散漫な思考メモ
想像上の生き物、伝説の生き物、そういうものをコミュニティーの中で共有していた人々にとって、それらは媒介者であって、それらを通して世界を把握していたのかもしれない。
科学が発達しても、その知識を実感として認識するのは難しいことで、それぞれの感覚で独自の方法で実感として認識するしかない。その時に、「事実」「科学」「現実」という、唯一の正しさのものさしは、自分の感覚の広がりを止める作用をする可能性がある。
自分の意識の中で、書き言葉という線引きによって言葉の、音の広がりや響の作用を封じられているとしたら、どうやってそれを解き放てるのか?
『ハーメルンの笛吹き男 阿部謹也』読書メモその1
魔術的なものを廃して理性的な思考を目指したり、そのために物事を外から眺めようとしたりした、そういう移行の時期に、「あいつは魔女だ」と名指しして、さまざまなありもしない妄想を共有した挙句にたくさんの人が殺されてしまった。その根底には差別や人々の生活苦があったとしても、その底意地の悪さを引き起こす原因になったことは「貧しさ」ではないように思う。そうではなく、自分の心の中の感覚の自由を奪われ、線引きの中に閉じ込められることで失う誇りみたいなものが原因なんじゃないだろうか?現代においても、ある種の「非科学的」なことを名指し、批判する人の中が、理路整然とした理性や聡明さでは決してないように思う。と同時に、非科学的な方向性を持つ人が一度相対的な視点を失うととめどがなく、バランスを欠いていってしまうことも多い。
相対的な視点を持ち、かつ視点を動かして物事を見ようとする態度は、人と対立せずに対話を進める良い方法なのだが、フェイスブックはそういうことに合っているメディアのように見えて、絶対にそうならないのはなぜだろう。
2020年5月9日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