2020年4月27日月曜日

街の観察 電気専門店の親切なお兄さん 2020年4月27日

街の観察

土曜日に久しぶりに電気専門店に行った。長く並んだ上に、2階のフロアーには入ることができず、2階に売っているものについて店員さんに相談して持ってきてもらうシステムになっていた。それも、一人一人に対してすごく丁寧なので結果的にものすごくものすごく待たされた。でも、息子が手作りのパソコンを夏休み明けに購入する計画なので、その下見に行ったわけだけど、見れなかったのでカタログがないかを聞くと、ウェブページで調べて購入できることを詳しく教えてくれた。ドイツ語でどの言葉で検索すると良いかということを丁寧に一つずつ教えてくれる。待つ間はじれったかったけど、実際こうやって丁寧に解説してもらうとなんだか心が癒される。人と人にとってコミュニケーションの交換というか、親切な心の交換みたいなものが欠かせないのだなあと思った。

街を歩くと、椅子を置くことを禁止されていると思うけれど、何気なく椅子っぽいものが置いてあったり、何気なくそこに座って数人が喋っている姿を見るようになった。なんとなく妥協点を探っているような感じ。禁止する側も、そういうことを計算に入れているのだろうなとも思ったり。いきなり解禁にすると際限なく人が集まるといけないから、ものすごくゆっくり解放していくために、禁止事項はそのままに、お店を少しずつ開店させたりしてこういう状況になっているんだろうな。

「役割」ということについて、ずっと書こうと思い続けているけど書き始めることができていない。
母親とか、店員とか、アーティストとか、そういうのもひとつの役割かもしれないけれど、これにはいろいろな賛否があって、そういうもののないただの「自分」というものに戻れるのが良いという考え方があるけれど、私はむしろ「役割」というものの強さというか、それによって強くなれて、かつ満たされるということもあるように感じていて、うまく言葉にできていない。明日書いてみたい。

体の観察
とにかくここ数日とても眠い。ちょっと前までは逆に冴えていたのにどうしてだろう?
この眠気の源泉は、どうも腸のあたり、あるいは腸と胃のつながっているところあたり、の脈のあるあたりだろうか?そこにものすごく暖かいマグマみたいなのがあって、意識を遠のかせる。そこに意識を向け続けると唾液が満ちてくる。腕や足が脈打っているのを感じる。

2020年4月20日月曜日

境界が曖昧になる感覚/イメージのリセット 2020年4月20日

Theaterhaus の庭で踊った時、私自身がそこでどのように見えるか?ということを払いのけながら、私自身が目の前に見える草や土や空や鳥や風にどうやって反応できるのか?に意識を向けていった。それらは、自意識を刺激される要素もあって、久しぶりに、そういう自分のめんどくさい部分に付き合うことになったけれど、素直にとても気持ち良い瞬間がなんども訪れて自分の人間ぽくない部分が拡張していくような感じがあった。空を横切る鳥を目で追ったり、土の匂いを嗅いだり、何か小動物の糞を手に取ったり。線引きされたイメージに捕まらずに、目の前の物事との深い交流ができるためにはやっぱり感覚が開かれていかなくちゃならないのかもしれない。あるいは言葉がはぎ落とされていくということかもしれない。自分を繋ぎ止めている意味や記号やイメージを剥ぎ落とすことができると、別の深いつながりが自然と蘇ってくるような感じがする。庭では水撒きをしている人がいて、水を撒くことをすっかり忘れて私のパフォーマンスを凝視しているのに気がついたり、親子が庭に入ってきて、私が進んでいこうとする方に座ったり、そういう予想外のことが起きると自分の中でいろいろな葛藤が起きて、でもそれが意外によくて、自分の予想や予定を壊して新たな瞬間が生まれていく。

昨日久しぶりにティアガルテンに行って湖に面した森の中に陣を敷いてしばらく佇んだ。水面を見ると、木々や空が綺麗に映っている。その映っている世界をどこまでも目で追って行きたくなる。その上に目を転じると、その映っている世界の元となった現実の世界が見えるわけだけれど、そっちより水面の中の世界のほうが断然魅力的に見えた。どこまでも、その中に入って行きたくなる。風の音が聞こえて、高い木々の葉に目を転じると、その葉と葉の境界があいまいでまるで水面みたいにもやもやとして、空と葉の境界までも曖昧になるような、気が遠くなるような感じがあって、これもまたすごく魅力的だ。境界が曖昧になる瞬間や物事に、ものすごく魅力を感じる。不確かなものごとの中に、自分の想像を掻き立ててイメージを作り直すような作用があるのかもしれない。

