2013年9月27日金曜日

偽の目的意識 2


それとはまた違った話。自分にとって切実に何かを見いだしたい、あるいは伝えたい、押し出したい、という思いがあって、それを生々しい形で作品にしてしまうということが自分にはよくある。自分の中の何かがそれを押し出してしまう熱を持っているのに抗えないような感覚である。そのときに、もう少し利口になろうよと。人にとって表面的に受け取りやすい偽の目的意識をひとつ作ることで、また違った可能性を手にすることができるかもしれない。たとえばある種のハリウッド映画や、宮崎駿作品のように。

つづく

2013年9月26日木曜日

偽の目的意識

何をするにも、目的意識を持って何かをやることによって、目的を遂行するという、ひとつの当たり前のような事柄がある。けれども、目的を遂行したときに、その目的を遂行する目的は一体なんなのか?あるいは、「目的を遂行すること」が目的になってしまうのではないか?という問いがここにある。

なにがしかの作品を作るときに、「●●を伝えるため」とか「●●を見てもらう」とかそういう目的を持ちがちだけれど、それがどうしたの?という罠にはまってしまうことはよくあることだ。

「目的意識」というのは、ひとつの壁のようなもので、それを打ち砕くような行為が実際に何かを見いだすきっかけになることが多いように思う。ただ、目的意識を取り払うというのはたかなか難しいときに、「偽の目的意識」を打ち立てるという方法がある。「偽の目的意識」は、自分にとってできるだけどうでも良いことを目的に持ってみることだ。あるいは、人にとって表面的に受け取りやすい目的と言ってもいい。

つづく

2013年9月8日日曜日

労働が醸すノリ

労働者階級と支配者階級というような区分があるというふうに、とらえたことがなかった。それぞれに、グラデーションのように収入の差異があるだけのような印象をどこかで持っていたように思う。けれど、財産を保有することによってそれを守ろうとする動きをする人々というのは、思った以上にその財産や権利をたくさん持っていて、そういったものを持ったことが無い圧倒的多数の人々は、労働によって圧倒的な時間を過ごすわけだ。また、電気、水道、ガスとそれに伴う便利な道具、洗濯機、ガスレンジ、冷蔵庫、冷暖房、それぞれによって、過酷な環境で過酷な労働をしなくてすむことと引き換えに、けっこうなお金を支払い続けなければならないから、その分他のことで労働をするということになる。それを引き換えないで、自力でできることを少しずつ増やすことで、自治的なコミュニティーのあり方に少しずつ引き戻すことができないだろうか?過酷な労働に耐えるためには、その労働している人を生かすために労働歌がいる。労働歌から派生する踊りがいる。それらは、自分たちのことを自分たちでやっている自負と、それが醸すノリによって立ち上がるだろう。