊った時、私自身がそこでどのように見えるか?ということを払いのけながら、私自身が目の前に見える草や土や空や鳥や風にどうやって反応できるのか?に意識を向けていった。それらは、自意識を刺激される要素もあって、久しぶりに、そういう自分のめんどくさい部分に付き合うことになったけれど、素直にとても気持ち良い瞬間がなんども訪れて自分の人間ぽくない部分が拡張していくような感じがあった。空を横切る鳥を目で追ったり、土の匂いを嗅いだり、何か小動物の糞を手に取ったり。線引きされたイメージに捕まらずに、目の前の物事との深い交流ができるためにはやっぱり感覚が開かれていかなくちゃならないのかもしれない。あるいは言葉がはぎ落とされていくということかもしれない。自分を繋ぎ止めている意味や記号やイメージを剥ぎ落とすことができると、別の深いつながりが自然と蘇ってくるような感じがする。庭では水撒きをしている人がいて、水を撒くことをすっかり忘れて私のパフォーマンスを凝視しているのに気がついたり、親子が庭に入ってきて、私が進んでいこうとする方に座ったり、そういう予想外のことが起きると自分の中でいろいろな葛藤が起きて、でもそれが意外によくて、自分の予想や予定を壊して新たな瞬間が生まれていく。

昨日久しぶりにティアガルテンに行って湖に面した森の中に陣を敷いてしばらく佇んだ。水面を見ると、木々や空が綺麗に映っている。その映っている世界をどこまでも目で追って行きたくなる。その上に目を転じると、その映っている世界の元となった現実の世界が見えるわけだけれど、そっちより水面の中の世界のほうが断然魅力的に見えた。どこまでも、その中に入って行きたくなる。風の音が聞こえて、高い木々の葉に目を転じると、その葉と葉の境界があいまいでまるで水面みたいにもやもやとして、空と葉の境界までも曖昧になるような、気が遠くなるような感じがあって、これもまたすごく魅力的だ。境界が曖昧になる瞬間や物事に、ものすごく魅力を感じる。不確かなものごとの中に、自分の想像を掻き立ててイメージを作り直すような作用があるのかもしれない。

イメージといえば、神話や古事記や聖書や、さまざまなものがどのように世界が作られたかという話を語っていて、現実には確認しようのない人の起源や世界が生まれた起源やこの世の成り立ちみたいなものを、ある種のイメージを共有することで見ようとしてきた。人は基本的にイメージを使って世界を把握する生き物なのだろう。たとえ、科学が発達して、細胞、遺伝子、素粒子などなどの知識を得たとしても、それら見えない物事は写真や図から得たイメージで自分の意識の中にインプットしておくしかない。それらで構成されている体というイメージを持つしかない。しかし、そのイメージの持ち様というのは変えることができてしまうし、人に変えられることもできてしまう。仏教の経典にあるように、見えるもの全てが本当は「空」であるというように何かしら、イメージをリセットする感覚が、より深くの物事と繋がるきっかけになるのだろうか?

2020年4月17日金曜日

「自然」というイメージ 2020年4月16日

ここ数日のうちにいくつかの「集まらない」パフォーマンスを行った。
3人で3つのパフォーマンスポイントに立って、インストラクションを使いながらパフォーマンスする場所を順番に巡るもの、5メートル離れた二つのパフォーマンスポイントに一人ずつ立ち、入れ替わりながら4人が演奏するコラボレーション、そして今日はどうしても会いたかった人に窓越しに見てもらう庭でのパフォーマンス。

どれもが公園や庭など自然の多いシチュエーションで、私はこういう状況になる前に自分から進んでそういう場所でのパフォーマンスはあまりしてこなかった。その理由は、おそらくそういった景色が、一つの線引きされた「自然」のように扱うことになってしまうのが嫌だったからだと思う。それは、テレビや映画やインターネットや、様々なメディアを通して切り取られた「自然」が自分の意識に入り込んで、線引きを払いのけることができなくなってしまっているからかもしれない。その「イメージ」をどうやって自分の中から消すことができるのだろうか?あるいは消さなくても、何か良い方法があるだろうか?

久しぶりに、会いたかった彼女に出会えたことで、どんなに私の心が満たされたか、本当に人に会うということの効果はインターネット越しとは全く違った経験であることを改めて実感する。しかし、こうなる前からたくさんのものを、テレビや映画やインターネットなどのメディアに明け渡していたのかもしれない。それをどうやって取り戻せるか少しずつ考えていきたい。

2020年4月15日水曜日

偶然・習慣・循環・調整 2020年4月15日

思考の整理 偶然・習慣・循環・調整

自分が日常生活を生きていく中で大切なことについて、ちょっと思いついたことがあったのでメモしておく。当たり前といえば当たり前のことかもしれないけれど。そして単語が妙に硬い。小学校の時の感じの練習を思い出す。ただ単に心地よく生活するためのことなんだけど。
・偶然(流れ)をつかむ
・習慣をつくる
・循環の度合いをあげる
・調整力をつける

偶然をつかむのと習慣を作るのは相反しているように見えて、どちらも大切なのだと思う。習慣を「規則」にしちゃうと息苦しくなって偶然の入り込む余地がなくなる気がする。心地よいから習慣的にやるようにする、という感じで続けるけれど、やれないときは無理をしないほうがかえって良い時もある。偶然をつかむには、たくさん起きてる出来事の中でアンテナに引っかかる感度が高くないと掴めないかもしれない。自分が何を欲しているかを自分で感じ取れないといけない。そのためには、自分を律しすぎない方がよいかもしれない。あるいは、修行のようにとことん追求するのも逆に良い場合もあるかもしれない。その場合は修行によって何かが削ぎ落とされる実感、あるいは感覚の変化の実感が心地よさにつながるみたいなことが必要かもしれない。
循環の度合いは、人に優しくされた分、人にも優しくするというようなことから、実生活で使うものの循環度、誰かとの物々交換、知人を人に紹介する、あるいは紹介してもらう、ものを溜め込まない、などなどできることをちょっとだけ意識的にしてみても良いかもしれない。
調整力について、何かがダメと言われた時、誰でも妥協点を見つけるべく交渉すると思う。それも一つの調整だと思う。今みたいな状況で「家にいなければならない」ということに非常な苦痛を感じる場合、あるいは経済的、身体的、精神的に自分、あるいは助けが必要な人々との関係において、この状況で可能な範囲をうまく調整することが必要な場合がある。調整することで心身を心地よく保ったり、助け合ったり、創造的な可能性を模索したりする必要があるだろう。そうでないと明らかに別の弊害がどんどん生じてしまう。なにかが「正しい」とされている時は、それによって起きる弊害にも意識を向けて、「ちょうど良い感じ」、の心地よさのためにできることを探すのも一つの調整なのだと思う。

同じ日の午後追記
習慣といっても毎日同じにできるわけはないので、その中に無限の偶然が潜在している。それをちょっと意識するだけでもいろいろな発見があるのかもしれない。でも偶然は目的意識を持って求めるともう偶然ではなくなってしまう。そこにいつもパラドックスがある。つかまらないように逃げ続けるにはどうしたらよいのだろう。目的意識から逃げ続けるために習慣があるのかもしれない。堂々巡りだ。

2020年4月12日日曜日

イメージの中のねずみ 2020年4月12日

昨晩の夜中に、自分の部屋にネズミが出て、というかまずその音によって身震いしてしまって、気になって気になって眠れずに、立ち上がって様子を見ているとネズミと目があって(メガネがなかったので実際にはわからなかったけどたぶん)向こうはフリーズしたままベットの影から顔を出している。それで、私がちょっと動いたら決心して、踵を返して戻ろうとしたけどうまくいかなくてベットの上に乗って躍り上がるように壁側に消えていった。それで、ミントをティッシュに湿らせてそのあたりに置いたりしたんだけど、しばらくするとやっぱりカリカリ、パタパタと音がする。こちらも何度か音を立てて脅したりして、しばらく静かになっているんだけどまたしばらくするとおカリカリパタパタ。それで、私がまた立ち上がって見ると別のところから壁沿いに歩いているけど、私の気配でまた元のところに慌てて逃げ帰る。それを何度も繰り返して、最後はまた別の方角から逃げて私の部屋の扉の外に出て行った。べつに気にしないで寝てればいいのかもしれないんだけど、どうも「ネズミ」にたいするイメージが強烈にあって、おそらくたくさん菌を持っていて、ペストの原因になってとか、あと、野生動物と言ってよいと思うんだけど、何があっても目的を果たそうとする圧倒的な生命力みたいなのが、こういう都会ど真ん中のアパートの5階あたりだと、一緒にいるのはどうしても不安な気持ちになる。もう少し自然の中とかだったらまた違うのかもしれないけれど。で、思い出したのが、小学生の低学年の頃に、学校の帰りにドブの中にネズミが死んでいて、その時の私はネズミにたいして全く気持ち悪いとか汚いというイメージがなく、むしろアニメのキャラのように見えてしまっていた。なので、「かわいそう」と思って自分の着ていたカーディガンにくるんで家に持ち帰り、「お墓」をつくってあげようと無邪気に考えていた。家に着くと、母が悲鳴をあげた。そして父が「お母さんにあやまりなさい」と言う。でもその時には、どうしてそんな展開になってしまったのか全く理解できなかった。なので強烈に覚えている。でも今は母の気持ちがよくわかる。そして、息子はこのネズミ騒ぎを体験して、「ピーターラビット」のアニメをもう一度みたい!とか言っている。なんかかわいい、と思っているようだ。私もそう思えたらどんなにいいか、と思うけれど、自分の中に立ち上がったイメージは、今のところ消えそうにない。

