2011年4月29日金曜日

誰かのことを考える範囲

ずっと気が立っている。
時々寒気のような孤独感が襲う。

自分が誰かのことを考えられる範囲の狭さについて思い当たる。そういうのはコミュニティーの中で育まれるものなのだろう。そういった、お互いに誰かのことを考えるコミュニティーの中で育つということは都市的な場では稀なのかもしれない。何かの事情で人々は切り離され、管理との関係だけで生きなければならなくなってきた。その息苦しさが、よけいに他者に対して無関心になっていく。今はそれを取り戻そうとしている。大変なことが起きるとき、それを取り戻そうとする力がよみがえるのかもしれない。そういう意味では、何かが変わって行くのかもしれない。管理に依存しない関係において何かを取り戻したい。

ただ、マスメディアは相変わらず人々をコントロールしようとしているように思える。慈善を装った管理が強められるのが怖い。
人々がマスメディアから離れる方法はないのだろうか?

自分の中の何かが萎縮し、同時に何かが目覚め始めている。
麻痺させていたどこかの部分が目覚めて、いやでも過敏になって不安や絶望感を伴う。
と同時に何をするべきかということについて潜在的な部分が動き出そうとしているようにも感じる。

2011年4月25日月曜日

隠蔽の時代到来

様々なレベルで隠蔽が強められる。
隠蔽が強まると、そこには必ず暴力がある。

隠蔽が暴力の生みの親なのかもしれない。

例えば不安の隠蔽。
気持ちの中に不安があってもそれを隠蔽する。
それが複数の人々の中で暗黙の了解となる時、隠蔽した不安の火はどこに行くだろう?
それは決してなくなりはしない。深く深く潜って行く。そしてどこに行くのだろう。
八つ当たりの小さな連鎖を巡り巡って弱いものの上に降り注がれる理不尽な「叱咤」となるだろう。
そうやって今までも繰り返されて来た八つ当たりの連鎖によって、人々の間に見えない圧がかかっていく。
ますます息がしづらくなる。

我慢や元気や連帯を強いる空気が、不安を隠蔽する。かの戦争の時のように。
もっとも信頼できる人に不安を吐露して、あとでそれと距離を置く方が、長い目で見て健康でいられるように感じる。
だから空気圧ではなく、しばし身の内に耳を澄まして静かにしている方が良いのかもしれない。
そしてできるだけ信頼できる人の側に居よう。

2011年4月21日木曜日

「平和」など一度も無かった

戦後や、60年代の様々な動きのあと、平和な日々が続いていると思い込んでいたような感じがある。でも何か嘘くささというのが常にあった。それは学校の教室の中で、先生の様子の中で、あるいはテレビや、街の楽しげな様子の中に感じていた。もう少し意識的に見れば、平和等どこにもなかったことが分かるはずなのに、本当に何も見えていなかったのはなぜだろう?近代化という状況が世界全体に暴力的とも思われる速度で満たして行ったときからすでに、国家というシステムが暴力的な強さを競い脅し合う関係であり続けたし、弱いと判断すれば奪い続ける、そういう世界になっていった。

もともとそれが人間の性質なのかどうか?自分が暴力的にならないためには、自分が暴力を甘んじて受けるしかないのだろうか?自分から固持を放棄することで世界が変化する一端となるのだろうか?ガンジーのやり方というのはもう一度勉強しておく価値があるかもしれない。

核実験一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/核実験の一覧

癌の発祥推移
http://www.menekiplaza.com/siryou/suii.html


いかに戦後(米ソ冷戦の最中)、
原発が平和利用の名の下に
日本に導入されてきたか、その歴史。

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_1
http://www.youtube.com/watch?v=k0uVnFpGEms

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_2
http://www.youtube.com/watch?v=C5gA18Q5UZ0&feature=related

●原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_3
http://www.youtube.com/watch?v=rQuvSIvu6gk&feature=related


