2023年11月27日月曜日

あなたにしか見えないダンス 感想をいただきました


 「あなたにしか見えないダンス 」と題して2023年11月17日におこなったパフォーマンスは今年の5月に続いて2回目となる(前回の私自身による感想はこちらhttps://natsukote-diary.blogspot.com)。今回は東京を拠点に場所づくりをしながらダンスの活動をしている神村恵さんと二人バージョンを行った。

まず、見にきてくださった方に小さなシールを渡し、ダンサー二人にやってほしいこと(体の動き、状態、イメージなどなんでも)を書いてもらう。巨大なショッピングセンターの、屋根があるところと吹き抜けが混在するような環境でダンサー二人はパフォーマンスを行う。高低差のある複雑な経路を、別々のスタート地点から二人が同時に違った場所を歩きながらシールをさまざまな場所に貼る。途中で二人が出会う箇所が二つあり、同じ経路をなんども巡ったり、経路を交換したりしながらシールの指示をもとに踊り、見にきてくださった方々はどちらか一方のダンサーについて歩きながら鑑賞する。途中で別のダンサーについて行っても良いし、全く違った場所から鑑賞しても良いという内容。

見にきてくださった尾畑さくらさんが素敵な長文の感想を書いて送ってくださったので、本人の許可を得て公開させていただくことにしました。尾畑さんありがとうございました!

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初め神村さんについていったら、何かを貼ったあとに石けりのような動きをしていた。でも石は見えなくて、何かを大事にしてる人ということが見えて響いた。何を表現しているかというより、見えない何かを大事にしている動きがあるということは、地面と足が設置する動きと時間ズレとかの動きの中に含まれる時間感覚の違いから、伝わるんだと思った。あるルートを行って、広い階段を降りるとき、分かれていた手塚さんのグループが、2階の向かい側の柵から正面で対面するような形でこちらを、何気なく見ていた。対面してすこし遠くから見られているだけなのに、そこで何かが起こっていた。水平と垂直がもう一方のグループと重なりながら階段を降りていると、何気ないのに、そこに逃げ場所のような別の空間ができていたような気がする。歩きながらその空間の時間を体感していた。別の階段を上がると、のぼってく神村さんと降りてくる手塚さんが対面して、手塚さんが神村さんの方をじっと近くで15秒間くらい見ていた。二人が交差するなかで、私達もどちらについていくか変わったりしていた。ついていく人が変わって、同じルートを歩いていることに気づいたときから、自分の記憶の中の一直線の時間のあり方が無自覚に歪んでいった。ある時間に起きたことと別の時間に起きたことが交差したり、重なったり、並んだり、記憶の中の時間のあり方が強制的な一直線の時間ではなく、ものや私たちの存在と対等になっていった気がする。神村さんがベンチに置いた小さくて折り曲がった紙を手塚さんは頭に乗っけて方向転換をしていた。頭に乗っける可愛い行為だけれど、突如なんの脈絡もなくその行為がなされると、なんだかとっても歪なのに、ホッとした。手塚さんが大きな階段を降りると神村さんのグループが2階の向かい側の柵から対面してさっきと同じようにこちらを見ていた。さっきまであちらのグループにいたので、向こう側にいるグループの時間が入り込み並行世界のように、自分の経験じゃないのに自分経験のようにも思える。また、同じように、向こう側のグループに見られながら階段を降りた。最初もそうだったけど、見られていると、自分の頭の中で把握している空間の範囲が、階段だけではなく、見ている人までの距離の直径の円の範囲まで広がっていた。また神村さんのグループに入り、神村さんについていくと、途中で走りながら、ポップな服屋さんに入った。普段は服を買わないのに入ると罪悪感があるけど、別の目的があると堂々と入ってみれたのが面白かった。ルールが頭の中で少し変わって、入れる場所に入る、という感じだった。また同じルートを歩いてから二人が合流して二人が並んだ。二人が並んだ時、記憶の中の映像のように思った。記憶の中の映像を見る時、自分だけの記憶より、二人以上の記憶の方がなぜか浮かぶ。その記憶の中の映像と重なった。並んだ二人の後ろ姿を、今起きているのに、前の記憶のように思いながらついていっていた。記憶とは関係ないけれど、二人が一緒にくしゃみしている姿はなぜか面白かった!あと、手塚さんと神村さんが急に走り出した時、周りにいた集団が唖然と見ていた。笑ってる人は誰もいなくて、皆何が起こっているか、頭が追いついていない感じだった。

