2021年2月27日土曜日

長い目で見れば希望しかない 2021年 2月26日

 拮抗のないところにバランスはない。

拮抗なきバランスは人工的なデザインである。

人工的なデザインは自然のデザインを壊し続ける。

じゃあ、外来種は?

長い時間かけてバランスを保つのかもしれない。

本当の自然に任せると決して何かが絶滅したりしない。

じゃあ、自由経済は?

たぶん、本当の自由じゃないトリックみたいなものがあるのかもしれない。

つまり自由に見せかけた一人勝ちのルールみたいなものが。

人は拮抗が起きないようにシステムを作る。

バランスのため、あるいは弱者を守るため、条約やルールで大きくバランスを崩さないように守るしかない。拮抗に任せると弱肉強食になるのか?あるいは適者生存か?一度システムをデザインして生きる道を選ぶともう後戻りはできないのかもしれない。

けれどもそのシステムを利用して、一人勝ちの状況がわからないように設計されている。

しかし自然のデザインは偉大すぎて、人工的なデザインも結局は大きく懐に入れてそんなものの影響は長い目で見ればすごく小さなひと雫の影響でしかないのかもしれない。そこに希望がある。長い、なが〜い目で見ればすべて希望しかない。

2021年2月23日火曜日

ちからとはなにか 2021年2月23日

ちからをこうしするひとはおそれている

うばわれないようにこうげきしつづける

それをおそれないためにきょうはくかん

ねんからできるだけとおくにとおざかる

しゃかいせいぎというのろいがそうごの

かんしとぶんだんのひだねとなるだろう

すてれおたいぷかしたしゃかいせいぎは

ちからをこうしするひとにりようされる

しゃかいせいぎのだつこうちくをしよう

何が嫌なのかな? 2021年2月22日(月)

 なにが嫌なのかな?というと、コントロールされることが嫌。

たくさんの人がコントロールされていると感じることが嫌。

コントロールする仕組みが稼働して、自動運転になってそれが回り続けるのを見ることが嫌。

人の技術革新していく方向性というものがあって、例えば妊娠中の子供の状態を見て産むかどうかを決めることに対して、それを望む人、望まない人がいる。アメリカの精子バンクのドキュメンタリーを見た時、提供者の目の色、髪の色、肌の色、学歴、IQなどのファイルがあってその中から選ぶという状況があるのを知った。そういうようなことを望む人と、望まない人がいる。クローンの技術が進む。遺伝子組み換え技術が進む。ナノテクノロジーが進む。AI技術が進む。いろいろなものごとを組み合わせて、人の生命、生き方、能力、容姿、寿命、健康、様々な組み合わせを駆使してデザインしたいという人がいる一方それを望まない人もいて、なにを求めるかによって人はまたこの先も分断をし続けることだろう。人の感覚はそれぞれだが、それらがもたらす結果の中にどうやって多様な感覚を抑圧せずに共に生きる方法を見つけることができるだろうか?

私は、生命にたいしてのコントロールがこれ以上エスカレートすることをどうしても生理的に受け入れることができない。いわゆる宗教というものを持っていない私でも、生と死の神聖さを冒涜したくないし、されたくない。

こういった、ストレートな文章しかかけない、この方法ではなんの役割も果たせないとわかってはいるのだが、なんとか、言葉をエネルギーに変えていけるような方法、自分を驚かせるような方法を見つけたい。

2021年2月21日日曜日

小さな水溜り ゆらゆら 2021年2月21日 

 人は孤立することを恐れるものだ。そして、SNSは、何かに対して疑問を抱く人を繋げるのではなくむしろ孤立させるために非常に良く機能しているように見える。最近、「マインドハッキング」という本と出会い、SNS上で個々人のデータを勝手に分析して人格を見定め、必要なターゲットになにかしらの行動を起こさせるという、軍事下請け会社の内部告発を読んだ。AIなどをうまく使ってそういうことを行っているのだ。それで、私が感じてきたSNSへの違和感がなんとなく理解できた。おそらく、なんらかの疑問を抱く人を孤立させ、また孤立したくないという心理がより疑問から遠ざける効果を作り出せる。そうすれば、疑問をもったり調べたりすること自体に心理的なブレーキがかかる。また、世論の中で、よりSNSが信じさせたい物事へ感情移入すればするほど、SNSの中で居心地が良くなる。この面だけみれば、一方向的なテレビよりもプロパガンダの効果はより強く、人々はより早く洗脳されていく。そして専門家が、専門的でないということで人々を、自分で考えることには非常に不備がある、というように思い込ませる。このままいけば、人々はワクチンの強制摂取を望み、しない人が構造的に差別されたり、孤立して仕事や行動自体が極度に制限されることを許容する世界に移行してしまうだろう。