2020年4月10日金曜日

思考の整理 イメージが人に与える影響について-2 2020年4月10日

「イメージ」っていうのは、ある輪郭を作る作業みたいなものかもしれない。たとえば自分が実際に現実の景色を見ているのに、写真やポスターやコマーシャル映像の方を連想してしまうことがある。それは本当に恐ろしいことだ。写真に魂を吸い取られているようなものだ。写真やポスターやコマーシャル映像はまさに「イメージ」を作る。「イメージ」は輪郭のない、あくまでもいろいろな物事と重なり繋がっている現実の世界を、ひとつひとつの輪郭として切り取ってしまう。そして、あたかもそちらが現実であるかのように、自分も切り取られた「イメージ」の方に合わせてしまう。自分さえ、他者の視点を意識し、固定された「イメージ」として扱ってしまう。

今自分が使っている「イメージ」という言葉は英語のimagineとはちょっとずれている。そもそも英語の場合は動詞だし。自分が日本で日本語を使っている時に使っている「イメージ」は、imagineの訳語となっている「想像する」とか「推察する」と言いたいときには使わずに、名詞として日本で一般的に使われているカタカナ英語と言えるだろう。このカタカナ英語はまさにimagineという言葉を「イメージ」という輪郭の中に閉じ込める作業と言えるかもしれない。だって、その言葉が生まれた背景は全く共有できていなくて、その言葉の意味するところもわからないまま使っていくのだから、輪郭でコーティングするしかない。そういう言葉はたぶんいっぱいあるのだろう。カタカナではなく漢字に置き換えられた単語であっても、もともと日本にはなくて、それらの背景と繋がっていない言葉を日本で使う時には、そういうことは起きるのだろう。

例えば、体の中にある正確な臓器の名前を知っていても、実際にその臓器を見ることも触ることも音を聞くこともできない(心臓の鼓動は聞こうと思えば聞こえるかもしれないけれど)。自分の顔すら、鏡やビデオなどを通さなければ見ることもできない。だから、自分のことでさえ、「体」や「顔」に対しては「イメージ」として把握しているのだろうと思う。様々なことを学校で習ったけれど、歴史にしても、地理にしても、科学にしても、その教科書の中に「全て」を書くことはできない。ほとんどジグゾーパズルのいくつかのピースを与えられるだけで、そのジグゾーパズルの完成図をイメージしてしまう。だからこそ大学で専門的な知識をたくさん学ぶのかもしれないけれど、また、「自分で感じたことを元にすると正確でない主観的な考え方になってしまう」と考えて、客観的な知識や情報を集め「正確に」物事を把握しようとするけれど、ある物事における詳しいことが分かるとそれによって「イメージ」が作られ、それが死角になって別の角度から物事を見るのが難しくなるということもあるかもしれない。窓の外をどんなに見つめても、視界に入らない大量の場所があるように、あるいは、見える範囲であってもほとんどの場所を見損なっているように、どんなに知識を頭の中に詰め込んでも、物事をまるまる認識するなんていうことは所詮できない。ましてや翻訳をした文章を通して、書物を書いている人の視点、それを把握する自分の視点、その視点が作られる前提の「イメージ」が土台となり、ますます死角を作り続ける。だから、「わからない」というところにいつも立ち戻りながら、土台としていたイメージが崩れてしまう経験を積み重ねることでわかろうとする試行錯誤を繰り返すしかない。



自分の文章がどこまでも硬いのが気に入らない。どうしてもっとユーモアのある文章がかけないんだろうか…。また、物語や詩を書くことで輪郭や線引きを解くことができるかもしれないのに、なかなか取り組めてない。



体の観察
頚椎のあたりがちょっと変なカーブになっていて硬い。頚椎から背骨を下に辿っていくと、横隔膜のあたりの背骨がますます硬い。さらに下に辿っていくと、骨盤のすぐ上のあたりがちょっと痛い。朝、起きた時に歯を噛みしめるような感じになっていたから、寝ながら体に力が入っていたようだ。生理があがりかけていて、でも完全にあがっていないので、満月あたりになんとなく体の不調として残っているような気がする。骨盤が開いたり閉じたりするタイミングだけれどうまくいっていないのかもしれない。

2020年4月8日水曜日

思考の整理 イメージが人に与える影響について2020年4月8日

思考の整理 イメージが人に与える影響について
動物は、様々な情報が生死に直結している。どんな音がなっているか?どんな匂いがするか?どんな種類の場所に自分がいるのか?情報が瞬間的に直感に結びついて即反応していかないとすぐに敵に捕まったり餌を食べ損ねたりしてしまう。そういう能力が人にもかつてはあったのかもしれない。今でも全くないわけではないかもしれないけれど。人は何かを自分で把握しようとするときにイメージを使っている。たとえば目に見えない「ウイルス」が人にどのような影響を与えるか?知識を得てもそれが実際に見えるわけではないからイメージとして構築するのかもしれない。たとえば虫歯も、子供の頃に虫歯に関する絵本を読んだりして、「バイキン」みたいなキャラクターとして把握する。また、インターネットで誰かが投稿している情報をいくつか読むと、それらを総合して今何が起きているかを勝手に組み立ててイメージとしてそれを把握しようとしている自分がいる。そのイメージはある時は先入観みたいなものとなる。だから時々そのイメージを解体したり、手放したりすることも必要なのかもしれない。
 昨日の夜、暖かかったので窓を開けたら、貨物列車の音が聞こえた。よく見たら、貨物列車がものすごくゆっくりと駅を通過していた。そしてその向こう側に普通の電車が通過していく。もっと近くの建物の一階は、お店の裏のようでまだ明かりが点いていた。ということはまだお店が開いているか、作業が続いているということなのかもしれない。もう少し高いところの窓に本を読んでいるらしい人影が見える。こうやって実際の物をよく見る、よく聞くことをすると、ちゃんと現実と繋がってると再確認できるように感じる。自分が実際に触れる、見る、嗅ぐ、聞くことで構築される世界は、人それぞれに違って、でもそれらの感覚でつながりあっているようにも感じる。一人きりで見たり聞いたりしていても、何かと繋がっているような感覚を味わうことができる。実際に見たり聞いたりする世界から物事を考えはじめたり類推したりすることが今の自分にとってとても大切だと感じた。そして、その向こうに自分には見たり聞いたりできない多様な部分が潜在している。つまり自分は何も知らないということにちゃんと立ち戻ることができる。

2020年4月7日火曜日

潜在する他の選択肢について2 体の観察 2020年4月7日

思考の整理 潜在する他の選択肢について 2 
とはいえ、今の社会システムの中で、複雑に絡み合った経済的な利害関係の中で、遊牧を続ける人たちが抑圧されずに遊牧の生活を続けることがどんなにか難しいか、森で狩猟採集を続ける人たちが抑圧されたり環境を奪われないでいることがどんなに難しいか、複雑に絡み合った経済的な利害の末端には私たちが使っているエネルギーとかパソコンやスマホに使われている部品の素材も含まれているのだろう。別の可能性を秘めた人々の生き方を抑圧しないでいることで、未来の私たちにいろいろな多様な生き方の可能性が開かれるのだとしたら、そこを解決しなければならないだろう。いつまでも解けない凧の糸みたいに、複雑に絡み合った経済的利害関係のうち、自分たちの日常生活に関わっている部分をどうやって解き始めることができるだろう。また「保護」「援助」という名も元に卑しめたり悪用したりすることなく、別の生き方をする人どうしが共存する道は可能なのか?


