2020年5月26日火曜日

引越しの不安との戦い 時々 桃原郷 2020年5月26日

家探しをし始めて、果てしなく続くインターネットでの検索の日々。良さそうな物件があると勝手に妄想のスイッチが入ってしまうが、プロバイダーから返信が来るのはほんの少ししかないし、そのやりとりがドイツ語だからわからないことがあると焦ってしまって、数々の失敗を繰り返しながら、少しずつコツをつかんでいく。そんな中では「不安」との付き合い方と、「不安」を手放すコツも同時に習得していかないと自分がもたない。

引っ越すということ自体がもう高い壁の向こうにあるかのような無力感になんども襲われながら、実現したあとにこの苦労話を笑って話すってことをできるだけ強くイメージしてみる。時々、「100年後のための森」の妄想で自分を癒しながら。

そんな中で、昨日はハラサオリさんのアパートにお邪魔して「ラジオ桃原郷」に出演させていただいた。ハラさんは、移住前の年にベルリン視察を3ヶ月ほどやった時ライブハウスで偶然出会って声をかけていただき、そのあと稽古を見に行かせていただいたり一緒にフォルクスビューネが当時就任したばかりのディレクターに反発して占拠されてたときに、その占拠した状態でのパフォーマンスを見に行き、不思議な参加型パフォーマンスを行ったりした。その時から比べて、またぐっと美しくなっていて、タジタジしてしまうくらいだった。今回は久しぶりの再開で、またベルリンで何か一緒に模索できる予感がしている。

いつも、私を助けてくれるシアターハウスミッテのガビが家探しで困ったことがあると助けてくれる。叱咤激励されながら、その暖かさがこの不安定な状況の自分を支えてくれている。私もいつか、誰かを支えられるくらいにベルリンにしっかり根を張っていかなければ…。そして、日本とベルリンのいい感じのネットワークを構築していけたら…。

2020年5月18日月曜日

未来の妄想2 狩猟採集区とその周辺 2020年5月18日

昨日の妄想が、なぜか私にすごく良く効いている。精神安定に効果がある。とても不思議だ。あのあと、森の絵や、木の根っこの絵を書き始めた。それも自分自身になぜかとても深く響いてきている。そして妄想がどんどん膨らんできている。

森を狩猟採集区にして、狩猟採集ができるレベルまで森を回復するまでには少なくとも100年以上はかかるだろう。例えば、明治神宮の森は300年かけて森にするという計画だったようだが、100年ですでにだいぶ回復しているらしい。様々な野生動物が住んでいるらしい。しかし、100年、その狩猟採集区を企業などが買収したりするのを防ぐためには、工夫しないといけない。明治神宮は、「神社」という領域だから可能だったことなのだろう。そこで、狩猟採集ができるくらいになるまでのあいだ「森のお墓」みたいな場所にして、散骨か、樹木葬ができる特別な場所にするというのはどうだろう?そうすれば、むざむざとビルを立てたりしにくくなるかもしれない。故人に一番近しい人は故人の命日に森に入ることができる。そして、森の周辺のどこかに、そういう人用のお葬式ができる場所をつくる。様々な宗教に対応できる葬儀場を。そうなると、循環した場所にしたくなるので、助産院みたいな場所も近くに作る。この森がゆりかごと墓場の両方の機能を持ったら楽しい。さらに、芸術家のレジデンス施設や、屋外劇場も作る。

未来の妄想 2020年5月17日

新人類と言われている人間の種類が、この地上に現れたのは20万年前ということで、

ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内という説もある。

太陽の周りを地球がどのような軌道で巡るかで、地球全体が氷で覆われる氷期と、暖かくなって氷に覆われていない間氷期が順繰りに訪れている。今まで、およそ氷期10万年、間氷期1万年で巡ってきているらしい。

私たち新人類はこの地球で経験する2回目の間氷期を生きていて、その間氷期も1万3千年経過しているそうな。いつ氷期に突入してもおかしくないということなのだろうか?