何回も同じルートを辿り、場所と体の別の使い方をしていると産業とは別の自分達の道と記憶を自分達で作っているんだと思えた。そして、そこに記憶の交差が加わると、その記憶が自分の中で強制的な時間を超えた記憶になり、大切なものと思えた。美術とかの展示をみて、興味深いとか面白いとかいう気持ちになることはあるけど、嬉しい!と、感じることはない。でもこのパフォーマンスは、なぜかとても嬉しいものだった。それは、たぶん、自分達の道と記憶をつくって、その記憶が自分の脳内で交差していく中で外部として見た事実のようなものではなく、身体化(脳内の細胞?の中だけで、身体の外にはない存在が起こっているという意味で。)されていったからではないかと思う。なぜか嬉しい、大切な記憶になった。

紙を渡されて、ルートをたどり、観客だけで周ったとき、追いかけながら見ていた時には見えてこなかった建物の外観とかが、記憶の中の道にもう一度対面したかのように、嬉しさの中で細部まで見えてきた。それは追いかけた時の記憶の前提、事実とは違う自分の記憶としての道があったからだと思う。細部まで見る時にそういう記憶が必要になることもあるんだと思った。

最後とか、ゴールした時に、キラキラした紙吹雪をお二人が落としてくれたけれど、それまでの時間がなければ、ちゃっちい紙吹雪が落ちてきた、、は?みたいな感じなんだろうけど、それまでの時間で嬉しい大切な記憶となって身体化されていたので、キラキラ紙がめちゃくちゃバカ嬉しかった。そういう、は?みたいなものが、バカ嬉しくなるのは、とても良いことだ!!と思った。

日常に流れる円の一部と、今回のパフォーマンスの円の一部が重なった時に観客としていなかったひとは呆然としていた。私も同じ立場だったら呆然とするけど、ちょっとこれからは、ついていってみようかなっと思った。


あの時間、すごく記憶とか時間のあり方がなんか複雑でした!こうやって伝わるように文にすると時系列になっちゃうけど、一直線の時間で見なくていいパフォーマンスだと感じました。正確にふりかえられることができないのも、なんだか良いと思えます。時間から自由になれるのはとてもいいです!!!ありがとうございました!!!


尾畑さくら

2023年5月1日月曜日

「普通」からはみ出した層で出逢い直す 2023年5月1日

 「普通」という基準をなんとなく意識させられる場所で、その視点から自分を見ると随分はみ出している。けれども、そのぶん別の層へと染み出しているのかもしれない。そんな自分の目線を通して改めて人々を観察してみると、「普通」からはみ出して、別の層へ染み出している人々を見つけることができる。

あなたにしか見えないダンス2023の上演を終えて、少しずつ自分が何をしようとしていたのか、その潜在的な求めが見えてきた。

インストラクションと私自身の体を通して「普通の日常」とは別の層を、あの空間の中に開いてみようとしたのかもしれない。そして、違った層で見にきてくださった方々と出逢い直してみようとした。空間の中で何が見えるかは、そこでの営みをしている人々の振る舞いが大きく影響しているように思う。そして振る舞いはたいてい、何かしら構造的なものに振り付けられているようにも思う。でも、子供にはいろいろな層がまだ見えるのかもしれない。私があの空間でやっていたことをいち早くかぎつける。背中越しにも気づいて振り返る。

あの空間の中でお掃除のおばさん、おじさんは自分の気配を消しているように見えた。それは周りの人たちが彼らの存在をないものとして処理してしまうからなのかもしれない。自分も昔、警備員のバイトをしていたとき「いない人」のようになっていく自分の存在が危うく感じたことがあった。そして、別の層を開くとき、私の目からお掃除のおじさん、おばさんの存在感が浮き彫りになって見えてくる。彼らの肩から背中にかけてのセンサーが敏感になっている気配を強く感じる。そして、彼らは私の存在が気になって仕方がない。もちろん職業的な使命とも関係しているかもしれないけれど。また、ゲームセンターの中では、何かしら別の層に染み出している人々の気配を多く感じた。ゲームセンターの奥へ行くほどその気配は濃くなり、室内の音と共に深海の深度が濃くなるように感じた。