体の観察
前に武術の稽古をしていた時に私の背中の左側にしっかり筋肉が使えてない部分があるのを再認識した。自分が普段椅子に座って何かを書いたり、パソコンを使ったりする時に右の脇に寄りかかる癖がある。これは子供の頃からだから簡単には治らないし、背中の左右さがものすごいのもわかっているけれど、座っている時にもし両足が床につけられればもう少し左側をしっかり保つと意識して座ることもできる。寄りかかられていた右脇は少し意識的に力を抜いてみる。

2020年4月6日月曜日

ヴァーチャル会話の可能性2 思考の整理 潜在する他の可能性について 2020年4月6日

ZOOMでやれる実験アイデア

・一対一で向き合って、どちらかが相手の体の状態をトレースする。相手の体、重心のかけ方、声帯の状態、細かにトレースして、相手の声を自分から出してしゃべる。
・お互いそれをやったあと、主体を交換してしゃべる。
・一対一で向き合って、相手の体の一部に意識を集中する。集中された方はどこに意識を向けられたかを当てる。
・一対一で向き合って、一人が体の一部に意識を向けて発話する。相手はそれを真似しようとする。あとで答え合わせする。

思考の整理 潜在する他の選択肢について
生物の進化というのは、ある一方方向に進化しているというよりは様々な方向に枝分かれしながら変化し続けていて、人間の視点から見たら人間がもっとも進化したかのように思ってしまいがちだが、枝分かれしたところから様々な変化をどれも遂げていて、どんなに太古からある生物でも適者生存という感じで生息し続けていてそこからどんな変化を遂げるかまだわからない、と言うことはできないだろうか?人の生活の変化は、狩猟採集していたところから農耕、牧畜を経て様々な機械を発明して産業革命と言われる時代を経て、テレビ、電話、洗濯機、コンピューターや携帯電話やスマートホン、AIとどんどん技術が「進歩」してきていて、それは人の可能性を広げていくと感じる一方で、社会のシステムと相まって世界中を均質な文化で覆っていってしまうような恐怖感をもたらしているようにも感じる。それぞれに「進歩」を選択しなかった人々、あるいは状況的にその「進歩」を享受しなかった人たちを、世界を覆う経済的なシステムに巻き込めば、その人たちは「貧しい」人々、「かわいそうな」人々として生きることになるのだろう。でも、もしそのような人々には別の変化の可能性があるとしたらどうだろう?それは人間の生き方の多様性をひとつ広げてくれることになるのではないだろうか?また、「進歩」の道を遡って、どこかに別の枝分かれする可能性を模索することはできないのだろうか?それは逆行するということではなく、いつでも枝分かれする別の可能性は潜在していたのに、その道を切り落とすような、一つの方向性だけを進んでいるような錯覚を持ち続けてきた私たちが、これからの世界を生き抜くための新しい可能性になりはしないだろうか?

2020年4月5日日曜日

ヴァーチャル会話の可能性 テンペルホーフの小さな事件 2020年4月5日

久しぶりに日本の友人たちとZOOMで話をした。全部で7〜8人くらいだったかな。綺麗ごとだけじゃなくてそれぞれに実感してる本音みたいなことを日本語で言える感じがとても久しぶりで、その延長線上でZOOMでやれるアイデアみたいなことを考えることができた。でもそれは、実際に今まで一緒に会って話して一緒にダンスのイベントを立ち上げて、でその間もいろいろなやりとりを見解の違いとか乗り越えて、時には険悪な時もあってもそれも乗り越えて、一緒にお酒を飲める関係を築いてきたからかもしれない。身体感覚の中にリアルな記憶があって、それが話している間に自分で勝手に補完しているような感じ。と同時に、やっぱりどうしようもなく空虚に感じてしまうのは実際にはそこに居ない、一緒に居たいけど、そこに居ないという現実が逆に浮き彫りになってしまうような感覚もあるからかもしれない。例えば昔の人は写真に魂を吸い取られると思っていたという話を聞いたけど、なんとなくその気持ちも少しわかる。でも、「本当は居ない」ことを受け止めつつやれることなら探せるかもしれない。

・身体感覚を共有するネタ 
お互い体の同じところに洗濯バサミで挟んで踊る。
一人が画面の向こうで自分の体の一部を痛めつける。相手がそれを当てる。

・第六感を鍛え合うネタ 
一人が画面の向こうで文字を書く。相手がそれを当てる。
一人が画面の向こうで手に何かを持つ。相手がそれを当てる。

・不在感を逆手に取る
画面上で最初は映像と音声の両方を通して話すけれど、少しずつ情報を限定していく。例えば画面を出さずに声だけにする。あるいは画面は出てるけど筆談にする。画面は出てるけど身振りだけで相手に何かを伝える。画面も出さないで声も出さないで、身振りだけで相手に何かを伝える。

街の観察
久しぶりにテンペルホーフに行った。凧の糸がまだ絡まっていたので、ずっと凧の糸をほぐしながら紅茶とお菓子を口にしながら、息子と「生と死」についての話をした。人は死を受け止めて生きられるのかどうかについて。死ぬ瞬間に死を受け止めるために宗教はあるんだろうなあとか、それが受け止められるのが良い宗教なんだろうなとか、人に殺されても死を受け止められるかどうかとか、「死」も生きることに含められるのかとか、輪廻の考えが死を受け止めやすいのではないかとか。他にも何か哲学的な話をしてたと思うけれど忘れてしまった。しばらくすると、遠くからズンチャズンチャという低い音がリズムを刻んでいるのが聞こえてきた。ドイツの人たちはこういうリズムが好きだよねえとか、話をしていて、もう凧の糸は直らないまま日が沈みかけたのでぼちぼち帰ろうか、と帰りかけた時、自転車に乗っている二人組が止まったままじっと何かを見ている。でも何を見ているのか最初はわからない。他にも止まったまま何かを見ている人がちらほら、見ている方を見てもよくわからない。でも音はどうやらそこから鳴っている。それで少しずつ音の鳴る方に近づいていくと、遠くで人が踊っているのが見えた。最初は赤いマントみたいなのを羽織っている女の人が踊っている。よく見ると芝生に座っている人たちは本当にその踊っている人を凝視している。踊りとして、人に見せるような踊りじゃないけどなあ、何かを見ることにみんな飢えてるのかな?とか思っていたら、実はその周りの人も結構踊っている。人と人の間隔が空いているので、近くに行ってみないとわからなかったけれど、人々はお互いに離れながら、その音に合わせてみんな踊っていた。ちょっと見ている間に、その近くで一輪車に乗っていた人や、スケボーに乗っていた人もあっという間にその踊りに加わって、つまり、一輪車に乗りながらとかスケボーに乗りながらリズムをとって踊り始めた。人々の「飢え」みたいなものが、全く違った種類の人々を同じように揺さぶっていた。見ている人も、笑ったり、リズムをとったりしている。夕暮れの中で、欠乏感を癒してくれる瞬間を心から楽しんでいるように見える。私たちも、それを見ることで、欠乏感が溶けていくように感じた。

2020年4月4日土曜日

感じていること 体の観察 2020年4月4日

直接に人と関わることが少なくなると、必然的にネットを通した人との関わりになってくる。その時に、何かしらの意見の相違とか感情的なやりとりが入ると、実際に関わる時と違ってエネルギー交換みたいなのが起きずに自分の中にわだかまりが溜まってしまうように感じる。人と会って意見の相違みたいなのがあるとき、お互いに納得いくまで喋ったり、言葉や論理以外の部分で何かしら見えない交流みたいなのがあって、それで解消されてしまうことも多いような気がする。ある微生物で、お互いの体の中の液体をただ交換する、というようなやりとりをするものがいると聞いたことがあるけれど、人間も知らない間にそういうようなことをやってる気がする。見えない何かを交換するというようなことを。ただ、まれに離れていてもそういうことが可能な時がある。それはヴァーチャルなやりとりを通してじゃなく、お互いの直感が使われるような感覚に近い。やっぱり第六感みたいな何かはあるなあと思う。

喪失感がある時は、喪失感そのものを味わうことができる。たとえば失恋の経験が詩や歌になるように。

体の観察
頭の後ろの空間が、自分の延長線みたいに感じてそこが紫色のもやが渦巻いているような感じがする。喉に何か引っかかったような違和感がある。喉にしばらくじーっと意識を向けてみる。足がとても冷えている。足に意識を向けてみる。足や手のわずかな脈を感じることができる。と同時に少し冷えが解消される。耳をすます。遠くに雀の声が聞こえる。電車の通る音も聞こえる。

2020年4月3日金曜日

思考の整理 知らないということについて 2020年4月3日

街を観察したり自分の状態を観察したりは続けるとしても、それとは別に今まで思考していたことを少しずつ言葉にして行こうと思う。もちろん、何かの結論を得たということではまったくなく、ただ問い続けているだけで、今起きていることが自分の今まで思考してきたことを刺激して溢れてくるような感覚があるから、そんなときに言葉にしていくのが良いのかもしれない。でも言葉にしてしまうことは怖い。何か認識が甘くて間違ったことを書いてしまうかもしれないし、最近の日本ではそういうことを攻撃の標的にすることも多いように感じる。だけど、ここはひとまず自分の部屋の中だと思うことにする。まだ誰かに向かって語りかける前の言葉として、書いては消して、書いては消してという感じで呟き始めようと思う。といっても今までだってそうだったのだけど。ここ何年かは、ずいぶん自分の中だけに溜め込んでいたようにも思う。

