2021年12月16日木曜日

こんなことばっかり考えていたくないけど 2021年12月16日

 3.11の大震災によって起きた原発事故を経て、自分がいかにいろいろ見えていなかったかを思い知ったけれど、そのあと様々な問題意識を持って向き合ってきたつもりだったけれどまだまだ、何も見えていなかったんだということが、今回のコロナ騒動でさらに実感することになった。そして、タブーというものがどうやって生み出されるのかを思い知った。今や、ワクチンの副反応について、実際に被害を被った人であっても、それを目の当たりにした人であっても、それについて言及することはできるだけ避ける傾向にあるのを感じる。ここに至るまでの流れは本当に巧妙で、「脱帽」という感じさえする。

1)レッテルを貼るための準備期間として、ある方向の考え方や疑問を持つ人向けに極端な見解や、似通ってるけど微妙に間違った情報を流して釣る。あるひとつの鍵を隠すために、似たような鍵をばらまいて撹乱するように。間違った鍵に群がった人にレッテルを貼る。レッテルを貼られた情報源の人に「心の病気」「頭がおかしい」「間違った方向に洗脳された」というような辱めを激しく与え続ける。そのことで、実際にある方向へ疑問を持つことを人が避けるようになる。疑問を持ってもそれを口にしなくなる。

2)「正しい側にいる」と社会的に認められなければならない、という強迫観念を人々に植え付ける。そのためにさまざまな「頑張っている人」の写真や動画で「社会全体の利益のために個人が、自分の意に沿わないことであっても協力するべき」という空気を作る。「私は科学を信じる」「みんなで団結して乗り越える」「誰も取り残さない」など、シンプルなキーフレーズを世界的に流行らせる。

3)「⚫︎⚫︎が足りない」という情報を流すことで、ほとんどの人がそれをすごく欲しているという認識を植え付ける。また、足りなくなると困る、という焦りや競争心を促す。

4)人を直接合わせない、集まらせない、喋らせない。直接人と接することができなければ、感じていることをシェアすることは難しくなる。その間に、さらなる情報のシャワーで、ある一方向のみの共有認識があたりまえである、と思い込ませることができる。自分の持っている疑問は、自分だけが持っていると思い込ませ、孤立させ、黙らせる。

5)ソーシャルディスタンスやマスクを通して、人は見えない「ウイルス」を実際にそこにありありと浮遊しているように感じていく。マスメディアの流すコロナビジュアル、感染者数のグラフや死者数と重なってそれらが脅威としていつも自分の周りにいると思い込ませることができる。

6)実際には、小さな利権集団と巨大な利権集団との戦いだったりすることを、小さな利権集団に人々が腹をたてることを利用し、巨大な利権集団のプロパガンダを美談のように感じさせ、彼らが人々の味方であり、正義の味方であるように見せることができる。実際には敵の敵もまた敵にすぎない。

などなど、それ以外にもたくさん…。

過去に起きた公害や薬害も、被害が始まってから3年くらいはそのまま放置され、被害が拡大する。どうしてそうなるのか?とても不思議だったけれど、今起きていることを見ると、それもなんとなくわかるような気がする。暗黙の了解としてそれを語らなくさせることは意外と簡単なのだ。そして、今回の被害は、特定されないあらゆる種類の身体的不具合であり、偶然としてかたずけることはさらに簡単であり、製薬会社は初めから免責であり、場合によっては個人が自分の意思であることをサインしている。すべては闇に葬られるだろうし、そっちの方が楽だと感じる人も多いだろう。しかし、実際にはそれだけでは済まされず、人権や基本的な自由を「社会全体の利益」のために犠牲にする方向がますます加速する可能性がある。行き着くところまで行ってしまうのか?

どんな理由があっても「自分の意に沿わないこと」を強要されることからは逃げなければならない。そのための権利が奪われないよう、法的な改正が起きないよう見張り続けなければならない。

実際にはこんなことばっかり考えていたくない。楽しいことだけ考えていたい。それによってこの状況を切り抜けることができるならそうするけれど。感じていることを、感じているままに書くことの難しさよ。しかし、黙ることはやはり加担することになるのではないか?そういう思いをぬぐいきれない。本当のことは時間が経たないとわからないとしても。

2021年10月27日水曜日

なりゆきの祭り 2021年10月27日

 いつも、なんとなくその場のメインの子供たちの中でひとり中に入れてもらえない感じがあった。昔からどことなく外れものというか、それを望んだわけじゃないけどそうなっていったようなところがある。今でも、仲間を欲しつつも、コミュニティーに同化できない感じがいつもつきまとう。でも気がついたら「コミュニティー」みたいなことを考えている不思議。子供を産んで育てた時に心細かったりしんどかったりしたのがきっかけかもしれないけれど。でも、コミュニティーが機能している場所には「コミュニティー」なんて言葉は必要なかったりする。


自分のダンスのリサーチとして始めた民俗芸能の調査やその延長線上で、人と人の間から内発性が湧き出ててくるようなことを求めるようになった。そういった瞬間にとても神聖な何かを感じるから。でもその入り口は神妙なものじゃなくてどうでもいいこと、冗談のようなこと、何気ないことがいいと思うようになった。でも、それを起こそうと私が意図して何かをしようとすると、その「意図」がどうしても矛盾となって吹き出してしまう。でも諦めきれずにいろいろなことを実験していった。矛盾に向き合い続けていくうちに、なりゆきとなにがしかの必然性が一番大事だなと思うようになっていった。人と人が出会ったり、別れたり、物事に出会ったりするその流れが。でも気づかなければ流れにならない。いろいろな情報が日々たくさん現れては消えていく。その中で点と点が繋がって感じる流れが、自分の深いところで求めていることに繋がっていくとき、同じような感覚を持った人に出会うことがある。そんな時その奇跡におののきつつ、流れに身を任せつつ、それぞれがさらに異質なものとの出会いを見出して新たな流れみつけることもできる。


同じ感覚を共有できる自分より若い、実行力のある友人たちからたくさんのことを日々学んでいる。その彼らと、別の方向で実行力のある天然な知人との出会いで、冗談なのか本気なのかわからない不思議な祭りが形になっていった。本気すぎたら危ない宗教になっちゃうし、冗談すぎたら誰もついてこれないけど、その間の丁度絶妙な感じ、やっぱり何かはっきりしない「間」というのがポイントなのかのしれない。へびの彫り師となったふじいもんを先頭にこの不揃いな行列の一人として河原の脇を歩きながら、地域の芸能というよりは、異形のものと蔑まれた河原者たちになったような、時代を飛び越えてしまったような不思議にふわふわした気持ちになる。ススキがさわさわと風になびいて生死の境界がゆらいでいるように感じた。マルシェにたどり着いてたくさんの人々に見つめられたら恥ずかしかったけど、踊りは見るものじゃなく浸るもので、だれでも浸れる空気は作ろうと思って作れるものじゃなく、様々ななりゆきの果てにそれぞれの人が本当は求めていることに気づかなかったような何かが、ふわふわと重なっていったように感じた。

長いこといろいろな試みをしてきたけど、何かに乗っかることで「本質的なことを実現させよう」という自分の長年の執着を捨てることができた。そのおかげで肩の力を抜いて頭を空っぽにして、流れに身をゆだねることができたのかもしれない。肩書きもなく、プロジェクト名もないけれど、奇跡のような人との出会いと、無意味に思えるようなことを一緒にやる仲間との時間が物事を発酵させる力となった。生きる上での武器のように振りかざしていた「アーティスト」という肩書きはいよいよ自分にとって傲慢な盾のように見えてくる。

2021年9月16日木曜日

その先に何があるかをイメージする癖 2021年9月16日

 私がスマホを持たなかったのは、未だに持っていないのは、それに依存することが何がしかの管理されることに繋がる予感があったからだ。マイナンバーが始まった時にもいやな予感があった。何かしらイノベーションがあったり、何かしら便利で合理的に思えるシステム転換があるときは、その先にどんな可能性があるのかを無意識のうちに感じ取る癖がついている。なぜだろう?昔から過管理社会になって、そこで戦っているような夢をよく見ていた。過管理社会への恐怖感が昔からあったのかもしれない。コロナの騒ぎが始まったとき、「連帯してこれを乗り越えよう」とか、「ステイホーム」とか、そういったフレーズを友人、知人がフェイスブックで投げかけるのを見て、何かしらとても居心地の悪い気持ちになった。それらの言葉が意味することが、何かからのプロパガンダや印象操作の結果のように思えたからかもしれない。ということはそれ自体が何者かのデザインされた結果の行為であり、その先に何かしら、行動規制を拡張させた非常にいやな社会への移行をイメージしたからかもしれない。そういった自分の感覚は、それを感じていない人にとっては過剰だったり偏って感じたりするかもしれない。しかし感じてしまう自分の役割みたいなものもあるかもしれない。どのように、その役割を見つけていけばいいのかは、まだわからない。

2021年9月14日火曜日

誰があなたを裁けるだろう 2021年9月14日

誰があなたを裁けるだろう

誰かに会うこと

言葉を交わすこと

肌を触れ合わせることを

一緒に食べ、笑い、歌い、楽しむことを


それらに罪悪感を感じさせる「正義」の正体はなんだろう?

「正義」の背後にある恐怖はなんだろう?

それらの重さから、体をよじって抜け出して、新鮮な空気を吸えたらきっと

魂が向かいたい流れに乗って軽々と、あなたを新しい境地に連れて行ってくれる


赤ん坊がなんども転んで歩けるようになるのは、訓練するからじゃない

ただ立ち上がりたくて、歩き出したいから

たくさん風邪も引いてなんども治り、その度に強くなる

病を経験するのも、暗いトンネルを通り過ぎるのも

すべてはその経験から新しい可能性に開かれていくためのプロセスで

私たちは今強烈なプロセスを共有しているけれど

あるいはまずます一時的にきつくなっていくかもしれないけれど

この先に何があるのかを共に見届けよう






2021年8月25日水曜日

ゴミを取り除くこと 人それぞれの道 2021年8月25日

自分が何に反応するか?というのはとても大事だ。SNSでの情報入手みたいなことへの依存性が増すと、自分が他にたくさん反応できる現実の物事をとりこぼしてしまう。わかっているのにやめられない→気づいてそこから距離をとる、の繰り返しだが…。

こまめに掃除をすると、掃除をする行為が自分の中にあるごちゃごちゃした感情を少し拭い去ってくれるような気がする。「見立て」をしようと意識しなくても、自然にリンクしているようなところがある。文化的なことなのか、それとももっと深いところにある性質なのか?

