「イメージ」っていうのは、ある輪郭を作る作業みたいなものかもしれない。たとえば自分が実際に現実の景色を見ているのに、写真やポスターやコマーシャル映像の方を連想してしまうことがある。それは本当に恐ろしいことだ。写真に魂を吸い取られているようなものだ。写真やポスターやコマーシャル映像はまさに「イメージ」を作る。「イメージ」は輪郭のない、あくまでもいろいろな物事と重なり繋がっている現実の世界を、ひとつひとつの輪郭として切り取ってしまう。そして、あたかもそちらが現実であるかのように、自分も切り取られた「イメージ」の方に合わせてしまう。自分さえ、他者の視点を意識し、固定された「イメージ」として扱ってしまう。
今自分が使っている「イメージ」という言葉は英語のimagineとはちょっとずれている。そもそも英語の場合は動詞だし。自分が日本で日本語を使っている時に使っている「イメージ」は、imagineの訳語となっている「想像する」とか「推察する」と言いたいときには使わずに、名詞として日本で一般的に使われているカタカナ英語と言えるだろう。このカタカナ英語はまさにimagineという言葉を「イメージ」という輪郭の中に閉じ込める作業と言えるかもしれない。だって、その言葉が生まれた背景は全く共有できていなくて、その言葉の意味するところもわからないまま使っていくのだから、輪郭でコーティングするしかない。そういう言葉はたぶんいっぱいあるのだろう。カタカナではなく漢字に置き換えられた単語であっても、もともと日本にはなくて、それらの背景と繋がっていない言葉を日本で使う時には、そういうことは起きるのだろう。
例えば、体の中にある正確な臓器の名前を知っていても、実際にその臓器を見ることも触ることも音を聞くこともできない(心臓の鼓動は聞こうと思えば聞こえるかもしれないけれど)。自分の顔すら、鏡やビデオなどを通さなければ見ることもできない。だから、自分のことでさえ、「体」や「顔」に対しては「イメージ」として把握しているのだろうと思う。様々なことを学校で習ったけれど、歴史にしても、地理にしても、科学にしても、その教科書の中に「全て」を書くことはできない。ほとんどジグゾーパズルのいくつかのピースを与えられるだけで、そのジグゾーパズルの完成図をイメージしてしまう。だからこそ大学で専門的な知識をたくさん学ぶのかもしれないけれど、また、「自分で感じたことを元にすると正確でない主観的な考え方になってしまう」と考えて、客観的な知識や情報を集め「正確に」物事を把握しようとするけれど、ある物事における詳しいことが分かるとそれによって「イメージ」が作られ、それが死角になって別の角度から物事を見るのが難しくなるということもあるかもしれない。窓の外をどんなに見つめても、視界に入らない大量の場所があるように、あるいは、見える範囲であってもほとんどの場所を見損なっているように、どんなに知識を頭の中に詰め込んでも、物事をまるまる認識するなんていうことは所詮できない。ましてや翻訳をした文章を通して、書物を書いている人の視点、それを把握する自分の視点、その視点が作られる前提の「イメージ」が土台となり、ますます死角を作り続ける。だから、「わからない」というところにいつも立ち戻りながら、土台としていたイメージが崩れてしまう経験を積み重ねることでわかろうとする試行錯誤を繰り返すしかない。
自分の文章がどこまでも硬いのが気に入らない。どうしてもっとユーモアのある文章がかけないんだろうか…。また、物語や詩を書くことで輪郭や線引きを解くことができるかもしれないのに、なかなか取り組めてない。
体の観察
頚椎のあたりがちょっと変なカーブになっていて硬い。頚椎から背骨を下に辿っていくと、横隔膜のあたりの背骨がますます硬い。さらに下に辿っていくと、骨盤のすぐ上のあたりがちょっと痛い。朝、起きた時に歯を噛みしめるような感じになっていたから、寝ながら体に力が入っていたようだ。生理があがりかけていて、でも完全にあがっていないので、満月あたりになんとなく体の不調として残っているような気がする。骨盤が開いたり閉じたりするタイミングだけれどうまくいっていないのかもしれない。
2020年4月10日金曜日
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