イメージといえば、神話や古事記や聖書や、さまざまなものがどのように世界が作られたかという話を語っていて、現実には確認しようのない人の起源や世界が生まれた起源やこの世の成り立ちみたいなものを、ある種のイメージを共有することで見ようとしてきた。人は基本的にイメージを使って世界を把握する生き物なのだろう。たとえ、科学が発達して、細胞、遺伝子、素粒子などなどの知識を得たとしても、それら見えない物事は写真や図から得たイメージで自分の意識の中にインプットしておくしかない。それらで構成されている体というイメージを持つしかない。しかし、そのイメージの持ち様というのは変えることができてしまうし、人に変えられることもできてしまう。仏教の経典にあるように、見えるもの全てが本当は「空」であるというように何かしら、イメージをリセットする感覚が、より深くの物事と繋がるきっかけになるのだろうか?

2020年4月17日金曜日

「自然」というイメージ 2020年4月16日

ここ数日のうちにいくつかの「集まらない」パフォーマンスを行った。
3人で3つのパフォーマンスポイントに立って、インストラクションを使いながらパフォーマンスする場所を順番に巡るもの、5メートル離れた二つのパフォーマンスポイントに一人ずつ立ち、入れ替わりながら4人が演奏するコラボレーション、そして今日はどうしても会いたかった人に窓越しに見てもらう庭でのパフォーマンス。

どれもが公園や庭など自然の多いシチュエーションで、私はこういう状況になる前に自分から進んでそういう場所でのパフォーマンスはあまりしてこなかった。その理由は、おそらくそういった景色が、一つの線引きされた「自然」のように扱うことになってしまうのが嫌だったからだと思う。それは、テレビや映画やインターネットや、様々なメディアを通して切り取られた「自然」が自分の意識に入り込んで、線引きを払いのけることができなくなってしまっているからかもしれない。その「イメージ」をどうやって自分の中から消すことができるのだろうか?あるいは消さなくても、何か良い方法があるだろうか?

久しぶりに、会いたかった彼女に出会えたことで、どんなに私の心が満たされたか、本当に人に会うということの効果はインターネット越しとは全く違った経験であることを改めて実感する。しかし、こうなる前からたくさんのものを、テレビや映画やインターネットなどのメディアに明け渡していたのかもしれない。それをどうやって取り戻せるか少しずつ考えていきたい。

2020年4月15日水曜日

偶然・習慣・循環・調整 2020年4月15日

思考の整理 偶然・習慣・循環・調整

自分が日常生活を生きていく中で大切なことについて、ちょっと思いついたことがあったのでメモしておく。当たり前といえば当たり前のことかもしれないけれど。そして単語が妙に硬い。小学校の時の感じの練習を思い出す。ただ単に心地よく生活するためのことなんだけど。
・偶然(流れ)をつかむ
・習慣をつくる
・循環の度合いをあげる
・調整力をつける

偶然をつかむのと習慣を作るのは相反しているように見えて、どちらも大切なのだと思う。習慣を「規則」にしちゃうと息苦しくなって偶然の入り込む余地がなくなる気がする。心地よいから習慣的にやるようにする、という感じで続けるけれど、やれないときは無理をしないほうがかえって良い時もある。偶然をつかむには、たくさん起きてる出来事の中でアンテナに引っかかる感度が高くないと掴めないかもしれない。自分が何を欲しているかを自分で感じ取れないといけない。そのためには、自分を律しすぎない方がよいかもしれない。あるいは、修行のようにとことん追求するのも逆に良い場合もあるかもしれない。その場合は修行によって何かが削ぎ落とされる実感、あるいは感覚の変化の実感が心地よさにつながるみたいなことが必要かもしれない。
循環の度合いは、人に優しくされた分、人にも優しくするというようなことから、実生活で使うものの循環度、誰かとの物々交換、知人を人に紹介する、あるいは紹介してもらう、ものを溜め込まない、などなどできることをちょっとだけ意識的にしてみても良いかもしれない。
調整力について、何かがダメと言われた時、誰でも妥協点を見つけるべく交渉すると思う。それも一つの調整だと思う。今みたいな状況で「家にいなければならない」ということに非常な苦痛を感じる場合、あるいは経済的、身体的、精神的に自分、あるいは助けが必要な人々との関係において、この状況で可能な範囲をうまく調整することが必要な場合がある。調整することで心身を心地よく保ったり、助け合ったり、創造的な可能性を模索したりする必要があるだろう。そうでないと明らかに別の弊害がどんどん生じてしまう。なにかが「正しい」とされている時は、それによって起きる弊害にも意識を向けて、「ちょうど良い感じ」、の心地よさのためにできることを探すのも一つの調整なのだと思う。