「猫が30歳まで生きる日」という本を読んだ。猫は腎臓が弱くて、腎臓の病気になる確率が高いようだ。腎臓に溜まった毒素を排出する機能が弱いせいだ。人の病気も、糖尿や腎臓の障害や、様々な違って見える原因不明といわれていた病気を調べていくと、体の中に溜まった様々なゴミを排出できないという共通の原因があるらしい。そういえば、人類的な問題もやっぱり、産業廃棄物、産業排水、核のゴミ、様々な分解しきれないほどの毒素を地球に排出し続けていて、それについての取組みは全く進んでいないように見える。これでは人間全体が病気にもなるだろう。心の中で何をゴミと考えるか難しいけれど、やっぱり溜まってしまうと病んでしまうのだろう。全てにおいて、こまめにゴミを取り除くことが大切だ。取り除くといっても、どこかに見えないところにそれが溜まるだけではもちろん無意味で、分解され、ほどけて、循環することが本当に大切なのだろう。だからといって、それを「地球規模のパートナーシップ」という美辞麗句でスーパートップダウンの人々へのコントロールが行われるのは別の意味でとても恐ろしい。

感じ方の違い、考え方の偏り、どんな情報に反応するかが人それぞれ違うのは、それぞれに違った生存戦略を持っていると考えてみることもできる。そうすることで、大局的には(種としては)どれかが生き残ればいいわけで、もし全員が同じ感じ方、考え方、反応をしてしまってすべてが全滅するよりは、そっちの方が良いと考えてみることもできる。それぞれが自分の信じた道を進み、それぞれの結果を受け入れることができればいいだけだ。そう考えると肩の力が抜ける。

2021年8月18日水曜日

人類ゲームの登場人物として 2021年8月18日

 少しは前向きなことを考えていきたい。今起きていることは、たとえ人類が一度滅んでゼロからやり直したとしても同じことが起きるのではないだろうか?と想像してみる。また、もしかして自分の生まれるタイミングが微妙に違ったら、自分は経済的勝者として人々を抑圧する側になっていたかもしれない。もし、そうなっていたらお金を好きなだけつぎ込んで自分の立場や利権を守るために、恐怖を抱きながら悪徳の限りを尽くしていたかもしれない。自分がそっちの側じゃなくて、ひとまずラッキーだったと考えてみる。地球上で生きる人間のプロセスにとって今の事態が必然であるならば、それぞれの時代の課題に対して様々な違った立場の人が反応をしていった積み重ねによって今の時代がある。少なくない人々がいろいろな気づきを得て小さな試行錯誤を繰り返しながら新たな可能性を見つけてきた一方、大きなお金を動かす人たちの側は拡大や進歩を謳い文句に人々からお金を吸い上げる数々のトリックを繰り出して、多くの人々は知らないうちにそれに加担、協力してきた。今起きている課題は、ちょっと難しい応用問題みたいな感じかもしれない。一人一人が今まで生きてきた経験とそこから得た知恵と感覚を総動員し、何が起きているのかを察知する。そして、お金を吸い上げるトリックとしての「連帯」や「正義感」ではなく、一人一人がサヴァイブ(生き残ると同時に自分の意に沿わないことを強要されることから逃げ切る)しつつ、人との関わりを魅力的なものにして生を味わい尽くす。そんな人類ゲームの登場人物の一人としてこの局面をとことん楽しんでみる。

2021年8月12日木曜日

自分が何を犠牲にしているのか? 2012年8月12日

 どこに焦点を当てるかで「自分の行動によって何を犠牲にしているか?」は全く違って見えてくる。

今現在、世界的な世論として、私たちの行動ひとつひとつの結果が、感染症を拡大し、その犠牲として重症化したり死亡したりする人がいる、というところに焦点が当たっている。しかし、実際には、非常に厳しい感染症対策をしていても、そこで感染する人が出たりすることは止められないようだ。また、全く対策をしていなくても、ほとんど被害が出ないこともある。または、ほとんどワクチンを摂取している施設でみなが感染することもある。実際に、因果関係は、メディアやSNSでシェアされる記事が言うほど単純ではなく、非常に複雑なのではないだろうか?

たとえばスマホに使われてるレアメタルは、非常に安い賃金で働かされる人や、資源を持ち出す現地の環境を破壊しているかもしれない。私たちが飲むコーヒーやチョコレイトによって戦争経済や奴隷労働に加担しているかもしれない。ただ、そこに焦点が当たってないので気にしていないだけだ。もう一つ、世界的な世論として二酸化炭素排出に焦点があたっているけれど、環境破壊はもっと見るべき側面があり、私たちが安く買う物の工場が立っている国や地域で恐ろしいまでの汚染された水が排水されているかもしれない。規制のゆるい国で恐ろしい薬の人体実験が行われているかもしれない。名目としては貧しい人々を救うためと謳いつつ実際にはたくさんの踏みつけにされる人々がいて、国際機関も、医療業界もそれに加担しているのだろう。そこに焦点が当たらないようになっているだけで。私たちは、いつも踏みつける側なので(あるいはかわいそうな人を救う側なので)、踏みつけにされる側になるなんて想像もできないだけかもしれない。それでいて、世論を賑わす「正義感」は視点を固定するための情報を与えられるだけで世界全体をデザインし始める。

私の父は、2018年に肺炎のワクチンを受けたが、風邪だと思っていたら容体が急変して意識が混濁し、肺炎となった。時間を経てその後回復した。だからといってワクチンが原因だとは言わない。けれども、ワクチンを打ったから防げると断定できないことは確かだ。原因と結果はそんなに単純じゃない。

ワクチンがなかった時も、新型コロナの感染症が広がる時もあり、また全然広がらない時もあった。ワクチン摂取が進んできた今、そうなる前よりむしろ感染は広がりつつある。でも視点が固定されると、まだワクチン摂取が進まないせいで広がっているかのように世論が誘導されていく。

私が人々の感じを見ていて思うのは、みんながこの状況を早く終わらせたいと思っているということだ。仕事がこれ以上奪われたくない。これ以上イベントを延期されたくない。不安に苛まれたくない。私も同じように思っている。しかし、それが感染症のための厳しい規制やロックダウンやワクチンによってもたらされるとは限らないと思う。恐怖から早く解放されたい、と思う時、視野がどんどん狭くなる。しかし、原因と結果はあくまで複雑なのであって、もしかしたら、健康な人が感染することでむしろ早くに解決する可能性もあるかもしれない。規制から解放され、恐怖から解放されたら物事はいい方向に進むかもしれない。

SNSで状況を把握しようとしていると、自分が何を言ったらいいのか、書いたらいいのかまったくわからなくなってくる。しかし、SNS内では全く救いがないように見える意見が違うであろう人々も、現実の世界ではお互い非常にうまくやっているように見える。現実の物理的な空間の中で人は、理屈抜きに見えない何かを交換していて、いろいろなレベルで、多様な物事に共感しあえるものなのかもしれない。それはとにかく救いだ。

2021年6月3日木曜日

「日没」から想起するもろもろ 2021年6月3日(木)

 桐野夏生作「日没」を読んでいる。ある日、不条理に閉じ込められてしまった主人公が、従順にすると小さなご褒美をもらえることに気づき、その延長線上で逃れられると考える。しかしある時、いくら従い続けてもそこからは出られないと気づく。というような内容で、このようなロックダウンからの条件付き自由への道を歩んでいる途上では、気が滅入ってしまうような内容だ。それでも過去の学校での出来事なんかも浮かんできていろいろ考えるきっかけになっている。

たとえば、「しつけ」は子供のため、規則は社会のため、そういう雰囲気の中でゆるく様々な抑圧が学校の中にはあったこと。また、それが今の状況とも重なっていろいろな想念が浮かぶ。感染防止のためにマスクをする。これは私たちを守ってくれているのだ、と感じる人々もたくさんいるだろう。しかし、私にとって白く定型のマスクをすべての人々が着用している姿はまるで服従のシンボルのようだ。人と会う人数が決められ、コロナテストが義務ずけられ、夜の外出が禁じられていて、そこに議論の余地がない。そんな中で真っ白な定型のマスクをする人々の姿は、すべての人々が規制に対して肯定的であるというサインとして眼に映る。また、意に沿わなくてもその行為を繰り返し続けると、人は批判的なものの見方を続ける気力を少しずつ失っていく。学校文化の中では意に沿わない校則でもそれをし続けることで形成される意識というものがあったのかもしれない。マスクや人と会う人数、外出禁止などにもそれと同じような効果を感じる。また、規制が緩んだり、厳しくなったりすることを繰り返すと、恐怖心が増していき、厳しくなる要因となることを避けることが正しいと感じるようにもなっていくだろう。その規制自体が正当か、それを与える権限そのものが妥当かどうかを問うことなく、とにかく規制が厳しくなる要因をなくす。例えば部活で誰かが規則を違反すれば連帯責任で罰せられる。その規則自体が妥当か?それを課す権限は妥当か?問うことなく、違反した人間を恨んだり、攻撃したりする。それによってより生徒が制御しやすくなる。現状の中でも、「感染者数の上昇」はマスクをしてない人がいるとか、誰かが人と会ったりご飯を食べたりしたとか、ワクチンを摂取しない人がいる、など、その規制そのものが妥当かを問うことなく、お互いを見張って指摘することで分断する。それは、規制する側にとって非常に楽だ。数字を操って好きなだけ人を恐怖に陥れたり、規制を強めたりしてコントロールできる。恐怖でコントロールされることが続くと正気を保つことがどんどん難しくなる。そして、そこで求められてることに無条件で応えるようになっていく。


