2010年10月21日木曜日

リアクションと戦略

日本において、ローカリティーのリアクションと言うのは実はたくさん起きて来た。

これは、単に地方という意味ではない。つまり中央に飲み込まれる事に対する、あるいは管理されることに対する抵抗というリアクションだ。例えば

路上バンドブーム
タケノコ族
アングラ劇ブーム
60年安保闘争

ヤンキー
反抗期

その他諸々

でもリアクションと言うのは基本的に、発作的に無自覚に起きてくるもので、だからこそ、最初の瞬間はリアリティーがある。けれども、一番悪いことは、それがナルシズムに移行してしまうこと、自分を成り立たせるための他者否定のみに陥ってしまうことで、そうなると、それが力を持ったアウトプットには繋がらなくなって行く。一時的なものになって去って行く。

土方巽は、自身の足下の底にある深いローカリティーに接触し、体を媒体にしてエネルギーをアウトプットに繋げることに成功した。
そこには、ただのリアクションではなく、洞察力と戦略があったからに違いない。しかしその時代のリアクションという意味でもリアリティーがあったに違いない。

すべての古い芸能はその時代その時代にとってのリアリティーのある反応だったに違いない。そのことを深く理解する必要がある。
どのような状況でどのようなリアクションがあったのか、またそれがどのような戦略を持って、気高い芸能に結実して行ったのか?リサーチする上で一番重要なポイントではないだろうか。それらを通して、今の私たちがどのようなリアクションを起しているのかあるいは起こせていないのか?起こせる可能性があるのか?見て行かなくては行けないだろう。

韓国から帰国

●韓国に行って
韓国は、パラレルワールドに来てしまったのではないか、というくらいに日本に近似して感じました。都市やテレビの内容はもとより、韓国の田舎に行ったのですが、その途中の風景も一見するとまるで日本の田舎ですが、よく見ると細部が違うのです。昔の家屋に行っても、非常に懐かしくて胸がキュンとなる感じがあって、よく見ると違うのです。ススキ野原、松林、茅葺きのような屋根。日本というイメージを自分の中で勝手に区切っているそういう前提が壊れて行く感じが心地よいです。

●韓国の書院文化
田舎に行った時に書院というところに行きました。それは、私学で、中央の政権とは対峙する立場にあるインテリな人たちがたまったり議論したりもするような場で、それが国の各地にあります。近代化したときに機能としてはなくなりました。しかし、韓国は基本的に中央に対する民衆の反骨精神が非常に強く、また意識も高いです。なので、常におかしいと思う事があれば反発します。し、歴史的に力があったようです。

●民衆の芸能
あと、仮面劇を見ました。これは、私が地元でやっているお囃子や花祭りの鬼が出ている場面にとても似ていて、つまり、中央的な芸能ではなく、民衆のために自治的に行われたものです。これが完全に観光化されているにも関わらず、物凄いエネルギーとお客さんに対する働きかけ、またその受け手の関係に、リアリティーがあり、かなり感動しました。音楽は体の底の方から血を沸き立たせるような力があった。まだこの芸能は生きていると思った。

書院、仮面劇共に、私にとって、今テーマとなっている

「中央」VS「ローカリティー」

の理想的な図で、この国のためではなく、自分たちのために学んだり芸能を立ち上げたりしているということです。日本でもじつは中世には本当に盛んだったし、その流れは江戸までは続いていました。

●日本の場合
ローカリティーのエネルギーは、自分の村の神様や、無縁の場にある信仰などがその後ろ盾となって、中央に対峙する自分たちのための芸能を支えていたのではないだろうかと。日本でそれが完全に瓦解したのが明治の時、「国」の骨格がはっきりと提示されて宗教も「国家神道」に回収させられていった、つまり、全てが中央の下に入った。そうすると後ろ盾となる「おらが村の神様」の力がなくなり、中央に対峙する力もなくなり、芸能自体もリアリティーを失い、力を失うという流れだったのではないか?と思っています。今は国家神道はないけれど、圧倒的な資本のシステムがその代わりに回収しているという感じかもしれません。

●現在のローカリティについて考える
今の時代に、今の日本で、あるいは国という概念の外側で、某かの無縁の場を見出す事が可能か?マジョリティーに吸収されないもう一つのエネルギーを芸術のムーブメントに繋げる事は可能か?

2010年10月14日木曜日

リサーチ行き詰まり

今回の韓国の旅は、なかなか難儀です。
劇場が7歳以下の子供は入れない規則になっていたり、私と会って話ししてくれるアーティストが決まらなかったり、その後決まってもなかなか予定が合わなかったり。
でも、こちらの日常を短い時間ですが味わっている中でなかなか深く感じ入ることもあります。
それについてはまた後日書きます。

日本のトイレ掃除の仕事をしているおばちゃんと、韓国のトイレ掃除のおばちゃんの違いについて。

2010年10月10日日曜日

Korea

I stay Seoul now.
I cannot use my PC, so I try english.
Today I waited long time to call by Daisuke Muto.
And we could meet and we eat pork.

I wrote e-mail few friend.

2010年10月4日月曜日

帰国して、さて

最終日、ディンドンの住まいに再びおじゃまして、今度はディンドンが言う

RASA(Feeling)
Karsa(Action)
Cipta(Creation)

というキーワードを探るべく、おもに上の2つを実践した。
そこには

Spontanitasという直訳すると自然発生的、率直

ということが重要で、何回かのトライで、その実践が可能になって来た。
ただ、ディンドンが求めている物はそこから動きに変換されるということであると強く感じたので、そのことに応えるという側面もあったかもしれない。

私自身、自分の手法でも近いところだがその違いは何なのかということをずっと探った。
私は、感じた事が体自体になんらかの反応をもたらす事は同じだが、動きというものになるというところに全く重きを置いていないで、体自体の質感が変わるというところに可能性を見ているという点で大きく違い、そのことが違いを生んでいると言えるかもしれない。

自分と言う感覚に付いてもう少し突っ込んだ話しがしたかったが、ディンドンもこのリサーチの続行を望んでいて、いろいろな可能性を考えてくれているようだったので、これから時間をかけて少しずつ進めて行きたいと思った。

ところでお腹はやっぱり壊した。コーヒーでした。