2011年4月11日月曜日

不安の観察−2

今現在、ある意味で、とてもリアリティーのある状況が浮上しているように感じる。つまり、ここ20年〜30年くらい何かが伏せられている見えない危険や暴力的コントロールが水面下でどんどん膨らんでいる感じがあった。その一方で、ずっと表面的に平和や作り笑顔の関係性で覆われているというような、閉塞感や嘘っぽさを感じ、それに対して、時々力が抜けるような無力感に襲われる事があった。小学生の頃からずっと、そういった感覚があった。ここ10年はそれがどんどん強化されつつあるように感じていた。今回の原発の事で、そこからある意味で解放され、現実が水面上に顔を出したと言えるかもしれない。はっきりと目の前にあらわれた現実世界。そのことによって、ときどき非常にモチベーションが上がるときがある。

反面、もう、今までのほほんと感じたり考えたりできる小さなできごとを無条件で楽しむような日々は終わってしまった。全てのものごとの背後には黒い影があってじわじわと蝕んでくる、そういった世界として生きなければならない、そういう絶望的な悲しさに覆われてしまうときがある。そういった両極な感覚が時として私を襲う。また、ある場合には強烈な不安が心身を襲って、東京や横浜には一歩も近づけない、警報のようなものが自身の深いところから鳴り響いてしまうという時がある。

福島をはじめ、震災の非常に大きかった地域の報道について、過去の状況とは全く違った感覚を持って見ることになった。それは、非常に辛くて直視できないという感覚。悲しさや絶望感を伴い、現実を受け止める力を削いでしまうこと。本当に受け止める力を持つためには、もしかしたら、現地に行くしかないのかもしれない。しかし、現在、それができないでいる。それが今の私の現実だ。自分にとって最も身近な場所における、現実を受け止めつつ観察することから始めるしかない。

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