2020年5月3日日曜日

思考の整理「内発性の発露とリスク」 2020年5月3日

人と一緒に生きていく以上、本当に様々な人がいて、自分にとって「なんて傲慢な」と思う人とも、一緒に生きていかなくてはならない。優しい人がいる一方で図々しいひとがいて、たくましいとも言えるし、たくましい人がいる一方で、繊細すぎるひとがいる。繊細すぎるとも言えるし優しいとも言える。自分のことしか考えられない人もいれば、いつも周りの人を気遣う人もいる。正直な人もいれば、自分を偽っている人もいる。人を陥れることを厭わない人もいれば、自分のできる限り誰かを救おうとする人がいる。様々なひとが一緒に生きていかなくちゃならないし、人を更生させることはできない。それらの中で、バランスをとって、あるいはその出会いの時々で何かを学んで行くしかない。それぞれの人が、自分なりの学びを得ることができれば、社会は少しずつマシになっていくのかもしれない。しかし、ストレスを感じる原因は、人の性質ではない気がする。人の性質は、その性質に作用している社会の状況によって悪化し、その違いを受け入れあったり距離を適度にとったりすることでどうにかできないところまでいってしまっているのかもしれない。

内発性の発露についてずっと考えてきた。
赤ん坊の時にはそれがあっても、成長の過程ではそれをある程度線引きの中に押し込めざるをえない。それは現代の社会の中で、リスクを減らして安定した社会を作って行こうとするプロセスの中で変化してきたことなのかもしれない。特に、産業が経済を支え、人々の暮らしを変えていく中では、「生産性」を支える人々が受動的であることが求められる。工場や会社では、それが効率的に生産性をあげるために働く人がそのための線引きの中に収まる。しかし、それは本人にとってのリスク回避でもある。生活の安定のためでもある。その線引きの中にいれば、職を失うリスクが減る。ローンで家を買える。車やテレビや冷蔵庫や生活用品を快適にできる。旅行もできる。そういった状況を快適にするために学校ではできるだけ問題を起こさないようにする。そして成績をあげてそういったリスクの少ない場所を確保するために学生時代のすべてを費やす。
人が生きていく上では様々なリスクがある。様々な危険がある。職を失うリスクだけではなく、病や、死のおそれもリスクで、それらを減らそうとして私たちは今の社会を築き上げてきた。病院の様々な設備や薬や療法を開発して、死ぬギリギリまで死を回避するように務める。リスクが減った部分もあるし、別の形にすり替わってしまったものもあるだろう。不安を少しでも減らし、安全を求めていけば、内発性の発露を抑える仕組みの中で生きざるを得ない。逆に言えば、内発性の発露を大切に考えていけば、リスクを引き受けざるを得ない。その中で、どのバランスだったら、「生きて」いく感覚を犠牲にせずに、引き受けることのできる範囲のリスクを負うことができるのだろうか?

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