2021年1月28日木曜日

友人との再会 意見の違いなんか気にならない 2021年1月27日

 久しぶりに友人と会うことができた。お互いに、免疫力を高めるためには孤独感や罪悪感から離れなければならないことを実感しての再会で、今起きている物事に対する多少の考えの違いは、その違いを確認しあったり、なぜそう感じるかを交換し合うことで問題なく話し合えた。これが私の心に本当に安心と信頼と喜びを呼び起こしてくれた。そう、意見の違いなんて全然問題ない。互いにどう感じてるかを交換するだけでいい。この感じが本当に風通しが良くて心が楽になる。そして、共通事項を大切にすれば良いのだ。免疫力を下げる「悲しみ」「孤独感」「罪悪感」「不安」からできるだけ遠くにいるために、一緒にご飯を作って楽しく過ごし、また楽しい計画を立てる。それだけで十分だ。SNSとにらめっこしてる時間と比べたら比較にならないほど健康的だ。あ〜しあわせ。

2021年1月21日木曜日

春の予感? 2021年1月20日

 ロックダウンが2月14日までという発表があり、マスクの種類が義務付けられた憂鬱を少しだけ軽くしてくれた。4月頭までかもしれない、という記事もあり、そうなったらかなり憂鬱だと思っていたので、ダブルじゃなくてまだよかった。しかし、もちろんぬか喜びかもしれない。少しずつ、少しずつ伸ばすことになるだけかもしれない。

久しぶりに、また電車で手紙を書く。心なしか、シートで談話する元気なおばちゃんたちは明るい雰囲気だった。そういえば気温もちょっと上がって、曇りだけれど遠くに雲の切れ間があって地平線は美しいピンク色。春の予感というにはちょっと早すぎだろうか?窓の外の街路樹はほとんど丸裸だけれど、春になれば若芽が萌えるのかと思うと、それが待ち遠しく、それを待つ時間も悪くない。

2021年1月19日火曜日

忘れられたリテラシー 2021年1月18日

 時代が変わっても、何度でも何度でも似たようなことが繰り返される。

偏見というのは誰でも持っていると思う。基本的に、人は様々な偏見に満ちている。時々、別の側面から物事を見ることができた瞬間にそれが解除されたり、他に人の感じ方を参考にして、別の可能性について考えることができるようになる。それらを繰り返すことで、なんとなく、同じ偏見にしがみつかずに済んだりもする。けれども、またすぐ、何かしらの偏見というのは生まれ続ける。だから、人と一緒に話すことがとても大事なのかもしれないとも思う。それも、インターネットを介してではなく直接人と話す。なぜかというと、話している相手の視点を通して物事を見る瞬間というのは、すごく身体的な経験だから。インターネットを通すとそれがかなり阻害されるという印象がある。

同じ方向の人の感じ方を何度も何度も見ているうちに、それが世論であると感じるようになる。フェイスブックはそういう効果が絶大だ。このコロナが始まった頃、すごく些細のことを「デマ」として糾弾する、デマ警察てきな人がとても増え、そういうことを友人や知り合いにさえされるようになる。もちろん、ひどいデマもあって用心する気持ちになるのだろうが、「熱いお茶をしょっちゅう飲むのが良い」というようなたわいもない内容でさえデマのレッテルが貼られていく。科学的根拠がない、ということで。しかし、日常的にさまざまな科学的に根拠のない民間療法を実践している人はたくさんいるし、それに効果を感じている人に向かって科学的根拠がないと糾弾する必要があるとは思えない。ウイルスのことでさえ、まだわからないことがたくさんあり、科学的に根拠がはっきり示される頃にはなにもかも終わってしまているだろう。あるいは、科学的根拠がはっきりと分かるころにはもう手遅れということも世の中にはたくさんある。

何かしら違和感がある、何か変だ、という科学的根拠のない自分の感を大切にすることができなければ、いざというとき自分で何も判断することができない。また、それを人と話し合うことで、視点を変えて物事をみることもとても大切だ。いろいろなことがわかった時にはもう手遅れということは考えられる。しかし、現在はそれをしにくい状況が形成されている。監視されているインターネットを使用しなければ人と簡単には話せない。

