Theaterhaus の庭で踊った時、私自身がそこでどのように見えるか?ということを払いのけながら、私自身が目の前に見える草や土や空や鳥や風にどうやって反応できるのか?に意識を向けていった。それらは、自意識を刺激される要素もあって、久しぶりに、そういう自分のめんどくさい部分に付き合うことになったけれど、素直にとても気持ち良い瞬間がなんども訪れて自分の人間ぽくない部分が拡張していくような感じがあった。空を横切る鳥を目で追ったり、土の匂いを嗅いだり、何か小動物の糞を手に取ったり。線引きされたイメージに捕まらずに、目の前の物事との深い交流ができるためにはやっぱり感覚が開かれていかなくちゃならないのかもしれない。あるいは言葉がはぎ落とされていくということかもしれない。自分を繋ぎ止めている意味や記号やイメージを剥ぎ落とすことができると、別の深いつながりが自然と蘇ってくるような感じがする。庭では水撒きをしている人がいて、水を撒くことをすっかり忘れて私のパフォーマンスを凝視しているのに気がついたり、親子が庭に入ってきて、私が進んでいこうとする方に座ったり、そういう予想外のことが起きると自分の中でいろいろな葛藤が起きて、でもそれが意外によくて、自分の予想や予定を壊して新たな瞬間が生まれていく。
昨日久しぶりにティアガルテンに行って湖に面した森の中に陣を敷いてしばらく佇んだ。水面を見ると、木々や空が綺麗に映っている。その映っている世界をどこまでも目で追って行きたくなる。その上に目を転じると、その映っている世界の元となった現実の世界が見えるわけだけれど、そっちより水面の中の世界のほうが断然魅力的に見えた。どこまでも、その中に入って行きたくなる。風の音が聞こえて、高い木々の葉に目を転じると、その葉と葉の境界があいまいでまるで水面みたいにもやもやとして、空と葉の境界までも曖昧になるような、気が遠くなるような感じがあって、これもまたすごく魅力的だ。境界が曖昧になる瞬間や物事に、ものすごく魅力を感じる。不確かなものごとの中に、自分の想像を掻き立ててイメージを作り直すような作用があるのかもしれない。
イメージといえば、神話や古事記や聖書や、さまざまなものがどのように世界が作られたかという話を語っていて、現実には確認しようのない人の起源や世界が生まれた起源やこの世の成り立ちみたいなものを、ある種のイメージを共有することで見ようとしてきた。人は基本的にイメージを使って世界を把握する生き物なのだろう。たとえ、科学が発達して、細胞、遺伝子、素粒子などなどの知識を得たとしても、それら見えない物事は写真や図から得たイメージで自分の意識の中にインプットしておくしかない。それらで構成されている体というイメージを持つしかない。しかし、そのイメージの持ち様というのは変えることができてしまうし、人に変えられることもできてしまう。仏教の経典にあるように、見えるもの全てが本当は「空」であるというように何かしら、イメージをリセットする感覚が、より深くの物事と繋がるきっかけになるのだろうか?
2020年4月20日月曜日
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