2013年5月31日金曜日

供養(くよう)というコミュニケーション

福岡市博物館にて、常設展示室(部門別)の解説があって、その中の文章で面白い部分を発見した。

チベット仏教コレクションⅤ
1、供養の意味
供養は、もともとはインドにあった習慣が仏教に取り入れられたもので、ブージャー(=尊敬)という言葉が語源になっているといわれます。つまり、供養とは仏を敬うことをあらわす行為に他なりません。仏像に対して合唱し、花や水、灯明、香を供え、仏の名を唱えることも実は仏に対する尊敬をかたちにしたものなのです。
 このようにみると、供養は私たちの日常的な人間関係と極めて似ていることに気がつきます。それは、例えば大切な相手に向かってお辞儀をし、素敵な品物をプレゼントし、そして言葉でほめたたえることと全く同じだからです。そして相手が喜んでこちらの働きかけに応えてくれた時、そこに初めてコミュニケーションが成立します。供養の場合も同じであり、ご利益は仏と人との関係が成立した証ということになるでしょう。

相手を立てたり、自分がへりくだったりするのは「卑屈」ということではなしに、相手に対してまず尊敬するというアクションでコミュニケーションを始めるということなのかもしれないと思った。
これは、自分と相手とを対等にしてフレンドリーに振る舞うというのとはちょっと違う文化な気がする。まして、互いが自分をアピールしあうという関係とは反対のように感じる。

2013年5月25日土曜日

根っこについて 

だいたいの植物は、根っこをぶちっと切ってしまうとそのあと土に植えても根を生やし直すのは難しくなってしまうけれど、稲のような植物は、ぶちっと切ってしまってから植えたら、その分より強く根をはろうとするらしい。また、夏にわざと水を抜いてしまう時期を過ごすと、その時に水を求めて凄く深くまで根を伸ばして行くらしい。

それから時々、しばらく植物の生長が止まったようにあまり育たないように見えるとき、根っこを下の方にすごくたくさん伸ばしている時期であるばあいがあるらしい。

私は今の日本のさまざまな局面で、明治以前の文化的な脈の根を断ち切られてしまった感じが、栄養を吸えない無力感みたいなものとして感じているけれど、それぞれの切り花のような状態から根をまた深くに伸ばして行く状態も観察できるのかもしれない。また、私自身がやってる事も、水を求めて根を地中深くに伸ばそう伸ばそうとしているような気もする。

精神的な免疫反応

人との関わりで、自分に取って抑圧的と感じる物事に遭遇した時に、自分の中で起きてしまう反応というのがあって、それはある種類の「不快」が少しずつ積もって行ってあるとき許容量を超えたら、過敏に反応し続けてしまうというようなことなのかもしれない。アレルギー反応のように。または、傷ついてしまって、何度も同じ所が同じように傷つけられてしまった場合に過敏になってしまうという感じもある。抑圧的な何かが個人から向けられるというより、個人を通した向こうにある法則、あるいは大きな組織の意思みたいなもの、そういうことに、ある個人を通して向き合う時に起きてしまう。
胸がそげるような無力感と、持続してしまう怒り、繰り返される妄想、そしてまた手首や足首から何かが流れ出て行ってしまうような無力感。そういった一時期を過ごして、自分のそういった精神的な風邪のような状態から、少しずつ気力を回復させてくれる何かがあるとき訪れる。その力はいったいなんだろう?土が柔らかくふっくらと豊かになっていくような、大丈夫な感じ。いつもここに戻ってきたいと思う。