「本当は知らない」ということがとても大切なんだと思う。例えば私は日本の古い芸能に触れる機会がほとんどないまま大人になった。近所の盆踊りはいわゆる近代盆踊りで歌謡曲っぽい盆踊りソングに合わせてみんなで踊った。もちろん懐かしい思い出ではあるけれど。大人になっても、テレビでお祭りやお囃子が映っていても、ほとんど心に引っかかったことがなかった。東京と神奈川の境あたりにある藤野というところに移住して、そこのお囃子を聞くまでは。そのお囃子を最初に聞いた時、ものすごい衝撃が走った。自分が「知ってる」つもりでいた内容であるにもかかわらず、ほとんど「知らなかった」としか言いようがない経験として自分に迫ってきたからだ。
 また、例えば私は子供の頃に東南アジアの国々にたいして間違った先入観を持っていた。「かわいそうな人たちの住む国」だとか「貧しくて不潔な国」だとか。それは今思えばとても恥ずかしい先入観だけれど、誰かがわたしにそのような情報を伝えたという記憶も全くないのに、どうしてそういう先入観を抱いていたのだろう?
 私の予想では、それはテレビと教科書ではないだろうか?テレビで伝えられていることの中に全ての現実があり、そこに映っていないことは「ない」ことになってしまっていたのではないだろうか?また、教科書は日本の全ての小学生、中学生がほぼ同じ内容を読み、学ぶことになる。だからそこに書かれていることが現実の全てであるように錯覚しがちである。しかし、自分が感じていることを元に自分の視点から物事を見ようとしてみると、全く違うものが見えてくる。そして、与えられた知識から勝手に構築してきた像が崩れていく。また、別の人が感じていることを元にしたその人の視点から物事をみることによって、自分の視点を相対化することもできる。視点は動かすことができる。動かすことによって初めて立体的な認識が可能になってくる。
 私は、日本の民俗芸能が、その地域が「日本」という国ではなく、その地域そのものの自治によって人々が生きていた時代から、そこで生きる人々が経験してきたことに反応し、自然に次世代にそれが伝わっていくような生き様があり、その中から慣習を引き継いで来た流れの一つとして今に至っているということに思い至った。「日本」というものの自分勝手な像が崩れて、本当はそういった「線引き」が成り立たないことを知った。そして、近代以降のシステムが現実の全てではないことを知った。それではじめて、日本を含めたアジアの国々の中で、様々な地域で、そのような人々が反応して生きてきた流れを受け継いできた何か(民俗芸能、地域的な信仰、慣習など)に魅了され、自分が失ったものの大きさに愕然とした。自分がそういったものと無縁なのはなぜなのか?という問いから「西洋近代化とはなんだったのか?」とという問いが生じた。

思ったよりなんか硬い文章になってしまった。もっと細かく、物事に分け入りながら手探りしたいのだけれど。やり直しはきく、と自分に言い聞かせながら、日々書いていこう。



2020年4月1日水曜日

街の観察 アートプロジェクトのエピソードと思考の整理 2020年3月31日

今日はあるダンスプロジェクトを行った。というのも、コロナの状況がまだここまでになる前から計画していたパフォーマンスが行えなくなった時、この状況の中で何かしらやれることをやろう、と二人のアーティストと一緒に計画を練ったプロジェクトの2回目の日だったからだ。3人が集まることなく、パフォーマンスを行ったりそれを目撃したりし合える方法を考えた。

1)一人がもう一人のためにインストラクションを作り街のどこかに仕込む。
2)そして、そのインストラクションを探すための指示をFBメッセージで送る。主に場所と時間とシチュエーション。
3)仕込んだ人は、相手が来てパフォーマンスをするはずの場所の見えるところで、(ちょっと遠く)物陰にかくれてその映像を隠し撮りする。

というもので、前回は私が隠し撮りをする役であった。電車を降りるところから隠し撮りしようと張っていたら、見つけ損なって、慌ててインストラクションを隠している場所に行ってみるともうなくなっていた。それで焦って後を追ったら追いついて、そこから隠し撮りしたけれどバレバレだったのではないだろうか?

今回は私がインストラクションを探し当ててパフォーマンスする役だった。それで、指示された場所まで行って、その指示に従ってお店で飲み物を買い、それを飲みながらインストラクションが隠されているはずの場所まで行くと、コンクリートの壁にわかりやすくインストラクションが貼ってあった。ものすごくワクワクした。それをはがして読んでみると、そこから少し進んだ駐車場で、お店で買い物したエピソードをテーマに踊るように指示が書いてあった。その場所に行って踊ろうとすると、急に犬の散歩に出てきたおばさんと鉢合わせしたので、やりすごしてから踊り始めた。どこから隠し撮りされているかわからない。同じフレーズを何回も踊って、最後にピルエットで終えるように指示があったのスパッときめてストップモーションしたら。うしろから拍手が聞こえた。てっきり撮影してくれてる友人だと思っておもわず手に持っていたコーヒーをあげてみたら、アパートの窓から私を見ていたのは全く知らないおじさんだった。

なんか、クリエイティブなことに飢えていたので、小さな奇跡がすごく体に沁みてちょっと涙が出た。でも、どこかから友人が撮影していると信じ、とにかく帰って行った。

家に到着すると、友人が私を撮影した映像を送ってくれていた。しかし、撮影していた場所から、ちょうど私が踊ってた場所が見えなくて、完全に私が見えない状態で、その場所に進む私と、帰る私しか写っていなかった。大笑いした。結局、私の踊りは、見ず知らずのおじさんのためのダンスになっていた。それはそれで何かの奇跡のようだ。

その場所に行くまでに電車の中でごっついマスクをしている人が数人いた。マスクのごっつさからいって、実際に風邪を引いている人のように見えた。それで、なんとなく電車の中に緊張感が走っているように感じた。私も、街を歩きながら人と距離を開ける感覚が自然に身についてきた。いいことのような、怖いことのような。でも、お店でコーヒーを買った時にその前で立ち話している人や、お店の人の雰囲気は柔和でたのしかった。駅構内で、演奏する人がいたり、物乞いする人が少しだけどいる。

人が、直接人に会うことの効果について、それがもぎ取られることによって起こることについて考え続けている。
今のヨーロッパでの規制は、本当に必要な措置として受け止めている。けれども、それによって感じること、喪失感、悲しみ、危機感をないことにするわけにはいかない、とも思う。また、規制の中での別の可能性について、それも「推奨」されていることでない創造性の発露を決して諦めてはいけないとも思う。

2020年3月27日金曜日

街と体の観察 感じていること テンペルホーフで見た人々の小さな変化 2020年3月26日

今日もまた、自転車でテンペルホーフに行った。
人ができるだけ少ない場所に行って、息子が凧揚げを始めたので、私はシートの上で紅茶を飲みながらそれを眺めていた。ここ数日、おそらく一週間くらい信じられないほど良い天気が続いていて、今日も気持ちよく空が晴れて、風がとても強くて凧揚げにはもってこいだった。しばらく、夢中になって息子が喋りながら凧を揚げていたのだが、突然「あっ!切れちゃった!」と声を揚げたので息子が見てる方を見ると、凧の糸が切れたらしく、ものすごーく遠くに凧が飛んで行くのが見えた。息子は慌てて凧を追いかけていって、どうやらドッグラン(犬を遊ばせる広場)の中に落ちたらしく、声をかけて拾ってもらって帰ってきた。そうしたら糸がものすごく絡んでいたので、二人で糸を解き始めたがなかなか進まない、やってもやっても絡んでいるところがなくならない。凧を揚げてる時間より糸を解いている時間の方が長いくらいだ。だんだん日も暮れてきた。そして、よく見ると、なんだかテンペルホーフにいる人たちが、コロナの騒ぎで規制が始まる前のようなとてもリラックスした雰囲気になっていることに気がついた。昨日までとは様子が違う。どうしてかはわからないけれど。よく見ると4人組や3人組もいる。規制が入ってから、私も息子も、道行く人が何人連れかをチェックする癖がついてしまった。ベルリンの人たちがどのくらい規制を忠実に守ろうとするか?とか、ベルリンの人たちの生態を観察するのが私たちの習慣になってしまっているからだろう。もともとベルリンでは本当にいろいろな種類の人が生きているということを実感できる。特に、人目を気にせず面白い振る舞いをする人たちを見るのがとても好きなのだが、最近は緊張感がまして、人と人が目を合わして挨拶することも少なくなったり、笑い合うことも少なくなって、とにかく距離を測ることに神経を費やしているような印象だったのだ。けれども今日の夕暮れのテンペルホーフで、あのうっとりするような人々のざわめきが帰ってきた。それは夕暮れの野原と風と共に私たちを包み込んでとても幸せな気持ちにする。それはヴァーチャルな共感とは全く違って、また意識的に「連帯」することとも全く違って、全く別々の人生の、別々の目的の、いつか語り合うことも、再会することもないであろう人々のざわめきなんだけどその中にいると本当に幸せな気持ちになる。その間に漂っているものはいったいなんだろう?私の中にあった緊張や欠乏感がうそのように溶けていくのを感じた。本当に何気ないただのひとときが、自分を生かしている。

体の観察
自転車に長く乗ったせいで少し痛くなったお尻に意識を向けてみる。腰が少しこわばっている。意識的に腰を緩めると腸がすこしグルグルと動いている。首に意識を向けると、首が時々反射的に痙攣する。力を意識的に抜くと、大きな息が入ってきて、深い呼吸がおこった。

2020年3月26日木曜日

街の観察 感じてること 体の観察 2020年3月25日 

日々、体の観察を基本にしようと思っていたのに、状況や人の言葉に翻弄されてしまうような感じになっている。本来日記というものは人に見せる目的ではなく自分との対話のためのものなのに、それを公開するというのもなんかおかしな話だ。でも、自分と対話しながら何かをアウトプットするということが自分に必要なのだろうか?