アメリカと日本の関係推移
http://blog.goo.ne.jp/kohay/e/38e3bffbbb58adf6be8724aca4e32471

ガンジー ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンディー

2011年4月15日金曜日

不安の合間 SF 過去が試される

不安の合間、つかの間の幸福。
不思議にそれらはクッキリとしていて、フィルムに刻まれたような感覚に襲われる。

卒園祝の望遠鏡で、初めて見た月の白いお盆のようなでこぼこ、入学準備のための手縫い、学校へ初日の息子の浮かれ姿、つかのまの帰省と旅先の観光。


アニメのSF映画DVDを最近よく借りて見る。テレビの情報だけを見ることに耐えられなくなったり、それでDVDを借りにいっても普通のエンターテイメントを見て現実逃避すると余計に悲しくなりそうで、迷った末にSFを見る。それらは、今の状況がすでに未来の範疇に入っていることを告げている。特に宮崎アニメを見ると、様々な予言と思えるような側面があり、もはやファンタジーとしてではなく、かなりリアリティーのある示唆に富んでいる部分がクローズアップされてくる。それで、すごく興奮する。萩尾望都の漫画も、読み直す時期にきている。すごく興奮する。今は、かつてのファンタジーであったSFが、どのくらいリアリティーがあったか、それが試されると感じる。

現代作家の作品も、演劇につけダンスにつけ音楽や美術につけその他のあらゆるものについて、過去の作品が今の現実と呼応するかどうか、どれだけ現実に感覚を開いていたものかどうか?問われるだろう。それらは、徐々にクッキリと浮かび上がってくるだろう。

2011年4月14日木曜日

様々な可能性

被災地の民俗芸能の力
http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201103260142.html
思いもよらないところに可能性というのはある。細かいところに思いもよらない豊かさがひっそりとあって、いつも呼吸している。
この2年くらい、様々な民俗芸能を見て歩いていて本当にそう思う。

低周波を出さない風力発電
http://www.mecaro.jp/

放射能の土壌の再生
http://ameblo.jp/dragonart/entry-10839848725.html

バイオディーゼル
http://journeytoforever.org/jp/biodiesel_make.html

ダイエット商品と発電機は相性が良いのではないだろうか?
手回しのラジオを試してみて思った。
車によるたくさんの運動不足を、発電式ルームランナーで発電、その分を歩けばどこかに着くかもだけど…。

不安の観察−5

放射能の被害が実際に現実に目に見える形であらわれていくまでの時間はどのくらいだろう。
3年後、5年後、10年後あたりに、浮上するだろうか。
少しずつ、少しずつ、病気が増えて初めて人は何が起きたのかを知るだろう。
非常に長期に渡って裁判が開かれる。裁判に勝つのは至難の業だ。いまのところ、放射能と癌を直接結びつける証拠などない。そういった現実世界をどのように生きるか?できるかぎり想定して、受け止めつつ、自分を見失わずに乗り越えて生きる心の準備をするなら、悪いことについて想定するのは決して悪くない。それらを見据え、私たちはあらゆる可能性にいての試行錯誤に心を開いていかなければならない。

今、何を選択して食べたら安全か分からない。水も野菜も牛乳や肉も、食物連鎖の中で放射能は濃縮されるし、遺伝子の深いところを傷つけるから何世代にも渡って被害が出る。でも、予言めいたことをいっても、実際の世界に現れないと人は認識できないものだ。それなら予測するだけ自分を傷つけるだけになるのかもしれない。
でも、考えてみたら、化学調味料にしても保存料にしても農薬にしても、空気の汚染にしても海の汚染にしても、本当は今に始まった事じゃなくて、ずっと前から本当は、何を食べたらいいのか分からない今と同じ状況だったのだ。たぶん。でも、できるだけ鈍感でいた方がのほほんと生きられるのだし、人はいつかは死ぬのだし、病気の原因は分からないから、そうしていただけなのだ。私自身も結局そうやって生きてきた。でもだから今もそのままでいいじゃん、とは思えないでいる。はっきりとした危機感を肌に感じている。