別の層を開くひとつの呪術的なきっかけとしてイメージの力は助けになった。あの場所がかつて海だったこともあり、海、水、潜水艦、海底などいろいろなイメージを使って、さらに別の層を引き寄せる。観覧車は私にとって、見た目のインパクトだけでなく、まわる、遠のく、近づく、そういった構造が思っても見なかった別の感慨を沸き立たせてくれた。イメージと一緒により集中して別の層へ移行し、出逢い直す装置となった。

何かを作ったり発表したりするとき、自分の潜在的に求めているものを手繰り寄せながら、わからないまま走り出すしかないけれど、それが前より見えてきた時にはもう少しどうするべきだったのかも見えてくる。それはちょっとした後悔を伴った苦しい瞬間でもあるけれど、同時に次のことを発想して前へと自分が押し出されてくる時でもある。この感覚はとても久しぶりだ。

2023年4月14日金曜日

2021年4月14日(金) 複雑な好奇心 「へ〜そうなんだ〜」

 ずっとやりたいと思っていたこと、思い描いていたことが自然な成り行きでやれるようになってきた。「時期が来た」という感じで。ご縁があって去年から畑をやり、今年は初めての狩猟と田んぼ。そのために必要なことは瞬時に体が動いて、気が付いたらオートマ限定解除の試験受けたり軽トラを購入したりしていた。また、農作業や狩猟のための体づくりと太極拳の稽古が少しずつ繋がってきている。ただ、自分は少しずつ老いに向かい、体の使い方を工夫しなくてはならない。無駄な力を使わない方法をこれからは養っていく必要がある。不思議なことに、昔は体がだるかったり、何がしたいのかよくわからなくなったりすることが多かったように思うけれど、ここ数年そういう時間がかなり減ったように思う。でも、気候の関係か何かでたまにそういう日もある。自分といえども思い通りにはならない。それは人間もやっぱり自然の一部だからなのだろうと思う。

自然農や大地の再生を経験しているうちに、自然の植物、虫、動物はそれぞれ内発性に突き動かされて反応しあってバランスをとっていると強く実感できるようになってきた。小さな内発性の発露に遭遇すると自分の内側に「感動」といってもいい心持ちが生じる。そういえば子供の成長にも似たようなところがあって、小さい頃ほどそのことにハッとする。それどころか自分の内にも自分では計りかねる何か、自然の内発性があるとつくづく実感することも多くなった。たとえ何かの計画を立てても、自分の内発性は違った方向に動こうとしてしまったりする。だからやっぱり観察することしかできない。観察しながら「へ〜、そうなんだ〜」と他人事みたいに感心する。

自然を観察しながら畑の作業をしていると、動的瞑想という感じで何かしら自分に起きたことを反芻したりしながら徐々に無心になっていく。自分がした作業の結果というよりは、自分が意図しないことが畑や狩猟で起きることへの驚きと感動の方が大きくて、そこでも「へ〜そうなんだ〜!」となる。「自然」をじねんと読んで、おのずからなる、という意味になるけれど、それが本当に内発性の根本なんだなと思う。それに比べると人間はなんとも複雑だなあ。そこから離れようとする力が大きく働いているような気がする。なぜそうなったのだろうか?そういった問いを自分の中で転がしていくのも楽しい。自分の好奇心もなんだか複雑…。