自転車のタイヤの空気が抜けていたので、近所の自転車屋さんに空気入れを買いに行ったとき、ものすごくたくさんの人が自転車を求めてきていた。もしかしたら、電車が運行を中止する可能性があって、あるいはそう人々が予想して自転車を買い求めにきたのかもしれない、とふと思った。

その自転車で今日はテンペルホーフに行った。久しぶりに自転車に乗ったら、慣れていないものだからとても疲れた。でも良い運動になった。いつものように卓球がやりたくて、卓球台のある場所まで行ったら、卓球台の周りに鉄の柵が張り巡らされていて、張り紙があり、コロナウイルス蔓延の心配があるので封鎖するということだ。こうなったら、テンペルホーフ自体の閉鎖もありうるかもしれないと、覚悟しておこう。最終的には外出禁止までいく可能性すらあることを覚悟しておこう。

本当に大切なことは、誰かに見られていることを意識せず書ける場所に書くべきかもしれない。自分との対話から物事を見るには深く潜らなくてはならないから。

ただ、夢想する。人が自分なりの感じ方や考え方でいろいろな工夫をする余地のある世界、それらが人によってそれぞれ違って互いに正しさを主張せずにすむ世界、それによって、互いに視点を動かして物事を見ることで、いろいろな可能性が開かれる世界を。

そのためにはまず自分が視点を動かし始めなければとも思う。そして、この先のことを考えよう。たとえ、様々な状況の変化の渦に投げ込まれたとしても、その中でどう生き抜くかについて。

体の観察
珍しく肩の力がすっかり抜けて腕がすっきりとしている。頭も、顎の周りも力が抜けているから、口の中の唾液が潤沢にある。全身の血管が小さく脈打っているのを感じる。その脈の音が聞こえるような気がする。

2020年3月25日水曜日

街の観察 感じてること 人とは違う生理的恐怖について 2020年3月24日

昨日の夜「サバイバルファミリー」という映画を見た。或る日突然電気が使えなくなるという設定のパニックものだが、映画の中では情報が全く入らなくなるし、次に状況がどう変わるか全く予測がつかないので人々は自分の感覚をフル活用して、あるいはどうなる可能性があるかを予測しながら各自が自分の判断で動く。独自に判断した人ほど、安全を確保するのが早くなるような感じで、指示や変化を待っていることによって事態が悪化する。パソコンもスマホも全く使えなくなって、全身の感覚を使って生き残るための判断を見つける感じだ。今はその逆で、独自に判断してはいけない。全身の感覚を使うリアルな世界から切り離され、また人との関わりもオンラインのみになり、パソコンやスマホの中に世界があるようにそこでのやりとりを生きる。

今日は昨日より精神状態が良いようで午前中に英語の勉強とかフローティングボトルのウェブでのまとめに関することをやったりして過ごし、午後はホームセンターに行った。どんどんお店が閉まっていくので開いているお店は本当に貴重だ。でもいつ閉まるかわからない。人が店の前にたむろしているなあと思って見ていたら、入場制限があってお店の前で列を作って待っているらしかった。しかし、人と人の間が1.5メートル離れているので並んでいることに気づくまでに時間がかかった。

人々がみんな私のように感じているわけでは当然なく、問題なくこの状況を楽しんでいる人や、引きこもるのが楽しいから大丈夫という人も少なくない。また、必要な施策だと理解できれば苦痛はないと感じている人も多いかもしれない。人によって、何に対して反応するかは違ってくるので当然だ。私の場合はおそらく、一つの目的のために同じルールを全員で守る、しかもそのルールが段階を踏んで厳しくなるという状況がとても苦手なのだと思う(この部分だけ見るとまるで2018年に初演した『点にダイブ』のようだ)。この施策は必要なことだと頭で理解できていても、生理的な恐怖感みたいなものがあるのかもしれない。また、人と人の間から立ち上がる何かが人を支えるように感じることが多く、ベルリンの街ではフェイスブックではきっと絶対友達にならないような、繋がらないような種類の人たちであっても、「間」の感覚を分かち合ってるような気持ちで生きてこれたということかもしれない。だから、「切り離されている」という感覚がとても強い。ネットで繋がるというのとは全く別の種類の共有感というものについて考えさせられる。今私が求めていることは、魂に水をやるようなこと。魂に触れる「人の正直さ」みたいなものなのかもしれない。
でもだいぶ落ち着いてきた。また、こういう状況を経過することが自分にとって必要だったのだとも思っている。

自分の危機感を察知していろいろな人がメッセージやコメントをくれてとても心強く暖かく感じている。そういう意味でもちろんネットでの繋がりも本当に助けになっている。

2020年3月24日火曜日

街の観察 体の観察 精神的な危機の予兆 2020年3月23日

ベルリンでは日々、禁止事項や注意事項が追加されていく。特に、人と会えないという方向の禁止事項というのは本当に人を疲弊させる。というか、その閉塞性がエネルギーを奪い、体温が下がってくるような無力感を感じてしまう。人が何によって「生きて」いるのかを痛感する。このある意味での「飢え」のような状況の中で、自分を「生かそう」とするときに出てくる創造性を信じることで、この状況を切り抜けたい。
例えば、家から出ないで自分の好きなことを家でやるというのは、今までにも経験があり、むしろ家にいたいとさえ思ったりもした。実際ほとんど外に出て人に会うことをしなかった時期もあったかもしれない。しかし、禁止されるというのはそれとは全く違った種類の心理的恐怖を与えるもので、それは呪術的な効果と言っても過言ではないかもしれない。

昨日はテンペルホーフフェルドという広場に行って久しぶりに息子と卓球をし、草の上でお茶を飲んだりおやつを食べたりした。その時に、他の人たちは家族や友人で三々五々集まってビールを飲んだりコーヒーを飲んだりしながら楽しんでいた。あるグループはきっちり1.5メートル離れて座って話していた。信号待ちでは人々は互いに1.5メートル離れて待っている。この状況でできることはしながら、自分の心を満たす行為をしているように見えた。こうやってなんとかやり過ごせたらいいと思っていたけれど、3人以上集まってはいけないということが決まったらしい。人々の精神的な苦痛は計り知れないと感じている。その状況が終わる日程が、せめてわかればいいのだけれど。

体の観察
両方の手首から力が抜けてくるような感じがある。呼吸に意識を向けていくと指先に血が戻ってくるような感じがある。心理的な状況と血液の関係を感じる。両肩の付け根が少し縮んでいる。

今日も、自分が追い詰められたような精神状態になっていく感じがやばいと感じ始めていて、パソコンでの作業がどうしても手につかなかったのでテンペルホーフに向かった。その途中で、昨日まではあったレストランの通り沿いの椅子や机がすべて撤去されていた。トルコ系のお店が多く、その前に呆然と立ち尽くしているトルコの人たち。みんな立ち話したり立って食べたりしている。昨日まではまだ笑顔があった人たちの顔に血の気がない。それをみて、自分にそれが跳ね返ってくる。人と会ったり喋ったりするということが人に与えるエネルギーの大きさに愕然とする。そんな憂鬱な気分でテンペルホーフに到着してみると、人々は二人ずつの友人同士かあるいは家族のみになっている。草原に寝転んで、雲ひとつない空に羽ばたく息子があげている凧の鷲を眺めながら、その近くでたった一人でギターを弾きながら歌っている人の声を聞く。生演奏がこんなに胸にしみるのは何年ぶりだろうか?そのあと、卓球する場所に行くとそのテーブルは使われていてなかなかあかない。あきらめて帰りかけたとき、やっとテーブルがあいて卓球をしてみると、一気に気分が晴れてくる。いままで、卓球なんて求めてやったこともないのに、今の私にとってこれなしでは生きていけないほどに飢えていた感じがする。いったい私は何に飢えているのだろう?