鎌仲ひとみの「ヒバクシャ」と「六ヶ所村ラプソディー」を見て、現実を一番動かすのはなんといってもお金なのだと実感。その力の大きさを思い知ると絶望的な気分になる。人は動くと思えるときは自分も動くし、動かないと思っているときは自分も動かない。
今起きていることは、動かせる僅かな契機となりうる、今日はそう感じている。

2011年4月13日水曜日

不安の観察−4

「別の可能性」をマイノリティーの価値と言い換えるとして、それらについて表面的には語られたとしても本質的には価値として機能する可能性は絶望的に削がれ続けているように感じる。様々なNPOがそれらと戦っている。私自身もある種のマイノリティーだ。だから、そういった戦いに共感するし、励まされるし、何かが動くかもしれないと希望を抱く。しかし、デモに参加したあとの選挙結果を目の前にしてつくづく感じたのは、それでも、私たちは限りなくマイノリティーで、圧倒的にマジョリティーを動かす力からは遠いところにいるという実感だった。

それで、どんな戦いも、ネガティブなシステムについての理解無しには非常に難しいのではないか?という思いを強くするようになる。それは、善意を前提にした戦いになってしまう場合、単に無視され、赤子の首を捻るように簡単にねじ伏せられてしまう。全うな人との関係を前提にコミュニケーションについて語ったり、自然との共生、生態系についての理解、その他言葉を尽くしたまっとうな正論を元に対応していっても、マジョリティー側にいる人々は、そのような物事に耳を貸す気は最初からない。そこにあるのは現実逃避の薄い頑丈な膜、又は前もって用意された定型の回避的思考の壁なのだ。また、普通の人々に向けて共感を起こすために、ある前提を共有した人どうしが打ち立てた正論を展開して行っても、それによって共感者をある程度得られたとしても、コアな共感者がむしろ、壁をつくって、それ以外の人々がそれについて考える余地を奪ってしまう。

そういった壁を作らずに、常に考える余地を与え続け、空気を動かす状況を生むためにはいったいどんな具体的な方法が可能なのだろうか?
人それぞれに覆い尽くされた不安として、今までの価値観を動かす事への恐怖、安定した状況への回帰願望、何も無かったことにしたい、自分が感じている恐怖を認識するのが怖い、など様々な反応があって保守的な方向に世論は動いて行くのだろうか?それとも、これだけの事が起きたのだから、前提をもう一度顧みて、本当に思いきって前提にメスを入れて新しい可能性を模索して行こうという方向に動くのだろうか?もしかしたら、両方に引き裂かれて行くのだろうか?

2011年4月12日火曜日

不安の観察−3

また、原発について、ネットなどで、テレビ以外の情報を収集。時間が経つにつれ両極的な情報発信者や思考の傾向が目立つようになる。「必要以上に不安になるな、安心しよう」という方向と、「非常に危険だという事を正しく認識しよう」という両極な情報が増えて行く。マスコミが情報をある程度隠蔽したり故意に選択したりしている傾向ははっきりと感じる。ネットは個々人の感覚からそれに深く反応することで様々な傾向に引き裂かれて行くのかもしれない。反応に反応するものだから、その両極さ加減はどんどん加速的に離れていく。基本的に、原発の設計や現場に昔関わっていた人で今は様々な危険についての証言者となっている人の情報を収集する。原発事情の背景となっている東電とマスコミの関係、政治との関係、アメリカとの関係などが浮き彫りになってくる。
人間社会を動かしている大半がネガティブな感情に端を発するコンプレックスや上昇志向や経済的優位への志向だし、それら閉塞感に伴う、八つ当たりの連鎖の世界だと、それは震災以前からも感じていた。それでも様々な可能性というのは常にあって、物事を動かす契機というのはあると思って来た。けれども、今回の状況と背景を見るにつけ、私がいかに楽観的に考えすぎていたかを思い知った。組織が大きくなるということに伴う弊害についてつくづく考える。規模がある程度以下なら、常に別の可能性や隙間が存在する余地というものがある。けれども大きくなりすぎたら、そのネガティブなエネルギーが限りなく権力的暴力的に人を圧倒し、組織の中で、あるいは、間接的に影響を受ける小社会の中で、権力に影響を受けた公的な学校などの中で自分が何を感じているか?何を望んでいるか?何をイヤだと思うか?そういった個人的な感覚が機能する余地すら失われる。そして、それら閉塞感に伴う八つ当たりの連鎖はより深まり、逆に個人的な感覚を持ったマイノリティーな人間に対する排他性も深まっていく。別の可能性を存在させる余地を削いでしまう。それが人間の現実だと受け止めきることができるか?受け止めなくてはならない。もしそれができるなら、受け止めた上で模索する「別の可能性」のありかたについて考えることもできるかもしれない。