自分が感じていることを、感じてるままに書いたり話したりすることは、そのまま、違う感じ方の人を傷つけたり、攻撃したりしているように感じさせてしまうかもしれない。だから、他のところに意識を向けたいと思うが、いかんせん修行が足りない。私は私でいっぱいいっぱいなのだ。このような状況下でも、感じ方の違う人と一緒に心をひとつにできることはきっとある。そのひとつは未来に思いを馳せることかもしれない。たとえば10年後どうなっていてほしい、というような。

2021年5月28日金曜日

What is happening in my mind? 2021年5月27日

 ベルリンの街に佇んで、自分の感じていることに耳を澄ませてみる「What is happening in my mind? 」という孤独な一人企画を今日から始動。周知もせず、ひとりでイーゼルと画用紙とカメラだけ持って連邦議事堂前へ。今日は天気が不安定だなあと思っていたら、到着してすぐにすごい雷がなり始め、地下鉄から地上へと出ようとした瞬間すごい雨が降り始めた。仕方なく、地上への出口付近で雨宿りして、雨が弱くなってきたタイミングで外に出てみる。傘をさしながら先週まで立っていた場所あたりを目指す。いつも通り警察の車があり、そこを怪しくない歩き方を心がけながら通過し、前回まで立っていた場所が見えるところで、ちょっと芝生や木々が生えている方に行ってみると、雨宿りにちょうど良さそうな木があった。荷物を木下に置いてイーゼルを立てる。ほとんど使ったことがないのでそんな作業にも時間がかかる。イーゼルに画用紙を置くと、たちまちポツポツと雨だれが画用紙に降りかかる。しかし、これもまあいいかなと思いながら、What is happening in my mind?と紙に書き、次のページにイラストを描いてみる。何をどんな風に描くか、何も決めてなかった。ダンスを踊り始める時みたいに、ただ、頭を空っぽにして画用紙を見ると、一粒の雨だれのシミがある。そこを丸く囲って、そこから幾重かの輪を描いてみる。心の一粒が自然に波紋を描くように。また、それを遮るような赤い枠組みを描いてみる。何がしかの感情みたいなものが自分の中に湧いてくるのを感じる。私がずっとこだわってきた線引きのことだろうか?自分で何も謎を解かずに、今度は自分が思っていることを言葉にしてみる。誰が聞いているというわけでもないけど、カメラを回して喋るということは、何かしら自分だけではない誰かというものが想定される。中途半端なアウトプットではある。しかし、メインでは自分に話しかけているような感じでもある。もう少し具体的な「感じている」違和感みたいなものを描くべきだろうか?あるいは語るべきだろうか?そこには何かしら逡巡がある。なぜだろう。

2021年5月24日月曜日

自分が感じていることを止めることはできない 2021年5月24日(月)

 誰でも偏見を持っている。偏った物の見方、考え方は、一人一人が当然持っているもので、全く偏っていない状態なんてないし、そんな人は世の中に一人もいない。問題なのは偏見ではなく、それを線で囲って固定化してしまうことだ。その固定化は何がしかの設定された基準から物事を判断するというものの見方の中で育まれる。学校や会社やテレビからの情報や、そういう何気ない日々の中で繰り返しインプットされた基準を浴びて私たちは育てられてきた。その基準はだれが設定したのだろうか?漠然と人々の間から生じたように見えて、実は何かしらの意図があってデザインされることがほとんどなのではないだろうか?また、「自分は正しい側にいる」という安心感を得たいという人の心理につけ込んでデザインされた「社会正義」が拡散される。あるいは「本当のことを知りたい、追求したい」という心理に付け込んで、いろいろに歪めた情報を真実に紛れ込ませて撹乱し、新たな偏見を量産させる。そういう事に捕まってしまうと、いとも簡単に人は分断されてしまう。

何が正しいかなんて本当のところわからない。ただ、自分が感じていることを止めることはできないというだけだ。そして、人の感じ方をむりやり変える事は誰にもできない。どんなに批判したり、吊し上げたり、蔑んだりしても、感じていることをより強く保持させる結果に陥るだけだ。そしてますます分断が深まっていく。あるいは、表面的に態度を変えさせる事はできても、心の中の感じているところまで変更させることはできない。それをむりやりすることはただの「洗脳」だ。

自分の感じ方や人の感じ方に互いに耳を澄ませれば、自然となんらかの相対化が生じ、複数の視点を獲得できるかもしれない。それが本当の知恵と言えるのではないだろうか?

2021年5月22日土曜日

What is happening? 4日目


 What is happening?

2021年5月20日(木)

ベルリンの街に立ってみる企画の4日目。決めた日程の最後に当たるので、このあとこれを続けるかどうかちょっと迷っている。なんというか、とても複雑で面白い場所での取り組みは充実していると同時に緊張感もあるシチュエーションなので結構毎回消耗するのだ。予想に反して今日も道の角に警察の車があるし…でもそういうのにもちょっと慣れてきた。とにかく、何も考えずに立ってみようと覚悟を決めて、というかひとまず最後だと思って立つ。この日は、連邦議事堂の方を向いたところから始めてみた。草原が一面に輝いている。以前は誰でも気軽に憩うことのできる場所だった。でも今は立ち入り禁止だ。しかしそういった人々の営みや複雑な事情とは関係なく、草いきれと土の臭いが芳しい。その圧倒的な広さとその自然の複雑な営みが私を包み込むように感じ、静かで神聖な気持ちが湧いてくる。自分の立っている足元には石畳があって、その固い感触のひとつひとつが、どのような経路を辿ってきたのかはしらないけれど、長い長い歴史の中の一瞬この道の素材として使われていることの不思議。この4回の取り組みの中で、新たな一期一会の不思議な手踊みたいなものが湧き出てきた。その時、突然目の前で自転車に乗った人を追っかけて警察のバイクが急停車する。自分の中に急に恐怖が沸き起こる自分もついでに捕まるんじゃないか?という恐怖感。そんな理由はないはずだけど…。ちょっと緊張して立ち位置を変え、心の中で「集中、集中」と唱えていると、目の前の縁石に2センチ大くらいの羽のある虫がのたうっているのが見えた。ひっくり返って絶体絶命か、と思いきや自力で態勢をもどし、でもまたころんで、というのを繰り返している。暑いから道路が熱でこうなっているのだろうか?などと思いながらその虫に意識を向けながらしばらく踊っていると、警察のバイクと自転車のやりとりが終わったのか、警察のバイクが大きくUターン、またドキドキしながら踊り続けていると、すんなり元来た道を帰っていった。ホッとしたのもつかのま、こんどは大きな警察のバンがゆっくりと通り過ぎる。ちょっと速度を落として前を過ぎたその瞬間、ついに捕まるか?とか思ったけどそのまま通り過ぎた。またしてもドキドキしたけど、そういうあれこれを跳ね除けてエネルギーを自分の中心に集めて踊りきったなと感じた瞬間に終えた。この日は連邦議事堂前ではSPD(ドイツ社会民主党)という政党の赤い登りみたいなものをたくさん見た。ということは、何かしらの選挙運動でも行っていたのだろうか?ブランデンブルグ門あたりには今まで見たこともないほど大量の警察が投入されていた。また、乗り換えたアレキサンダープラッツあたりでは、警察が4〜5人のグループで人々を取り締まっている姿が見られた。普通の人々が常に警察に見張られているような状況になる時代がまた来るなんて、予想できていなかった。けれども、私が知らなかっただけで、そういう国々は今でもいっぱいある。人々は限定された自由の中で生きている。その限定が人を守ると感じるのか、あるいは自分が閉じ込められていると感じるか、状況や人の感じ方によってそれぞれだろう。けれども、あまりにも長く激しく限定されて、人々がそのことに慣れてしまったら、あるいはそれを望むようになったら、そのあとどのような時代になるのだろうか?ちょっとゾクっとする。

2021年5月20日木曜日

What is happening? 3日目


 What is happening? 
2021年5月18日(火)

ベルリンの街に立ってみる自分企画の3日目。この日は何故か、またしても通りの角に警察の車が…。もしや毎週火曜日には警察がいるということか?しかし、これはあとでわかったことだが、この警察のいる側の通りの前が首相府だった(汗)。ここにメルケルさんがいるらしい。知らなかった…。知らないで選んだ場所がなんだかとんでもなく意味ありげな場所になっていた。確かに背後に連邦議事堂があるけれど、むしろその前にある立ち入り禁止になっている野っ原の空間が私には魅力的に感じていて選んだ場所だった。そういえば、自分の作品上演のために2007年あたりに始めてベルリンに家族で来た時、ここは立ち入り禁止ではなくて人々が気軽に集う場所だったのではなかったかしら?たくさんの人が三々五々集まってのんびり過ごしていた記憶がある。写真も残っている。新型コロナの施策として施行された法の改正が、人々の分断や緊張を促して、ベルリンの街の空気感はずっと妙な緊張状態が続いている。でも、その前を通り過ぎる人々の気配を感じながらこの場所に立つ時間は私にとって不思議としっくりくる。今日は、踊り始めてすぐに数人の知り合いが私のパフォーマンスに立ち会ってくれた。その時の私にとっては予想外で、なんだか、あれ?見てくれるために来てくれた人に、私は何をするべきだったんだっけ?というような妙ちきりんな問いが浮かんでしまう。集中しようとしても、人の視線に対しての自分の反応がなんだか浮ついている。それはシチュエーションのせいか、あるいは距離感のせいか、あるいはしばらく人前でパフォーマンスをしていなかったせいかもしれない。毎週水曜日にはアーティストの友人と何かしら公園でのリハーサルをしていて、完全無観客状態で様々な試行錯誤をしてきた。そういう、人に見られていない取り組みをする時間が長すぎて、実際に誰かが見ているとなると、何かしら、その期待に答えなくてはいけなかったんだっけ?というような変な自意識が生まれてしまう。まるで、はじめたての芸術活動のようだ。もう一度、見てくれる人の視点に対して、もっと深い次元で応対できる立ち方を学びなおさなくてはいけないかもしれない。踊ったあと、見てくれた友人たちと交流し、そのあとそのあたりを散策していたら、私の後ろに見える連邦議事堂前ではコロンビアの政権に対する抗議と思われる何がしかのデモンストレーションをやっていて、しかし緊張感というよりは和やかな雰囲気の人々の集まりという感じであった。いろいろな物事が同時進行で動いている情勢の中で、それぞれの立場でそれぞれの人の思いがある。

