2021年5月28日金曜日

What is happening in my mind? 2021年5月27日

 ベルリンの街に佇んで、自分の感じていることに耳を澄ませてみる「What is happening in my mind? 」という孤独な一人企画を今日から始動。周知もせず、ひとりでイーゼルと画用紙とカメラだけ持って連邦議事堂前へ。今日は天気が不安定だなあと思っていたら、到着してすぐにすごい雷がなり始め、地下鉄から地上へと出ようとした瞬間すごい雨が降り始めた。仕方なく、地上への出口付近で雨宿りして、雨が弱くなってきたタイミングで外に出てみる。傘をさしながら先週まで立っていた場所あたりを目指す。いつも通り警察の車があり、そこを怪しくない歩き方を心がけながら通過し、前回まで立っていた場所が見えるところで、ちょっと芝生や木々が生えている方に行ってみると、雨宿りにちょうど良さそうな木があった。荷物を木下に置いてイーゼルを立てる。ほとんど使ったことがないのでそんな作業にも時間がかかる。イーゼルに画用紙を置くと、たちまちポツポツと雨だれが画用紙に降りかかる。しかし、これもまあいいかなと思いながら、What is happening in my mind?と紙に書き、次のページにイラストを描いてみる。何をどんな風に描くか、何も決めてなかった。ダンスを踊り始める時みたいに、ただ、頭を空っぽにして画用紙を見ると、一粒の雨だれのシミがある。そこを丸く囲って、そこから幾重かの輪を描いてみる。心の一粒が自然に波紋を描くように。また、それを遮るような赤い枠組みを描いてみる。何がしかの感情みたいなものが自分の中に湧いてくるのを感じる。私がずっとこだわってきた線引きのことだろうか?自分で何も謎を解かずに、今度は自分が思っていることを言葉にしてみる。誰が聞いているというわけでもないけど、カメラを回して喋るということは、何かしら自分だけではない誰かというものが想定される。中途半端なアウトプットではある。しかし、メインでは自分に話しかけているような感じでもある。もう少し具体的な「感じている」違和感みたいなものを描くべきだろうか?あるいは語るべきだろうか?そこには何かしら逡巡がある。なぜだろう。

2021年5月24日月曜日

自分が感じていることを止めることはできない 2021年5月24日(月)

 誰でも偏見を持っている。偏った物の見方、考え方は、一人一人が当然持っているもので、全く偏っていない状態なんてないし、そんな人は世の中に一人もいない。問題なのは偏見ではなく、それを線で囲って固定化してしまうことだ。その固定化は何がしかの設定された基準から物事を判断するというものの見方の中で育まれる。学校や会社やテレビからの情報や、そういう何気ない日々の中で繰り返しインプットされた基準を浴びて私たちは育てられてきた。その基準はだれが設定したのだろうか?漠然と人々の間から生じたように見えて、実は何かしらの意図があってデザインされることがほとんどなのではないだろうか?また、「自分は正しい側にいる」という安心感を得たいという人の心理につけ込んでデザインされた「社会正義」が拡散される。あるいは「本当のことを知りたい、追求したい」という心理に付け込んで、いろいろに歪めた情報を真実に紛れ込ませて撹乱し、新たな偏見を量産させる。そういう事に捕まってしまうと、いとも簡単に人は分断されてしまう。

何が正しいかなんて本当のところわからない。ただ、自分が感じていることを止めることはできないというだけだ。そして、人の感じ方をむりやり変える事は誰にもできない。どんなに批判したり、吊し上げたり、蔑んだりしても、感じていることをより強く保持させる結果に陥るだけだ。そしてますます分断が深まっていく。あるいは、表面的に態度を変えさせる事はできても、心の中の感じているところまで変更させることはできない。それをむりやりすることはただの「洗脳」だ。

自分の感じ方や人の感じ方に互いに耳を澄ませれば、自然となんらかの相対化が生じ、複数の視点を獲得できるかもしれない。それが本当の知恵と言えるのではないだろうか?

2021年5月22日土曜日

What is happening? 4日目


 What is happening?