2023年2月7日火曜日

はじめての止め刺し 2023年2月7日

春が立った翌日に、眩い晴天の中でまた猪の罠猟を経験する機会を得た。午前中にはある大学の授業を見学するような形で箱罠の止め刺しを見せていただき、解体の途中まで参加させていただいた。小さな雄の猪だった。かわいい、と思ってしまうような猪が、恐怖で立髪を逆立てて暴れ回る。ワイヤーを噛ませて口をくくりたいところだがたくさんの人に気を散らした猪はなかなかワイヤーに目がいかない。そこで足を素早く掴んでおりの外に引っ張り出し、直接ナイフを檻の中に突っ込んでとどめを刺す。途中で猪が悲鳴を上げる声も聞き、命のやりとりの厳しさを胸に刻む。たくさんの学生がそれぞれの感想や質問をかわして次の工程へと進む。大きな美しい校舎が立ち並ぶそこはかつて里山であり、猪もたくさん住んでいた。15年ほど前に校舎が建てられ、自然は残り少なくなったものの、周りに田んぼや畑があって残った茂みなどが猪にとって格好の隠れ家になった。大学のエリアは当然銃は使えないので猪にとって安心して子育てできる場所になったのである。しかし、学校の中で自転車やバイクで通勤している生徒と猪が鉢合わせしたり、食料を調達に行く猪が周りの田や畑があらしたりといったトラブルもあり、授業という形での狩猟を行うことになった。学生にとっての豊かな経験ともなっている。小さな猪のお腹を割いて内臓を取り出し終わってお昼休憩となった。その休憩中に猟友会の会長さんから電話があり、「仕掛けた罠に一匹かかっているから止め刺しを経験したいならおいで」とのこと。今目の前で見たことを、自分が行う可能性についてしばし逡巡…。学生さんがたくさんいるなかで、解体の経験はやっぱり学生さんが優先して行ったほうが良いし、私はここで中座してそちらに向かおうということになる。息子も一緒である。

 到着するとさっそく会長さんの軽トラの後を追って現場に急行。到着するなり、「これがかわいいんだな〜」と会長さん。こちらもさらに小さめな雌の子猪である。いよいよ、私がこの瞬間に向き合う時がきた。箱罠だけれども、ある工夫をして私が行いたいと思っているくくりわなと同じ状況を会長さんが作ってくださることになり、猪の鼻先にワイヤーをかませるべく奮闘してくださったがなかなかワイヤーを噛まない。そこで、やはり足を掴んで外に出す。先ほどと違うのは、脚の二本の骨の間にナイフを差し入れてそこに紐を通す。そして紐の先にロープを繋いで、そのロープは箱罠にしっかり結びつけて扉を開ける。しばらくすると扉の外に猪が飛び出し、くくり罠にかかったのと同じ状態になる。「さあチョン掛けしなさい」と竹の棒に連結したワイヤーの先にフックがついたものを渡された。猪の足に繋がっている紐にそのフックをひっかけワイヤーを木に巻きつける。「さあこれで身動きがとれなくなったね。棒で叩くなり刃物で刺すなりしたらいいけど、どうする?」と問われここでまた逡巡。しかし迷ってる暇はない。刃物で刺そうと思ったけれど、まだこちらにかかってくるイノシシが元気なうちに足で顔を押さえつけるのに抵抗を覚えて、叩いて気を失わせる方法に変更することにした。そうした決断を次々にしなければならない。そうした決断を私自身にまかせて全力でサポートしてくださる会長さんの人並外れた人間性をひしひしと感じながら、会長さんが切ってくれた重たい木の枝を手に取る。向き合う。命が私に向かってくる。生きようともがく。私はこの命に拮抗するのだ、そう思って自分の軸を相手の軸に合わせる。眉間だけを見つめて木の枝を振り下ろす。一発目で重い手応え。すでにぐったりとしているが続けて二回振り下ろす。ぐったりはしているけれどまだ身体は微妙に動いている。会長さんが「お母さんやるね」と息子に話しかける声が聞こえる。身体中で興奮と緊張がつづいている。正確な場所を教えていただきながら喉から心臓にむけて刃物を突き刺す。血を出すためだ。それでも足がもがいている。すごい生命力である。生命力は溢れ続けている。動かなくなると同時に目の光が消える。生きるということの意味が変わってしまいそうだ。人間というものがいったいなんなのか、もう一度問われ直すような、それでいて自分の立ち位置が明晰になってくるような経験として、私はこの瞬間を一生忘れないだろう。

 解体にも立ちあわせていただく。会長さんの場合仰向けにした猪の肛門の方から薄皮一枚をナイフで上まで割いて、胸骨を取り除き、そのあと恥骨を切って、他の内臓を傷つけないように食道の上部を切って全ての内臓を取り出す。心臓と肝臓を自食用に取り出す。まだ暖かい心臓と肝臓の感触を私と息子は手の上で確かめる。まだ小さいので脂肪は少なめだが、皮を剥ぐのはなかなか難しかった。小さいサイズで骨や体の部位をできるだけ正確に把握しようと目を凝らしながら立ち会う。