同じ日の午後追記
習慣といっても毎日同じにできるわけはないので、その中に無限の偶然が潜在している。それをちょっと意識するだけでもいろいろな発見があるのかもしれない。でも偶然は目的意識を持って求めるともう偶然ではなくなってしまう。そこにいつもパラドックスがある。つかまらないように逃げ続けるにはどうしたらよいのだろう。目的意識から逃げ続けるために習慣があるのかもしれない。堂々巡りだ。

2020年4月12日日曜日

イメージの中のねずみ 2020年4月12日

昨晩の夜中に、自分の部屋にネズミが出て、というかまずその音によって身震いしてしまって、気になって気になって眠れずに、立ち上がって様子を見ているとネズミと目があって(メガネがなかったので実際にはわからなかったけどたぶん)向こうはフリーズしたままベットの影から顔を出している。それで、私がちょっと動いたら決心して、踵を返して戻ろうとしたけどうまくいかなくてベットの上に乗って躍り上がるように壁側に消えていった。それで、ミントをティッシュに湿らせてそのあたりに置いたりしたんだけど、しばらくするとやっぱりカリカリ、パタパタと音がする。こちらも何度か音を立てて脅したりして、しばらく静かになっているんだけどまたしばらくするとおカリカリパタパタ。それで、私がまた立ち上がって見ると別のところから壁沿いに歩いているけど、私の気配でまた元のところに慌てて逃げ帰る。それを何度も繰り返して、最後はまた別の方角から逃げて私の部屋の扉の外に出て行った。べつに気にしないで寝てればいいのかもしれないんだけど、どうも「ネズミ」にたいするイメージが強烈にあって、おそらくたくさん菌を持っていて、ペストの原因になってとか、あと、野生動物と言ってよいと思うんだけど、何があっても目的を果たそうとする圧倒的な生命力みたいなのが、こういう都会ど真ん中のアパートの5階あたりだと、一緒にいるのはどうしても不安な気持ちになる。もう少し自然の中とかだったらまた違うのかもしれないけれど。で、思い出したのが、小学生の低学年の頃に、学校の帰りにドブの中にネズミが死んでいて、その時の私はネズミにたいして全く気持ち悪いとか汚いというイメージがなく、むしろアニメのキャラのように見えてしまっていた。なので、「かわいそう」と思って自分の着ていたカーディガンにくるんで家に持ち帰り、「お墓」をつくってあげようと無邪気に考えていた。家に着くと、母が悲鳴をあげた。そして父が「お母さんにあやまりなさい」と言う。でもその時には、どうしてそんな展開になってしまったのか全く理解できなかった。なので強烈に覚えている。でも今は母の気持ちがよくわかる。そして、息子はこのネズミ騒ぎを体験して、「ピーターラビット」のアニメをもう一度みたい!とか言っている。なんかかわいい、と思っているようだ。私もそう思えたらどんなにいいか、と思うけれど、自分の中に立ち上がったイメージは、今のところ消えそうにない。

2020年4月10日金曜日

思考の整理 イメージが人に与える影響について-2 2020年4月10日

「イメージ」っていうのは、ある輪郭を作る作業みたいなものかもしれない。たとえば自分が実際に現実の景色を見ているのに、写真やポスターやコマーシャル映像の方を連想してしまうことがある。それは本当に恐ろしいことだ。写真に魂を吸い取られているようなものだ。写真やポスターやコマーシャル映像はまさに「イメージ」を作る。「イメージ」は輪郭のない、あくまでもいろいろな物事と重なり繋がっている現実の世界を、ひとつひとつの輪郭として切り取ってしまう。そして、あたかもそちらが現実であるかのように、自分も切り取られた「イメージ」の方に合わせてしまう。自分さえ、他者の視点を意識し、固定された「イメージ」として扱ってしまう。