2021年5月20日(木)

ベルリンの街に立ってみる企画の4日目。決めた日程の最後に当たるので、このあとこれを続けるかどうかちょっと迷っている。なんというか、とても複雑で面白い場所での取り組みは充実していると同時に緊張感もあるシチュエーションなので結構毎回消耗するのだ。予想に反して今日も道の角に警察の車があるし…でもそういうのにもちょっと慣れてきた。とにかく、何も考えずに立ってみようと覚悟を決めて、というかひとまず最後だと思って立つ。この日は、連邦議事堂の方を向いたところから始めてみた。草原が一面に輝いている。以前は誰でも気軽に憩うことのできる場所だった。でも今は立ち入り禁止だ。しかしそういった人々の営みや複雑な事情とは関係なく、草いきれと土の臭いが芳しい。その圧倒的な広さとその自然の複雑な営みが私を包み込むように感じ、静かで神聖な気持ちが湧いてくる。自分の立っている足元には石畳があって、その固い感触のひとつひとつが、どのような経路を辿ってきたのかはしらないけれど、長い長い歴史の中の一瞬この道の素材として使われていることの不思議。この4回の取り組みの中で、新たな一期一会の不思議な手踊みたいなものが湧き出てきた。その時、突然目の前で自転車に乗った人を追っかけて警察のバイクが急停車する。自分の中に急に恐怖が沸き起こる自分もついでに捕まるんじゃないか?という恐怖感。そんな理由はないはずだけど…。ちょっと緊張して立ち位置を変え、心の中で「集中、集中」と唱えていると、目の前の縁石に2センチ大くらいの羽のある虫がのたうっているのが見えた。ひっくり返って絶体絶命か、と思いきや自力で態勢をもどし、でもまたころんで、というのを繰り返している。暑いから道路が熱でこうなっているのだろうか?などと思いながらその虫に意識を向けながらしばらく踊っていると、警察のバイクと自転車のやりとりが終わったのか、警察のバイクが大きくUターン、またドキドキしながら踊り続けていると、すんなり元来た道を帰っていった。ホッとしたのもつかのま、こんどは大きな警察のバンがゆっくりと通り過ぎる。ちょっと速度を落として前を過ぎたその瞬間、ついに捕まるか?とか思ったけどそのまま通り過ぎた。またしてもドキドキしたけど、そういうあれこれを跳ね除けてエネルギーを自分の中心に集めて踊りきったなと感じた瞬間に終えた。この日は連邦議事堂前ではSPD(ドイツ社会民主党)という政党の赤い登りみたいなものをたくさん見た。ということは、何かしらの選挙運動でも行っていたのだろうか?ブランデンブルグ門あたりには今まで見たこともないほど大量の警察が投入されていた。また、乗り換えたアレキサンダープラッツあたりでは、警察が4〜5人のグループで人々を取り締まっている姿が見られた。普通の人々が常に警察に見張られているような状況になる時代がまた来るなんて、予想できていなかった。けれども、私が知らなかっただけで、そういう国々は今でもいっぱいある。人々は限定された自由の中で生きている。その限定が人を守ると感じるのか、あるいは自分が閉じ込められていると感じるか、状況や人の感じ方によってそれぞれだろう。けれども、あまりにも長く激しく限定されて、人々がそのことに慣れてしまったら、あるいはそれを望むようになったら、そのあとどのような時代になるのだろうか?ちょっとゾクっとする。

2021年5月20日木曜日

What is happening? 3日目


 What is happening? 
2021年5月18日(火)

ベルリンの街に立ってみる自分企画の3日目。この日は何故か、またしても通りの角に警察の車が…。もしや毎週火曜日には警察がいるということか?しかし、これはあとでわかったことだが、この警察のいる側の通りの前が首相府だった(汗)。ここにメルケルさんがいるらしい。知らなかった…。知らないで選んだ場所がなんだかとんでもなく意味ありげな場所になっていた。確かに背後に連邦議事堂があるけれど、むしろその前にある立ち入り禁止になっている野っ原の空間が私には魅力的に感じていて選んだ場所だった。そういえば、自分の作品上演のために2007年あたりに始めてベルリンに家族で来た時、ここは立ち入り禁止ではなくて人々が気軽に集う場所だったのではなかったかしら?たくさんの人が三々五々集まってのんびり過ごしていた記憶がある。写真も残っている。新型コロナの施策として施行された法の改正が、人々の分断や緊張を促して、ベルリンの街の空気感はずっと妙な緊張状態が続いている。でも、その前を通り過ぎる人々の気配を感じながらこの場所に立つ時間は私にとって不思議としっくりくる。今日は、踊り始めてすぐに数人の知り合いが私のパフォーマンスに立ち会ってくれた。その時の私にとっては予想外で、なんだか、あれ?見てくれるために来てくれた人に、私は何をするべきだったんだっけ?というような妙ちきりんな問いが浮かんでしまう。集中しようとしても、人の視線に対しての自分の反応がなんだか浮ついている。それはシチュエーションのせいか、あるいは距離感のせいか、あるいはしばらく人前でパフォーマンスをしていなかったせいかもしれない。毎週水曜日にはアーティストの友人と何かしら公園でのリハーサルをしていて、完全無観客状態で様々な試行錯誤をしてきた。そういう、人に見られていない取り組みをする時間が長すぎて、実際に誰かが見ているとなると、何かしら、その期待に答えなくてはいけなかったんだっけ?というような変な自意識が生まれてしまう。まるで、はじめたての芸術活動のようだ。もう一度、見てくれる人の視点に対して、もっと深い次元で応対できる立ち方を学びなおさなくてはいけないかもしれない。踊ったあと、見てくれた友人たちと交流し、そのあとそのあたりを散策していたら、私の後ろに見える連邦議事堂前ではコロンビアの政権に対する抗議と思われる何がしかのデモンストレーションをやっていて、しかし緊張感というよりは和やかな雰囲気の人々の集まりという感じであった。いろいろな物事が同時進行で動いている情勢の中で、それぞれの立場でそれぞれの人の思いがある。