私は、去年コロナが始まった頃から、特にフェイスブックに多大な違和感を持つようになった。多く繰り返されるタイプの記事、あまり出てこないタイプの記事、あるいは民間の人を装った記事が混ざっていたとしてもだれもわからない。しかも、何かが起きた時に、誰かのアカウントを停止したりできる。あきらかに世論はこれらのメディアによってデザインされている。ずっと言われてきたことだが、これほど深く違和感を覚えたのは初めてだ。そして、世論のデザインには何かしらの意図がある。何かの組織がメディアとつながれば金銭的な契約が結ばれて世論のデザインを依頼されることも考えられる。

メディアへのリテラシーは何度も叫ばれたが、今回また完全に忘れられた。恐怖がリテラシーを反故にできることを胸に刻む必要がある。恐怖は死角を拡大させる。恐怖さえもデザインされる可能性があることに意識を向けるべきだ。

2021年1月14日木曜日

閉塞感 電車で一周 2021年1月13日

 ロックダウンの厳しい状況が長く続きそうな機運になって、最初のロックダウンの時と同じような種類の不安というか、閉塞感を感じ、自分で見えない檻に自ら入ってしまいそうな気分になった。これは、この時期に何かを学ぶというような感じでは乗り切れそうもないなと思った。自分の心の動きをもう少し積極的に動かさずにはいられないような焦燥感があり、41番線の電車に乗って一周回りながら手紙を書いた。寅雄氏とのzoom通話を文通に切り替えて一週間、zoomの時よりずっと向き合う時間が長いように感じている。なぜかというと、何を書こうか、と考え続けるし、書いている時には心の近くに相手がいるように感じるから。これは不思議な感覚だ。時間的な距離や時限的な距離を人がどうやって乗り越えようとするか、ということについて考えさせられる。

フェイスブックで繋がっていた人で、気がついたらそこから離れている人が増えていることに、今更ながら気づく。世界的な風潮としては、ロックダウンで実質的に会えない人が増えることで、インターネットでのやりとりが飛躍的に増える傾向にあるかもしれないが、インターネットでのやりとりに辟易してしまっている人もだいぶ増えているのではないかと想像する。私もそろそろ潮時か…。

情報を得る方法、あるいは発信する方法はもう少し工夫できるはず。

2021年1月12日火曜日

ささやかなコンサート カモの夫婦 寒中水泳 2021年1月11日

 昨日、日曜日のお昼頃、いつものように湖に散歩に行くと、どこからともなく音楽を演奏する音が聞こえてくる。それはラジカセからの音楽じゃなく、誰かが演奏しているものだなあとわかる。吸い寄せられるようにそちらの方に歩いていくと、一人の女性のミュージシャンがギターを弾きながら少ししっとりした感じの、透明感のある歌声で歌っている。最初、ほんの数人だけが周りを少し遠巻きに見ていた。私は、湖の際に斜めに生えている木の幹の上に腰掛けて、左側に湖、右側にミュージシャンがちょっと遠くに見える位置に腰をかけてカプチーノを飲んだ。極楽である。すごい水音がして湖を見てみると、男女がきゃーきゃーいいながら素っ裸で湖に入っている。もしかいたら、毎年こういう風景が観れるのだろうか?あるいは今年、コロナ禍の中で特別にこれをやる人が増えているのだろうか?「水があったかい!」とかいいながらザブッとやってすぐに出る人、二人でヨガのようなポーズを取りながらながいこと入っている人、いろいろだ。面白いのは、水に入る位置がだいたい決まっているとこことだ。水に入るのにうってつけの場所があるということなのだろうか?下をみると、水際にカモの夫婦が寄り添いながらじーっとしている。一匹は少し動き回ってもう一匹は動かずに、お互い無関係のようにも見えて、お互いがいることで安心しきっているように感じる。ミュージシャンの方をみると、取り巻く人々はまばらだったのに、一人、また一人と、火のまわりで暖を取るために人が集まるように音楽の周りに人が集まってくる。そして、奇跡を目撃しているような顔つきでみな音に聞き入っている。私も、それを求める人の心に自分の心が重なって涙が出た。

