2018年5月10日木曜日

ベルリン日々問い9 温泉の代わりの公園

ベルリンの公園は休みの日はとくに人で溢れかえる。様々な人が大変リラックスした格好で寝そべったり本を読んだり誰かと飲んだりしている。太極拳してる人もいるしマイムマイムみたいなヨーロッパっぽい踊りを話になって踊っている人々がいる。それぞれが自分のやりたいこと人目をほとんど気にせずやってるのって、すごくリラックスする。これはまるで温泉にいるようだなと思った。半裸同然の人も多いしね。露出度の大変多い水着、これは日光浴が目的だからと思うけれど、そういう格好だったり、それは海岸でよくある、自分の体を見せるということからは程遠い感じだ。普通の格好の人が日光を浴びたくてズボンとパンツをずらして半分お尻に光を当ててるすがたも見た。
私にとって温泉の代わりとなるこの公園でのくつろぎは今何ものにも変えがたい感じがする。

2018年5月7日月曜日

ベルリン日々問い 8 味わいと目的意識

自分が日々を生きる中で何がしかの目的みたいなものがなんとなくある時期というのはある。何か、知りたいことというのがあってそれに向かっているという感じだ。だけど、実際に作品を作る、という目的意識というのは、日々を味わってただただ生きるということをおろそかにするという場合もある。

今、日本を離れてどこか宙に浮いたようにベルリンに生きていると、鳥の声、鐘の音、空の色や春の空気にどっぷりと浸かることができる。

ベルリンで出会う人々はどこか享楽的とも言えるような感じだったり、そこまでじゃなくてもそれぞれの日々を味わうということにたけてると感じる。

一方、やはり生まれてきたからには何かを深めて、つまり様々な経験を経ることによって自分の中にある世界への認識を深めたいという気持ちはやはりあって、それは享楽的とは逆のような気もする。様々な時期を生きることによって、様々な角度から物事を見ることができるということは実際にある気がする。今の、どっぷりと今に浸かっている感じはそのうち自分の認識を深めることの一助にはなるのだろうし、あるいはそういった新たな経験への入り口ともなり得るのかもしれない。

新しい境地は、「目的意識」を取り除くことで得られる認識の深さ、みたいなところなんじゃないか、とは薄々思っているのだけど、作品を作るということの業の深さというか執着心というか、そういうのは結構大変なものなのだよなあとも思う。

2018年5月5日土曜日

ベルリン日々問い 7 「前提」に囚われず新しいノリはつくれるのか?


観察する視点が偏っていてもそれに気づかなかったり、ある前提をみんなで共有していて、そこ自体に歪みがある事もある。でも、みんなで共有しているという感覚が、「それが普通」「それが正当」であるとなってしまう場合が多い。歪みを感じて、そこから逸脱したいと思った時、それを理解してもらう事の難しさは、そういった「前提」にある事も多い。またその前提にたいして批評的に物を言う時に、やっぱり違う「前提」からの固定された視点でもって批評というより否定を平気でやってしまうことも多い。どちらもできれば避けたいし、お互いそれを避ける方法論を見つけたいとも思う。また、その「前提」を共有する中にある周波数みたいなもの、ノリと言い換えてもいいけれども、そういったものがあって、そこにノレない場合は会話が噛み合わないままどこにも行きつけなかったりもする。だから、そのノリをその場所で新しくみつけられるような関わり方があったらいいのかもしれない。あるいは相手のノリや体の状態に対して萎縮してしまうような場合もあって、その体の内側を観察するとどこかが本当に縮こまってるので、力を抜いたまま相手に対することさえ難しいこともあるから、簡単ではないが。

例えば、息子をホームスクールで育てているときに、この苦しさをかなり味わった。検証を一緒にしてもらえるような対話にはなりにくかったから。
教育について、食について、文化について、政治的傾向について、様々な問題についても言える。


ネトウヨと言われたりする人たちのノリの中にも、よく聞いてみるとわかる部分があって、それは戦争のあとの、日本で起きたことをもう一度内省する前に、外からの裁判という形で様々な可否を決してしまったという部分だ。そうなると、その結果に対して「不当」と感じることはある意味自然なこととも言える。子供が誰かに迷惑かけた時に、自分で何が起きたかを検証して反省する前に「反省しろ」「あやまれ」と言われると反発しか生まれないということもある。そういった、経緯をもう一回観察し直したり、それとは別に検証をさまざまな角度からしてみる、というのは必要なのかもしれない。そういうプロセスを、意見の違う人とどれだけ重ねられるかによって、関わりを創造的にすることもできる気がする。

2018年5月2日水曜日

ベルリンでも日々の問い その6  労働の日および春祭り



今日は労働者の日ということでベルリンでは祝日。しかし、疲れがでて街には繰り出せなかった。。。惜しい事をしました。いろいろ調べてみた事のメモ。

1886年にシカゴの労働者が「8時間労働制」を求めてストやデモを行ったことを記念し、1889年の第二インターナショナル創立大会でこの日を国際的な労働者の祭典・万国労働者団結の日と定めた。翌1890年に第1回メーデーが開催されたらしい。日本でのメーデーは1920年5月2日に上野公園で行われたものが最初で、その後全国に広がったが、1936年に政府によって禁止され1946年まで中断されたのだそうだ。元々は、ヨーロッパでこの日に行われていた春祭りで、花の冠を被らせて「5月の女王(May Queen)」を仕立て、遊戯等して楽しむ日だった。

ヨーロッパの五月祭(ヨーロッパのごがつさい)とは、古代ローマの祭に由来する祭。5月1日に、豊穣の女神マイアを祭り供物が捧げられた。夏の豊穣を予祝する祭りと考えられている。現在では、ヨーロッパ各地で、キリスト教伝来以前にさかのぼる起源をもつ、春の訪れを祝う日として定着している。英語ではthe May Festival, May dayなどと呼ぶ。

かつて、ヨーロッパ各地では、精霊によって農作物が育つと考えられており、その精霊は、女王や乙女のかたちで表現されていた。春、地域によっては夏といった、生育・繁殖の季節を迎える季節の祭りで、乙女たちや男女の結婚は象徴的なものとされ、それが五月女王(メイクィーン)や、子どもたちによる疑似的な結婚式へとつながって行った。

また、この日の前夜はヴァルプルギスの夜と呼ばれ、魔女たちがサバトを行うと言われている。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』はこの時期が舞台とする説もある。

歴史的なヴァルプルギスの夜は、キリスト教到来以前の異教の春の風習にちなんでいる。ノース人の風習では、ヴァルプルギスの夜は『死者を囲い込むもの』とされていた。北欧神話の主神オーディンがルーン文字の知識を得るために死んだことを記念するもので、その夜は死者と生者との境が弱くなる時間だといわれる。かがり火は、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払うためにたかれ、光と太陽が戻るメーデー(5月1日)を祝うことにつながる。

ヨーロッパのキリスト教以前の文化の源泉について興味があるけど、どことなく、そのルーツが一元化されるような傾向が気になる。非ヨーロッパ圏では、様々な文化的ルーツは多元的に複雑に絡み合っていて解くのは難しいほどなのに。

出典 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E4%BA%94%E6%9C%88%E7%A5%AD