2011年4月25日月曜日

隠蔽の時代到来

様々なレベルで隠蔽が強められる。
隠蔽が強まると、そこには必ず暴力がある。

隠蔽が暴力の生みの親なのかもしれない。

例えば不安の隠蔽。
気持ちの中に不安があってもそれを隠蔽する。
それが複数の人々の中で暗黙の了解となる時、隠蔽した不安の火はどこに行くだろう?
それは決してなくなりはしない。深く深く潜って行く。そしてどこに行くのだろう。
八つ当たりの小さな連鎖を巡り巡って弱いものの上に降り注がれる理不尽な「叱咤」となるだろう。
そうやって今までも繰り返されて来た八つ当たりの連鎖によって、人々の間に見えない圧がかかっていく。
ますます息がしづらくなる。

我慢や元気や連帯を強いる空気が、不安を隠蔽する。かの戦争の時のように。
もっとも信頼できる人に不安を吐露して、あとでそれと距離を置く方が、長い目で見て健康でいられるように感じる。
だから空気圧ではなく、しばし身の内に耳を澄まして静かにしている方が良いのかもしれない。
そしてできるだけ信頼できる人の側に居よう。

0 件のコメント:

コメントを投稿