「昔は果樹なんかを育てていてもそのうちの一部は鳥のためにとっておいたりしてね、自然と一緒に生きていたよね。カラスのことを害獣のように言う人も多いけど、野生動物の食べた死骸を片付けてくれるのはカラスなんだよね。動物はほんとにみんな健気なんよね。一番の害獣はむしろ人間よね」

会長さんの自然への敬意と温かさが体の芯まで染みてきて、私の止め刺し初日を支えていただけた奇跡を思う。その日の出来事を深く心に刻みながら、前回とはまただいぶ違う味と食感の猪肉を家族と共に味わう。

2023年1月26日木曜日

はじめての狩猟研修 2023年1月26日

 ちょっと遠くのエリアで狩猟の具体的な講習を受けることになった。

道に迷いながらなんとか集合場所にたどり着くと、ちょっと緊張感に包まれ年配の男性達が集まっていた。ほくほくとした顔、顔、顔。エネルギーに溢れてキラキラしている。そして、彼らはそれぞれにこだわりがあり、バチバチと衝突することもあるが、その後はさっぱりとしてる。ユニークな繋がりだな、ある種の受け入れあいというか。

止め刺し、というのは動物に止めを刺すということで、狩猟をする側には命の危険もある。毎年、何人かがイノシシの逆襲で怪我をして、2年に一度は人が死んでいるとのことである。命懸け。でも命を奪う側に、やはり命の危険があるのはフェアであるような気もする。

今回、初めて止め刺しを目撃する機会を得た。車で丘のような場所に登り現場に急行すると、満州で戦死したとある部隊の大きな慰霊碑があり、そのすぐ横にその箱罠は仕掛けられていた。その名の通り箱、つまり檻にもなる罠で、中では猪がまだふんふんと鼻を鳴らし、狭いなかうろうろしている。動物を見て「かわいい」という感情が湧くのは、傲慢な人間社会的「上から目線」かもしれないと自分を戒める。野山を駆け巡り、命を繋いできた獣。森と川と土と虫とのつながりを持って循環の一端を担っている一匹の獣、その命を奪う瞬間に立ち会う。自分も一匹の獣として。といっても止め刺すのは私ではなくベテランの先輩である。箱罠を取り囲んで研修生と先輩たちが、どの角度からどうやって止め刺すのか話し合い、イノシシの首に縄をかけて止め刺しやすくしようとしたがなかなか難しい。イノシシは囲まれてからというもの危険を感じて落ち着かず、時々檻の柵に向かってものすごい勢いで頭突きする。そのスピードたるや、もしこの勢いを自分に向けられたら間違いなく大怪我、どころか死の危険がやはりあるわけだ。その勢いをしっかり記憶に叩き込む。命を奪う相手になりきることができるように。イノシシの首に縄をかけるのが難しいので、箱の向きを縦にして、狭いスペースにイノシシを押し込めることで体勢を固定して止め刺す条件を整える。みんな和やかに笑いながら話しているけれどじわじわと、さあ、いつ刺すか、いつ刺すか、その間合いが図られる。「何度も刺さないように」という声が聞こえる。先輩は先にナイフを設置した長い棒を握っている。私は目をカッピラいて目撃する心構えをする。ついに、先輩が脇から心臓をひと突きにする。猪は大きな衝撃もなく顔の表情も変わらずフリーズしたように動かない。刃先から結構な量の血が出る。「あ〜、血が結構でたね、心臓いったな」という声。その時、猪が激しく痙攣し、体に確かな衝撃が走る。でもまだ呼吸をしている。肺に空気が入っては出る。ずるずるっと体が床に崩れ落ちる。それでもまだ息をしている。そのとき、「ク〜」というような声を発したように聞こえた。「あ〜、肺に入っていた空気が出たんだね」という先輩の声。気がつくと、とても静かになっていて、体は動かず目の光が消えている。先輩たちは簡単に猪が死んだと判断せずに、疑い深く確かめ続ける。いつ、復活してくるかわからないと体で知っているから。でも、ようやく確認を終え、牙の隙間にワイヤーを通して引き摺り出す。