2021年5月18日火曜日

What is happening? 2日目

 What is happening? 2021年5月13日(木)

ベルリンの街に立ってみる自分企画の2日目。その日は朝から雨だったので、立ってみるかどうか?少し迷ったけれど、短い時間だけでも、続けたいと思って出かけた。前回と同じ道に近づいても、その通りに警察はいなかった。それでちょっとホッとした。雨は霧雨のような感じで問題なさそうだったので、前回と同じ場所に立ってみる。霧雨はむしろとても気持ちいい。目を閉じて耳をすませる。深呼吸をして、霧雨のシャワーを全身に浴びる。自分の体が前回よりだいぶのびのび反応し始めているのを感じる。最初から、なんとなく集中できそうな予感がする。反応に身を任せながら動きが大きくなってきた時、通りを隔てたあたりを数人の若者が大音量の音楽をかけながら片手にビールを持って通り過ぎる。と、思ったら私を見て真似を始めた。笑いながら、半分バカにしながら真似してるけど、私もそれを見て笑ったら、なんとなくコミュニケーションというか、一緒に同じポーズをとったり動いたりして、一緒に遊んでいるような雰囲気になった。別れ際にグッドポーズを送ってくれたので私もその仕草を返した。ちょっと騒がしいその雰囲気が遠ざかっていく中、自分の体に集中し始める。そして、その日はいろいろな人が時々立ち止まってくれた。私を見ているのか、あるいは戸惑っているのか?でも、そのことに私の体はずいぶん助けられて、エネルギーを感じて自分の集中度がアップする。こんなにも、直接体を通したコミュニケーションというのは豊かだったのか?と改めて、そのことに打たれる。その合間合間には、空を飛ぶ鳥や、草花や木々、そういったものも私の体にダイレクトに影響を与えてくれる。毎回何かしらが起きて、そこから深く感じるものがある。この状況下はものごとを観察する方法を見つけるとても良いチャンスなのかもしれない。それが私にとってたまたまベルリンでのことだったのもなんだか面白い。これを続けた先に何があるか今はまだわからないけれど、次に立つのがとても楽しみだ。

2021年5月15日土曜日

うまく言葉にできなかったこと/残りの人生 2021年5月15日

 感じることを、感じるままに、でも言葉にするのは時には難しい。特に誰かに読まれるかもしれないところに書くのは。ずっと気になっていたけどうまく言葉にしてこなかった違和感に、ついに向き合ってみよう。それは、歴史的になんども繰り返されてきたことの、また同じ繰り返しとして私には感じられることの一つ、「レッテル貼り」である。ある人々を線引きの中に閉じ込めて、そのカテゴリーを通してのみ判断するというものだ。戦前、戦中には決まってある同じ方向に人々の感じ方や考え方を強要するものだが、その感じ方、考え方に意義をとなえる人々を囲い込んで、追い込んで、隅に追いやり、恥をかかせ、貶める。記憶に新しいのは「左翼野郎」であるとか「マルクス主義者」であるとかそういうフレーズだ。そのようなレッテルを貼られることは、社会的に葬られる可能性があることを意味したのであろう。だから、少数派をどんどん少数にする効果があり、また何かに疑問を持ってもそれを考えないようにする、つまり、レッテルを貼られるおそれのある感じ方や考え方には近づかないようにするという心理的ブレーキが働く。そのことによってその時期にはかなり多くの人々が同じ方向にのみ感じ方、考え方が誘導されていったのであろう。これはすごく効果的な方法であるということを今、実感している。現在、多用されるレッテルは「陰謀論者」そして「極右」「スピ系」などであろうか。反戦を唱えていた人々が主に左翼と言われた人々であったように、これらのレッテルを貼られるタイプの人々が主に新型コロナの経緯や恐怖を伝える報道およびSNS記事が溢れかえる現状に疑問を持ったり、ワクチンの危険を唱えたりする傾向にあるのは私も感じている。また、全く「陰謀論者」でも「極右」でも「スピ系」でもない人々が、そういう疑問を持ったり調べたりそれについてシェアしたりした場合でも、その類の「レッテル」を貼られるのではないか?という恐怖と隣り合わせになる。あるいは、自分がシェアしたものがそれらのレッテルの貼られる可能性のある人がしていたりした場合は、内容ではなく、その傾向だけが精査されてしまい、その時点で嘲笑、蔑み、貶めという憂き目にあう可能性が高くなる。だからこそ、そういった記事は人々の目に触れた途端にそのレッテルが作動し、アレルギー反応のように大きな反応が起き、中身を精査されることなくガラクタのようにゴミ箱に捨てられてしまう。とてつもなく大きな思考のブレーキが働くことになる。しかし、そのようなレッテルを貼られた人々の一人一人が、その時どんなことを感じ、どんな個人的な必要性にかられて行動したか、言葉を発したか、いったい誰にわかるだろう?そういった人たちは、「どうせ」偏った考え方しかできない、とか「どうせ」フェイクに決まっている、とか「どうせ」デマばっかり広めようとしている、と反射的に考えてしまうことは、やっぱり偏見ではないのだろうか?ある思考傾向にあること、そのことは当然その人にも何がしかの偏見があるかもしれない。その偏見が差別的な発言につながることもあるかもしれない。でももしそうなら、それが明らかになっている時にそれに対して誠実に意見を交わすことで全く違った可能性も出てくるのではないだろうか?投稿や発言の中に「極右」的あるいは「スピ系」な傾向すなわち、排他的な言動や、論理を完全に欠いた言動がない内容に関してさえも、最初からアレルギー反応を起こして自らの偏見を顧みない態度は、何も産まないし、そのブレーキを利用して感じ方や考え方を同じ方向にのみ引っ張ろうとする人たちの思う壺にはまるだけのようにわたしには思える。

私は人生をもう50年生きた。残りの人生は、自分の魂が最後に納得できるくらいに自分の人生を生き切りたい。私の芸術活動は、ダンス活動は、自分が本当に感じていることから発露するメディアでありたい。そのために命を使い切りたい。そのために生まれてきたのだと信じている。

2021年5月13日木曜日

What is happening? 1日目

 2021年5月11日 ベルリンの街に立ってみようという個人企画の初日、今年一番の夏日のような暑い中をトラムでアレキサンダープラッツに向かった。乗り継ぎのために駅で電車を待っているとホームの壁一面に、片腕の注射されたあとをカメラに向けてにっこり笑う人々の大きな大きな宣伝が並ぶ。前も後ろもその宣伝一色だ。そこから地下鉄に乗り、最寄りの駅から立ってみる予定の通りに近づくと、その通りの端に大きな警察の車が止まっている。車の中にも外にも警察がいて、だいたい4〜5人くらい。なんとなく怖いと感じながらも、一人で踊るだけのことは禁じられてないよなあと心の中でつぶやく。

汗ばむ陽気の中、ペットボトルの水を飲んでちょっとストレッチ。すると、いかにもベルリナーという感じの男性にドイツ語で話しかけられる。「何を体操とかしちゃってんの〜?」と言う彼に、片言のドイツ語で自分がダンスを踊ろうとしているとか、旦那が通りの反対から撮影するとか喋ったら、「旦那とはもう長いの?」みたいな、たぶん、そんな質問をされて戸惑っていると「あの角に警察がいるよね〜、ああいうのってなんか良くないよね〜」と喋りながら去っていった。そして、静かに目を閉じて街に耳を済ませる。暑いながらも風が気持ち良い。車の音、鳥の鳴き声、アスファルトの熱、警察の視線、そんな雑然としたいろいろが体をざわざわ言わせる。そして、静かに体を反応させていく。少し動くと、すぐに新たな情報が体をざわつかせるので、なかなかエネルギーを集中させることができない。けれどもその雑然とした耳を済ます行為は、しばらく人前でパフォーマンスをしていなかった私にとってとても新鮮な時間でもある。誰かが私にちょっと気づいたり、見つめたり、奇異な目でみたり、完全に無視したりしつつ、自転車やジョギングや友人との語らいやデートや、人々が普通の日々のそれぞれの瞬間を生きていて、私はその瞬間に触れて、背中側の遠くに連邦議会議事堂があり、目の前の道路にパトカーも通り過ぎる。30分踊ろうと思っていたのに、23分くらいで終わってしまう。でも、この取り組みを続けながら、街の変化にも耳を済ませてみようと思う。その帰りにバスに乗ろうとしたら、一人きりで白い大きな旗を掲げて連邦議会議事堂の入り口にたち続けている女性を見かけた。これで見かけるのは3回目だけれど、間違えなく同じ人みたいだ。この感染症防止法への反対の意思表示はあまりにも「小さな声」だが、とてつもなく凛としてまっすぐにわたしの魂に向かってくる。

