2023年1月26日木曜日

はじめての狩猟研修 2023年1月26日

 ちょっと遠くのエリアで狩猟の具体的な講習を受けることになった。

道に迷いながらなんとか集合場所にたどり着くと、ちょっと緊張感に包まれ年配の男性達が集まっていた。ほくほくとした顔、顔、顔。エネルギーに溢れてキラキラしている。そして、彼らはそれぞれにこだわりがあり、バチバチと衝突することもあるが、その後はさっぱりとしてる。ユニークな繋がりだな、ある種の受け入れあいというか。

止め刺し、というのは動物に止めを刺すということで、狩猟をする側には命の危険もある。毎年、何人かがイノシシの逆襲で怪我をして、2年に一度は人が死んでいるとのことである。命懸け。でも命を奪う側に、やはり命の危険があるのはフェアであるような気もする。

今回、初めて止め刺しを目撃する機会を得た。車で丘のような場所に登り現場に急行すると、満州で戦死したとある部隊の大きな慰霊碑があり、そのすぐ横にその箱罠は仕掛けられていた。その名の通り箱、つまり檻にもなる罠で、中では猪がまだふんふんと鼻を鳴らし、狭いなかうろうろしている。動物を見て「かわいい」という感情が湧くのは、傲慢な人間社会的「上から目線」かもしれないと自分を戒める。野山を駆け巡り、命を繋いできた獣。森と川と土と虫とのつながりを持って循環の一端を担っている一匹の獣、その命を奪う瞬間に立ち会う。自分も一匹の獣として。といっても止め刺すのは私ではなくベテランの先輩である。箱罠を取り囲んで研修生と先輩たちが、どの角度からどうやって止め刺すのか話し合い、イノシシの首に縄をかけて止め刺しやすくしようとしたがなかなか難しい。イノシシは囲まれてからというもの危険を感じて落ち着かず、時々檻の柵に向かってものすごい勢いで頭突きする。そのスピードたるや、もしこの勢いを自分に向けられたら間違いなく大怪我、どころか死の危険がやはりあるわけだ。その勢いをしっかり記憶に叩き込む。命を奪う相手になりきることができるように。イノシシの首に縄をかけるのが難しいので、箱の向きを縦にして、狭いスペースにイノシシを押し込めることで体勢を固定して止め刺す条件を整える。みんな和やかに笑いながら話しているけれどじわじわと、さあ、いつ刺すか、いつ刺すか、その間合いが図られる。「何度も刺さないように」という声が聞こえる。先輩は先にナイフを設置した長い棒を握っている。私は目をカッピラいて目撃する心構えをする。ついに、先輩が脇から心臓をひと突きにする。猪は大きな衝撃もなく顔の表情も変わらずフリーズしたように動かない。刃先から結構な量の血が出る。「あ〜、血が結構でたね、心臓いったな」という声。その時、猪が激しく痙攣し、体に確かな衝撃が走る。でもまだ呼吸をしている。肺に空気が入っては出る。ずるずるっと体が床に崩れ落ちる。それでもまだ息をしている。そのとき、「ク〜」というような声を発したように聞こえた。「あ〜、肺に入っていた空気が出たんだね」という先輩の声。気がつくと、とても静かになっていて、体は動かず目の光が消えている。先輩たちは簡単に猪が死んだと判断せずに、疑い深く確かめ続ける。いつ、復活してくるかわからないと体で知っているから。でも、ようやく確認を終え、牙の隙間にワイヤーを通して引き摺り出す。

