2021年8月25日水曜日

ゴミを取り除くこと 人それぞれの道 2021年8月25日

自分が何に反応するか?というのはとても大事だ。SNSでの情報入手みたいなことへの依存性が増すと、自分が他にたくさん反応できる現実の物事をとりこぼしてしまう。わかっているのにやめられない→気づいてそこから距離をとる、の繰り返しだが…。

こまめに掃除をすると、掃除をする行為が自分の中にあるごちゃごちゃした感情を少し拭い去ってくれるような気がする。「見立て」をしようと意識しなくても、自然にリンクしているようなところがある。文化的なことなのか、それとももっと深いところにある性質なのか?

「猫が30歳まで生きる日」という本を読んだ。猫は腎臓が弱くて、腎臓の病気になる確率が高いようだ。腎臓に溜まった毒素を排出する機能が弱いせいだ。人の病気も、糖尿や腎臓の障害や、様々な違って見える原因不明といわれていた病気を調べていくと、体の中に溜まった様々なゴミを排出できないという共通の原因があるらしい。そういえば、人類的な問題もやっぱり、産業廃棄物、産業排水、核のゴミ、様々な分解しきれないほどの毒素を地球に排出し続けていて、それについての取組みは全く進んでいないように見える。これでは人間全体が病気にもなるだろう。心の中で何をゴミと考えるか難しいけれど、やっぱり溜まってしまうと病んでしまうのだろう。全てにおいて、こまめにゴミを取り除くことが大切だ。取り除くといっても、どこかに見えないところにそれが溜まるだけではもちろん無意味で、分解され、ほどけて、循環することが本当に大切なのだろう。だからといって、それを「地球規模のパートナーシップ」という美辞麗句でスーパートップダウンの人々へのコントロールが行われるのは別の意味でとても恐ろしい。

感じ方の違い、考え方の偏り、どんな情報に反応するかが人それぞれ違うのは、それぞれに違った生存戦略を持っていると考えてみることもできる。そうすることで、大局的には(種としては)どれかが生き残ればいいわけで、もし全員が同じ感じ方、考え方、反応をしてしまってすべてが全滅するよりは、そっちの方が良いと考えてみることもできる。それぞれが自分の信じた道を進み、それぞれの結果を受け入れることができればいいだけだ。そう考えると肩の力が抜ける。

2021年8月18日水曜日

人類ゲームの登場人物として 2021年8月18日

 少しは前向きなことを考えていきたい。今起きていることは、たとえ人類が一度滅んでゼロからやり直したとしても同じことが起きるのではないだろうか?と想像してみる。また、もしかして自分の生まれるタイミングが微妙に違ったら、自分は経済的勝者として人々を抑圧する側になっていたかもしれない。もし、そうなっていたらお金を好きなだけつぎ込んで自分の立場や利権を守るために、恐怖を抱きながら悪徳の限りを尽くしていたかもしれない。自分がそっちの側じゃなくて、ひとまずラッキーだったと考えてみる。地球上で生きる人間のプロセスにとって今の事態が必然であるならば、それぞれの時代の課題に対して様々な違った立場の人が反応をしていった積み重ねによって今の時代がある。少なくない人々がいろいろな気づきを得て小さな試行錯誤を繰り返しながら新たな可能性を見つけてきた一方、大きなお金を動かす人たちの側は拡大や進歩を謳い文句に人々からお金を吸い上げる数々のトリックを繰り出して、多くの人々は知らないうちにそれに加担、協力してきた。今起きている課題は、ちょっと難しい応用問題みたいな感じかもしれない。一人一人が今まで生きてきた経験とそこから得た知恵と感覚を総動員し、何が起きているのかを察知する。そして、お金を吸い上げるトリックとしての「連帯」や「正義感」ではなく、一人一人がサヴァイブ(生き残ると同時に自分の意に沿わないことを強要されることから逃げ切る)しつつ、人との関わりを魅力的なものにして生を味わい尽くす。そんな人類ゲームの登場人物の一人としてこの局面をとことん楽しんでみる。

2021年8月12日木曜日

自分が何を犠牲にしているのか? 2012年8月12日

 どこに焦点を当てるかで「自分の行動によって何を犠牲にしているか?」は全く違って見えてくる。

今現在、世界的な世論として、私たちの行動ひとつひとつの結果が、感染症を拡大し、その犠牲として重症化したり死亡したりする人がいる、というところに焦点が当たっている。しかし、実際には、非常に厳しい感染症対策をしていても、そこで感染する人が出たりすることは止められないようだ。また、全く対策をしていなくても、ほとんど被害が出ないこともある。または、ほとんどワクチンを摂取している施設でみなが感染することもある。実際に、因果関係は、メディアやSNSでシェアされる記事が言うほど単純ではなく、非常に複雑なのではないだろうか?

たとえばスマホに使われてるレアメタルは、非常に安い賃金で働かされる人や、資源を持ち出す現地の環境を破壊しているかもしれない。私たちが飲むコーヒーやチョコレイトによって戦争経済や奴隷労働に加担しているかもしれない。ただ、そこに焦点が当たってないので気にしていないだけだ。もう一つ、世界的な世論として二酸化炭素排出に焦点があたっているけれど、環境破壊はもっと見るべき側面があり、私たちが安く買う物の工場が立っている国や地域で恐ろしいまでの汚染された水が排水されているかもしれない。規制のゆるい国で恐ろしい薬の人体実験が行われているかもしれない。名目としては貧しい人々を救うためと謳いつつ実際にはたくさんの踏みつけにされる人々がいて、国際機関も、医療業界もそれに加担しているのだろう。そこに焦点が当たらないようになっているだけで。私たちは、いつも踏みつける側なので(あるいはかわいそうな人を救う側なので)、踏みつけにされる側になるなんて想像もできないだけかもしれない。それでいて、世論を賑わす「正義感」は視点を固定するための情報を与えられるだけで世界全体をデザインし始める。

私の父は、2018年に肺炎のワクチンを受けたが、風邪だと思っていたら容体が急変して意識が混濁し、肺炎となった。時間を経てその後回復した。だからといってワクチンが原因だとは言わない。けれども、ワクチンを打ったから防げると断定できないことは確かだ。原因と結果はそんなに単純じゃない。

ワクチンがなかった時も、新型コロナの感染症が広がる時もあり、また全然広がらない時もあった。ワクチン摂取が進んできた今、そうなる前よりむしろ感染は広がりつつある。でも視点が固定されると、まだワクチン摂取が進まないせいで広がっているかのように世論が誘導されていく。

私が人々の感じを見ていて思うのは、みんながこの状況を早く終わらせたいと思っているということだ。仕事がこれ以上奪われたくない。これ以上イベントを延期されたくない。不安に苛まれたくない。私も同じように思っている。しかし、それが感染症のための厳しい規制やロックダウンやワクチンによってもたらされるとは限らないと思う。恐怖から早く解放されたい、と思う時、視野がどんどん狭くなる。しかし、原因と結果はあくまで複雑なのであって、もしかしたら、健康な人が感染することでむしろ早くに解決する可能性もあるかもしれない。規制から解放され、恐怖から解放されたら物事はいい方向に進むかもしれない。

SNSで状況を把握しようとしていると、自分が何を言ったらいいのか、書いたらいいのかまったくわからなくなってくる。しかし、SNS内では全く救いがないように見える意見が違うであろう人々も、現実の世界ではお互い非常にうまくやっているように見える。現実の物理的な空間の中で人は、理屈抜きに見えない何かを交換していて、いろいろなレベルで、多様な物事に共感しあえるものなのかもしれない。それはとにかく救いだ。