2020年4月1日水曜日

街の観察 アートプロジェクトのエピソードと思考の整理 2020年3月31日

今日はあるダンスプロジェクトを行った。というのも、コロナの状況がまだここまでになる前から計画していたパフォーマンスが行えなくなった時、この状況の中で何かしらやれることをやろう、と二人のアーティストと一緒に計画を練ったプロジェクトの2回目の日だったからだ。3人が集まることなく、パフォーマンスを行ったりそれを目撃したりし合える方法を考えた。

1)一人がもう一人のためにインストラクションを作り街のどこかに仕込む。
2)そして、そのインストラクションを探すための指示をFBメッセージで送る。主に場所と時間とシチュエーション。
3)仕込んだ人は、相手が来てパフォーマンスをするはずの場所の見えるところで、(ちょっと遠く)物陰にかくれてその映像を隠し撮りする。

というもので、前回は私が隠し撮りをする役であった。電車を降りるところから隠し撮りしようと張っていたら、見つけ損なって、慌ててインストラクションを隠している場所に行ってみるともうなくなっていた。それで焦って後を追ったら追いついて、そこから隠し撮りしたけれどバレバレだったのではないだろうか?

今回は私がインストラクションを探し当ててパフォーマンスする役だった。それで、指示された場所まで行って、その指示に従ってお店で飲み物を買い、それを飲みながらインストラクションが隠されているはずの場所まで行くと、コンクリートの壁にわかりやすくインストラクションが貼ってあった。ものすごくワクワクした。それをはがして読んでみると、そこから少し進んだ駐車場で、お店で買い物したエピソードをテーマに踊るように指示が書いてあった。その場所に行って踊ろうとすると、急に犬の散歩に出てきたおばさんと鉢合わせしたので、やりすごしてから踊り始めた。どこから隠し撮りされているかわからない。同じフレーズを何回も踊って、最後にピルエットで終えるように指示があったのスパッときめてストップモーションしたら。うしろから拍手が聞こえた。てっきり撮影してくれてる友人だと思っておもわず手に持っていたコーヒーをあげてみたら、アパートの窓から私を見ていたのは全く知らないおじさんだった。

なんか、クリエイティブなことに飢えていたので、小さな奇跡がすごく体に沁みてちょっと涙が出た。でも、どこかから友人が撮影していると信じ、とにかく帰って行った。

家に到着すると、友人が私を撮影した映像を送ってくれていた。しかし、撮影していた場所から、ちょうど私が踊ってた場所が見えなくて、完全に私が見えない状態で、その場所に進む私と、帰る私しか写っていなかった。大笑いした。結局、私の踊りは、見ず知らずのおじさんのためのダンスになっていた。それはそれで何かの奇跡のようだ。

その場所に行くまでに電車の中でごっついマスクをしている人が数人いた。マスクのごっつさからいって、実際に風邪を引いている人のように見えた。それで、なんとなく電車の中に緊張感が走っているように感じた。私も、街を歩きながら人と距離を開ける感覚が自然に身についてきた。いいことのような、怖いことのような。でも、お店でコーヒーを買った時にその前で立ち話している人や、お店の人の雰囲気は柔和でたのしかった。駅構内で、演奏する人がいたり、物乞いする人が少しだけどいる。

人が、直接人に会うことの効果について、それがもぎ取られることによって起こることについて考え続けている。
今のヨーロッパでの規制は、本当に必要な措置として受け止めている。けれども、それによって感じること、喪失感、悲しみ、危機感をないことにするわけにはいかない、とも思う。また、規制の中での別の可能性について、それも「推奨」されていることでない創造性の発露を決して諦めてはいけないとも思う。

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