解体を行うために、ある先輩のお宅にたくさんの先輩と研修生が集まり、お昼を食べ、そして解体となった。イノシシをしっかり洗って台の上に、白いお腹の面を上に乗せる。喉の少し下あたりから刃物を差し込み胸骨の周りとその下の方までまるで手術のよう。ペニスは尿や精液が出るので紐で結いて、その脇を尿道に沿ってすっかり取り除く。そして、心臓、横隔膜、胃袋、腸、あらゆる内臓を滑るように取り除いていく。寒い日のこと、内臓はほかほかと湯気を立てる。耳は切り取られて、写真と一緒に提出される。「取」という字が耳を掴んでいる意味の象形文字であることに思いを馳せる。そのあとは、大きな台の上に仰向けに乗せられたイノシシを先輩に伝授されながら自分も刃物を持って解体に参加する。皮を剥いで、骨と肉の間に刃物を入れていき、部位を確認しながら解体を進める。肋骨の薄い膜を剥いだ後、「これヒレ肉ね」とある肉を切り分けながらかなり年配の方が教えてくれる。先輩たちはさまざま年齢層の方々で女性はかなり少ない。みんな本当にやさしくて、「最初はだれでも失敗するし、気にしなくていいから」とどんどんやらせてくれる。わきあいあい笑いも飛び交い楽しい中でも、どうしても手に力が入って緊張気味。そんな中どんどん骨が取り除かれて、時々肉も焼いて食べながら進む。ハツを食べたときは、なんだか涙が出そうになった。「食べる」ことの意味が今までとはまるで違ってくるような感覚。そして、切り分けられた肉の部分は細かくビニール袋に入れられて、ほぼ全員に分けられる。この、みんなで分ける感じが、まるでなんでもないことのようで深い意味合いとして自分には感じられて、表層的に捉えていた物事が立体的に見えてくる。ビニールに包まれた肉は私の手の中で生暖かい命のひとかけらとして、一緒に1日を過ごした仲間と分かち合った尊い食べ物として深い意味合いを帯びていた。

帰って、家族にその話をしながら、それなら今日は焼肉にして食べようということになる。食べながら私は急に「ヒレ肉」が腸腰筋であることに思い当たる。あ、あの時、あの肋骨の側面についていた「ヒレ肉」とよばれたものは、自分の体の肋骨の内側で背骨の脇についているこの腸腰筋のことだ!と。息子は、「なんかこの肉すごくエネルギーもらえる!」と言う。たぶん、こういったいろいろなエピソード、物語と一緒に食べたからそう感じたのかもしれない。畑の作物も、お米も、やはりそれぞれに作っている人の物語があって、それと一緒に命の糧にするのだな。自分で少しでもそれに携われば、そこにどんな物語が隠れているのか、想像できるようにもなる。そして、いろいろな物事への敬意をもう一度取り戻すことができる。そうしてはじめて、自分の命への敬意にもつながっていくものなのかもしれない、と思う。

2023年1月12日木曜日

利益と不利益のシステムとは違う小さな流れ 2023年1月12日(木)

 畑をやり始めて、今年は田んぼにも取り組むことになって、狩猟にも手をつけようとしている今、否応なく循環について考えざるを得ない状況が続いている。同じ作物をたくさん育てることは、自然がバランスをとる絶妙なやりとりを無理やり変更させるという側面があるということを、否応なく実感してしまう。なぜなら、絶妙なバランスをとるといっても自然の一つ一つの命は一見バラバラに、個々の都合で伸びたり食べたり繁殖したりしているように見える。見方によっては勝手にそれぞれ自分のことだけ優先して戦っているようにも見える。でも、そのバラバラな物事が奇跡のような響き合いで補い合ったり助け合ったり、結果的になっていて、本来人間もその循環の輪の中にいるはずだったのだと思う。そのことを、自然と生きることで実感していた時代はあっただろう。そこから切り離されていったのはなぜなのだろう?切り離されようとしたときに生まれた神話や儀式があって、なんとか、循環に繋ぎ止めようとしていたのかもしれない。祈りのように。

