2020年5月1日金曜日

思考の整理 「役割」についてその1 2020年5月1日


人は日常生活の中で、自分以外の誰かとの関係の中で様々なきっかけを与えられる。自分が何かをしようと思うきっかけ、何かを嫌だと思うきっかけ、何かを好きになるきっかけ、そういったものを、なんの意図もなく誰かが与えてくれる。自分もなんの意図もなく誰かに与えている。また、誰かと自分との間に何かを一緒にするタイミングが生まれて、何かを終えようとするタイミングが生じる。かといって、お互いが全てに共感しているわけでなく、わからない部分も多いからそれをどう乗り越えるかお互いに四苦八苦する。けれども、そういったことの中には自分の生が活性化する一方で苛立ちや鬱陶しさも同時にある。だからそこから遠ざかりたくなる。かといって、それが希薄になると急に自分が空虚になっていくように感じてしまう。だから、その空虚感を埋めようとして、少し面倒臭くない方向での関わりに没頭すようとする。たとえばSNSのような。
 また、人は日常生活の中で、自分という存在を誰かとの関係の中で発見する。自分というものの存在を誰かにどう見られるかというところで天秤にかける。SNSの中ではなおさら、自分をどのように見てもらいたいかを実現しようとする。あるいはありのままの自分を見てもらおうとする。でも、どのように演出しても、人は自分の見たいように人を見るものだ。人はSNSの中で自由に振舞っているように見えて、そのシステムは構築されたもので、そのシステムを使って人をコントロールすることもできる。たとえば何かを積極的に買わせることもできるし、ある種の方向に印象操作することもできる。気づかれないように。それは、SNSを使うことで空虚感を埋めようとする行為が、ある種のドラッグのような作用をすることとも関係している。空虚感を埋めようとしても決して埋まらないから依存性が増し、その依存性がシステムに利用されるというカラクリだ。

今のような状況では、人は人と関わろうとすればSNSに頼らざるをえず、そうなれば一層SNS上の中にあたかも現実の全てがあるかのように思えてしまうことが怖い。

でも本当は、人は、人との関係の中で何かしらの「役割」を担うことを願っているのではないだろうか?「リア充」という言葉はそれを象徴しているようにも思える。自分がだれかにとって大切な存在でありたい、ということはすなわちそこに役割があるということだ。しかし、逆説的に、誰かが自分にとっての大切な人であって、自分に役割を果たしてくれていると思えることが、一番自分を満たす方向に物事が動き出すきっかけのように思う。それは子供を育てることでより強く感じるようになった。子は、親にとって大切な存在でありたいといつも思っている。実際に、ほとんど言葉がしゃべらない頃から、いつも親を助けたい、励ましたい、役割も果たしたいと思っているように感じる。そして、実際に助けられ、励まされ、たくさんのきっかけを与えられて役割を持ち続けてくれる。親子の関係に限らず、どんな人との関係でも大事なのは自分がそれを受け取ることなのだと思う。自分が誰かにとっての役割を果たすことに固執するより、誰かが自分にとって役割を担ってくれていることに気づき受け取ることに重点を置くことができれば、ある種の依存から少しずつ解き放たれるのではないだろうか?

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