一説によると、地球温暖化によって海流が止まってしまうと、むしろ急激に氷期が訪れる可能性があるらしい。

もし、地球全体が氷に覆われたら、農耕や牧畜も難しくなるだろうなあ。そうなると、狩猟採集しか道は残されていないということかもしれない。もっとも、そうなれば地球環境は1万年くらい前と同じレベルまで回復するかもしれないけれど。いや、技術を駆使して、ものすごい人工的な街を作り、遺伝子を組み替え、生き残るための最大限技術を使って、かつ人を管理する社会になって生き残ろうとするかもしれない。



そんなことをつらつら考えながら、いろいろな妄想を考えている。

地球の中で、自然保護区をもう少し強化した、狩猟採集区を作って、狩猟採集できるレベルに自然が回復するまで立ち入り禁止にする。その周辺に、自然素材でつくる機織りの作業所やカフェなどをつくる。狩猟採集が可能になった場所では、希望者が3年間の狩猟採集研修を受けることができる。将来的に、文明社会の側が行き過ぎた過管理社会になったとき、その社会で生きることを受け入れられない人は狩猟採集に移行することでのみ、そこから逃れることができる…。とか…

2020年5月16日土曜日

思考の整理 一点集中の視点と死角 2020年5月15日

思考の整理 一点集中の視点と死角

ベルリンに暮らし始めてから、ひとつ、なんとなく思っていることがあって、欧米を中心としてひとつのスタンダードな考え方や問題意識というのがあって、一つのトピックをSNSで大量に拡散して、その時々のその中心のトピックを共有する強度が、ヨーロッパの中でとても強いように感じる。たとえば「ミートゥー運動」や「温暖化問題」など、その時々であまりにもたくさんの人が、同じ一つの視点からの問題意識で湧くことによって、そこにたくさんの「死角」が生まれ、かえって、その間に起きてる他のことに意識が向きづらくなったり、あるいはその問題における別の角度からの見方が全くできなくなったり、そういう感じがする。それは、その問題意識を持つことが一つのステータスとして機能してしまっていることと関係している気がする。もちろん、そうすることで、今まで問題として軽く扱われていたことが、きちんと取り上げられる機会としてはとても良いと思うけれど、一方、その死角の中に、意識を向けるべきことを見逃してしまうことで、後になってとても怖い状況が生まれてしまうこともやっぱりありえると思う。今は、世界中が「コロナ」のことに意識を向け、それこそ視点が一点に集中してしまう。こういうときに、各国の法律が変えられていて、それが表面上は大したことがなさそうでも、実際に施行された後で、とても怖い状況になる可能性のあることを見逃してしまうかもしれない。みんなが、一点に意識を向けているときこそ、別の視点から物事を見ることはとても大切だと感じる。

視点を動かすためのインストラクションの作品について考えたい。

街の観察
ベルリンの街は、コロナの蔓延を防ぐために様々な規制が引かれていた間、多様な人の姿が街から消えていった。例えば、物乞いをするロマの人たち(だと思う。もしかしたら違うか?あるコミュニティーの人たち)、音楽をやって駅などでドネーションをもらっている人たち、薬の売買をしているらしき人たち、年中よっぱらっている人たちの集い(これはなんだかとても微笑ましい。実際にはいろいろあるのかもしれないけど、各駅や道端で、馴染みのコミュニティーみたいなのがあるっぽい)、意味のわからないことを急に話しかけるような人、新聞みたいなものを電車の中で売る人。この中の何種類かの人たちはぼちぼち戻ってきた。ちょっとホッとする。

美容院、理容店、ネールサロン、カフェ、レストラン、それぞれがオープンし始めた。街の息吹が戻ってくるような感じ。街が、生き物みたいな呼吸を取り戻しつつある。

2020年5月9日土曜日

散漫な思考メモ 世界を把握する方法/対話の難しさ 2020年3月8日

散漫な思考メモ

想像上の生き物、伝説の生き物、そういうものをコミュニティーの中で共有していた人々にとって、それらは媒介者であって、それらを通して世界を把握していたのかもしれない。

