2017年8月20日日曜日

お盆について 死後の世界観について その四

●世界はイメージでできているのか?


ところで、世界は誰の目から見ても自明の現実というものがあると思われていて、それを空想やイメージと区別する。生きているうちに見ていること感じていることは現実とはっきり言い切ることができ、死後のことはただのイメージにすぎないというように。けれども、世界はイメージによって作られていると言い換えることができるのではないだろうか? 人は常に、見たもの感じたものを元に「世界」というイメージや「自分」というイメージを組み立てながら生きているとも言える。またイメージをもとにして見たもの感じたものを解釈する。そこに実はさまざまな齟齬や誤解があって、視点の数だけ現実と思われている何かがある。現実がイメージにすぎないことを知ると、たとえ苦しくてもそれを観察できるようになる。仏教の教義で伝えていることはそういったイメージから解放されるということが最終的な悟りと言われる境地である、ということなのかもしれないと最近考えるようになった。そして死ねばただの光になる。光というのはつまり、自他の区別のない、イメージのない世界ということなのかもしれない。

2017年8月19日土曜日

お盆について 死後の世界観について その三

  仏教の教義についてちょっと考えて見る

お盆の行事では基本的に、亡くなった人を迎え、また送り届けるというように、死者とともに過ごす時間と言い換えることもできる。そしてそのイメージは仏教の教義が元になっている。盆踊りは、「念仏踊り」に由来するものが多く、その由来は、法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事によるらしい。念仏は「南無阿弥陀仏」で、これは法然や親鸞が説いた「南無阿弥陀仏」を繰り返すことで浄土に行くという教義が元になっていると思われる。この言葉は阿弥陀仏への敬意を示す言葉なのだろう。阿弥陀仏というのはどんな仏様なのだろうと思って調べてみると「amitahba」(アミターバ)という言葉の翻訳だという。アミターバというのは無量光(むりょうこう)、つまり光そのものというような意味だ。それはわかりやすく仏とついているけれど、仏像のような姿をした何かではなく、光としかいいようのない何かを擬人化しているというようなことなのかもしれない。そういえば、亡くなった人のことも「仏」と言うよな、と思って考えて見ると、人は亡くなったら光そのものになるというようなことなのかもしれない。

2017年8月18日金曜日

お盆について 死後の世界観について その二

  死後人がどのような旅をするか、死んだあとどうなるか?


「民俗芸能調査クラブ」という、さまざまなアーティストが民俗芸能を調査したり、不思議に思ったことやそこから出てきた問いを実験に落とし込んだりという集まりを作ってしばらく活動していた。そのクラブで、ある部員が昔行った実験の一つに、自分のお葬式をみんなにやってもらうというのがあった。その時に他の部員たちに死後の世界について聞いたら、死んだあとは「無」であって何もないということを言っていた。私としては、それはちょっとショックだった。でも、私も昔は死後に漠然とした「無」というものを思い描いていたような気がする。それは、私たちの時代に得た知識や情報を元に思い描くひとつのイメージ、共有しているイメージと言い換えることもできる。つまり、時間の感覚や歴史の感覚、人間という存在のイメージが基本になっているのかもしれない。物事には始まりがあって終わりがある。その前と後は無であるというような。

2017年8月17日木曜日

お盆について 死後の世界観について その一

●盆踊りとの出会い

お盆という行事を、子供のころに意識するような思い出をほとんど持っていない。曽祖母は部屋に仏壇があったりして、仏教的な習慣みたいな何かがあったと思われるけれど、祖母はクリスチャンで、父は無宗教。家族で神社に行くこともお寺に行くこともほとんどなかった。夏になると地域の盆踊りがあったけど、死者を祀っているという感じは全くなかったし、ただ地域のお祭りということだったのだと思う。それも、近代盆踊りというか、演歌、民謡の歌手が歌っているような感じのものだったし。

 白石島の盆踊りに出会っていらい、さまざまな古い時代からの盆踊りに出会って、新盆という名称もそのあと初めて知った。先日、糸島市の姫島に盆踊りを見に行った。白石島と同じように、太鼓と口説きで行う踊りで、亡くなった人と一緒に踊ったあとはとても豪華な灯籠を海に流して花火を打ち上げる。灯籠に仏様を乗せて浄土に送るということなのだと思う。天国ではなく浄土というのは水平方向の向こう側にあるという感じがする。しみじみと、でもとても楽しげな見送りの時間。真っ暗な空と海の、境界のあいまいなところに向かって船が進み花火の明るい炎が煌めいて、死者への思いが明るい光に変わるような時間をしばし味わう。

2016年11月14日月曜日

水の駅

Kyoto experimentにて水の駅を見た。原作は太田省吾氏、演出はシャンカル・ヴェンカテーシュワランさん。この舞台には、私の友人であるスリランカ出身のヴェヌーリも出演していた。

ある一定の時間を引き伸ばされたような動きは、自分のプライベートトレースでも取り組んだ方法に近い部分もあるが、「演技」という側面では大きく違うのかもしれない。引き伸ばされた動きの中に含まれた感情が、神聖さを伴った何かに見えるシーンがあり、自分の深いところの何かが揺さぶられた。そのことが断片的であってもこの作品全体を覆っていた。

私にとって大きかったのは、「水」が象徴している何かで、それは記号を超えて私の中に何かを呼び覚ます。演劇では比喩が多用されるのが常で、それが頭を満足させるような知的経験として見えるときには私には何も伝わってこない。しかしそれ自体が「見立て」の効果、つまり呪術的な作用によって、体、あるいは心にもたらす臨場感というものがこれだけ強くあるのだ、という経験を、この劇がもたらしてくれた。それは、この劇を見たタイミング、自分の今直面していることと深く関係しているかもしれない。


直接社会的な問題に触れなくても、同時代に生きる人々の「生き死に」に強く働きかけることができるのだ、ということを学ぶ機会であった。