2020年6月26日金曜日

未来の妄想も自分の一部 2020年6月26日

部屋探しをしている中で少しずつプロセスをじっくり味わえるようになってきた。ベルリンでは一つの部屋の希望者がものすごく多いので、見学に行く時から、部屋を見にいくだけなのに自分の挙動で判断されるかもしれないと思うと、うまくやらなくちゃと思いすぎてすごくすごく緊張する。見学をした後、申し込みをしたりして自分が選ばれるか結果待ちをしている時、自分が断られたら、と思うととても緊張してしまう。これって、恋愛における告白をして結果待ちしてるみたいな感じだろうか(告白とかはしたことないけど)?恋愛にしても、部屋探しにしても、こんな風に緊張したり、断られたらすごく痛みを感じるはなぜだろう?ともう一度自問してみる。それは、部屋を探したり、見学したり、申し込んだりする過程で、未来の妄想が自分の体の一部みたいに感じるからではないだろうか?それが断ち切られた時、体の一部が捥がれたみたいに痛みを感じてしまう。でもそれは止めようがないというか、自分を形成しているアイデンティティーみたいなものは常に、過去と未来の可能性を無意識のうちに繋げて形成しているものだからだと思う。断ち切られる痛みを先回りして想像して、恐怖や緊張を感じる。すべての可能性にゆだねて心を開くにはまだまだ修行が必要。と、そうやって自分に言ってみると少し楽になる。

2020年6月23日火曜日

可能性の交差点 2020年6月23日

部屋探しをしていると、次の部屋が決まるまでの間は時間が止まっているように感じる。部屋を見学に行く予定があったりして、その部屋を見た後にその部屋に住んでいる未来の自分と、その部屋に住めない未来の自分と両方あり、同時に別の部屋に住む別の未来についての可能性もある。いろいろな自分の未来の交差点みたいなところに音もなく立っているような感じ。時間の流れが止まったところに立ち止まって周りを見回しているような感じ。その止まった感じを面白いと感じられるようになってきた。まだ、何も決まっていない宙ぶらりんな感じがちょっと前まではとても辛く感じたのだけど、今は、そこに立ってあたりを見回す余裕が出てきた。

そういえば、コロナが蔓延し始めて、人々が家の中に引きこもり始めたとき、1日がとても長く感じた。外に出て閑散とした街を歩いていても、時間が引き延ばされているように感じた。これも考えようによっては次にどうなるかわからない、可能性の交差点みたいな所にいるということなのかもしれない。

日本からドイツへの渡航、およびドイツから日本への渡航がいつできるのか?息子の次の学校はいつ決まるのか?私たちが住む次の家はいつ決まるのか?すべてが宙に浮いているけれど、無数の可能性がそこにあって、その真ん中に立っていると考えると少し楽しいような気もする。


2020年6月18日木曜日

引越し 苦日記〜歩くという行為の意味するところ〜 2020年6月18日(木)

引越し先がなかなか決まらず、見学に行っては希望を抱いたり、決まらない不安との間でフリーズしたりしている時、自分の視野がどんどん狭まっていくのを感じる。そして、誰かに楽しそうなことを提案されたり紹介されたりしても、どうしてもそっちに視点を移すことができなかったりする。何かを必要以上に待ってしまい、心に血が通わなくなったように麻痺してしまう。自分を観察したり、自分に何かを言い聞かせたりして改善しても、少しすると、またすぐ元に戻ってしまう。

胃の裏あたりの背骨が硬くゆがんでいる。時々心臓がドキドキする。
首と肩の付け根あたりに力が入っている。

なんでもないような曇り空の朝、草刈機の唸る音とスズメのさえずりが聞こえる。
昨日部屋を見学に行った時、私たち以上に切羽詰まった感じの人たち、おそらく海外からこの国に来ている人たちがたくさんいた。見学の人数は25人。お互い困っているのに、競合相手になってしまうなんて…。帰りに、私たちが乗った電車が故障し、長引きそうだったので他の電車に乗り換えて家に向かう。乗り換えようと思った別の駅が工事中でバスしかなかったので、もう一度別の駅に向かって別の乗り換え場所に向かおうと思ったのに、間違えて反対側の電車に乗ってしまい、2〜3駅してからやっと気づいて、ものすごく遠回りしながら帰ってきた。でも、イリイチが書いていたことを思い出した。人は自転車や車が発明されたことによって、歩くという行為の意味を見失ってしまった。人が移動するということは、ただ目的地に到着するための手段という訳ではないはずだったのに、もう、歩くという行為でさえも、目的の手段としてただ時間のかかるだけのものになってしまった、と。歩くという行為は、本当は歩くことそのものの中にある無限の奇跡と遭遇することなのかもしれない。私は、目的に目を奪われすぎて、その途中にある様々な無限の奇跡を見落とし続けているかもしれない。生きることも、死というゴールが目的ではなく、その途中にある様々な奇跡を味わうことなはずなのだ。

もう一度それを思い出す。また忘れてしまうかもしれないけど、ひとまず、今朝はそれを思い出す。

2020年6月9日火曜日

重圧と奇跡と解像度 2020年6月8日

引越しのために見学に行った家に申し込みをしてから、返事が来るまでの間のこの時間が、重圧というか、期待と失望することへの不安の間で押しつぶされそうなので、なかなか自分が物事を深く感じたりすることが難しい。けれども、昨日の夕暮れ時に夕焼けの空がとても綺麗で、もう太陽の光は見えなくなっていたのだけれど屋根の上のアンテナに残り日が反射して、そこだけピンク色に照らされて、間接的に夕日を見ることができた。この瞬間、この光を見ているのは私だけだろうか?こういう小さな奇跡は、瞬間瞬間にいつも起き続けているのだ、ということをもう一度実感した。わずかな時間ピンク色に照らされたアンテナも、最後にはうっすらと闇に包まれたけれど、そこに一匹のカラスが風に吹かれ凛と街を見下ろす、その姿がまた何か雄々しく美しく感じた。

コロナの影響のただ中で、様々な事件が起き、瞬く間にインターネットで拡散しながら、今世界に何が起きているのだろうか?と思う。テレビに加えて、SNSによって情報が均質化していく。世界が均質化していく。また、テレビでもインターネットでも全く拡散されないたくさんの物語が潜在している。ジグゾーバズルのピースをそれぞれの人がつなぎ合わせて世界を認識しようとする。自分自身が、世界で何が起きているかを知ることの難しさ。世界は大きくなりすぎて、細部で起きてることの解像度はむしろ下がって行くのかもしれない。