今自分が使っている「イメージ」という言葉は英語のimagineとはちょっとずれている。そもそも英語の場合は動詞だし。自分が日本で日本語を使っている時に使っている「イメージ」は、imagineの訳語となっている「想像する」とか「推察する」と言いたいときには使わずに、名詞として日本で一般的に使われているカタカナ英語と言えるだろう。このカタカナ英語はまさにimagineという言葉を「イメージ」という輪郭の中に閉じ込める作業と言えるかもしれない。だって、その言葉が生まれた背景は全く共有できていなくて、その言葉の意味するところもわからないまま使っていくのだから、輪郭でコーティングするしかない。そういう言葉はたぶんいっぱいあるのだろう。カタカナではなく漢字に置き換えられた単語であっても、もともと日本にはなくて、それらの背景と繋がっていない言葉を日本で使う時には、そういうことは起きるのだろう。

例えば、体の中にある正確な臓器の名前を知っていても、実際にその臓器を見ることも触ることも音を聞くこともできない(心臓の鼓動は聞こうと思えば聞こえるかもしれないけれど)。自分の顔すら、鏡やビデオなどを通さなければ見ることもできない。だから、自分のことでさえ、「体」や「顔」に対しては「イメージ」として把握しているのだろうと思う。様々なことを学校で習ったけれど、歴史にしても、地理にしても、科学にしても、その教科書の中に「全て」を書くことはできない。ほとんどジグゾーパズルのいくつかのピースを与えられるだけで、そのジグゾーパズルの完成図をイメージしてしまう。だからこそ大学で専門的な知識をたくさん学ぶのかもしれないけれど、また、「自分で感じたことを元にすると正確でない主観的な考え方になってしまう」と考えて、客観的な知識や情報を集め「正確に」物事を把握しようとするけれど、ある物事における詳しいことが分かるとそれによって「イメージ」が作られ、それが死角になって別の角度から物事を見るのが難しくなるということもあるかもしれない。窓の外をどんなに見つめても、視界に入らない大量の場所があるように、あるいは、見える範囲であってもほとんどの場所を見損なっているように、どんなに知識を頭の中に詰め込んでも、物事をまるまる認識するなんていうことは所詮できない。ましてや翻訳をした文章を通して、書物を書いている人の視点、それを把握する自分の視点、その視点が作られる前提の「イメージ」が土台となり、ますます死角を作り続ける。だから、「わからない」というところにいつも立ち戻りながら、土台としていたイメージが崩れてしまう経験を積み重ねることでわかろうとする試行錯誤を繰り返すしかない。



自分の文章がどこまでも硬いのが気に入らない。どうしてもっとユーモアのある文章がかけないんだろうか…。また、物語や詩を書くことで輪郭や線引きを解くことができるかもしれないのに、なかなか取り組めてない。



体の観察
頚椎のあたりがちょっと変なカーブになっていて硬い。頚椎から背骨を下に辿っていくと、横隔膜のあたりの背骨がますます硬い。さらに下に辿っていくと、骨盤のすぐ上のあたりがちょっと痛い。朝、起きた時に歯を噛みしめるような感じになっていたから、寝ながら体に力が入っていたようだ。生理があがりかけていて、でも完全にあがっていないので、満月あたりになんとなく体の不調として残っているような気がする。骨盤が開いたり閉じたりするタイミングだけれどうまくいっていないのかもしれない。

2020年4月8日水曜日

思考の整理 イメージが人に与える影響について2020年4月8日

思考の整理 イメージが人に与える影響について
動物は、様々な情報が生死に直結している。どんな音がなっているか?どんな匂いがするか?どんな種類の場所に自分がいるのか?情報が瞬間的に直感に結びついて即反応していかないとすぐに敵に捕まったり餌を食べ損ねたりしてしまう。そういう能力が人にもかつてはあったのかもしれない。今でも全くないわけではないかもしれないけれど。人は何かを自分で把握しようとするときにイメージを使っている。たとえば目に見えない「ウイルス」が人にどのような影響を与えるか?知識を得てもそれが実際に見えるわけではないからイメージとして構築するのかもしれない。たとえば虫歯も、子供の頃に虫歯に関する絵本を読んだりして、「バイキン」みたいなキャラクターとして把握する。また、インターネットで誰かが投稿している情報をいくつか読むと、それらを総合して今何が起きているかを勝手に組み立ててイメージとしてそれを把握しようとしている自分がいる。そのイメージはある時は先入観みたいなものとなる。だから時々そのイメージを解体したり、手放したりすることも必要なのかもしれない。
 昨日の夜、暖かかったので窓を開けたら、貨物列車の音が聞こえた。よく見たら、貨物列車がものすごくゆっくりと駅を通過していた。そしてその向こう側に普通の電車が通過していく。もっと近くの建物の一階は、お店の裏のようでまだ明かりが点いていた。ということはまだお店が開いているか、作業が続いているということなのかもしれない。もう少し高いところの窓に本を読んでいるらしい人影が見える。こうやって実際の物をよく見る、よく聞くことをすると、ちゃんと現実と繋がってると再確認できるように感じる。自分が実際に触れる、見る、嗅ぐ、聞くことで構築される世界は、人それぞれに違って、でもそれらの感覚でつながりあっているようにも感じる。一人きりで見たり聞いたりしていても、何かと繋がっているような感覚を味わうことができる。実際に見たり聞いたりする世界から物事を考えはじめたり類推したりすることが今の自分にとってとても大切だと感じた。そして、その向こうに自分には見たり聞いたりできない多様な部分が潜在している。つまり自分は何も知らないということにちゃんと立ち戻ることができる。