一方、原発もワクチンも戦争も、そこから利益を得る人がいる限り決して止めることはできない、という達観した気持ちが湧き始めている。利益を得るのは巨大多国籍企業やその富を吸い上げる1%の人たちだけではなく、その人たちが意のままに振る舞うためにふりまく利益を得る人、またその人が自分の役割のために誰かにふりまく利益を得る人、と、結果的にかなり多くの人にその利益がふりまかれることになる。たとえばワクチンを打つことで旅行が安くなるというように末端の人々にさえある種の利益がふりまかれる。そして、それらの結果足元からヒタヒタと不利益が滲み出てきて下の方から犠牲になっていく。利益と不利益はまるで次元が違うように見える。けれども、ある種、利益のための何かがもたらす不利益は線引きに囲われた物事の継ぎ目から滲み出てきた自然の循環の力、と言うこともできるのかもしれない。この利益と不利益のシステムから完全に外に出ることは誰であっても不可能にさえ思える。つまり、その被害の拡大がもうどうしようもなく溢れかえって循環が息を吹き返すまでそれらは続くのかもしれない。これはあまりにも悲観的な見方だろうか?それならどうしたらよいのか?

できることは、小さな流れを感じ取ること。小さな流れどうしが少しずつ交わって小さな循環を作ること。それらができるだけ大きな利益と不利益のシステムに絡め取られないように、独自の内発的な流れのままでいること。それらは意識してできることだろうか?目的意識が強ければ不自然極まりないものになってしまうかもしれない。そんな絶妙なバランスを、自然から学べるだろうか?観察を続けるしかない。

2023年1月4日水曜日

お正月明け 絶望について考えた 2023年1月4日

  お正月明けの朝、起きがけに頭がぐるぐると回ってしまって、絶望について何やら考えていた。



 人々は基本的に、普段は信用システムの中で生きている。少なくとも日本では。
顔の見える範囲では信用を失ったら生きてはいけない。地域では人々がそれぞれ健康ですこやかに生きられるように配慮した行政サービスが行われ、国の健康保険や年金やさまざまなサービスも、またそのための税金も国民のためであると考えるのがごく自然だ。だから、国際機関も、人々の平和のためや健康のために、人々を守るためにさまざまな提言や規制がなされるものだと考えるのは当然のことだ。たとえ、その人選や提言の正当性を問う権利が我々になくても。けれども、世界は信用システムと同時に詐欺システムが存在し、両者は判別するのが難しい。顔が見えないところで売上のために尽くす人の真面目さは詐欺さえ正当化してしまう強迫観念に身をやつしている。また、元々信用システムで成り立っていたものが、経済的な危機を乗り越えようとする時にゆるやかに詐欺システムに移行してしまうこともあるだろう。その意味で、それはとてもありきたりなことだ。

 

 今、世界で起きていることは、「陰謀」などという大袈裟な言葉を使うまでもなく、世の中で何度も目にしたことのある、利権を得続けたい大企業と権力者の癒着で、それがグローバルな規模で起きているだけ。あまりにも、あまりにも「ありきたり」なことだ。大きくなるとそれを摘発する組織もなく、庶民を欺くことさえできればいいわけで、ちょろい。そのための技術は専門の機関が担当して長らく試行錯誤が行われ続けているし、マスメディアだけじゃなくSNSを利用できればもっと具体的にコントロールが可能になる。調べていけばわかることだが、南米でも、アフリカでも、イランでも、大きな国際機関と多国籍企業の癒着によって人の命をなんとも思わないような暴挙は行われ続けたし、それを実感している人にとっては、「またか」という感じかもしれない。

 ありきたり、とはいえ、規模が大きくなるとやることも大きくなる。大きくなればなるほど、容易にそれは受け入れがたく、目を背けたくもなる。

 

 ロックダウンのベルリンで、私は静かにゆっくりと絶望という地平に降り立った。絶望とはいっても、それを丸ごと受け入れてしまえば、自分を愛してくれる人がいる奇跡と共に、それは丸ごと世界の神秘だ。それからというもの、自分の内側から訳のわからない熱が溢れ出すようになった。迷いが消えた。とても怖くて目を背けたくなるような現実は、目を背ければ背けるほど、ポジティブに生きようとする光の影として濃く強く存在感を発揮する。一度向き合ってそこに意識を伸ばしてみると、実は、それらは自分の一部でもあることがわかる。知らない森に吹く風や、深海の微生物へと意識を伸ばして自分の一部であると感じることができるように

 すなわち、それは自分にもできることがある、ということだ。すると、役割に繋がっている感覚が自分を生かし始める。