2021年5月18日火曜日

What is happening? 2日目

 What is happening? 2021年5月13日(木)

ベルリンの街に立ってみる自分企画の2日目。その日は朝から雨だったので、立ってみるかどうか?少し迷ったけれど、短い時間だけでも、続けたいと思って出かけた。前回と同じ道に近づいても、その通りに警察はいなかった。それでちょっとホッとした。雨は霧雨のような感じで問題なさそうだったので、前回と同じ場所に立ってみる。霧雨はむしろとても気持ちいい。目を閉じて耳をすませる。深呼吸をして、霧雨のシャワーを全身に浴びる。自分の体が前回よりだいぶのびのび反応し始めているのを感じる。最初から、なんとなく集中できそうな予感がする。反応に身を任せながら動きが大きくなってきた時、通りを隔てたあたりを数人の若者が大音量の音楽をかけながら片手にビールを持って通り過ぎる。と、思ったら私を見て真似を始めた。笑いながら、半分バカにしながら真似してるけど、私もそれを見て笑ったら、なんとなくコミュニケーションというか、一緒に同じポーズをとったり動いたりして、一緒に遊んでいるような雰囲気になった。別れ際にグッドポーズを送ってくれたので私もその仕草を返した。ちょっと騒がしいその雰囲気が遠ざかっていく中、自分の体に集中し始める。そして、その日はいろいろな人が時々立ち止まってくれた。私を見ているのか、あるいは戸惑っているのか?でも、そのことに私の体はずいぶん助けられて、エネルギーを感じて自分の集中度がアップする。こんなにも、直接体を通したコミュニケーションというのは豊かだったのか?と改めて、そのことに打たれる。その合間合間には、空を飛ぶ鳥や、草花や木々、そういったものも私の体にダイレクトに影響を与えてくれる。毎回何かしらが起きて、そこから深く感じるものがある。この状況下はものごとを観察する方法を見つけるとても良いチャンスなのかもしれない。それが私にとってたまたまベルリンでのことだったのもなんだか面白い。これを続けた先に何があるか今はまだわからないけれど、次に立つのがとても楽しみだ。

2021年5月15日土曜日

うまく言葉にできなかったこと/残りの人生 2021年5月15日

 感じることを、感じるままに、でも言葉にするのは時には難しい。特に誰かに読まれるかもしれないところに書くのは。ずっと気になっていたけどうまく言葉にしてこなかった違和感に、ついに向き合ってみよう。それは、歴史的になんども繰り返されてきたことの、また同じ繰り返しとして私には感じられることの一つ、「レッテル貼り」である。ある人々を線引きの中に閉じ込めて、そのカテゴリーを通してのみ判断するというものだ。戦前、戦中には決まってある同じ方向に人々の感じ方や考え方を強要するものだが、その感じ方、考え方に意義をとなえる人々を囲い込んで、追い込んで、隅に追いやり、恥をかかせ、貶める。記憶に新しいのは「左翼野郎」であるとか「マルクス主義者」であるとかそういうフレーズだ。そのようなレッテルを貼られることは、社会的に葬られる可能性があることを意味したのであろう。だから、少数派をどんどん少数にする効果があり、また何かに疑問を持ってもそれを考えないようにする、つまり、レッテルを貼られるおそれのある感じ方や考え方には近づかないようにするという心理的ブレーキが働く。そのことによってその時期にはかなり多くの人々が同じ方向にのみ感じ方、考え方が誘導されていったのであろう。これはすごく効果的な方法であるということを今、実感している。現在、多用されるレッテルは「陰謀論者」そして「極右」「スピ系」などであろうか。反戦を唱えていた人々が主に左翼と言われた人々であったように、これらのレッテルを貼られるタイプの人々が主に新型コロナの経緯や恐怖を伝える報道およびSNS記事が溢れかえる現状に疑問を持ったり、ワクチンの危険を唱えたりする傾向にあるのは私も感じている。また、全く「陰謀論者」でも「極右」でも「スピ系」でもない人々が、そういう疑問を持ったり調べたりそれについてシェアしたりした場合でも、その類の「レッテル」を貼られるのではないか?という恐怖と隣り合わせになる。あるいは、自分がシェアしたものがそれらのレッテルの貼られる可能性のある人がしていたりした場合は、内容ではなく、その傾向だけが精査されてしまい、その時点で嘲笑、蔑み、貶めという憂き目にあう可能性が高くなる。だからこそ、そういった記事は人々の目に触れた途端にそのレッテルが作動し、アレルギー反応のように大きな反応が起き、中身を精査されることなくガラクタのようにゴミ箱に捨てられてしまう。とてつもなく大きな思考のブレーキが働くことになる。しかし、そのようなレッテルを貼られた人々の一人一人が、その時どんなことを感じ、どんな個人的な必要性にかられて行動したか、言葉を発したか、いったい誰にわかるだろう?そういった人たちは、「どうせ」偏った考え方しかできない、とか「どうせ」フェイクに決まっている、とか「どうせ」デマばっかり広めようとしている、と反射的に考えてしまうことは、やっぱり偏見ではないのだろうか?ある思考傾向にあること、そのことは当然その人にも何がしかの偏見があるかもしれない。その偏見が差別的な発言につながることもあるかもしれない。でももしそうなら、それが明らかになっている時にそれに対して誠実に意見を交わすことで全く違った可能性も出てくるのではないだろうか?投稿や発言の中に「極右」的あるいは「スピ系」な傾向すなわち、排他的な言動や、論理を完全に欠いた言動がない内容に関してさえも、最初からアレルギー反応を起こして自らの偏見を顧みない態度は、何も産まないし、そのブレーキを利用して感じ方や考え方を同じ方向にのみ引っ張ろうとする人たちの思う壺にはまるだけのようにわたしには思える。