2020年4月7日火曜日

潜在する他の選択肢について2 体の観察 2020年4月7日

思考の整理 潜在する他の選択肢について 2 
とはいえ、今の社会システムの中で、複雑に絡み合った経済的な利害関係の中で、遊牧を続ける人たちが抑圧されずに遊牧の生活を続けることがどんなにか難しいか、森で狩猟採集を続ける人たちが抑圧されたり環境を奪われないでいることがどんなに難しいか、複雑に絡み合った経済的な利害の末端には私たちが使っているエネルギーとかパソコンやスマホに使われている部品の素材も含まれているのだろう。別の可能性を秘めた人々の生き方を抑圧しないでいることで、未来の私たちにいろいろな多様な生き方の可能性が開かれるのだとしたら、そこを解決しなければならないだろう。いつまでも解けない凧の糸みたいに、複雑に絡み合った経済的利害関係のうち、自分たちの日常生活に関わっている部分をどうやって解き始めることができるだろう。また「保護」「援助」という名も元に卑しめたり悪用したりすることなく、別の生き方をする人どうしが共存する道は可能なのか?


体の観察
前に武術の稽古をしていた時に私の背中の左側にしっかり筋肉が使えてない部分があるのを再認識した。自分が普段椅子に座って何かを書いたり、パソコンを使ったりする時に右の脇に寄りかかる癖がある。これは子供の頃からだから簡単には治らないし、背中の左右さがものすごいのもわかっているけれど、座っている時にもし両足が床につけられればもう少し左側をしっかり保つと意識して座ることもできる。寄りかかられていた右脇は少し意識的に力を抜いてみる。

2020年4月6日月曜日

ヴァーチャル会話の可能性2 思考の整理 潜在する他の可能性について 2020年4月6日

ZOOMでやれる実験アイデア

・一対一で向き合って、どちらかが相手の体の状態をトレースする。相手の体、重心のかけ方、声帯の状態、細かにトレースして、相手の声を自分から出してしゃべる。
・お互いそれをやったあと、主体を交換してしゃべる。
・一対一で向き合って、相手の体の一部に意識を集中する。集中された方はどこに意識を向けられたかを当てる。
・一対一で向き合って、一人が体の一部に意識を向けて発話する。相手はそれを真似しようとする。あとで答え合わせする。

思考の整理 潜在する他の選択肢について
生物の進化というのは、ある一方方向に進化しているというよりは様々な方向に枝分かれしながら変化し続けていて、人間の視点から見たら人間がもっとも進化したかのように思ってしまいがちだが、枝分かれしたところから様々な変化をどれも遂げていて、どんなに太古からある生物でも適者生存という感じで生息し続けていてそこからどんな変化を遂げるかまだわからない、と言うことはできないだろうか?人の生活の変化は、狩猟採集していたところから農耕、牧畜を経て様々な機械を発明して産業革命と言われる時代を経て、テレビ、電話、洗濯機、コンピューターや携帯電話やスマートホン、AIとどんどん技術が「進歩」してきていて、それは人の可能性を広げていくと感じる一方で、社会のシステムと相まって世界中を均質な文化で覆っていってしまうような恐怖感をもたらしているようにも感じる。それぞれに「進歩」を選択しなかった人々、あるいは状況的にその「進歩」を享受しなかった人たちを、世界を覆う経済的なシステムに巻き込めば、その人たちは「貧しい」人々、「かわいそうな」人々として生きることになるのだろう。でも、もしそのような人々には別の変化の可能性があるとしたらどうだろう?それは人間の生き方の多様性をひとつ広げてくれることになるのではないだろうか?また、「進歩」の道を遡って、どこかに別の枝分かれする可能性を模索することはできないのだろうか?それは逆行するということではなく、いつでも枝分かれする別の可能性は潜在していたのに、その道を切り落とすような、一つの方向性だけを進んでいるような錯覚を持ち続けてきた私たちが、これからの世界を生き抜くための新しい可能性になりはしないだろうか?