科学が発達しても、その知識を実感として認識するのは難しいことで、それぞれの感覚で独自の方法で実感として認識するしかない。その時に、「事実」「科学」「現実」という、唯一の正しさのものさしは、自分の感覚の広がりを止める作用をする可能性がある。

自分の意識の中で、書き言葉という線引きによって言葉の、音の広がりや響の作用を封じられているとしたら、どうやってそれを解き放てるのか?

『ハーメルンの笛吹き男 阿部謹也』読書メモその1
魔術的なものを廃して理性的な思考を目指したり、そのために物事を外から眺めようとしたりした、そういう移行の時期に、「あいつは魔女だ」と名指しして、さまざまなありもしない妄想を共有した挙句にたくさんの人が殺されてしまった。その根底には差別や人々の生活苦があったとしても、その底意地の悪さを引き起こす原因になったことは「貧しさ」ではないように思う。そうではなく、自分の心の中の感覚の自由を奪われ、線引きの中に閉じ込められることで失う誇りみたいなものが原因なんじゃないだろうか?現代においても、ある種の「非科学的」なことを名指し、批判する人の中が、理路整然とした理性や聡明さでは決してないように思う。と同時に、非科学的な方向性を持つ人が一度相対的な視点を失うととめどがなく、バランスを欠いていってしまうことも多い。

相対的な視点を持ち、かつ視点を動かして物事を見ようとする態度は、人と対立せずに対話を進める良い方法なのだが、フェイスブックはそういうことに合っているメディアのように見えて、絶対にそうならないのはなぜだろう。


2020年5月3日日曜日

思考の整理「内発性の発露とリスク」 2020年5月3日

人と一緒に生きていく以上、本当に様々な人がいて、自分にとって「なんて傲慢な」と思う人とも、一緒に生きていかなくてはならない。優しい人がいる一方で図々しいひとがいて、たくましいとも言えるし、たくましい人がいる一方で、繊細すぎるひとがいる。繊細すぎるとも言えるし優しいとも言える。自分のことしか考えられない人もいれば、いつも周りの人を気遣う人もいる。正直な人もいれば、自分を偽っている人もいる。人を陥れることを厭わない人もいれば、自分のできる限り誰かを救おうとする人がいる。様々なひとが一緒に生きていかなくちゃならないし、人を更生させることはできない。それらの中で、バランスをとって、あるいはその出会いの時々で何かを学んで行くしかない。それぞれの人が、自分なりの学びを得ることができれば、社会は少しずつマシになっていくのかもしれない。しかし、ストレスを感じる原因は、人の性質ではない気がする。人の性質は、その性質に作用している社会の状況によって悪化し、その違いを受け入れあったり距離を適度にとったりすることでどうにかできないところまでいってしまっているのかもしれない。

内発性の発露についてずっと考えてきた。
赤ん坊の時にはそれがあっても、成長の過程ではそれをある程度線引きの中に押し込めざるをえない。それは現代の社会の中で、リスクを減らして安定した社会を作って行こうとするプロセスの中で変化してきたことなのかもしれない。特に、産業が経済を支え、人々の暮らしを変えていく中では、「生産性」を支える人々が受動的であることが求められる。工場や会社では、それが効率的に生産性をあげるために働く人がそのための線引きの中に収まる。しかし、それは本人にとってのリスク回避でもある。生活の安定のためでもある。その線引きの中にいれば、職を失うリスクが減る。ローンで家を買える。車やテレビや冷蔵庫や生活用品を快適にできる。旅行もできる。そういった状況を快適にするために学校ではできるだけ問題を起こさないようにする。そして成績をあげてそういったリスクの少ない場所を確保するために学生時代のすべてを費やす。
人が生きていく上では様々なリスクがある。様々な危険がある。職を失うリスクだけではなく、病や、死のおそれもリスクで、それらを減らそうとして私たちは今の社会を築き上げてきた。病院の様々な設備や薬や療法を開発して、死ぬギリギリまで死を回避するように務める。リスクが減った部分もあるし、別の形にすり替わってしまったものもあるだろう。不安を少しでも減らし、安全を求めていけば、内発性の発露を抑える仕組みの中で生きざるを得ない。逆に言えば、内発性の発露を大切に考えていけば、リスクを引き受けざるを得ない。その中で、どのバランスだったら、「生きて」いく感覚を犠牲にせずに、引き受けることのできる範囲のリスクを負うことができるのだろうか?