私が思ったよりずっとベルリンの人々はたくましくて、様々な工夫をしながら心が動く瞬間を見つけ続けているのかもしれない。

2021年1月9日土曜日

小さく複雑な因果関係 心を鳥に重ねてみる 2021年1月9日

 今日も湖畔で鳥たちを観察する。鳥たちは、好きなように、好きなところに飛んでいったり泳いだり餌をとったりしている。もちろん「好きなように」とか「自由に」とか言うのは私が勝手に言葉にしているだけのことだけど。本能の赴くままに、と言ったほうが当たっているだろうか?それは自然の中にある見えない法則みたいなものに沿っているとも言える。その法則には中心がなく、小さく複雑な因果関係の積み重ねの現れだったりする。それはなんとすごい仕組みだろう。私たちも本当はその法則の一部分にすぎない。それを思うととても暖かく幸せな気持ちになる。それらは、目的意識やコントロールとは無縁だ。人間の価値観では「自然淘汰」とか「生存競争」とかいう言葉を使うけれど、実際には競争とか淘汰などの意識なんか全くなく、小さく複雑な相対的因果関係の積み重ねでしかない。その中にはもちろんウイルスもいる。2018年に書かれた「ウイルスの意味論」という本の中で、「レトロウイルス」についての説明が出ていて、それが非常に面白い。外来性のレトロウイルスが感染のプロセスの中でヒトの遺伝子の中に組み込まれることで水平に遺伝子変化が起き、それがそのまま親から子へと縦方向にも遺伝していくらしい。今分かっているだけでも、ヒトの遺伝子のうちレトロウイルス由来のものは少なくとも9%はあるらしい。ウイルスは生物か、無生物か、議論が分かれている。でも、ウイルスは増殖し移動するという性質があり、生物の遺伝子にも方法は違えど増殖するという性質がある。ウイルスと遺伝子の相互関係には、人間の積み重ねてきた知識と思考法では追いつかないような、何か哲学的とも思われるような何かがあるようにさえ感じる。しかし、それは、パパラギを書いた酋長たち、サモアの人々が自然のなかで「大いなる心」と呼んでいた何かに通じるのかもしれない。文明の利器を使って研究し、深めていく知識というものがあり、一方でそういった知識や情報とは無縁の観察、洞察、知恵というものがある。

一方、もし「知識」を一度とっぱらって、自然発生的な想像に身を任せてみることができたら?人間が作ったあらゆる線引きと無縁に鳥たちが飛び回る姿を見て、もしかしたら違う次元の向こう側まで飛んでいくことができるのではないか?と想像することもできる。そうすると、その鳥の姿に自分の心を重ねて死者の国へ旅立った者と交流できるかもしれない、と考えてみることもできる。鳥を神の国の使いとしたり、亡くなった魂が鳥になったり、そういった昔話や民話は世界中に存在するようだ。心は、鳥のように無限に飛び回ることができる、と信じてみる。そうすると、世界の有り様はずいぶん違ったように感じられる。

2021年1月8日金曜日

鳥たち パパラギ ゆらゆら 2021年1月8日

 今日は珍しく、起きてすぐにお散歩に行った。湖の湖畔でハガキを書く。その間、鳥の様々な声が響く。特におかしいのは、カモメが文句を言うような奇妙な声で鳴いていること。なぜ、こんな内陸にカモメがいるのだろう?私のイメージではカモメはいつも港にいるものだと思っていた。鴨の親子が虫を探して土の中に嘴を突っ込む。草をしごいているのか、食べているのか、枯葉の下から青く細長い草を一本ずつ嘴でパクパクやっている。その音が、パクパクパクパクパクパクと、響いている。だんだん鳥の姿が増えて、黒い鳥や嘴の上に班のある鳥やら、たくさんの種類の鳥が集まってきてみんな同じ行動をしている。パクパクパクパクパクパク…。鳥たちはロックダウンも国境も関係なく、普段どうりに餌を求めたり飛び回ったりしている。なぜなら、彼らには概念を理解しないから。それに思い至った時、すごく自由を感じる。最近読んでいる『パパラギ』の語り手が、「私は時間というものがどうしても理解できない。すなわち年齢というものも理解できない。数えることに意味があるとはどうしても思えない」という箇所が出てくる。それも「時間」という概念を理解しないことで得られる自由みたいなもかもしれない。その二つが自分の中で深くリンクする。私たちを縛っているもののひとつは「概念」なんだと。それを消し去ることはできなくても本当はないものだと理解できればずいぶん楽になれる気がする。その考え方は仏教の哲学に近いのだろうか?