2020年4月5日日曜日

ヴァーチャル会話の可能性 テンペルホーフの小さな事件 2020年4月5日

久しぶりに日本の友人たちとZOOMで話をした。全部で7〜8人くらいだったかな。綺麗ごとだけじゃなくてそれぞれに実感してる本音みたいなことを日本語で言える感じがとても久しぶりで、その延長線上でZOOMでやれるアイデアみたいなことを考えることができた。でもそれは、実際に今まで一緒に会って話して一緒にダンスのイベントを立ち上げて、でその間もいろいろなやりとりを見解の違いとか乗り越えて、時には険悪な時もあってもそれも乗り越えて、一緒にお酒を飲める関係を築いてきたからかもしれない。身体感覚の中にリアルな記憶があって、それが話している間に自分で勝手に補完しているような感じ。と同時に、やっぱりどうしようもなく空虚に感じてしまうのは実際にはそこに居ない、一緒に居たいけど、そこに居ないという現実が逆に浮き彫りになってしまうような感覚もあるからかもしれない。例えば昔の人は写真に魂を吸い取られると思っていたという話を聞いたけど、なんとなくその気持ちも少しわかる。でも、「本当は居ない」ことを受け止めつつやれることなら探せるかもしれない。

・身体感覚を共有するネタ 
お互い体の同じところに洗濯バサミで挟んで踊る。
一人が画面の向こうで自分の体の一部を痛めつける。相手がそれを当てる。

・第六感を鍛え合うネタ 
一人が画面の向こうで文字を書く。相手がそれを当てる。
一人が画面の向こうで手に何かを持つ。相手がそれを当てる。

・不在感を逆手に取る
画面上で最初は映像と音声の両方を通して話すけれど、少しずつ情報を限定していく。例えば画面を出さずに声だけにする。あるいは画面は出てるけど筆談にする。画面は出てるけど身振りだけで相手に何かを伝える。画面も出さないで声も出さないで、身振りだけで相手に何かを伝える。

街の観察
久しぶりにテンペルホーフに行った。凧の糸がまだ絡まっていたので、ずっと凧の糸をほぐしながら紅茶とお菓子を口にしながら、息子と「生と死」についての話をした。人は死を受け止めて生きられるのかどうかについて。死ぬ瞬間に死を受け止めるために宗教はあるんだろうなあとか、それが受け止められるのが良い宗教なんだろうなとか、人に殺されても死を受け止められるかどうかとか、「死」も生きることに含められるのかとか、輪廻の考えが死を受け止めやすいのではないかとか。他にも何か哲学的な話をしてたと思うけれど忘れてしまった。しばらくすると、遠くからズンチャズンチャという低い音がリズムを刻んでいるのが聞こえてきた。ドイツの人たちはこういうリズムが好きだよねえとか、話をしていて、もう凧の糸は直らないまま日が沈みかけたのでぼちぼち帰ろうか、と帰りかけた時、自転車に乗っている二人組が止まったままじっと何かを見ている。でも何を見ているのか最初はわからない。他にも止まったまま何かを見ている人がちらほら、見ている方を見てもよくわからない。でも音はどうやらそこから鳴っている。それで少しずつ音の鳴る方に近づいていくと、遠くで人が踊っているのが見えた。最初は赤いマントみたいなのを羽織っている女の人が踊っている。よく見ると芝生に座っている人たちは本当にその踊っている人を凝視している。踊りとして、人に見せるような踊りじゃないけどなあ、何かを見ることにみんな飢えてるのかな?とか思っていたら、実はその周りの人も結構踊っている。人と人の間隔が空いているので、近くに行ってみないとわからなかったけれど、人々はお互いに離れながら、その音に合わせてみんな踊っていた。ちょっと見ている間に、その近くで一輪車に乗っていた人や、スケボーに乗っていた人もあっという間にその踊りに加わって、つまり、一輪車に乗りながらとかスケボーに乗りながらリズムをとって踊り始めた。人々の「飢え」みたいなものが、全く違った種類の人々を同じように揺さぶっていた。見ている人も、笑ったり、リズムをとったりしている。夕暮れの中で、欠乏感を癒してくれる瞬間を心から楽しんでいるように見える。私たちも、それを見ることで、欠乏感が溶けていくように感じた。