何かに対して疑問を抱く人がつながり、あるいは、違う考え方の人が別の視点から一つの物事をみることで得られる、普通の人の知的活動、行動が小さな水溜りのようにどこかに残っていることを心から願う。

とはいえ、私はいつでも世論からかなり違う感覚と思考を持って生きてきた。孤立感にはある程度慣れている。それが、私の役割なのだろう。ただ、それが役割として機能していない時はとても苦しい。ただの孤立となってしまうからだ。一つのところに視点を固定させずに、あるいは、一つの感情的軋轢に固執せず、そこから離れて見てみよう。視点が動いている状況、意識が少しだけ浮遊している状況、息子のいう「ゆらゆら」が必要なのだ。そして、いつも創造的な突破口を探し続けることができる。可能性はどんな状況でも(どこにもないように思えるときでさえ)無限にあるものだ。それを信じることができる。知恵が必要だ。


2021年2月5日金曜日

噂話とコミュニケーション 2021年2月4日

 噂話というのは、いつの時代どの場所でもあるものなんじゃないかと思う。どうしてかというと、まず噂話することで起こるコミュニケーションが楽しいから。過去に、噂されて嫌な思いをしたこともある。でも自分も噂話を楽しんだこともある。そういう人のさがみたいなものを攻めてみても仕方がない。場合によっては名誉毀損なことも起きるかもしれないけど、コミュニケーションがひどく損なわれるようなことはしないようにするというバランス感覚が働くかどうかなのかもしれない。もう一つは、真実が覆い隠されていると感じる時に、小さな情報から様々な推測をして、話す人によって尾ひれがついたりもするだろう。そういう場合、噂話をする人をバカにしたり、見下しつつ分析したりすることで一体何が得られるのだろうか?覆い隠されている真実になにか引っかかる、そういう感覚を共有して、覆い隠して暴利をむさぼる誰かに対して共に怒りを共有することだって可能なはずじゃないのだろうか?

自分が何に合わせて空気を読んで、何かを「信じている」ことにしているのか?そこに思いをはせれば、自分の深いところのセンサーが働いて本当は何を感じているのかにたどり着けるかもしれない。そうなって初めて、違う感じ方を持った人とも向き合える。

2021年2月3日水曜日

視点を動かして見ることができない世界の到来 2021年2月2日

私はある時期まで自分が、テレビと学校からの情報によって現実の世界が限定されていることに気づかないで生きていたように思う。たとえば実際に目の前で民俗芸能に触れ、習い、関わるまでは、あれだけの深い複雑な歴史の中で紡ぎ続けている芸能がこんなに豊かに存在することを全く知らなかった。テレビなどで紹介される情報は恐ろしく限定的で、そのフィルターを通して見ていたのだと思う。それだけじゃなく、様々な地域に生きる人々の姿、その多様さや、その地域の人々の口から口へと繋がっている別のちいさな歴史について、何も知らなかった。人の数だけ本当は感じ方や歴史があり、視点が違えば物事は全く違って見えるはずである。それでも、直接様々な人と関わり、人と人の間から聞き取る私の小さなもう一つの現実というのがあり、それが物事を多様な見方に導いていてくれたように思う。

今、このように人と人の接触が大幅に制限された世界で、人はそのような視点の動かし方をすることができず、テレビとインターネットの情報を通してのみ世界を見ることになる。そこには人為的な世論操作も介入できる。それも一つの国の中だけでなく全世界にくまなくである。これは本当に恐ろしいことが起きているのではないだろうか?

しかし恐れるということは、今一番遠ざけるべきことでもあり、今失われ続けることを観察し、関わりの可能性、視点の動かし方の可能性、そのうえで感じ方の可能性や弾力性が失われずにどうしたらいられるか考え続けたい。