体の観察
昼間に比べるとだいぶ落ち着いている。外に出たり卓球をやることの効果が自分に絶大なことに驚く。体は疲れているが、状況を受け入れる準備が少しずつ進んで来ているような気がする。また、息子の存在にとても助けられている。


2020年3月20日金曜日

街の観察 感じてると 体の観察 2020年3月20日

街の観察
メルケル首相からドイツ国民へのメッセージで、人と人の間隔を空けてください、1.5メートル!というのがあって、人々にその注意が少しずつ行き渡ってきているような気がする。たとえば、昨日はスーパーのレジの前、人が並ぶ所の床に、1.5メートル感覚のテープが貼ってあった。まるで高速道路での車間距離みたいに。あるレジでは人々がそれを無視しているが、あるレジでは人々がそれを順守している。まだばらつきはあるものの、その前の日に電車に乗った時も人との距離をとってる感じがあった。こういう人々の自由が一斉に束縛されるようなときには、信頼する人が本当に一人一人のことを考えて行われている政策だと思わないと心理的に受け止められないものだけど、メルケルさんは、かなり信頼されていると実感する。また、ドイツの人たちはルールを守るのが好き、ということを聞いたことがあるけれど、そういう国民性みたいなものもあるのかもしれない。公共のためにルールを守るというもちろん意味だけれど。状況によってはそれがとてお窮屈に感じるけれど、今はそれが功を奏するのではないだろうか。あと、FB上でドイツ語での宣伝でマスクが登場した。これもすごい。ヨーロッパでのマスクは黒なんだね。ベルリンの人たちがみんなマスクつけるようになったら、いよいよすごい自体だ。

表面的なことだけでなく、深い井戸の底に降りていくように、街や人々を眺められないだろうか?そのためには、自分の体の状態や、感度が重要になってくる。

また、感が良いとか悪いとかの「感」とはなんだろう?第六感?経験の延長線上でその感が働く場面は思いつく。例えば、料理の塩加減とか計らなくても、料理自体の量が違ってもだいたいわかってくる。そういう、感を磨いていくことでできることを少し考えたい。

体の観察
深呼吸して、その空気がとても気持ちよく体に入ってくるのを感じる。呼吸の方法だけで自分の状態をだいぶ変えられる気がしている。匂いを嗅ぐように呼吸をしてみる。匂いを特別嗅いでるかんじではないけれど、良い匂いを嗅いでいるような気分になる。また、吐き方、息を吐く時に体全身に細かくいきわたるように意識すると、全身に細かい気泡が入ったように柔らかくなる。まずい、続けていると瞑想状態になって…キーボードが打てなくなってくる…

2020年3月19日木曜日

街の観察 感じてること 体の観察 2020年3月19日

街の観察
昨日、久しぶりに一駅だけ電車に乗って買い物に行った。電車の中では、基本的に人は黙って離れて座っている。一箇所だけお酒を片手に、飲みながら二人でおしゃべりしながら大笑いをしている男性がいた。買い物をしている人々の様子は比較的普通に見えた。外で、男性同士が肘をくっつけ合う挨拶をしていた。そういうのも馴染んでいけば普通になってくるのかもしれない。新しい発想を行き渡らせるのがヨーロッパでは早いようにも思う。

感じていること、考えていることの観察
太極拳で、オンラインでのレッスンがあると言うが、あまり乗り気になれない。こういう状況だとインターネットでのいろいろな工夫が展開しているが、なぜか、今、そういう流れに心が動かされない。というかどちらかというと、力が抜けていくような無力感が生まれてしまう。なぜだろう。

こういう時だからこそできる工夫をしたいと思って数日前にはとてもエネルギーが湧いてくる感じがあったけれど、インターネットの情報を見ているうちに、あるいはインターネットでの展開をみているうちに、何かそういこととコミットできない孤立感みたいなのを感じ始めている。

新しい状況に変わってくるときに最初にわくわくしたとき、何かしら今までの世界の中で死角の中にいたような人たちや物事が少しずつ浮かび上がってきて、新しい動きを見出すことができるのではないか?というようなことを考えていたような気がする。けれども、今のところ見えるのは、やっぱり今までと変わらずお行儀の良いおりこうさんな人たちの誘導でものごとが提案され、提示され、広まっていく世界にすぎない。それを、受け入れればそれなりに楽しい時期として受け止められるかもしれないけれど、なにかそれに心が乗っかっていかない。

とはいえ、この時期に大きな枠組みがぐらぐらと揺らいで、あるいは意識的に作りかえられて、思った以上に状況が大きく変わっていくだろうということも予想できる。何がどう変わっていくのだろう?それが良い方に変わっていけばもちろん言うことはないけれど。たとえば産業のありかた、経済のあり方、働き方、環境との関係、生活スタイル。
人とともに変えていけること、大きな組織の代表者が変えること、個々の意識の変化が大きな組織の決定を揺るがすこと、状況の変化に応じてなし崩し的に変化していくこと、自分一人だけで決意して変えていけること、それらが複合的に組み合っていくのだろう。
ネットの状況をみるだけで何かをわかったような気にならないことも大切かもしれない、と自戒してみる。

体の観察
喉のあたりの意識を緩めてみる。口の中に唾液が戻ってくる。
家にいる時間がながくなるにつれ、腰が少し痛くなる。部屋が狭く感じてくる。両肩に力が入っている。そこに意識を向け続けると呼吸が少し深くなって姿勢もよくなってくる。

2020年3月18日水曜日

街の観察 をしてる自分の観察 2020年3月17日

コロナウイルスに関してそれぞれの国々の対応がだいたい2種類くらいの違った方法で選択されているような感じだろうか?出揃ってきた。政府機関がそれらを判断するのにも時間がかかる。初めての事が多くて、本当に何が正しいかは後になってみないとわからないことが多いだろう。個々人の感じ方、考え方は違うけれど、こういうときは感じ方を置いておいて決められたルールに従わざるを得ない。だからこそ、自分が感じている事や、そこから類推できる事を自分から手放さないようにしなければならないとも思う。なぜなら、この状況が長く続いていけば、自分でものごとを判断してはいけないと考える癖がついてしまうかもしれないのが怖いから。「公共のモラルとして今自分に課されていること」と「自分が感じていることから見出された内なる基準みたいなもの」のズレをとにかく観察しながら、また友人との対話を通じて自分の感じている事や考えている事を対象化しながら、今の時期にできる自分の学びみたいなものを獲得したい。

感覚的な判断は否定せざるを得ず、専門機関がカウントされた数字やシミュレーションを元にしたデータが真実を告げていると信じなければならない状況の中で、また専門家によって違った見方と判断がある。

けれども、何が真実かを問う前に起きていることが自分にもたらす感覚、感情、思考というものがあり、それは受け取り手それぞれに独自なものだ。そして、それらの物事から何かを学ぶ事は誰にでもできる。何かが起きているときそれは全体に対してであるように見えて、個々に語りかける声でもある。その声に耳を傾けて、あらためて観察してみたい。

街の観察
友人とお茶をしながら情報交換して、ベルリンの人たちは思った以上に「外に出歩かずにじっとしているべきだ」と思っている人が多いのかもしれないと思った。けれども、実際街を歩いているとリラックスして人と交流している人が普段と変わらない程度いるように見える。カフェは日本人の方がカウンターにいて、彼女とのちょっとした会話がとっても癒される。直接人に会う効果みたいなものを強烈に感じてしまった。カフェの中は机と机が指示通り離れて置いてあり、何人かがお茶している。通りに面した席は人でいっぱいだ。スーパーの前で偶然知人にあって情報交換すると、やっぱり、また違った感じを持っているのがわかったり。やっぱり人によって、かなり感じ方考え方は違うのかもしれない。友人と別れて、駅の陸橋で背中に夕日を浴びながらしばし佇む。向かい側のSバーン入り口あたりで男性がギターを奏でている。道路の真ん中にある柵にはたくさんのイベントのポスターがあり、3月、4月のもう行われなくなったイベントのエネルギッシュな宣伝文句が並んでいる。ギターを奏でていた男性の所に行って投げ銭をすると、とても嬉しそうな笑顔を向けてくれた。そういうのも、なんか癒される。

自分の観察
何かが喉にひっかかったように違和感を持っている。こういうときは、自分の中に何かしらのわだかまりがあるときが多い。具体的に何にたいしてかよくわからないわだかまりがあって、それを言葉にするのも難しい感じ。自分の中にあるその違和感がなんなのか?これからゆっくり観察したい。両肩が少し内側に縮んできている。ネットとの距離の取り方が必要だと感じている。考え方の違い以上に感情みたいなものに反応してしまうのが苦痛だと感じている。

2020年3月17日火曜日

街の観察 をしてる自分の観察  2020年3月16日

街の観察 をしてる自分の観察

今日は様々なイベント、劇場、美術館、図書館、学校などなど、閉鎖が続くベルリンの街を観察しよう〜!という最初の日としてちょっとウキウキと出かけた。ここはハーマンストラーセでトルコ街という感じ。夕暮れの、でもまだ日が残っている街並みはいつも通りにリラックスした人々が行き交っていた。人々の様子に何も変わったところはなく、店も普通にやっていて、今日は暖かいので人々は通りに出ているテーブルを囲んでお茶を飲んだりしている。ただ、お店は座席を少なめにして距離を置いたり、内と外の敷居を外して外気を入れたりしている。テンペリホーフフェルドという、空港後の広場まで歩く道すがら、3種類の紫色の花を見た。一つは直径1.5センチくらい、細長い花びら6枚、丈は3センチくらい、木の周りの地面に群れをなして咲いている姿はとても美しかった。もう一つは同じく直径1.5センチくらいで丸っぽい花びら5枚、葉っぱも少し太め楕円形のような葉っぱ。丈はやはり3センチくらい。これは通りの脇に咲いていた。もう一つは花びらが上に向かって中を包むような具合に生えている花の高さだけで2センチくらい、下の茎の部分は4センチくらい。長細い葉っぱが生えていて、この花は紫の色が少し赤みがかっている。テンペルホーフは相変わらずまったりの神様がいるんじゃないかというくらいにまったりとした人々の楽しむ声が全体に漂っていて深呼吸をすると特別な効果があるようにさえ感じる。テンペルホーフからの帰りに、切り株の上に動物のウンチを発見。細長くて黒い長さ2センチくらいのが数本のウンチ、誰のウンチかな?リス?匂いをかぎたかったけど、周りの人の目を気にしてできなかった…。まだまだだな…。