2020年5月1日金曜日

思考の整理 「役割」についてその1 2020年5月1日


人は日常生活の中で、自分以外の誰かとの関係の中で様々なきっかけを与えられる。自分が何かをしようと思うきっかけ、何かを嫌だと思うきっかけ、何かを好きになるきっかけ、そういったものを、なんの意図もなく誰かが与えてくれる。自分もなんの意図もなく誰かに与えている。また、誰かと自分との間に何かを一緒にするタイミングが生まれて、何かを終えようとするタイミングが生じる。かといって、お互いが全てに共感しているわけでなく、わからない部分も多いからそれをどう乗り越えるかお互いに四苦八苦する。けれども、そういったことの中には自分の生が活性化する一方で苛立ちや鬱陶しさも同時にある。だからそこから遠ざかりたくなる。かといって、それが希薄になると急に自分が空虚になっていくように感じてしまう。だから、その空虚感を埋めようとして、少し面倒臭くない方向での関わりに没頭すようとする。たとえばSNSのような。
 また、人は日常生活の中で、自分という存在を誰かとの関係の中で発見する。自分というものの存在を誰かにどう見られるかというところで天秤にかける。SNSの中ではなおさら、自分をどのように見てもらいたいかを実現しようとする。あるいはありのままの自分を見てもらおうとする。でも、どのように演出しても、人は自分の見たいように人を見るものだ。人はSNSの中で自由に振舞っているように見えて、そのシステムは構築されたもので、そのシステムを使って人をコントロールすることもできる。たとえば何かを積極的に買わせることもできるし、ある種の方向に印象操作することもできる。気づかれないように。それは、SNSを使うことで空虚感を埋めようとする行為が、ある種のドラッグのような作用をすることとも関係している。空虚感を埋めようとしても決して埋まらないから依存性が増し、その依存性がシステムに利用されるというカラクリだ。

今のような状況では、人は人と関わろうとすればSNSに頼らざるをえず、そうなれば一層SNS上の中にあたかも現実の全てがあるかのように思えてしまうことが怖い。

でも本当は、人は、人との関係の中で何かしらの「役割」を担うことを願っているのではないだろうか?「リア充」という言葉はそれを象徴しているようにも思える。自分がだれかにとって大切な存在でありたい、ということはすなわちそこに役割があるということだ。しかし、逆説的に、誰かが自分にとっての大切な人であって、自分に役割を果たしてくれていると思えることが、一番自分を満たす方向に物事が動き出すきっかけのように思う。それは子供を育てることでより強く感じるようになった。子は、親にとって大切な存在でありたいといつも思っている。実際に、ほとんど言葉がしゃべらない頃から、いつも親を助けたい、励ましたい、役割も果たしたいと思っているように感じる。そして、実際に助けられ、励まされ、たくさんのきっかけを与えられて役割を持ち続けてくれる。親子の関係に限らず、どんな人との関係でも大事なのは自分がそれを受け取ることなのだと思う。自分が誰かにとっての役割を果たすことに固執するより、誰かが自分にとって役割を担ってくれていることに気づき受け取ることに重点を置くことができれば、ある種の依存から少しずつ解き放たれるのではないだろうか?