2020年4月4日土曜日

感じていること 体の観察 2020年4月4日

直接に人と関わることが少なくなると、必然的にネットを通した人との関わりになってくる。その時に、何かしらの意見の相違とか感情的なやりとりが入ると、実際に関わる時と違ってエネルギー交換みたいなのが起きずに自分の中にわだかまりが溜まってしまうように感じる。人と会って意見の相違みたいなのがあるとき、お互いに納得いくまで喋ったり、言葉や論理以外の部分で何かしら見えない交流みたいなのがあって、それで解消されてしまうことも多いような気がする。ある微生物で、お互いの体の中の液体をただ交換する、というようなやりとりをするものがいると聞いたことがあるけれど、人間も知らない間にそういうようなことをやってる気がする。見えない何かを交換するというようなことを。ただ、まれに離れていてもそういうことが可能な時がある。それはヴァーチャルなやりとりを通してじゃなく、お互いの直感が使われるような感覚に近い。やっぱり第六感みたいな何かはあるなあと思う。

喪失感がある時は、喪失感そのものを味わうことができる。たとえば失恋の経験が詩や歌になるように。

体の観察
頭の後ろの空間が、自分の延長線みたいに感じてそこが紫色のもやが渦巻いているような感じがする。喉に何か引っかかったような違和感がある。喉にしばらくじーっと意識を向けてみる。足がとても冷えている。足に意識を向けてみる。足や手のわずかな脈を感じることができる。と同時に少し冷えが解消される。耳をすます。遠くに雀の声が聞こえる。電車の通る音も聞こえる。

2020年4月3日金曜日

思考の整理 知らないということについて 2020年4月3日

街を観察したり自分の状態を観察したりは続けるとしても、それとは別に今まで思考していたことを少しずつ言葉にして行こうと思う。もちろん、何かの結論を得たということではまったくなく、ただ問い続けているだけで、今起きていることが自分の今まで思考してきたことを刺激して溢れてくるような感覚があるから、そんなときに言葉にしていくのが良いのかもしれない。でも言葉にしてしまうことは怖い。何か認識が甘くて間違ったことを書いてしまうかもしれないし、最近の日本ではそういうことを攻撃の標的にすることも多いように感じる。だけど、ここはひとまず自分の部屋の中だと思うことにする。まだ誰かに向かって語りかける前の言葉として、書いては消して、書いては消してという感じで呟き始めようと思う。といっても今までだってそうだったのだけど。ここ何年かは、ずいぶん自分の中だけに溜め込んでいたようにも思う。

「本当は知らない」ということがとても大切なんだと思う。例えば私は日本の古い芸能に触れる機会がほとんどないまま大人になった。近所の盆踊りはいわゆる近代盆踊りで歌謡曲っぽい盆踊りソングに合わせてみんなで踊った。もちろん懐かしい思い出ではあるけれど。大人になっても、テレビでお祭りやお囃子が映っていても、ほとんど心に引っかかったことがなかった。東京と神奈川の境あたりにある藤野というところに移住して、そこのお囃子を聞くまでは。そのお囃子を最初に聞いた時、ものすごい衝撃が走った。自分が「知ってる」つもりでいた内容であるにもかかわらず、ほとんど「知らなかった」としか言いようがない経験として自分に迫ってきたからだ。
 また、例えば私は子供の頃に東南アジアの国々にたいして間違った先入観を持っていた。「かわいそうな人たちの住む国」だとか「貧しくて不潔な国」だとか。それは今思えばとても恥ずかしい先入観だけれど、誰かがわたしにそのような情報を伝えたという記憶も全くないのに、どうしてそういう先入観を抱いていたのだろう?
 私の予想では、それはテレビと教科書ではないだろうか?テレビで伝えられていることの中に全ての現実があり、そこに映っていないことは「ない」ことになってしまっていたのではないだろうか?また、教科書は日本の全ての小学生、中学生がほぼ同じ内容を読み、学ぶことになる。だからそこに書かれていることが現実の全てであるように錯覚しがちである。しかし、自分が感じていることを元に自分の視点から物事を見ようとしてみると、全く違うものが見えてくる。そして、与えられた知識から勝手に構築してきた像が崩れていく。また、別の人が感じていることを元にしたその人の視点から物事をみることによって、自分の視点を相対化することもできる。視点は動かすことができる。動かすことによって初めて立体的な認識が可能になってくる。
 私は、日本の民俗芸能が、その地域が「日本」という国ではなく、その地域そのものの自治によって人々が生きていた時代から、そこで生きる人々が経験してきたことに反応し、自然に次世代にそれが伝わっていくような生き様があり、その中から慣習を引き継いで来た流れの一つとして今に至っているということに思い至った。「日本」というものの自分勝手な像が崩れて、本当はそういった「線引き」が成り立たないことを知った。そして、近代以降のシステムが現実の全てではないことを知った。それではじめて、日本を含めたアジアの国々の中で、様々な地域で、そのような人々が反応して生きてきた流れを受け継いできた何か(民俗芸能、地域的な信仰、慣習など)に魅了され、自分が失ったものの大きさに愕然とした。自分がそういったものと無縁なのはなぜなのか?という問いから「西洋近代化とはなんだったのか?」とという問いが生じた。