2021年4月28日水曜日

感じること 方向付けの違和感 2021年4月28日

 自分が生きてる中で何かを感じることを、そのまま素直に感じるままに受け取ることができたらそれが一番自然でいい。けれども、それをいろいろなことが阻む。「こう感じるべき」とか「こう考えるべき」という、感情や感受性を一方向に向けるように仕向ける何かが存在する。それはだいたい「正義感」や「義務感」や「責任感」のような何かであることが多い。そして、互いに、周りの人に対してそれらを強要する空気が作られる。そうすることで、多くのヒトが同じような方向性に感じて考えて行動するようになる。また、そうして自分が方向付けされていることに気づかないことの方がおそらく多いのだろう。その中にあって、自分が感じていることを周りの誰もが共感できなかったり、それを語れる人が誰もいなかったりしたときに、本当に苦しくなってくる。だから、それを避けるために人はだいたい自分の感じていることを自分の奥に押し込めて、「感じるべきこと」を感じていることにする。「考えるべきこと」を考えていることにする。けれども、その自分の中の捏造には気づかない。それで、実際には苦しいが、苦しみの元がなんであるかを気づかないことの方が多い。その苦しみのはけ口を、「自分で素直に感じ、生きている誰か」に向けられることもよくある。それを向けられた人は、それを簡単に流せたら良いのだけれどそうもいかなくて、同じようにその怒りや憎しみに反応してしまったり、そのはけ口を向けてくる人の顔色を伺ってその人の言動や行動に合わせてしまうことも多い。そういった景色は小学生のころから繰り返し見てきたように思う。自分も時にはそれに巻き込まれていたかもしれない。そういった人の行動様式や性質を利用して、今、ものすごく大規模な「感じ方」の方向付けが行われている。しかし、同時にそれに違和感を持っている人が、あるいはそれぞれの人の心の深いところでの違和感が、少しずつ大きくなってきているのをも感じる。感じることに根拠はない。身の危険を感じる、という感覚が理屈じゃないのと同じように。

2021年4月6日火曜日

勝者の悪循環 敗者たちの持つ可能性 2021年4月9日

 縁起には良い方向と悪い方向の両方に対して同じように平等に開いている。あるいは、悪い方向に見えてもどこかでそれが裏返るかもしれないし、良い方向に見えてもそれが裏返ってしまう可能性もある。縁起には良いも悪いもないのかもしれない。でも、うれしいことがあれば、その嬉しい感じが別の人に影響を及ぼすものだ。イライラしていれば、やっぱり誰かにその影響が及んでしまうだろう。その中で、一番まずい伝搬は「恐怖」なのだと確信するようになった。

近代の幕開けは、人がより理性的であろうと努力したことだと言う説がある。つまり、物事を客観的に観察し、何が真実かを証明し、より効率を求めて、その結果科学や技術が発達し、食料の受給率も高まり、流通し、人々が豊かになる…というように。しかし、今の世界で起きつつあることがその結果だとしたら、これを「理性的」な人々の行為と言えるのだろうか?企業が利益を追求する。そのためにはできる限り法の網をかいくぐってより利益を追求する。ずっとずっと利益が増え続けるように追求し続ける。それが理性的な行為だろうか?そこで起こる弱肉強食の勝者がより利益を追求する。人々が得る情報はすべて勝者の利益に有利になるように操作できる。例えば「原発」に関するネガティブな情報は、東日本大震災までほとんど報じられることがなかった。そういった暗黙のルールの中にいても、それを人々が全く意識しないで暮らせるようなメディアの「空気」というものが存在した。それほどに勝者は信じられないほどの勝者なのだ。ある企業が法の網をかいくぐるために、とある権力のある部署の人間といい関係を持つ。そういった人々はそのいい関係のおかげでより力を得る。良い関係を持つ権力者の範囲がどこまでも上の方までいけばいくほど、その企業は、あるいはその企業の一部の人間は有利になる。だから、いろんなところに様々な不正や癒着があるのを私たちは知っている。おおよその人々はそういったことと無縁であっても。それらの不正や癒着はときどき公になるけれど、それらもなんらかの弱肉強食的ないとなみの一部なのだろう。そういったことが、一つの国の範囲を超えることもありだろう。このグローバルなご時世にあっては。いわばグローバルな勝者だ。国際的な機関とのいい関係を持っているグローバルな勝者。グローバルな勝者といい関係を持つことで国際機関の一部の人間は何か良いことがあるのだろう。しかし「グローバル」であればあるほど、それらがもたらす人々への印象は何かしらとても良いこと、のように仕立て上げられている。そのための専門家が力を尽くしているので、それはとても簡単なことなのだろう。そういったコーティングされた硬い前提の地盤の上で推奨されている「社会正義」は、それとはわからない形で勝者を後押し、目的を達成させる。勝者は圧倒的に、より盤石になることで、人々の財産や権利や自由をそれとはわからない形で奪いつづけることが可能になる。人だけでなく、自然界のバランスも奪いつづけることになるだろう。世界が弱肉強食なものだと開き直れば、それを受け止めつつ生きることもできるだろう。そんなふうに、厭世的生きるのはやっぱりしんどい。そのせいで自分も何かしら悪い影響を人に与えつつ生きるのはつらい。

勝者と言っても、もし彼らが人々から様々なことを奪うことによって勝ち続けているとしたら、実際には、知らないうちに様々なダメージを身に受け続けていることだろう。奪われて打ちひしがれる人より、奪って勝ちほこる人の方が実際には身に受けるダメージはひどいのではないかと想像する。そして、勝ち続けられるかどうか、出し抜かれないかどうか、怒りの矛先にならないかどうか、立場を失わないかどうか、常に戦々恐々としていることだろう。つまり、大きな恐怖の中に晒され続けることになるだろう。その恐怖のために、人を抑圧し続けることになり、そのことによるダメージがまた常にその身にもたらされ続ける。悪循環というやつだ。そして、さまざまな専門家やAIをそばに置いても、やれることは限られている。ほとんど一つくらいしか選択肢がない。さまざまな技術を用いていろいろなことをしていても、本質はほとんど一つなのだと思う。もし、このことに人々が気づくようになれば、気付きさえすれば、人々がその勝者に対してできることは無限にある。可能性というのはいつも無限に開かれているのだ。

2021年3月11日木曜日

同じ歴史が繰り返されて欲しくない 2021年3月11日

 3月11日、10年前のこの日、停電していた我が家で、夜寝る前に、何か恐ろしいことが起きているという予感がして体の芯から震えたことを今でも忘れない。それまでに、自分も含めて、原発の危険を訴えていた人々に耳を傾ける人はほとんどいなかった。それどころか、馬鹿にされたり、罵られたり、頭がおかしいと言われ、世論に押しつぶされ続けていた。事故が起こって初めて人々はその恐ろしさを知る。本当は、それ以前にも細かい事故はいろいろなところで起きていて、それらは隠されていたわけではない。なのに、人々の目に触れることがほとんどなかった。それはなぜか?真実はいつも、極めて巧妙に目が行き届か無いようなところにひっそりとあり、それを見ようと思えば本当はだれでも見つけられる。だから、ことが起きた後には、そこを見ようとしなかった自分を責めるしかなくなる。後になって、「知らされてなかったから仕方がない」なんて言えない。いつも、そういう感じで何かが起きてから人は様々な罪悪感を持つけれど、それでは間に合わ無い。同じ歴史が繰り返されて欲しくない。

2021年3月9日火曜日

催眠術を説明する新しいモデル 2021年3月8日

 催眠術についての動画を見た。催眠術を説明する古いモデルは、意識と無意識を氷山の水面下と表面に出ている部分に例えるが、新しいモデルは暗い部屋の中とその中に一箇所だけ当たったスポットライトで説明する。スポットライトをどこに当てるかを決めるのは無意識の領域であり、それも0.5秒〜6秒前に決めているらしい。それを自分で意識的に行っている行為のように錯覚するのがいわゆる「意識」なのだとか。その「意識」は錯覚なのだそうだ。そして、体の一部に意識を向けるような行為は、実際に重要度の高くないところに意識を向けるような行為であり、それを続けていくとスポットライトの光量が下がっていくらしい。私が自分の無意識の領域によって体が動くようなダンスの手法は、このモデルだとわかりやすい説明になるなあと思った。体の一部に意識を集中したことによって、スポットライトの光量が下がるということなのだろう。なかなか面白い。つまり、意識に浅いとか深いとかいうことはない、ということのなのだろうか?まあ、それはどう認識するかによるということかもしれない。

ところで、歴史認識もこれにとてもよく似ている。現在を生きる自分が見える部分はほんの一部にすぎない。自分の部屋、周りの音、家族との会話、パソコンの画面。けれども実際には隣の人がどのような生活をしてるか知らない。下の階の人が何に興味を持っているか知らない。斜向かいに住んでいる人たちが、それぞれ何を信じているか知ら無い。その知ら無いことは、この地域だけをとっても無限に広がっている。それが、ベルリン一体、ドイツ一体、無限に広がっていく。それらの細部に様々な物語があり、コミュニケーションがあり、秘密があり、感情がある。それと同じように、歴史的な事件として、教科書で教わったことひとつとっても、そこでスポットライトがあたってない無限のしらない真実がある。人が認識できること、共有できることはほんとうにほんの一握りでしかない。それらを共有の認識にするためのツールとしての学校教育、マスメディアの情報は、限られた場所にスポットライトを当てて、人が「これが実際に起きた現実です」と認識するようにしつらえられている。それは記憶の編集作業みたいなものだ。もし、別のところにスポットライトがあたっていたら全く違う認識になったのだろう。そうやって、ある種の共通認識を形作ることで社会を成り立たせているけれど、その規模がどんどんグローバルになっていき、ありえないことなのに、世界中の人がある程度同じ認識になり、何が「現実」か、何が「真実」か、何が「科学的」か、それぞれ共通認識を形作っていると人は信じているかのようだ。特に、力のある人が「どこにスポットライトを当てるか」をよりコントロールする力を持ち、それがこの世の現実になっていく。そういったことは、ずっと昔から続いてきたのかもしれ無いが、昔は、力のある人の側が信じさせようとする現実と、世間で人々の口から口へと伝えられる「感覚」による現実には差があったのではないだろうか?差があって当然だと思う。立場が違うのだからそれが当然だ。しかし、力のある側の物事を信じさせなければいけない範囲は今や全世界であり、そのためには、さらに大きな力が必要になっているだろう。とても大変な作業だ。国際機関というのはそのためにあるようなものなのだろう。小市民の側が知らない間に、様々な「公的」な国際機関が作られている。その中での会議の内容も知らない。どのようなプロセスでルールが書き換えられていたとしてもわからない。どのような方向性で世界を変革させようとしているか、わからない。そして、知らない間にさりげなく、さまざまな「社会正義」を、人々の間からでてきたような演出でプロパガンダとして広めているのかもしれない。そうやって、人々の認識を、つまりスポットライトの当たる場所をうまく操作するような方法論を培っているのだろう。大変な努力家だ。AIなどもそのために活用されているのかもしれない。もっとも、インターネットで世界中の人々の認識を把握できる今となっては、それはいともたやすくできるのかもしれない。また、局所的な話題に人々の意識を釘ずけにすることによって、他の部分にスポットライトが当たら無いようにするというのはマジックショーなどと同じで、現実認識のコントロールの仕方としてよくできた方法だ。長時間釘ずけにするためには、ある程度ショッキングな話題提供がより適しているだろう。また、その話題に死を予感させるような恐怖感が伴えばさらに効果的だろう。詐欺の手法もこのような方法を使って、普通なら信じないようなことでも、段階を追って信じるようさせることができる。かといって、いつも何かを疑っていると、自分で自分の認識範囲を狭めてしまう。それよりは、スポットライトが当たっているような部分とは違った場所に、意識を向ける練習をすることで、限られていると思っていた認識の可能性を広げることができるかもしれない。物を書いているといつも、同じような結論に達するけれど、言うは易し行うは難し。