観察する感度をあげて、あるいは解像度をあげて、あるいは深度をあげて、日常の中の秘境みたいなものをみたいという気持ちがあるのだが、一人でただ散歩するだけでは今のところあまりそういう効果がない。

STスポットでやっていた「民俗芸能調査クラブ」のときに島くんや武田力くんらの実験で建物の外に出て観察をしたときは、景色が普段と全く違って見えたんだけどなあ。すごく新鮮な驚きで満ちていたんだけどなあ。あんな風に、自分の状態が研ぎ澄まされるために何が必要だったのか、、、思い出せない。

でもとりあえずまた明日歩いてみよう。少し電車に乗ってみるか、まだ空いているカフェにじっと座って人々を眺めてみようか…。

今日は息子が春休み(の前のコロナのための休み)の前の最後の学校だったので、カレーを一緒に作ってこれから食べる。珍しく宿題プラス春休み終わりのテストプレッシャーがあるけど、休みが長くなってとてもうれしそう。

2020年3月16日月曜日

自分の観察 2020年3月15日 エネルギーが渦巻いている

ベルリンは徹底していろいろな施設を閉めて、飲食店にも制限がついて、これからいまだかつてない状況が始まると感じている。夜は、もしかしたら星がたくさん見れるくらいに暗くなるかもしれない。明日から、少しずつ街の観察をしていきたい。友人たちとの交流はどれくらい可能なのか?こういった状況で生まれるクリエーションの可能性について何か考えたいという内側から湧き出る気持ちが生まれている。

自分の観察
自分の体の真ん中あたりに、何かエネルギーが渦巻いているのを感じる。床についている足が少し冷えている。自分の周り、背中側にふわっとした暖かさというか眩しさみたいなものを感じている。こういう状況で、自分の中にある声や言葉が、何かにつなげられる方法を見つけられるのじゃないだろうか?というちょっと興奮した気持ち。でももう少し落ち着こう。落ち着いてやろう。

部屋の観察
今日はずっと気になっていた電子機器類の埃などを取り除いて部屋も台所もトイレも廊下も一斉に掃除した。これからはこまめに、観察したあとに気になるところを掃除したり片付けたりしよう。といつも思うけど続かない。でもこの日記を書いていればそれが助けになるかもしれない。2日間晴れたので、そのせいもあってとても爽やか。

2020年3月14日土曜日

自分の観察 2020年3月13日 机の傷をサインとして読み取ってみる

ベルリンでは今までマスクをする人の姿をほとんど見なかったんだけど、今日スーパーで2人見かけた。これはなんかすごい変化が始まったのかもしれないと思ってしまった。息子も学校で一人見かけたそうだ。マスクをしている人が、うつさないようにと思ってか、自分がうつらないようにと思ってか、それはわからないけれど。

昨日の夜ちょっとしたことで目が覚めてから眠れない時間が長かったせいで、血流が悪いような感じがする。

自分の観察
後頭部、首筋、肩のあたりが何か滞った感じがする。でもそこにじーっと意識を向けているとくぐもった感じが少しだけ晴れてくるような感じがある。一番の要は肩甲骨の少し上の背骨で鈍いグレーな感じが覆っていて感覚が鈍い。と思ってじっと意識を向けてると今度はその感じが胃の裏あたりに移ってきた。そのあたりの背骨の左側の筋が長細く自己主張している。これを書いていると息子が左の肩をぎゅっと掴んだんだけどそこがすごいツボで、痛きもちいポイントで、息子はいつも私の体に何気なく触ったり押したりしたところがだいたい、今マッサージの必要な場所であることが多い。

部屋の観察
昨日は、スタジオの部屋でいろいろな場所をサインとして読み取ることをしながら、部屋の解像度がどんどん上がっていったので、今自分のいる机の上を見つめてみる。そこにはいろいろな傷がついている。体と違って机の傷は自己治癒をしないからずっと残っている。何かの履歴みたいだ。誰かがそこで作業をした、その時間を刻んでいる。
人の中にある傷も、その人が作業をした痕跡みたいに本当はそこに残っているのかもしれない。でもそれが目に入らないだけ。でもその傷に意識を向けるとそれは生きていて自分に何かを語りかけてくるのかもしれない。
もしこれが昔からの自分の机ならその傷は自分に何かを語りかけてくるのかもしれない。私が昔使っていた机は今どこに行ったのだろう。今誰かが使っているなら、私がつけた机の傷はその人の顔を見つめているのだろうか?

2020年3月12日木曜日

自分の観察 2020年3月12日 苦難の中の良い兆候

昨日、電車に乗って毎週行っている劇場のスタジオに行くと、劇場の周りの少し木や草が生えているところがあって、もう「春ですよ〜」と言わんばかりに鳥がさえずり桜が咲き(多分桜だと思う)リスが走り回っている。そして、気がつくといつもものすごく汚かった駅がとても綺麗になっている。これはコロナの影響で一斉に清掃でもしたのだろうか?
また、イベント中止の勧告が出されているけれど、私や友人が企画している小規模なものは大丈夫かしら?基本的に人数の多さが基準になっているようだ。

今日はうってかわってすごい風。晴れたり曇ったりを繰り返している。雲がすごい速さで空を流れている。

20日に行うパフォーマンスのために友人とリハーサルをして、何もない部屋の様々な痕跡、床の傷や窓に貼られたテープ、机の上のコーヒーのしみ、などなど、様々なものをサインとして読み取りながら歌にする。情報なんてなにもないような空っぽの部屋の解像度がどんどん上がっていく不思議。

ネットではいろいろな人が苦しみながらも、自分の意識を新たな可能性に展開させている様子が見えてくる。本当に苦しい時、自分を、自分たちを救おうとする瞬間に、新たな可能性が開かれるのかもしれない。今まで見えてなかった死角に光が当たるような瞬間ともいえる。そこに希望を見いだすことはできるかもしれない。

体の観察
額の真ん中あたり何かがあって、目を動かすとその感じが変化する。腰の後ろ側が少し重い首の後ろあたり、頚椎が突っ張ってるように感じたところの力を抜くと顎関節の力も抜けて唾液が戻ってくる。それが腰にも良い影響を与えているように感じる。こうやって、観察しながらパソコンを打っていると、多少効率は悪いけれど体にとっては良い感じ。

部屋の観察
毎日のように部屋の観察をすることが自分でわかっているので、散らからないように少しずつ気をつけるようになってきた。観察の良い効果と思われる。今は陽の光が燦々と部屋を明るく暖かくしてくれている。洗濯機の回る音、道路を車が走る音は遠くに聞こえる。ときどき部屋がきしるような音も聞こえる。








2020年3月10日火曜日

自分の観察 2020年3月10日

1日観察さぼってしまったけれど気を取り直してぼちぼち続けましょう。
昨日は週2回の太極拳の日で、体の重さをすべて足のほうに流していくことで、体重移動したときでも、両足にむけてその流れがいつもあり、どちらの足の重さをも失わないようにする練習をしていて、それがとても難しくて、ものすごくゆっくりその重さを観察しながらやったら、先生に「何かに意識を向けた状態でやらないで」と言われてしまった。でも、やってることが難しいからそれに集中していたと言ったらもちろん理解してくれたけど、太極拳は私の観察の手法では手に負えないところが確かにある。

自分の課題について少し思いついたことを書く。
相手からどう見られているか?という意識は人によっていろいろな強弱があると思うけれど、ある観点から見た「正しさ」で自分が計られていると感じるときに、また、それが複数人からの視線であるときに、私はとても息苦しさを感じる。それだけじゃなく、自分自身で、その「正しさ」の尺度から自分を計ってしまうということが起きてそれをやめたいと思ってもやめることが難しいということが起きる。と同時に苦しいからいろいろな怒りが噴き出してくる。そんなときに、観察によってその尺度の「正しさ」フィルターを等身大の自分の側から観察するということができるといいなとずっと思い続けてきたけれど、いざとなるととても難しい。自分を観察し続けることで、なんとなくそれに向き合えるんじゃないか?と少し希望を持ってきた。

自分の観察
朝だからかもしれないが、鎖骨の上あたりと、両足の付け根に鈍い痛みというか滞りがある。リンパ腺みたいなところかもしれない。座っている腰の体重のかけ方を少し変えると滞りの感じが少し変化する。よく観察すると首の後ろの骨にも滞りを感じる。これも、少し首の角度を変えると楽になる。両肩が内側に閉じ気味。胸骨にも鈍い滞りの痛みを感じる。

部屋の観察
雨がバルコニーのビニールシートに当たるポツポツという音が聞こえる。プリンターやスピーカーに埃がたまっている。このパソコンの画面よりのボタンのところにもだいぶ埃が溜まっている。スズメの声が聞こえる。スズメの鳴き方が日本に比べると少し長いトーンでチューンチューンと聞こえる。もしやスズメじゃないのか?

