2013年6月19日水曜日

お金という切実さ

お金がひとつの切実さであることは確かだ。
いつの時代も、人々が生き抜くために最善を尽くそうとする。そういうエネルギーの延長線上としてお金を獲得するために手を尽くすという行為はあるのかもしれない。

あるときは個人単位で、でもあるときは組織単位でそれをする。組織単位であるということは、個人であるときより、お金を獲得するためにする行為を正当化するだろう。個々人がそこに何かを感じる、という余地はどんどんなくなるだろう。正当化されている論理を、自分の感じている事にすり替えていくだろう。組織単位の利益というのは、線引きされたコミュニティーの中における一つの利益。そこの一人ひとりは部分に徹するということになるのだろうか?

線引きされた内側の利益というのは、その外側の何かと利益が相反する。
たとえば、野菜を作るために肥料と農薬をまく、それは野菜の収穫という線引きの内側の利益。その外側では、多様な環境がある。多様な環境と野菜の収穫は、利益が相反する。それは線引きする事によっておきる。

利益に線引きをしない、というのが自然農の考え方なのだろうと思う。

ただ、線引きの世界の中で線引きをしないという方法はいろいろな齟齬を生むだろう。そこに固執することで、結局は余計な線引きを生んでしまうという矛盾がつきまとうのかもしれない。

2013年6月18日火曜日

関わりの中にふわりと浮くことができるか? 2

人にとって、頼りになる規範というのは、経験だけでは足りないのだろうか?個人の経験だけでは足りないのだ。コミュニティーとしての経験を積み重ねなければならない。そうでなければ、不安から解放されるのは難しいのだ。

どんどん変わって行く環境。どんどん変わって行く倫理観、どんどん変わって行く政治情勢。
さまざまな卓越した手口で、どうどうと人の思想的な枠組みに入り込むべく狙っている、政治的倫理思想の代弁者達。ファシズムの方向に進む真面目な規範を標榜する人々。そういうことが入り込んでしまっているコミュニティーの中で、どうやって波長をあわせることができるのだろう?あるいは、異物としてふわりと浮くことができるか?旅立っている人として受け止められる方向での、やわらかい存在の仕方、俯瞰した評価基準を感知できないように自分の中を感じていることでいっぱいいっぱいにしておく。歌う。描く。踊る。そうか、そういったことは、ありのままの自分でい続けながら、かつ個人という線引きにとらわれずに媒介者として浮いていられる。そういう存在なのかもしれない。きりんのように。

関わりの中にふわりと浮くことができるか? 1

わたし自身の周りで起きること、わたしの心を動かすもの、わたしを反応させるもの、そういった事ごとには区切りがない。子どもの事でも、夫の事でも、近所の人々のことでも、そういった事情に包まれることでわたしは生きているし、心情や哲学や信仰やそういったこともわたし個人の枠組み内で立ち上げることはできない。ということを、今住んでいる土地で学んでいる。「人々」という単位の経験だけが、人の存在に働きかけることができる。
だから個人に固執しないように。個人の感情に固執しないように。それでいてありのままの自分でいたい。ただ、「思い」を個人という単位だけで線引きしないようにしてみる。
もっと人々を観察してみる。ここに住む人々の体を観察してみる。その人といる自分の状態を観察してみる。


関係の中にふわりと浮く。きりんといるとそれができる。波長をあわせることができるのは、自分の固執をほどく事が出来たときなのだ。その訓練をもっとできるはず。それがdividualityなのだ。

2013年6月10日月曜日

「線引きされた団体」と「村」

「空気を読む」ということが必要になるコミュニティーというものがある。
そういうコミュニティーを「村」的と呼ぶことがあるが、本当の村は「空気を読む」のではなく、習慣的な法則によって生きるのが当たり前になっているので、それ以外に慣れていない、だからそれ以外の様を見るとビックリしてそれを笑ったり、怒ったり、噂したりするかもしれない。でも、「空気を読む」ことが必要になるのは、そこにある法則が空気を読むことで成り立っているからではないだろうか?そして、そこには空気を読み損なった時に、あるいは故意にその読みと外れた行為をした時に、権力者の感情を害するというような要素を含んでいるように思う。そこを一緒に考えない方がいいしもっと細かく観察したい。そうすれば、かつての村が持っていた要素のうまい再編成というものが可能かもしれない。そうすれば、もう少し先に進んで行けるのかもしれない。

2013年6月4日火曜日

多様さが淘汰される強い流れ

息子と一緒にメダカを探したけれどなかなか見つからない。
調べてみたら1999年に絶滅危惧Ⅱ類に記載されたらしい。

田舎の田んぼや畑も、行政主導で効率的で清潔な水路に変化したり、農薬などが流されたりそれによって稲や畑の実りも多くなったりしたのかもしれない。田舎の人々にとって、収穫量は生活に必須な条件だ。そしてその切実さを、コミュニティーで共有している。だからみんなにとっていい方法として進んで来ているに違いない。

そういった方向に流れて行く強い流れというのがあって、その流れに逆らうというのはものすごい孤立を伴うことになるのだろう。し、流れに逆らうという行為自体が、ある意味で不自然さやカタクナさを伴ってしまう。

そういう中で、自然で柔軟な方法で、流れとは別の流れを見いだしたりそれを何かに繋げたりする行為ができないものだろうか?

コミュニティーと前提について

コミュニティーというのはそもそも、某かの前提を共有する人の関わりのことなのかもしれない。例えば古い歴史を共有している、自然発生的な慣習法を共有している、ルールから発生したがそこから自然にある前提を共有するようになったコミュニティーであるとか、そういうのがいわゆる「村」的な印象を持つものであって、でも例えば新しい価値観を持っている人たちが自然にある場所に集まったり、あるいはアーティストコミュニティーとかであってもやっぱり、ある前提を共有するようになっていくものな気がする。

ただ、前提の共有し方が違うということなのか?

経験を共有することと、「正しさ」(こうあるべきであるという前提)を共有することは全然違う気がする。

前提を共有する人々の所にそうでない人が来た場合、その前提にどっぷり合わせないとうまく行かない場合が多いのかもしれない。しかし、前提が違うと感じる所を、ありのままでいられないとたぶんなかなかつらい。

2013年6月3日月曜日

慣習法について


ウィキペディアによると
慣習法(かんしゅうほう)とは、一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになった行動様式などの慣習のうち、としての効力を有するものをいう。

ということで、例えばコンテンポラリーダンスを取り巻く環境もそういう風に慣習法としての「ダンス」という概念の共有化というのがあったり、それがコンテンポラリーといってもどういう経緯を経てどういう人々とかかわっているかに寄って微妙な差があったりする、そういうものなのかもしれない。

前提を疑う、というのはそういう慣習法のコミュニティーに対しての暴力的な行為になるのかもしれない。

dividual←→individual
で考えた時

ある特定の地域で、そこでの慣習法というのが強くある場合、その中でうまくコミュニケーションを取って行こうとしたら、それはその慣習法に対してできるだけ従順でいるということなのだろうか?そうじゃなくて、そこで自分が大切にしている気づきみたいなものに基づいて、ありのままに生きることも受け止めてもらいつつ、コミュニケーションを大切にする何か柔軟な方法というのを見つけられるのなら、それが一番いい。コミュニティーが大切にしていることに敬意を持って尊重しながら、かつ自分が大切にしていることをありのままに受け止めてもらうことができたら、dividualの新たな可能性に繋げることが出来る。