解体を行うために、ある先輩のお宅にたくさんの先輩と研修生が集まり、お昼を食べ、そして解体となった。イノシシをしっかり洗って台の上に、白いお腹の面を上に乗せる。喉の少し下あたりから刃物を差し込み胸骨の周りとその下の方までまるで手術のよう。ペニスは尿や精液が出るので紐で結いて、その脇を尿道に沿ってすっかり取り除く。そして、心臓、横隔膜、胃袋、腸、あらゆる内臓を滑るように取り除いていく。寒い日のこと、内臓はほかほかと湯気を立てる。耳は切り取られて、写真と一緒に提出される。「取」という字が耳を掴んでいる意味の象形文字であることに思いを馳せる。そのあとは、大きな台の上に仰向けに乗せられたイノシシを先輩に伝授されながら自分も刃物を持って解体に参加する。皮を剥いで、骨と肉の間に刃物を入れていき、部位を確認しながら解体を進める。肋骨の薄い膜を剥いだ後、「これヒレ肉ね」とある肉を切り分けながらかなり年配の方が教えてくれる。先輩たちはさまざま年齢層の方々で女性はかなり少ない。みんな本当にやさしくて、「最初はだれでも失敗するし、気にしなくていいから」とどんどんやらせてくれる。わきあいあい笑いも飛び交い楽しい中でも、どうしても手に力が入って緊張気味。そんな中どんどん骨が取り除かれて、時々肉も焼いて食べながら進む。ハツを食べたときは、なんだか涙が出そうになった。「食べる」ことの意味が今までとはまるで違ってくるような感覚。そして、切り分けられた肉の部分は細かくビニール袋に入れられて、ほぼ全員に分けられる。この、みんなで分ける感じが、まるでなんでもないことのようで深い意味合いとして自分には感じられて、表層的に捉えていた物事が立体的に見えてくる。ビニールに包まれた肉は私の手の中で生暖かい命のひとかけらとして、一緒に1日を過ごした仲間と分かち合った尊い食べ物として深い意味合いを帯びていた。

帰って、家族にその話をしながら、それなら今日は焼肉にして食べようということになる。食べながら私は急に「ヒレ肉」が腸腰筋であることに思い当たる。あ、あの時、あの肋骨の側面についていた「ヒレ肉」とよばれたものは、自分の体の肋骨の内側で背骨の脇についているこの腸腰筋のことだ!と。息子は、「なんかこの肉すごくエネルギーもらえる!」と言う。たぶん、こういったいろいろなエピソード、物語と一緒に食べたからそう感じたのかもしれない。畑の作物も、お米も、やはりそれぞれに作っている人の物語があって、それと一緒に命の糧にするのだな。自分で少しでもそれに携われば、そこにどんな物語が隠れているのか、想像できるようにもなる。そして、いろいろな物事への敬意をもう一度取り戻すことができる。そうしてはじめて、自分の命への敬意にもつながっていくものなのかもしれない、と思う。

2023年1月12日木曜日

利益と不利益のシステムとは違う小さな流れ 2023年1月12日(木)

 畑をやり始めて、今年は田んぼにも取り組むことになって、狩猟にも手をつけようとしている今、否応なく循環について考えざるを得ない状況が続いている。同じ作物をたくさん育てることは、自然がバランスをとる絶妙なやりとりを無理やり変更させるという側面があるということを、否応なく実感してしまう。なぜなら、絶妙なバランスをとるといっても自然の一つ一つの命は一見バラバラに、個々の都合で伸びたり食べたり繁殖したりしているように見える。見方によっては勝手にそれぞれ自分のことだけ優先して戦っているようにも見える。でも、そのバラバラな物事が奇跡のような響き合いで補い合ったり助け合ったり、結果的になっていて、本来人間もその循環の輪の中にいるはずだったのだと思う。そのことを、自然と生きることで実感していた時代はあっただろう。そこから切り離されていったのはなぜなのだろう?切り離されようとしたときに生まれた神話や儀式があって、なんとか、循環に繋ぎ止めようとしていたのかもしれない。祈りのように。