2021年2月27日土曜日

長い目で見れば希望しかない 2021年 2月26日

 拮抗のないところにバランスはない。

拮抗なきバランスは人工的なデザインである。

人工的なデザインは自然のデザインを壊し続ける。

じゃあ、外来種は?

長い時間かけてバランスを保つのかもしれない。

本当の自然に任せると決して何かが絶滅したりしない。

じゃあ、自由経済は?

たぶん、本当の自由じゃないトリックみたいなものがあるのかもしれない。

つまり自由に見せかけた一人勝ちのルールみたいなものが。

人は拮抗が起きないようにシステムを作る。

バランスのため、あるいは弱者を守るため、条約やルールで大きくバランスを崩さないように守るしかない。拮抗に任せると弱肉強食になるのか?あるいは適者生存か?一度システムをデザインして生きる道を選ぶともう後戻りはできないのかもしれない。

けれどもそのシステムを利用して、一人勝ちの状況がわからないように設計されている。

しかし自然のデザインは偉大すぎて、人工的なデザインも結局は大きく懐に入れてそんなものの影響は長い目で見ればすごく小さなひと雫の影響でしかないのかもしれない。そこに希望がある。長い、なが〜い目で見ればすべて希望しかない。

2021年2月23日火曜日

ちからとはなにか 2021年2月23日

ちからをこうしするひとはおそれている

うばわれないようにこうげきしつづける

それをおそれないためにきょうはくかん

ねんからできるだけとおくにとおざかる

しゃかいせいぎというのろいがそうごの

かんしとぶんだんのひだねとなるだろう

すてれおたいぷかしたしゃかいせいぎは

ちからをこうしするひとにりようされる

しゃかいせいぎのだつこうちくをしよう

何が嫌なのかな? 2021年2月22日(月)

 なにが嫌なのかな?というと、コントロールされることが嫌。

たくさんの人がコントロールされていると感じることが嫌。

コントロールする仕組みが稼働して、自動運転になってそれが回り続けるのを見ることが嫌。

人の技術革新していく方向性というものがあって、例えば妊娠中の子供の状態を見て産むかどうかを決めることに対して、それを望む人、望まない人がいる。アメリカの精子バンクのドキュメンタリーを見た時、提供者の目の色、髪の色、肌の色、学歴、IQなどのファイルがあってその中から選ぶという状況があるのを知った。そういうようなことを望む人と、望まない人がいる。クローンの技術が進む。遺伝子組み換え技術が進む。ナノテクノロジーが進む。AI技術が進む。いろいろなものごとを組み合わせて、人の生命、生き方、能力、容姿、寿命、健康、様々な組み合わせを駆使してデザインしたいという人がいる一方それを望まない人もいて、なにを求めるかによって人はまたこの先も分断をし続けることだろう。人の感覚はそれぞれだが、それらがもたらす結果の中にどうやって多様な感覚を抑圧せずに共に生きる方法を見つけることができるだろうか?

私は、生命にたいしてのコントロールがこれ以上エスカレートすることをどうしても生理的に受け入れることができない。いわゆる宗教というものを持っていない私でも、生と死の神聖さを冒涜したくないし、されたくない。

こういった、ストレートな文章しかかけない、この方法ではなんの役割も果たせないとわかってはいるのだが、なんとか、言葉をエネルギーに変えていけるような方法、自分を驚かせるような方法を見つけたい。

2021年2月21日日曜日

小さな水溜り ゆらゆら 2021年2月21日 

 人は孤立することを恐れるものだ。そして、SNSは、何かに対して疑問を抱く人を繋げるのではなくむしろ孤立させるために非常に良く機能しているように見える。最近、「マインドハッキング」という本と出会い、SNS上で個々人のデータを勝手に分析して人格を見定め、必要なターゲットになにかしらの行動を起こさせるという、軍事下請け会社の内部告発を読んだ。AIなどをうまく使ってそういうことを行っているのだ。それで、私が感じてきたSNSへの違和感がなんとなく理解できた。おそらく、なんらかの疑問を抱く人を孤立させ、また孤立したくないという心理がより疑問から遠ざける効果を作り出せる。そうすれば、疑問をもったり調べたりすること自体に心理的なブレーキがかかる。また、世論の中で、よりSNSが信じさせたい物事へ感情移入すればするほど、SNSの中で居心地が良くなる。この面だけみれば、一方向的なテレビよりもプロパガンダの効果はより強く、人々はより早く洗脳されていく。そして専門家が、専門的でないということで人々を、自分で考えることには非常に不備がある、というように思い込ませる。このままいけば、人々はワクチンの強制摂取を望み、しない人が構造的に差別されたり、孤立して仕事や行動自体が極度に制限されることを許容する世界に移行してしまうだろう。

何かに対して疑問を抱く人がつながり、あるいは、違う考え方の人が別の視点から一つの物事をみることで得られる、普通の人の知的活動、行動が小さな水溜りのようにどこかに残っていることを心から願う。

とはいえ、私はいつでも世論からかなり違う感覚と思考を持って生きてきた。孤立感にはある程度慣れている。それが、私の役割なのだろう。ただ、それが役割として機能していない時はとても苦しい。ただの孤立となってしまうからだ。一つのところに視点を固定させずに、あるいは、一つの感情的軋轢に固執せず、そこから離れて見てみよう。視点が動いている状況、意識が少しだけ浮遊している状況、息子のいう「ゆらゆら」が必要なのだ。そして、いつも創造的な突破口を探し続けることができる。可能性はどんな状況でも(どこにもないように思えるときでさえ)無限にあるものだ。それを信じることができる。知恵が必要だ。


2021年2月5日金曜日

噂話とコミュニケーション 2021年2月4日

 噂話というのは、いつの時代どの場所でもあるものなんじゃないかと思う。どうしてかというと、まず噂話することで起こるコミュニケーションが楽しいから。過去に、噂されて嫌な思いをしたこともある。でも自分も噂話を楽しんだこともある。そういう人のさがみたいなものを攻めてみても仕方がない。場合によっては名誉毀損なことも起きるかもしれないけど、コミュニケーションがひどく損なわれるようなことはしないようにするというバランス感覚が働くかどうかなのかもしれない。もう一つは、真実が覆い隠されていると感じる時に、小さな情報から様々な推測をして、話す人によって尾ひれがついたりもするだろう。そういう場合、噂話をする人をバカにしたり、見下しつつ分析したりすることで一体何が得られるのだろうか?覆い隠されている真実になにか引っかかる、そういう感覚を共有して、覆い隠して暴利をむさぼる誰かに対して共に怒りを共有することだって可能なはずじゃないのだろうか?

自分が何に合わせて空気を読んで、何かを「信じている」ことにしているのか?そこに思いをはせれば、自分の深いところのセンサーが働いて本当は何を感じているのかにたどり着けるかもしれない。そうなって初めて、違う感じ方を持った人とも向き合える。

2021年2月3日水曜日

視点を動かして見ることができない世界の到来 2021年2月2日

私はある時期まで自分が、テレビと学校からの情報によって現実の世界が限定されていることに気づかないで生きていたように思う。たとえば実際に目の前で民俗芸能に触れ、習い、関わるまでは、あれだけの深い複雑な歴史の中で紡ぎ続けている芸能がこんなに豊かに存在することを全く知らなかった。テレビなどで紹介される情報は恐ろしく限定的で、そのフィルターを通して見ていたのだと思う。それだけじゃなく、様々な地域に生きる人々の姿、その多様さや、その地域の人々の口から口へと繋がっている別のちいさな歴史について、何も知らなかった。人の数だけ本当は感じ方や歴史があり、視点が違えば物事は全く違って見えるはずである。それでも、直接様々な人と関わり、人と人の間から聞き取る私の小さなもう一つの現実というのがあり、それが物事を多様な見方に導いていてくれたように思う。

今、このように人と人の接触が大幅に制限された世界で、人はそのような視点の動かし方をすることができず、テレビとインターネットの情報を通してのみ世界を見ることになる。そこには人為的な世論操作も介入できる。それも一つの国の中だけでなく全世界にくまなくである。これは本当に恐ろしいことが起きているのではないだろうか?