私は人生をもう50年生きた。残りの人生は、自分の魂が最後に納得できるくらいに自分の人生を生き切りたい。私の芸術活動は、ダンス活動は、自分が本当に感じていることから発露するメディアでありたい。そのために命を使い切りたい。そのために生まれてきたのだと信じている。

2021年5月13日木曜日

What is happening? 1日目

 2021年5月11日 ベルリンの街に立ってみようという個人企画の初日、今年一番の夏日のような暑い中をトラムでアレキサンダープラッツに向かった。乗り継ぎのために駅で電車を待っているとホームの壁一面に、片腕の注射されたあとをカメラに向けてにっこり笑う人々の大きな大きな宣伝が並ぶ。前も後ろもその宣伝一色だ。そこから地下鉄に乗り、最寄りの駅から立ってみる予定の通りに近づくと、その通りの端に大きな警察の車が止まっている。車の中にも外にも警察がいて、だいたい4〜5人くらい。なんとなく怖いと感じながらも、一人で踊るだけのことは禁じられてないよなあと心の中でつぶやく。

汗ばむ陽気の中、ペットボトルの水を飲んでちょっとストレッチ。すると、いかにもベルリナーという感じの男性にドイツ語で話しかけられる。「何を体操とかしちゃってんの〜?」と言う彼に、片言のドイツ語で自分がダンスを踊ろうとしているとか、旦那が通りの反対から撮影するとか喋ったら、「旦那とはもう長いの?」みたいな、たぶん、そんな質問をされて戸惑っていると「あの角に警察がいるよね〜、ああいうのってなんか良くないよね〜」と喋りながら去っていった。そして、静かに目を閉じて街に耳を済ませる。暑いながらも風が気持ち良い。車の音、鳥の鳴き声、アスファルトの熱、警察の視線、そんな雑然としたいろいろが体をざわざわ言わせる。そして、静かに体を反応させていく。少し動くと、すぐに新たな情報が体をざわつかせるので、なかなかエネルギーを集中させることができない。けれどもその雑然とした耳を済ます行為は、しばらく人前でパフォーマンスをしていなかった私にとってとても新鮮な時間でもある。誰かが私にちょっと気づいたり、見つめたり、奇異な目でみたり、完全に無視したりしつつ、自転車やジョギングや友人との語らいやデートや、人々が普通の日々のそれぞれの瞬間を生きていて、私はその瞬間に触れて、背中側の遠くに連邦議会議事堂があり、目の前の道路にパトカーも通り過ぎる。30分踊ろうと思っていたのに、23分くらいで終わってしまう。でも、この取り組みを続けながら、街の変化にも耳を済ませてみようと思う。その帰りにバスに乗ろうとしたら、一人きりで白い大きな旗を掲げて連邦議会議事堂の入り口にたち続けている女性を見かけた。これで見かけるのは3回目だけれど、間違えなく同じ人みたいだ。この感染症防止法への反対の意思表示はあまりにも「小さな声」だが、とてつもなく凛としてまっすぐにわたしの魂に向かってくる。