ベルリンの街行く人々を見ていると、外にいても見えない枠組みのなかに捕らえられているような閉塞感を感じる。それぞれ孤立して、うつむいて目的以外のことをしない。地下鉄の中ではみなうつむいてスマホをやる人の割合がずっと増えている。アレキサンダープラッツ広場はガラーンとしていて鳥の声だけが生き生きと響いてまるで森の中みたい。でも警察がうろうろしていて得体の知れない緊張感を感じる。人々が見えないグリッドに沿って思考し、行動をするようにデザインされている、振り付けられているように見える。見えないグリッドに捕まらないようにするために何が必要なのだろう?そう息子に聞いてみると「大切なことは、ゆらゆら揺れ続けることだよ」と言う。「ゆらゆらしながら、次にどんなことが起きてもいろいろな可能性に対応できる。」と。その速度が大切なのだそうだ。ゆっくりゆらゆらしたほうがいいそうだ。そうかもしれない。それにプラス美輪明宏考案の、喋っている時、その語尾にルンルンをつける語法を合わせたらより良いかもしれない。なぜなら、デザインされた思考や行動から少しでもずれることが、自分を少しだけ自由にする方法だと感じるから。少しずれるだけのことにはいくらでも方法がある。ルンルン。

頭の中のもやもや フーコー パパラギ 2021年1月7日

 ロックダウンが延長されて、また時間が止まったような感覚がやってきた。スーパーに行ってもなんだか、買うものがマンネリになってしまい、特に野菜を選ぶときに、選択肢が少ないなあと感じる。ヨーロッパ独特の野菜を息子が嫌がるのであまり買わないのもいけないのかもしれない。でも、こういうのは日によって違うのだと思う。英語やドイツ語などやらなければならないことは山ほどあるけど、集中するにはモチベーションが必要だ。モチベーションが持てない理由の一つは私が頭の中で何やら考えてしまうからだろう。考えながらも言葉が明確にならない。浮かんでは壊れていくような感じ。物事が自分の内側でもやもやしているのだ。昔からそういう時間がとても長いのだ。言葉になったり形になったりするにはとても時間がかかるのだ。

西洋近代化について考え続けてきたけれど、ヨーロッパに来て、ヨーロッパ自体の近代化についても興味が沸いてくる。あまり難しい哲学書は読めないけれど、入門シリーズみたいな感じのフーコーをもう一度読んでみようと思う。ヨーロッパの哲学者になんらかの先入観があって、(上から目線な感じがして)あまり読む気になれなかったのだけれど、フーコーは私が感じていたことにとても近いと感じる部分があるようだ。

それとは別に「パパラギ」という、南海の島の酋長が語ったことが文章になっている本があり、なくなった祖母の本棚にあったものだけれど、何度読んでもすごく面白い。というか、なにかしら解放されるような部分がある。とくに、時間の観念がほとんどなく、なぜ時間を数えたり年を数えるのか、その理由が全くわからない、また、それに関して「死」ということについても語っていて、それがまたすごく良い。私たちの文明がどうしてこんな風になってしまったのか、考えさせられる。

