2022年1月18日火曜日

拮抗、耐性、必要なものは無尽蔵にすぐそばにある 2022年1月18日

 自然の中で生き物は拮抗し合っている。人間も本来はそういう拮抗しあった関係の中にいるはずだったのだと思う。命を保つために栄養を獲得して次世代に命を繋いで…。それは戦いのようでもあるが、戦うというのは何かしら主体みたいなものが想定されないと戦いにならない。生き物に主体ってあるのかな?主体の感覚って人間が勝手に想定しているだけだ。人にとっての主体の感覚も、時代によって変わってきたのだろう。

生き物の定義は難しいけれど、菌もウイルスもその機構の中にあるものだ。それらが拮抗しあってある種のバランスを見つけているのかもしれない。響き合っているのかもしれない。

無重力の場所に行くと人は筋力がすぐに落ちて歩けなくなってしまう。それと同じで無菌状態のところに長くいたら、人は菌やウイルスへの耐性がすぐになくなってしまう。

必要なものは無尽蔵にすぐそばにある。「価値がある」とされるものは何かしら希少性があって、珍しかったり、手に入りにくかったり、手の込んだ技術や、お金をつぎ込んだり、とんでもない天才が作り出したものだったり、ものすごいプロフェッショナルな人が行ったことだったり、と考えらえがちだと思う。でも実際には、必要なものは無尽蔵にすぐそばにあって、ちょっとした工夫で自分でなんでも作れたり手に入れたりできるものなんじゃないだろうか?そういう感覚は狩猟採集的な感覚なのかもしれないけれど。

誰かに伝えようとかわかってもらおうとか考えずに、好奇心で突き進んだことが結果的に役割になったらいい。ダンスの活動はそうやってやってきたのだから、それ以外のこともそれでできるんじゃないだろうか?

2022年1月11日火曜日

ノーム・チョムスキー:「合意のでっちあげ」について 2022年1月11日 

 ベルリンにいる間、言葉の問題もあるけれど、ロックダウンが長かったり、ロックダウンがあけても制限があるなかで人に会いづらかったりして、私自身が感じていることを人とシェアすることが難しくなっていった。そしてSNSでのやりとりが多くなった。私は自分が感じていることが他の周りのひととは著しく違うことで孤立感を感じたし、思ったことをSNSで書きづらくなった。書けなくなった。それは、重たく暗い「暗黙の了解」として空を覆った。後日、意を決して何人かの人と直接話をした。また、日本に帰ってきてからいろいろな人と話した。結果、自分と同じように感じている人はとてもたくさんいた。具体的に言えば、コロナを怖がっている人はさほど多くなく、またワクチンの安全を信じている人はほとんどいなかった。このことは、SNSの投稿を見た雰囲気ととても大きなギャップがあったので驚いた。でもそれを声に出すことはほとんどないようだった。そして、そうであっても流れに逆らうことは難しいとみんなが感じていた。旅行に行けないから、行動が不自由だから、周りの目がきになるから、ベルリンでは法整備もされ、規制が行動を大きく遮ることもある。

今、ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」を読み直している。1991年には書かれていた。今起きている「合意のでっちあげ」には古い歴史がある。そう考えると「とんでも無いことが起きている」というよりは「いつもと同じことが起きている」とも言えそうだ。

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さて、これで民主主義社会には二つの「機能」があることになった。責任をもつ特別階級は、実行者としての機能を果たす。公益ということを理解し、じっくり考えて計画するのだ。その一方に、とまどえる群れがいるわけだが、彼らも民主主義社会の一機能を担っている。

 民主主義社会における彼らの役割は、リップマン(*)の言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することでは無い。しかし、彼らの役割をそれだけにかぎるわけにもいかない。何しろここは民主主義社会なのだ。そこでときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。(中略)これを選挙という。(中略)われわれは、とまどえる群れを飼いならさなければならない。とまどえる群れの激昂や横暴を許して、不都合なことを起こさせてはならない。(中略)

 そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。政治を動かす階級と意思決定者は、そうしたでっちあげにある程度の現実性をもたせなければならず、それと同時に彼らがそれをほどほどに信じ込むようにすることも必要だ。ここには暗黙の前提がある。(中略)どうしたら意思決定の権限をもつ立場につけるのか、という問題に関係している。もちろんその方法は、「真の」権力者に仕えることだ。社会をわがものとしている真の権力者は、ごくかぎられた一部の人間である。

 特別階級の一人がそこへ行って「あなたのために便宜をはかれます」と言えば、彼は支配階層の一員になれる。そんなことを公言してはならない。(中略)そこで一部の者を責任ある特別階級へといざなう教育のシステムが必要になってくる。国家と企業の癒着関係に代表されるような私的権力がどんな価値観をもち、何を利益としているかを、徹底的に教え込まなければなら無い。それが理解できたなら、特別階級の一員になれる。

 残りのとまどえる群れについては、つねに彼らの注意をそらしておくことが必要である。彼らの関心を全く別のところに向けさせろ。面倒を起こさせるな。何があっても行動を傍観しているだけにさせるのだ。

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「合意のでっちあげ」はつまり「みんなで、そう思っているふりをする」ことなのだろう。日本でよりもヨーロッパでの方がより、自分を騙してでも「ふり」を貫く根深さ、強固さを感じた。「ふりをする」ことはは「振り付けにしたがう」ことかもしれない。無意識のうちに。その背景には「正当性」を逸脱する恐怖があるようにも感じた。長い歴史を感じた。

しかし、実際SNSでは、何かを傍観しているような感じてはなく、みんなが権力にあらがっていると思い込んだ正義の言動をしているように見えた。そして、その結果、全体主義へとまっすぐ突き進む方向への賛同を(言動や行動で)示しているように見えた。それはSNSを利用した「合意のでっちあげ」のための新しい手法かもしれ無い。(あるいは古い手法なのかもしれない)。タチが悪いのは、「あらがっている」ように思わせながら「振り付けにしたがわせる」という巧妙さだ。

*リップマンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3