2010年6月25日金曜日

100625 ダンサー疲労

本番一時間半前だ。
今日はやる筈ではなかったゲネが、昨日の音トラブルでやらなければならなかった。
出演者の疲労は半端じゃない状態になってしまった。

あと、もう一歩先に進めそうなのだが、そこを進んで行くには疲労しすぎている。

あと、もう一歩行きたい。疲労を押して進むか?

2010年6月24日木曜日

100624 向こう側へ行くことの難しさ

別の可能性について、さまざまな模索が続く。
簡単には答えが出ない。
当たり前だ。
舞台上で、向こう側へ行きたい。
壁の前にいても、リスクを抱えていても、その先にある何かに思いを馳せる。
とにかく、思いを馳せる。

2010年6月23日水曜日

100623 向こう側

今回は壁の前で立ち尽くして、途方に暮れることが多く、非常に苦しかった。
いろいろな限界を見たし、その向こう側にある果てしのない何かが自分の観察するべき何かと分ち難く繋がっている様を見、そうであるのに、手が付けられない無力感にも苛まれた。
力を抜いて、今、見ることのできる最低限のことをできるだけ丁寧に見る、その向こう側にある可能性に賭ける。

2010年6月22日火曜日

100622 可能性について

根底にあったテーマが見えて来たぶん、そのデカさにビビる。
デカすぎて全貌は見えない。
全貌がみえないものの、実質を捕まえようとして、目的意識に足を取られる。
崖からずり落ちるみたいに、焦りが自分を引きずり降ろす。

ビビっている。心臓が不規則なリズムを打って眠りを妨げ、固い背中が正気を奪う。

可能性についての作品になるなら、本当に落ち着いて水底に降りていかなけりゃならない。
覚悟を決めて。

2010年6月20日日曜日

100620 捏造への道

いよいよ小屋入り直前。
毎日、少しずつひらめきがあって、更新され、形が現れ始めている。
こんなときはすごくドキドキする。
緊張なのか、トキメキなのか、恐怖なのか分からない。
でも近づいてきている。
その感触だけはいつも直前になってその足音を聞くことになる。
あとは、ダンサー全員が可能性を信じられるか、動き出した作品の、心臓の音を聴けるかどうかだ。

2010年6月18日金曜日

100618 捏造への取り組み

新作『私的解剖実験–5 〜関わりの捏造〜』の作品づくりが佳境を迎えている。
何かを見出そうとして壁にぶち当たり、なんとか一歩乗り越えたと思ったらまた別の課題にぶちあたるというような事の繰り返しで物事の本質に近づくことができているのか、なんども同じようなところをぐるぐる回っているようなもどかしさから、ほんの少しだけ内側に入ることができた気がする。夢の中で逃げる時にどんなに一生懸命走ってもスローモーションになってしまうような悪夢のようでもどかしい。しかし、どのような可能性がかくされているか分からない、自分を緩めると隙間から光が見えて来るものだ。肩の力を抜いて、壁に向き合おう。

2010年6月14日月曜日

100614 シャトー

ちょっと前のことになるけど、おたふく風邪をやっている末期に、武蔵小金井にオープンしたシャトー小金井で「空き地」というイベントに参加した。空き地というのは本当にいいネーミングだ。私の生家の前に昔あった空き地が、私の幼少期の活動場所だった。そこでは、私自身の誰にも抑圧されない欲求がアウトプットされる場だった。あのときに発揮された体の心地よさが、体の奥にはある。息子には、そういった場所があるだろうか?ところで、その時の作品は私自身の体が会場にないというもので、お客さんには指示書だけが渡される。その指示書を書いた私自身の体が、読んだ人の身体と意識と関わる。その渡されていた時間、私はその街に潜伏した。そして、公演が行われていることを全く知らない、興味のないほとんどの人々とすれ違い続け、その中に身を置くということの、初体験が未だかつてない感じだった。その中に身を置きつつ、電話を握りしめて会場のことを強烈に思う。しかしそんなことはお客さんは全く知らない。私もお客さんの一人ひとりの感じは全く見ることができない。様々な課題はありつつも、そういう潜在的な物事が包含されている状況に今は興味があるのだなあ、と実感。

2010年6月11日金曜日

100611 おたふく風邪

5月の中旬におたふく風邪になった。
息子からうつされたらしい。
初めての痛みの種類。
でも、キツかったのは、体がその風邪と闘ってるために、いろいろな機能が体力つきて、胃を始め、様々な内蔵機能が低下して行って、その結果、気力をそがれて行ったことだった。モチベーションが全くなくなるような状態になってしまう。そんな中で文章を書かなければならないときは地獄のようで、でも少しでも改善すると、その分だけモチベーションが上がって来る、その感触を実感することができる、それを使い果たすと、またガクッと力が落ちる、そんな繰り返しで、鍼灸と食べ物でなんとかかんとか持ち直していった。西洋医学の医者に行ってもほとんど何の役にも立たないということを更に実感。