しかし恐れるということは、今一番遠ざけるべきことでもあり、今失われ続けることを観察し、関わりの可能性、視点の動かし方の可能性、そのうえで感じ方の可能性や弾力性が失われずにどうしたらいられるか考え続けたい。

2021年1月28日木曜日

友人との再会 意見の違いなんか気にならない 2021年1月27日

 久しぶりに友人と会うことができた。お互いに、免疫力を高めるためには孤独感や罪悪感から離れなければならないことを実感しての再会で、今起きている物事に対する多少の考えの違いは、その違いを確認しあったり、なぜそう感じるかを交換し合うことで問題なく話し合えた。これが私の心に本当に安心と信頼と喜びを呼び起こしてくれた。そう、意見の違いなんて全然問題ない。互いにどう感じてるかを交換するだけでいい。この感じが本当に風通しが良くて心が楽になる。そして、共通事項を大切にすれば良いのだ。免疫力を下げる「悲しみ」「孤独感」「罪悪感」「不安」からできるだけ遠くにいるために、一緒にご飯を作って楽しく過ごし、また楽しい計画を立てる。それだけで十分だ。SNSとにらめっこしてる時間と比べたら比較にならないほど健康的だ。あ〜しあわせ。

2021年1月21日木曜日

春の予感? 2021年1月20日

 ロックダウンが2月14日までという発表があり、マスクの種類が義務付けられた憂鬱を少しだけ軽くしてくれた。4月頭までかもしれない、という記事もあり、そうなったらかなり憂鬱だと思っていたので、ダブルじゃなくてまだよかった。しかし、もちろんぬか喜びかもしれない。少しずつ、少しずつ伸ばすことになるだけかもしれない。

久しぶりに、また電車で手紙を書く。心なしか、シートで談話する元気なおばちゃんたちは明るい雰囲気だった。そういえば気温もちょっと上がって、曇りだけれど遠くに雲の切れ間があって地平線は美しいピンク色。春の予感というにはちょっと早すぎだろうか?窓の外の街路樹はほとんど丸裸だけれど、春になれば若芽が萌えるのかと思うと、それが待ち遠しく、それを待つ時間も悪くない。

2021年1月19日火曜日

忘れられたリテラシー 2021年1月18日

 時代が変わっても、何度でも何度でも似たようなことが繰り返される。

偏見というのは誰でも持っていると思う。基本的に、人は様々な偏見に満ちている。時々、別の側面から物事を見ることができた瞬間にそれが解除されたり、他に人の感じ方を参考にして、別の可能性について考えることができるようになる。それらを繰り返すことで、なんとなく、同じ偏見にしがみつかずに済んだりもする。けれども、またすぐ、何かしらの偏見というのは生まれ続ける。だから、人と一緒に話すことがとても大事なのかもしれないとも思う。それも、インターネットを介してではなく直接人と話す。なぜかというと、話している相手の視点を通して物事を見る瞬間というのは、すごく身体的な経験だから。インターネットを通すとそれがかなり阻害されるという印象がある。

同じ方向の人の感じ方を何度も何度も見ているうちに、それが世論であると感じるようになる。フェイスブックはそういう効果が絶大だ。このコロナが始まった頃、すごく些細のことを「デマ」として糾弾する、デマ警察てきな人がとても増え、そういうことを友人や知り合いにさえされるようになる。もちろん、ひどいデマもあって用心する気持ちになるのだろうが、「熱いお茶をしょっちゅう飲むのが良い」というようなたわいもない内容でさえデマのレッテルが貼られていく。科学的根拠がない、ということで。しかし、日常的にさまざまな科学的に根拠のない民間療法を実践している人はたくさんいるし、それに効果を感じている人に向かって科学的根拠がないと糾弾する必要があるとは思えない。ウイルスのことでさえ、まだわからないことがたくさんあり、科学的に根拠がはっきり示される頃にはなにもかも終わってしまているだろう。あるいは、科学的根拠がはっきりと分かるころにはもう手遅れということも世の中にはたくさんある。

何かしら違和感がある、何か変だ、という科学的根拠のない自分の感を大切にすることができなければ、いざというとき自分で何も判断することができない。また、それを人と話し合うことで、視点を変えて物事をみることもとても大切だ。いろいろなことがわかった時にはもう手遅れということは考えられる。しかし、現在はそれをしにくい状況が形成されている。監視されているインターネットを使用しなければ人と簡単には話せない。

私は、去年コロナが始まった頃から、特にフェイスブックに多大な違和感を持つようになった。多く繰り返されるタイプの記事、あまり出てこないタイプの記事、あるいは民間の人を装った記事が混ざっていたとしてもだれもわからない。しかも、何かが起きた時に、誰かのアカウントを停止したりできる。あきらかに世論はこれらのメディアによってデザインされている。ずっと言われてきたことだが、これほど深く違和感を覚えたのは初めてだ。そして、世論のデザインには何かしらの意図がある。何かの組織がメディアとつながれば金銭的な契約が結ばれて世論のデザインを依頼されることも考えられる。

メディアへのリテラシーは何度も叫ばれたが、今回また完全に忘れられた。恐怖がリテラシーを反故にできることを胸に刻む必要がある。恐怖は死角を拡大させる。恐怖さえもデザインされる可能性があることに意識を向けるべきだ。

2021年1月14日木曜日

閉塞感 電車で一周 2021年1月13日

 ロックダウンの厳しい状況が長く続きそうな機運になって、最初のロックダウンの時と同じような種類の不安というか、閉塞感を感じ、自分で見えない檻に自ら入ってしまいそうな気分になった。これは、この時期に何かを学ぶというような感じでは乗り切れそうもないなと思った。自分の心の動きをもう少し積極的に動かさずにはいられないような焦燥感があり、41番線の電車に乗って一周回りながら手紙を書いた。寅雄氏とのzoom通話を文通に切り替えて一週間、zoomの時よりずっと向き合う時間が長いように感じている。なぜかというと、何を書こうか、と考え続けるし、書いている時には心の近くに相手がいるように感じるから。これは不思議な感覚だ。時間的な距離や時限的な距離を人がどうやって乗り越えようとするか、ということについて考えさせられる。

フェイスブックで繋がっていた人で、気がついたらそこから離れている人が増えていることに、今更ながら気づく。世界的な風潮としては、ロックダウンで実質的に会えない人が増えることで、インターネットでのやりとりが飛躍的に増える傾向にあるかもしれないが、インターネットでのやりとりに辟易してしまっている人もだいぶ増えているのではないかと想像する。私もそろそろ潮時か…。

情報を得る方法、あるいは発信する方法はもう少し工夫できるはず。

2021年1月12日火曜日

ささやかなコンサート カモの夫婦 寒中水泳 2021年1月11日

 昨日、日曜日のお昼頃、いつものように湖に散歩に行くと、どこからともなく音楽を演奏する音が聞こえてくる。それはラジカセからの音楽じゃなく、誰かが演奏しているものだなあとわかる。吸い寄せられるようにそちらの方に歩いていくと、一人の女性のミュージシャンがギターを弾きながら少ししっとりした感じの、透明感のある歌声で歌っている。最初、ほんの数人だけが周りを少し遠巻きに見ていた。私は、湖の際に斜めに生えている木の幹の上に腰掛けて、左側に湖、右側にミュージシャンがちょっと遠くに見える位置に腰をかけてカプチーノを飲んだ。極楽である。すごい水音がして湖を見てみると、男女がきゃーきゃーいいながら素っ裸で湖に入っている。もしかいたら、毎年こういう風景が観れるのだろうか?あるいは今年、コロナ禍の中で特別にこれをやる人が増えているのだろうか?「水があったかい!」とかいいながらザブッとやってすぐに出る人、二人でヨガのようなポーズを取りながらながいこと入っている人、いろいろだ。面白いのは、水に入る位置がだいたい決まっているとこことだ。水に入るのにうってつけの場所があるということなのだろうか?下をみると、水際にカモの夫婦が寄り添いながらじーっとしている。一匹は少し動き回ってもう一匹は動かずに、お互い無関係のようにも見えて、お互いがいることで安心しきっているように感じる。ミュージシャンの方をみると、取り巻く人々はまばらだったのに、一人、また一人と、火のまわりで暖を取るために人が集まるように音楽の周りに人が集まってくる。そして、奇跡を目撃しているような顔つきでみな音に聞き入っている。私も、それを求める人の心に自分の心が重なって涙が出た。

私が思ったよりずっとベルリンの人々はたくましくて、様々な工夫をしながら心が動く瞬間を見つけ続けているのかもしれない。

2021年1月9日土曜日

小さく複雑な因果関係 心を鳥に重ねてみる 2021年1月9日

 今日も湖畔で鳥たちを観察する。鳥たちは、好きなように、好きなところに飛んでいったり泳いだり餌をとったりしている。もちろん「好きなように」とか「自由に」とか言うのは私が勝手に言葉にしているだけのことだけど。本能の赴くままに、と言ったほうが当たっているだろうか?それは自然の中にある見えない法則みたいなものに沿っているとも言える。その法則には中心がなく、小さく複雑な因果関係の積み重ねの現れだったりする。それはなんとすごい仕組みだろう。私たちも本当はその法則の一部分にすぎない。それを思うととても暖かく幸せな気持ちになる。それらは、目的意識やコントロールとは無縁だ。人間の価値観では「自然淘汰」とか「生存競争」とかいう言葉を使うけれど、実際には競争とか淘汰などの意識なんか全くなく、小さく複雑な相対的因果関係の積み重ねでしかない。その中にはもちろんウイルスもいる。2018年に書かれた「ウイルスの意味論」という本の中で、「レトロウイルス」についての説明が出ていて、それが非常に面白い。外来性のレトロウイルスが感染のプロセスの中でヒトの遺伝子の中に組み込まれることで水平に遺伝子変化が起き、それがそのまま親から子へと縦方向にも遺伝していくらしい。今分かっているだけでも、ヒトの遺伝子のうちレトロウイルス由来のものは少なくとも9%はあるらしい。ウイルスは生物か、無生物か、議論が分かれている。でも、ウイルスは増殖し移動するという性質があり、生物の遺伝子にも方法は違えど増殖するという性質がある。ウイルスと遺伝子の相互関係には、人間の積み重ねてきた知識と思考法では追いつかないような、何か哲学的とも思われるような何かがあるようにさえ感じる。しかし、それは、パパラギを書いた酋長たち、サモアの人々が自然のなかで「大いなる心」と呼んでいた何かに通じるのかもしれない。文明の利器を使って研究し、深めていく知識というものがあり、一方でそういった知識や情報とは無縁の観察、洞察、知恵というものがある。