2021年1月7日木曜日

「恐怖」について/可能性の留保 2021年1月6日

ドイツではロックダウンが延期されて、私は散歩をしながら考える日々が続く。

暗示は恐怖を元にもたらされる。

恐怖を感じる時、恐怖をもたらされてる情報がどこから発信されてるかを観察する。

勉強しないと大学に行けないとか、大学に行けないと就職できないとか、就職できないと生きていけないとか。

あるいは年をとると醜くなるからこの化粧品を使わないといけないとか、病気のリスクがあるからこの薬を飲み続けなくてはいけないとか。

この商品を売らないと責任を負わされるとか、業績を上げないと恫喝されるとか、会社が潰れるとか。

恐怖をもたらされている人が、人に恐怖をもたらすことで商売をする。恐怖をもとに暗示をかけられれば、その習慣は一生続くこともある。その人が死ぬまで同じ商品を買い続けてくれる。

個人に対してだけでなく、信じる人々が多くなればそれが常識になるし、それが世論になる。世論に背くことは大きなリスクとなるから、その世論はより盤石になっていく。

そういうことにどこか怒りのようなものを感じてしまう今日この頃、しかし怒りでも恐れでもなく、自分に何かしら役割がもたらされるとしたら、私自身が自分とどう向き合うかしかない。可能性の幅を留保する練習をしていこう。

2021年1月6日水曜日

ノート 手紙 Youtube  2021年1月5日

 ノートを買って、自分の考えをノートに書いて索引をつけるという方式を試そうと思い立って、文房具屋さんに行って買ってきた。思ったよりお店は開いている。最近寅雄氏と心のタイミングが合わなかったり感じていることをシェアできなかったりが続いて、zoomの限界を感じているので、手紙の交換も初めて見る。

直接人と交わらない時には自分と直接対話をするのが良い気がしている。また、木々や草や湖や鳥や風との交流はとても助けになる。また、思い出との交流も助けになる。

Youtubeを見るのも若干依存的になっているかもしれない。Youtubeももちろん規制や管理の中でコントロールされている世界かもしれないが、自分で感を働かせて何かを発掘するという感じの楽しみがある。しかし、自分の感覚で現実に起きていることを推論していて、それの答え合わせができる内容を探そうとする傾向が自分にあるという自覚がある。コロナについて、アメリカの選挙についてなどなど。自分の感覚からして「これが正しい方向性に近い」と思うものを発掘することが増えているが、それらを発信している人の経歴などを調べてみると、自分とは基本的な考えや態度が全く違う、あるいは真反対の人であることが多く、困惑を禁じ得ない。それでも、自分の感じ方を基本にした広範囲な推論と可能性の留保を続けていこうと思う。まあ、この先どうなるか…見てみましょう。

2021年1月5日火曜日

お散歩 湖 黒い鳥 雪だるま 2021年1月4日

お正月があけて、いつものように湖までお散歩した。私が湖の水辺に立ってカプチーノを飲んでいると、少し離れたところから水面を、黒くて、くちばしの上に白い班のある鳥が一直線に私のところに向かって泳いでくるのが見えた。鳥が私に意識を向けているエネルギーみたいなものを感じて、なにか微笑ましい。私が餌をやる可能性があると思って、向こうは狩りをしているようなつもりなのかもしれない。わたしから1.5mくらいのところで一旦止まり、右に左に泳ぎながら私の様子を伺ってから、少しずつ別のところへとそれて行った。水際で水面の波立ちを見つめながら、ただ自然の中で感覚を研ぎ澄ませているだけでもいろいろなことをキャッチできる、洞察できる、そこから物事を見極める道筋を見つけられそうな気がしてくる。そんな気持ちが自分の深部から湧いてくるような感覚を味わう。公園に着いた時にはわからなかったけれど、帰り際に雪だるまが入り口辺りにポツンと立っている。そういえば昨日、ベルリンにしてはめずらしく雪が長く降って積もっていたので散歩して、子供達が外で遊んでいる姿を見た。公園の入り口が珍しく空いていたので中に入ってみると、たくさんの子友達が遊んでいた。中でも3人組の子供達がソリを組み合わせて、その上に大きな雪玉をのっけて運ぼうと苦心しているのが微笑ましかった。そういったことを見るのは何年ぶりだろう。糸島で大雪が降ったある冬の日、家族3人で大きな雪だるまをつくったのを思い出す。雪を靴底で踏みしめるあの感触も久しぶりだった。