一方、原発もワクチンも戦争も、そこから利益を得る人がいる限り決して止めることはできない、という達観した気持ちが湧き始めている。利益を得るのは巨大多国籍企業やその富を吸い上げる1%の人たちだけではなく、その人たちが意のままに振る舞うためにふりまく利益を得る人、またその人が自分の役割のために誰かにふりまく利益を得る人、と、結果的にかなり多くの人にその利益がふりまかれることになる。たとえばワクチンを打つことで旅行が安くなるというように末端の人々にさえある種の利益がふりまかれる。そして、それらの結果足元からヒタヒタと不利益が滲み出てきて下の方から犠牲になっていく。利益と不利益はまるで次元が違うように見える。けれども、ある種、利益のための何かがもたらす不利益は線引きに囲われた物事の継ぎ目から滲み出てきた自然の循環の力、と言うこともできるのかもしれない。この利益と不利益のシステムから完全に外に出ることは誰であっても不可能にさえ思える。つまり、その被害の拡大がもうどうしようもなく溢れかえって循環が息を吹き返すまでそれらは続くのかもしれない。これはあまりにも悲観的な見方だろうか?それならどうしたらよいのか?

できることは、小さな流れを感じ取ること。小さな流れどうしが少しずつ交わって小さな循環を作ること。それらができるだけ大きな利益と不利益のシステムに絡め取られないように、独自の内発的な流れのままでいること。それらは意識してできることだろうか?目的意識が強ければ不自然極まりないものになってしまうかもしれない。そんな絶妙なバランスを、自然から学べるだろうか?観察を続けるしかない。

2023年1月4日水曜日

お正月明け 絶望について考えた 2023年1月4日

  お正月明けの朝、起きがけに頭がぐるぐると回ってしまって、絶望について何やら考えていた。



 人々は基本的に、普段は信用システムの中で生きている。少なくとも日本では。
顔の見える範囲では信用を失ったら生きてはいけない。地域では人々がそれぞれ健康ですこやかに生きられるように配慮した行政サービスが行われ、国の健康保険や年金やさまざまなサービスも、またそのための税金も国民のためであると考えるのがごく自然だ。だから、国際機関も、人々の平和のためや健康のために、人々を守るためにさまざまな提言や規制がなされるものだと考えるのは当然のことだ。たとえ、その人選や提言の正当性を問う権利が我々になくても。けれども、世界は信用システムと同時に詐欺システムが存在し、両者は判別するのが難しい。顔が見えないところで売上のために尽くす人の真面目さは詐欺さえ正当化してしまう強迫観念に身をやつしている。また、元々信用システムで成り立っていたものが、経済的な危機を乗り越えようとする時にゆるやかに詐欺システムに移行してしまうこともあるだろう。その意味で、それはとてもありきたりなことだ。

 

 今、世界で起きていることは、「陰謀」などという大袈裟な言葉を使うまでもなく、世の中で何度も目にしたことのある、利権を得続けたい大企業と権力者の癒着で、それがグローバルな規模で起きているだけ。あまりにも、あまりにも「ありきたり」なことだ。大きくなるとそれを摘発する組織もなく、庶民を欺くことさえできればいいわけで、ちょろい。そのための技術は専門の機関が担当して長らく試行錯誤が行われ続けているし、マスメディアだけじゃなくSNSを利用できればもっと具体的にコントロールが可能になる。調べていけばわかることだが、南米でも、アフリカでも、イランでも、大きな国際機関と多国籍企業の癒着によって人の命をなんとも思わないような暴挙は行われ続けたし、それを実感している人にとっては、「またか」という感じかもしれない。

 ありきたり、とはいえ、規模が大きくなるとやることも大きくなる。大きくなればなるほど、容易にそれは受け入れがたく、目を背けたくもなる。

 

 ロックダウンのベルリンで、私は静かにゆっくりと絶望という地平に降り立った。絶望とはいっても、それを丸ごと受け入れてしまえば、自分を愛してくれる人がいる奇跡と共に、それは丸ごと世界の神秘だ。それからというもの、自分の内側から訳のわからない熱が溢れ出すようになった。迷いが消えた。とても怖くて目を背けたくなるような現実は、目を背ければ背けるほど、ポジティブに生きようとする光の影として濃く強く存在感を発揮する。一度向き合ってそこに意識を伸ばしてみると、実は、それらは自分の一部でもあることがわかる。知らない森に吹く風や、深海の微生物へと意識を伸ばして自分の一部であると感じることができるように

 すなわち、それは自分にもできることがある、ということだ。すると、役割に繋がっている感覚が自分を生かし始める。