一方、もし「知識」を一度とっぱらって、自然発生的な想像に身を任せてみることができたら?人間が作ったあらゆる線引きと無縁に鳥たちが飛び回る姿を見て、もしかしたら違う次元の向こう側まで飛んでいくことができるのではないか?と想像することもできる。そうすると、その鳥の姿に自分の心を重ねて死者の国へ旅立った者と交流できるかもしれない、と考えてみることもできる。鳥を神の国の使いとしたり、亡くなった魂が鳥になったり、そういった昔話や民話は世界中に存在するようだ。心は、鳥のように無限に飛び回ることができる、と信じてみる。そうすると、世界の有り様はずいぶん違ったように感じられる。

2021年1月8日金曜日

鳥たち パパラギ ゆらゆら 2021年1月8日

 今日は珍しく、起きてすぐにお散歩に行った。湖の湖畔でハガキを書く。その間、鳥の様々な声が響く。特におかしいのは、カモメが文句を言うような奇妙な声で鳴いていること。なぜ、こんな内陸にカモメがいるのだろう?私のイメージではカモメはいつも港にいるものだと思っていた。鴨の親子が虫を探して土の中に嘴を突っ込む。草をしごいているのか、食べているのか、枯葉の下から青く細長い草を一本ずつ嘴でパクパクやっている。その音が、パクパクパクパクパクパクと、響いている。だんだん鳥の姿が増えて、黒い鳥や嘴の上に班のある鳥やら、たくさんの種類の鳥が集まってきてみんな同じ行動をしている。パクパクパクパクパクパク…。鳥たちはロックダウンも国境も関係なく、普段どうりに餌を求めたり飛び回ったりしている。なぜなら、彼らには概念を理解しないから。それに思い至った時、すごく自由を感じる。最近読んでいる『パパラギ』の語り手が、「私は時間というものがどうしても理解できない。すなわち年齢というものも理解できない。数えることに意味があるとはどうしても思えない」という箇所が出てくる。それも「時間」という概念を理解しないことで得られる自由みたいなもかもしれない。その二つが自分の中で深くリンクする。私たちを縛っているもののひとつは「概念」なんだと。それを消し去ることはできなくても本当はないものだと理解できればずいぶん楽になれる気がする。その考え方は仏教の哲学に近いのだろうか?

ベルリンの街行く人々を見ていると、外にいても見えない枠組みのなかに捕らえられているような閉塞感を感じる。それぞれ孤立して、うつむいて目的以外のことをしない。地下鉄の中ではみなうつむいてスマホをやる人の割合がずっと増えている。アレキサンダープラッツ広場はガラーンとしていて鳥の声だけが生き生きと響いてまるで森の中みたい。でも警察がうろうろしていて得体の知れない緊張感を感じる。人々が見えないグリッドに沿って思考し、行動をするようにデザインされている、振り付けられているように見える。見えないグリッドに捕まらないようにするために何が必要なのだろう?そう息子に聞いてみると「大切なことは、ゆらゆら揺れ続けることだよ」と言う。「ゆらゆらしながら、次にどんなことが起きてもいろいろな可能性に対応できる。」と。その速度が大切なのだそうだ。ゆっくりゆらゆらしたほうがいいそうだ。そうかもしれない。それにプラス美輪明宏考案の、喋っている時、その語尾にルンルンをつける語法を合わせたらより良いかもしれない。なぜなら、デザインされた思考や行動から少しでもずれることが、自分を少しだけ自由にする方法だと感じるから。少しずれるだけのことにはいくらでも方法がある。ルンルン。

頭の中のもやもや フーコー パパラギ 2021年1月7日

 ロックダウンが延長されて、また時間が止まったような感覚がやってきた。スーパーに行ってもなんだか、買うものがマンネリになってしまい、特に野菜を選ぶときに、選択肢が少ないなあと感じる。ヨーロッパ独特の野菜を息子が嫌がるのであまり買わないのもいけないのかもしれない。でも、こういうのは日によって違うのだと思う。英語やドイツ語などやらなければならないことは山ほどあるけど、集中するにはモチベーションが必要だ。モチベーションが持てない理由の一つは私が頭の中で何やら考えてしまうからだろう。考えながらも言葉が明確にならない。浮かんでは壊れていくような感じ。物事が自分の内側でもやもやしているのだ。昔からそういう時間がとても長いのだ。言葉になったり形になったりするにはとても時間がかかるのだ。

西洋近代化について考え続けてきたけれど、ヨーロッパに来て、ヨーロッパ自体の近代化についても興味が沸いてくる。あまり難しい哲学書は読めないけれど、入門シリーズみたいな感じのフーコーをもう一度読んでみようと思う。ヨーロッパの哲学者になんらかの先入観があって、(上から目線な感じがして)あまり読む気になれなかったのだけれど、フーコーは私が感じていたことにとても近いと感じる部分があるようだ。

それとは別に「パパラギ」という、南海の島の酋長が語ったことが文章になっている本があり、なくなった祖母の本棚にあったものだけれど、何度読んでもすごく面白い。というか、なにかしら解放されるような部分がある。とくに、時間の観念がほとんどなく、なぜ時間を数えたり年を数えるのか、その理由が全くわからない、また、それに関して「死」ということについても語っていて、それがまたすごく良い。私たちの文明がどうしてこんな風になってしまったのか、考えさせられる。

2021年1月7日木曜日

「恐怖」について/可能性の留保 2021年1月6日

ドイツではロックダウンが延期されて、私は散歩をしながら考える日々が続く。

暗示は恐怖を元にもたらされる。

恐怖を感じる時、恐怖をもたらされてる情報がどこから発信されてるかを観察する。

勉強しないと大学に行けないとか、大学に行けないと就職できないとか、就職できないと生きていけないとか。

あるいは年をとると醜くなるからこの化粧品を使わないといけないとか、病気のリスクがあるからこの薬を飲み続けなくてはいけないとか。

この商品を売らないと責任を負わされるとか、業績を上げないと恫喝されるとか、会社が潰れるとか。

恐怖をもたらされている人が、人に恐怖をもたらすことで商売をする。恐怖をもとに暗示をかけられれば、その習慣は一生続くこともある。その人が死ぬまで同じ商品を買い続けてくれる。

個人に対してだけでなく、信じる人々が多くなればそれが常識になるし、それが世論になる。世論に背くことは大きなリスクとなるから、その世論はより盤石になっていく。

そういうことにどこか怒りのようなものを感じてしまう今日この頃、しかし怒りでも恐れでもなく、自分に何かしら役割がもたらされるとしたら、私自身が自分とどう向き合うかしかない。可能性の幅を留保する練習をしていこう。

2021年1月6日水曜日

ノート 手紙 Youtube  2021年1月5日

 ノートを買って、自分の考えをノートに書いて索引をつけるという方式を試そうと思い立って、文房具屋さんに行って買ってきた。思ったよりお店は開いている。最近寅雄氏と心のタイミングが合わなかったり感じていることをシェアできなかったりが続いて、zoomの限界を感じているので、手紙の交換も初めて見る。

直接人と交わらない時には自分と直接対話をするのが良い気がしている。また、木々や草や湖や鳥や風との交流はとても助けになる。また、思い出との交流も助けになる。

Youtubeを見るのも若干依存的になっているかもしれない。Youtubeももちろん規制や管理の中でコントロールされている世界かもしれないが、自分で感を働かせて何かを発掘するという感じの楽しみがある。しかし、自分の感覚で現実に起きていることを推論していて、それの答え合わせができる内容を探そうとする傾向が自分にあるという自覚がある。コロナについて、アメリカの選挙についてなどなど。自分の感覚からして「これが正しい方向性に近い」と思うものを発掘することが増えているが、それらを発信している人の経歴などを調べてみると、自分とは基本的な考えや態度が全く違う、あるいは真反対の人であることが多く、困惑を禁じ得ない。それでも、自分の感じ方を基本にした広範囲な推論と可能性の留保を続けていこうと思う。まあ、この先どうなるか…見てみましょう。

2021年1月5日火曜日

お散歩 湖 黒い鳥 雪だるま 2021年1月4日

お正月があけて、いつものように湖までお散歩した。私が湖の水辺に立ってカプチーノを飲んでいると、少し離れたところから水面を、黒くて、くちばしの上に白い班のある鳥が一直線に私のところに向かって泳いでくるのが見えた。鳥が私に意識を向けているエネルギーみたいなものを感じて、なにか微笑ましい。私が餌をやる可能性があると思って、向こうは狩りをしているようなつもりなのかもしれない。わたしから1.5mくらいのところで一旦止まり、右に左に泳ぎながら私の様子を伺ってから、少しずつ別のところへとそれて行った。水際で水面の波立ちを見つめながら、ただ自然の中で感覚を研ぎ澄ませているだけでもいろいろなことをキャッチできる、洞察できる、そこから物事を見極める道筋を見つけられそうな気がしてくる。そんな気持ちが自分の深部から湧いてくるような感覚を味わう。公園に着いた時にはわからなかったけれど、帰り際に雪だるまが入り口辺りにポツンと立っている。そういえば昨日、ベルリンにしてはめずらしく雪が長く降って積もっていたので散歩して、子供達が外で遊んでいる姿を見た。公園の入り口が珍しく空いていたので中に入ってみると、たくさんの子友達が遊んでいた。中でも3人組の子供達がソリを組み合わせて、その上に大きな雪玉をのっけて運ぼうと苦心しているのが微笑ましかった。そういったことを見るのは何年ぶりだろう。糸島で大雪が降ったある冬の日、家族3人で大きな雪だるまをつくったのを思い出す。雪を靴底で踏みしめるあの感触も久しぶりだった。