2020年3月9日月曜日

自分の観察 2020年3月8日

今日は息子がパソコンを独占していたので、さっきまで台所で肉じゃがを作りながらメモを片手に観察していた。

自分の観察
台所で野菜を切ったりしているとき、右足の裏をほんの少し浮かせる癖があるが、今日もそうなっている。右足の付け根が縮まってしまう癖があるのかもしれない。あるいは背骨の歪みのせいかもしれない。
右足の裏を意識していると、少しずつ右足が床に密着していく。
そのあと上半身を右に捻りたい感じがして、少しだけねじっていくと、今度は左脇を伸ばしたい衝動に駆られて少しだけ伸ばす。このとき、尾骨に少しだけ小さな痛みが走る。首の両脇は万年的に少し凝っている。
観察を続けていくと、背骨が少し伸びたような感じがして、首のあたりがポキっと鳴る。歯の噛み合わせが少しよくなったような気がする。唾液が戻ってくる感じがする。

部屋のと心の部屋の観察
最近は少しずつ部屋に意識を持っていく癖ができて少しずつ整理ができている物の、いつも紙にメモを書き付けて机の上に積み重ねてしまうので、そこが地層みたいに溜まっていく。いつになったら整理できるのやら。明日から、様々なやらなければいけない書類仕事、ウェブ仕事、銀行での振り込みいろいろあるけれど、そういったことが頭の中で散らかっていると、焦るわりに全然進まないのがわかっているので、明日、気合を入れて優先順位を決めて整理しよう。ひとつひとつ、楽しんでこなせるように自分を整えないと…。

2020年3月8日日曜日

自分の観察 2020年3月7日

定期的に自分の体に意識を向けて観察することで、日々の基本的な落ち着きが戻ってきた気がする。

ネットでの人々の見解の違いみたいなものが、それぞれの人の「恐怖を感じるポイント」の違いなんじゃないかとふと思った。例えば、コロナウイルスの重症化や致死率にたいして恐怖を感じるひと、コロナウイルスのまだ不明な部分がたくさんあることへの恐怖、間違った情報によって事態が悪化することへの恐怖、経済的な危機への恐怖、医療的な抗生物質の開発が加速することでウイルスの変化も加速することへの恐怖、不安を煽られることによって人々が冷静でなくなることへの恐怖などなどキリがないけれど、またそれらが複雑に絡み合っていると想像できる。私の場合、「情報の正解は一つである」と人々が思うようになり、それ以外の正しくない情報への恐怖が高まったり、その延長線上で情報を統制することを人々が望むようになる可能性について、怖いと感じているのだと気づいた。そのポイントが違うことを共に理解しあえれば、それぞれにもう少し緊張感が和らぐのかもしれない。

体の観察
自分が手を置いているパソコンと机の接点に意識を向けて、そこから床、壁自分の背後にも意識を向けてみる。時々、心臓がドキドキと鼓動が大きく感じる。そんな時はそこに意識を向けて観察してみる。息を吐く時に、背中の一番背骨が硬く歪んでいるところに吐きかけて、力を抜くことができることを発見。

部屋の観察
息子のピアノ練習の音。車が道路を行く音は昨日より小さく明るく響いている。その音が時々とても小さくなって、あたりがシーンとなる。時計の音が聞こえる。

2020年3月7日土曜日

自分の観察 2020年3月6日

ネットで情報を集めようとすればするほど、肩に力が入って精神状態が悪化してきた。なので、もう一度体を観察することにして、深呼吸をしていったら、ちょっとした執着状態が解放されてくる。特に頭の両側面あたりの興奮状態みたいのものが和らいでくる。ネットの情報は顔が見えない他者のパーソナリティーや、匿名性や、正当性の有無のような何かが自分の何かしらの身体的、精神的反応を引き起こしてしまう。それらをもう少し和らげることができないとシンドイのかもしれない。また、それが本で情報をみつけるのとはちょっと違った点なのかもしれない。テレビの場合はまた違ったストレスがあるのだろうけれど。

体の観察
目の周りの今は緩んでいる筋肉をよくよく観察してみる。側頭部が興奮して感じるときは目の周りの血の巡りがとても悪くなっているような気がする。
ついでに耳を澄ませて音を聞いてみる。遠くの車の走る音が何かに反響してゴワーっと淡い音を響かせている。それが雨の音に混じっていてぼやけている。息子がボードゲームのアイデアをノートに書いていて、その書いている鉛筆が床になんども落ちる音が聞こえる。色鉛筆をいろいろ取り替えながら描いているのか、なんどもなんどもコロコロと音がなる。筆箱のなかの色鉛筆がカラカラなる音が聞こえる。時計の音が聞こえる。

部屋の観察
パソコンにだけ向かっていると、周りが見えなくなって部屋が見えなくなっていることが多いことに気づく。時々、改めて部屋をじっと見てみると、自分の死角になっているものがいろいろ見えてくる。いつも死角になってる部分を改めて見たり、そこのものを動かしたり、ものを少し捨てたりしてみる。一気にいろいろやろうとすると難しいので、気づいたときに少しだけやることで、ちょっと部屋の中の空気がよくなる気がする。

2020年3月5日木曜日

自分の観察 2020年3月5日

いつの間にかひな祭りも過ぎて「春」といってもおかしくない季節になってきた。
昨日はいつも水曜日に行くスタジオの近くで鳥が虫を探している姿を見た。「啓蟄」という言葉が頭に浮かんだ。っと思ったら暦を調べたらそれは今日だった。

体の観察)
後頭部から肩にかけて少しの興奮状態みたいなのがあるらしく力が入っている。力を抜くと呼吸が楽になってくる。胃の裏あたりの骨が硬く少しゆがんで感じる。歯を少し噛み締めている。それを緩めると口の中に少し唾液が戻ってくる感じがする。

部屋の状態)
机の上に書類が散らかっている。
窓が閉じたままになっていることに気づいた。
窓を開けたら気持ち良い風が入ってきた。
しかし、机の上の書類にはいろいろな最近の事柄が複雑に絡み合っていて、それを紐解くのが少し気が重い。
・いくつか行った英語でのWSに使った原稿
・Encounter the process というイベントで作品を推敲していたときのたくさんのメモ
・感想を書きたいと思い続けているハンブルクでみた作品のパンフ


2020年3月4日水曜日

コロナが流行って思った事

正確な情報を巡って様々な対立が生まれる。
それは間違った情報が蔓延する事の恐怖心みたいなものがあるからかもしれない。その信憑性は、「政府の」発表とか「WHOの」発表とか、できるだけ大きな機関の正式な発表に依存することが多い。しかし、今までの歴史的な観点から言えば、大きな機関の正式な発表でも様々な嘘や捏造は起こってきた。だから本当に何を信じれば良いかわからないから、様々な憶測が生まれるし、そのぶん、それを利用したフェイクな情報も生み出される。片や、それぞれ自分の感覚を基にした見解も記事になっている。それらは科学的であるかどうか、というような検証はしていないけれど、自分が生きてきて感じてきたことを基にしていると思われる。そういうものに対しても、それにさしたる害がない内容であるにもかかわらず「科学的」であるかどうか、真実であるかどうかなどの観点から手厳しい批判を投げる人が結構いる。311が起きた頃からそれは何度も繰り返されてきた。
しかし、何が「科学的」であるか?その信憑性はどうやって確認できるのだろうか?現在正式に発表されている「科学的」と言われている内容であっても、必ず別の見解から間違っていると言う意見がある。全ての物事には、別の見解というのが常にあるものだ。そこで、自分の見解が絶対に正しいという態度で批判し合うほど無駄なことはないと思う。様々な見解があるということを前提として、投げかけや対話がなされるべきだし、その中でお互いにいろいろ考える材料にもできる。

科学的な事は、様々な仮説に対する実験や実践によって確かになっていくかもしれないが、今の所、解明できないたくさんの事が含まれている。今正しいと思われている「科学的」な正解が、覆される可能性はいつでもある。
また、今は「科学的」に正解という認識がないものであっても、実際に有効である経験を積み重ねる事もある。

また、何が「本当の情報」であるか?見極める事はとても難しい。だから結局は自分がどう感じるか?ということがとても大切になると思う。本当に危険かどうかを判断するとき、全てを検証していては間に合わないときがとても多い。結局は感に頼るしかない。感を磨いていくしかない。感を磨くには、まず物事を観察することから始めるのが良いだろう。手始めに自分を観察するのが一番良いと思う。自分がどう感じているかを言葉にする。しかし、自分が「感じていると思っている」ことの下に、本当に感じていることが隠れていることはとても多い。その隠れている部分が見えてくるまで観察を進めないと、感を磨くことはできないだろう。
そして、自分の感覚を使って何かを考え、「問い」が浮かび上がってくる、そしてそれを推敲してあらたな「問い」が浮かび上がってくる、その繰り返しによって自分なりに考えることができるようになる。


「偏った考え」VS「常識的な考え」という構図が生まれてしまうのはなぜだろうか? そのような印象をあたえる仕組みが埋め込まれた記事を見ることが最近多いと感じている。それはある種の印象操作であり、そこに何がしかの目的があるのではないだろうか?