2011年4月11日月曜日

不安の観察−2

今現在、ある意味で、とてもリアリティーのある状況が浮上しているように感じる。つまり、ここ20年〜30年くらい何かが伏せられている見えない危険や暴力的コントロールが水面下でどんどん膨らんでいる感じがあった。その一方で、ずっと表面的に平和や作り笑顔の関係性で覆われているというような、閉塞感や嘘っぽさを感じ、それに対して、時々力が抜けるような無力感に襲われる事があった。小学生の頃からずっと、そういった感覚があった。ここ10年はそれがどんどん強化されつつあるように感じていた。今回の原発の事で、そこからある意味で解放され、現実が水面上に顔を出したと言えるかもしれない。はっきりと目の前にあらわれた現実世界。そのことによって、ときどき非常にモチベーションが上がるときがある。

反面、もう、今までのほほんと感じたり考えたりできる小さなできごとを無条件で楽しむような日々は終わってしまった。全てのものごとの背後には黒い影があってじわじわと蝕んでくる、そういった世界として生きなければならない、そういう絶望的な悲しさに覆われてしまうときがある。そういった両極な感覚が時として私を襲う。また、ある場合には強烈な不安が心身を襲って、東京や横浜には一歩も近づけない、警報のようなものが自身の深いところから鳴り響いてしまうという時がある。

福島をはじめ、震災の非常に大きかった地域の報道について、過去の状況とは全く違った感覚を持って見ることになった。それは、非常に辛くて直視できないという感覚。悲しさや絶望感を伴い、現実を受け止める力を削いでしまうこと。本当に受け止める力を持つためには、もしかしたら、現地に行くしかないのかもしれない。しかし、現在、それができないでいる。それが今の私の現実だ。自分にとって最も身近な場所における、現実を受け止めつつ観察することから始めるしかない。

不安の観察−1

私自身の不安な感覚は震災が起きた当初から様々な変貌を遂げた。

当日の夜の深い深い絶望的な悪寒から始まって、翌日以降には現実的に不穏な予感に対処しようと様々な準備に動いた。放射能の影響がどのように移行するか予測した。野菜の汚染、水の汚染に対応するため、水をたくさんためておけるタンクを買って、水道水をためておいたり、野菜をある程度たくさん買って保存食的にしたり、風呂に水を溜めたり、地震が今後また起こって、息子が生き別れになっても身元が分かったり本人を励ませるようなお守りを作ったりなど。何をやっても、まだやりたりない気がして次の行動について考え続ける。
放射能への不安から二度に渡って西に移動した。一度目は3月15日くらいからだったと思う。友人から、子どもは非常に放射能に弱いから、パニックになる前に旅行に行くくらいの気持ちでもいいから西に退避した方がよいのではないか?というメールをもらって、募って来た不安が爆発したように荷物を詰め、その日中に退避しようと決意。まわりの人々もそのように行動しているように見えてくるから不思議だ。京都に着いて、しばらくは不安の衝動がずっと続いていた。が、京都の親戚があまりにも普通な日々を過ごしているのに感染してやっと少しずつ気持ちが緩んでリラックスした。それでやっと冷静に考えられる心の余裕を持てるようになった。

息子の卒園式を挟んで二度の退避を経て3月末には藤野に戻る。息子の小学校入学に集中することでしばらく平穏な日々を過ごす。そのことで、現実に起こってしまったことについていろいろ考える余裕ができた。