2022年6月28日火曜日

人権と民主主義を維持できるかどうか 2022年6月28日

新型コロナはよくインフルエンザと比べられたけれど、今にして思えば、比べる相手が間違っていたと思う。新型コロナは旧型コロナと比べるべきだったと思う。旧型コロナは人間との長い付き合いの中しょっちゅう変異し、毒性もその時々でちがっただろうと思う。そして、一番大きいのは数をカウントしたことがなかった、ということだ。感染者数をカウントする方法がなかったのだ。PCR検査は、感染者をカウントするために使われたことがなかった。そのような方法が不適切だったから。そのため、旧型コロナから重症になった人の人数も、重症になった人への取材もしたことがなかった。旧型コロナからの関連死亡数もカウントしたことがなかった。どのくらいの頻度で流行ったり、流行らなくなったりの波がくるのかも調べたことがなかった。でも、そこを比べなければ、実際のところ「新型」コロナがどのくらい危険かわからないなと思う。「人が死んでいる」とか「後遺症が」と強調されたけれど、ネガティブな部分を強調し、視野を狭くすれば大抵のものは「脅威」になってしまう。今回の「新型コロナ」の発明は数をカウントし、それをメディアで大々的に公表したことだ。そして、「無症状感染者」というのもひとつの発明で、感染対策をおこたれば感染を拡大する犯人のように扱うことが可能になる。そのようなプレッシャーで人々がお互いに監視し合う「全体主義的」世界が完成する。微小なウイルスを人間がコントロールできるわけではないにもかかわらず、感染対策と称して人を直接会わせない、集まらせない、自由に行動させない、それらを行っても感染者数が減らず、カウントすればするほど感染者数が増え、人々の心がどんどんおかしくなり、弱っていき、自分で考えられなくなり、SNSの依存になり、強い権力に「守って欲しい」と思い始め、人権を放棄していく。悪循環だ。

ただ、日本では人々がそこまで深刻に考えない人も多く、つまり怖がっている人に合わせたり、怖がってない人に合わせたり、そこは適当に日和見で行動していく人が多い。つまり自分がどう感じるか?ということを保留して、いざとなれば行動を変えることができる人が多いということかもしれない。そういった振る舞いは、このような世界の中では生き残るよい戦略なのかもしれない。

人権を放棄させ、何かに依存させて操りやすくするのは、「国」を操る経済的利権者なのだと思う。だから国やその指導者をどんなに糾弾しても届かないし、だれか良い人を選んでみても、本当に良いことをやったらいつでも潰されてしまう。そんな状況の中で、とりあえず、人権、民主主義をなんとしても維持する方法はないものか…

人権というと、弱者の人権という文脈でのみ語られることが多い。それがわかりやすく「正しいこと」だから。しかし、人権というのは私の人権でありあなたの人権のことであることを忘れてしまう人は多い。誰かが行きたいところに行く権利、会いたい人に会う権利、人と集まる権利、マスクをする権利、しない権利、ワクチンをする権利、しない権利、選択の自由、意に沿わないことを強要されることから逃げる権利。それが保証されるべきであり、それは生まれながらに人が持っている権利のことだ。それらをいろいろな理由をつけて取り払いたい経済的利権者がメディアと国を使って「恐怖」をテコに操作してくる。そのからくりを見抜く力を人が持てるかどうか、人権と民主主義を維持できるかどうかはそこにかかっている。

2022年6月8日水曜日

産業・デザインされた振る舞いの外側 2022年6月8日

 産業化の成り立ちについてぼんやり考えている。どんな人も収入を安定させていたい。なんなら、収入が少しずつ増えていてほしい。収入というのは誰かが何かを買ってくれるということだ。何かを買い続けてくれたらもっといい。だから、今まで人が気づかなかったニーズを新たに作る。それまで人々が欲していなかった何かを「欲する」状態をつくる。そしてそれなしでは生きられないほどに依存させることで、今までになかった莫大な利益が見込まれる。それは会社にとっての正義だ。それらの買い換えるペースが早いほど儲けは大きい。スマホやパソコンもそうだけど、薬などの医薬品も一度それがないと生きれないようにしたり、不安を煽ってたくさん摂取させたりするほど儲かる。そのための宣伝、あるいは、それがないと不安であると思ってもらえるプロパガンダが必要。ライバルを潰すべくプロパガンダもプロに依頼できる。お金を使って外注し、様々な工作を行って、依頼された側はただ仕事をこなすだけだ。それらすべては売り上げ向上という会社にとっての正義だ。産業のため、売り上げのため、会社の利益のために「うそをつくこと」も正当化されてしまう、という状況が加速している。命を守ろうとする行為が命を脅かし、反戦を叫ぶ振る舞いが戦争を拡大していくカラクリ。

フェイク、「陰謀論」、ネガティブなレッテルは強烈に作用する。そのレッテルを貼られないように振る舞うか、開き直ってムキになってしまうか、その場合でも逆の振る舞いを振り付けられたようになってしまう。

「公益」を巡る正義が広く示される中で、効果がなくても実行する規制、リスクがあってもそれを負ってでも順守しようとする人々の態度とその積み重ねは、多くの人が何に対しても「服従」を容認する世界への変化を促進するだろう。「人権」という概念が問われることなく変化が進む。むしろ、それを人々に示すショーが行われているがごとくだ。またそのことを人々が受け入れるという意味でコントロールする側の勝利となってしまう。そして、そのために起きることはコントロールする側にも帰ってくるだろう。

しかし、こういったことも大きな自然という概念でいえば自然なのだろうか?人間すべてを消し去ってゼロから初めても同じ結果になるかもしれない。今最高の勝ち組の人たちが全て消え去っても、残った中から同じことをする人が現れて結局同じになるかもしれない。今まであったどの革命でも同じようにもっとひどい指導者による圧政にとって代わるだけだったことも多い。

デザインされた振る舞いの外に出ること。意に沿わないことを強要されることから逃げ切ること。たとえ、ごく身近な人の「正義」の立場からの訴えであっても。そこにある種の不和が生じると感じても。粘り強くコミュニケーションを重ねながらそれができたら…。

最近、デザインされた振る舞いの外に生きているたくさんの人に出会うことが多くなった。その人たちと一緒にいる間は、デザインのことなんて全く忘れてしまうほどだ。自分もそういった生き方の方に意識をもっと集中した方が良いのかもしれない。精神衛生が極めて良い。その人たちから多くを学んでいる。頭ではわかってたことでももっと身体的に受け取れることが多くなった。「自然に沿う」とは起きたことを受け取り、そこから学ぶ態度のことなのかもしれない。