思ったよりなんか硬い文章になってしまった。もっと細かく、物事に分け入りながら手探りしたいのだけれど。やり直しはきく、と自分に言い聞かせながら、日々書いていこう。



2020年4月1日水曜日

街の観察 アートプロジェクトのエピソードと思考の整理 2020年3月31日

今日はあるダンスプロジェクトを行った。というのも、コロナの状況がまだここまでになる前から計画していたパフォーマンスが行えなくなった時、この状況の中で何かしらやれることをやろう、と二人のアーティストと一緒に計画を練ったプロジェクトの2回目の日だったからだ。3人が集まることなく、パフォーマンスを行ったりそれを目撃したりし合える方法を考えた。

1)一人がもう一人のためにインストラクションを作り街のどこかに仕込む。
2)そして、そのインストラクションを探すための指示をFBメッセージで送る。主に場所と時間とシチュエーション。
3)仕込んだ人は、相手が来てパフォーマンスをするはずの場所の見えるところで、(ちょっと遠く)物陰にかくれてその映像を隠し撮りする。

というもので、前回は私が隠し撮りをする役であった。電車を降りるところから隠し撮りしようと張っていたら、見つけ損なって、慌ててインストラクションを隠している場所に行ってみるともうなくなっていた。それで焦って後を追ったら追いついて、そこから隠し撮りしたけれどバレバレだったのではないだろうか?

今回は私がインストラクションを探し当ててパフォーマンスする役だった。それで、指示された場所まで行って、その指示に従ってお店で飲み物を買い、それを飲みながらインストラクションが隠されているはずの場所まで行くと、コンクリートの壁にわかりやすくインストラクションが貼ってあった。ものすごくワクワクした。それをはがして読んでみると、そこから少し進んだ駐車場で、お店で買い物したエピソードをテーマに踊るように指示が書いてあった。その場所に行って踊ろうとすると、急に犬の散歩に出てきたおばさんと鉢合わせしたので、やりすごしてから踊り始めた。どこから隠し撮りされているかわからない。同じフレーズを何回も踊って、最後にピルエットで終えるように指示があったのスパッときめてストップモーションしたら。うしろから拍手が聞こえた。てっきり撮影してくれてる友人だと思っておもわず手に持っていたコーヒーをあげてみたら、アパートの窓から私を見ていたのは全く知らないおじさんだった。

なんか、クリエイティブなことに飢えていたので、小さな奇跡がすごく体に沁みてちょっと涙が出た。でも、どこかから友人が撮影していると信じ、とにかく帰って行った。

家に到着すると、友人が私を撮影した映像を送ってくれていた。しかし、撮影していた場所から、ちょうど私が踊ってた場所が見えなくて、完全に私が見えない状態で、その場所に進む私と、帰る私しか写っていなかった。大笑いした。結局、私の踊りは、見ず知らずのおじさんのためのダンスになっていた。それはそれで何かの奇跡のようだ。

その場所に行くまでに電車の中でごっついマスクをしている人が数人いた。マスクのごっつさからいって、実際に風邪を引いている人のように見えた。それで、なんとなく電車の中に緊張感が走っているように感じた。私も、街を歩きながら人と距離を開ける感覚が自然に身についてきた。いいことのような、怖いことのような。でも、お店でコーヒーを買った時にその前で立ち話している人や、お店の人の雰囲気は柔和でたのしかった。駅構内で、演奏する人がいたり、物乞いする人が少しだけどいる。

人が、直接人に会うことの効果について、それがもぎ取られることによって起こることについて考え続けている。
今のヨーロッパでの規制は、本当に必要な措置として受け止めている。けれども、それによって感じること、喪失感、悲しみ、危機感をないことにするわけにはいかない、とも思う。また、規制の中での別の可能性について、それも「推奨」されていることでない創造性の発露を決して諦めてはいけないとも思う。