2023年11月27日月曜日

あなたにしか見えないダンス 感想をいただきました


 「あなたにしか見えないダンス 」と題して2023年11月17日におこなったパフォーマンスは今年の5月に続いて2回目となる(前回の私自身による感想はこちらhttps://natsukote-diary.blogspot.com)。今回は東京を拠点に場所づくりをしながらダンスの活動をしている神村恵さんと二人バージョンを行った。

まず、見にきてくださった方に小さなシールを渡し、ダンサー二人にやってほしいこと(体の動き、状態、イメージなどなんでも)を書いてもらう。巨大なショッピングセンターの、屋根があるところと吹き抜けが混在するような環境でダンサー二人はパフォーマンスを行う。高低差のある複雑な経路を、別々のスタート地点から二人が同時に違った場所を歩きながらシールをさまざまな場所に貼る。途中で二人が出会う箇所が二つあり、同じ経路をなんども巡ったり、経路を交換したりしながらシールの指示をもとに踊り、見にきてくださった方々はどちらか一方のダンサーについて歩きながら鑑賞する。途中で別のダンサーについて行っても良いし、全く違った場所から鑑賞しても良いという内容。

見にきてくださった尾畑さくらさんが素敵な長文の感想を書いて送ってくださったので、本人の許可を得て公開させていただくことにしました。尾畑さんありがとうございました!

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初め神村さんについていったら、何かを貼ったあとに石けりのような動きをしていた。でも石は見えなくて、何かを大事にしてる人ということが見えて響いた。何を表現しているかというより、見えない何かを大事にしている動きがあるということは、地面と足が設置する動きと時間ズレとかの動きの中に含まれる時間感覚の違いから、伝わるんだと思った。あるルートを行って、広い階段を降りるとき、分かれていた手塚さんのグループが、2階の向かい側の柵から正面で対面するような形でこちらを、何気なく見ていた。対面してすこし遠くから見られているだけなのに、そこで何かが起こっていた。水平と垂直がもう一方のグループと重なりながら階段を降りていると、何気ないのに、そこに逃げ場所のような別の空間ができていたような気がする。歩きながらその空間の時間を体感していた。別の階段を上がると、のぼってく神村さんと降りてくる手塚さんが対面して、手塚さんが神村さんの方をじっと近くで15秒間くらい見ていた。二人が交差するなかで、私達もどちらについていくか変わったりしていた。ついていく人が変わって、同じルートを歩いていることに気づいたときから、自分の記憶の中の一直線の時間のあり方が無自覚に歪んでいった。ある時間に起きたことと別の時間に起きたことが交差したり、重なったり、並んだり、記憶の中の時間のあり方が強制的な一直線の時間ではなく、ものや私たちの存在と対等になっていった気がする。神村さんがベンチに置いた小さくて折り曲がった紙を手塚さんは頭に乗っけて方向転換をしていた。頭に乗っける可愛い行為だけれど、突如なんの脈絡もなくその行為がなされると、なんだかとっても歪なのに、ホッとした。手塚さんが大きな階段を降りると神村さんのグループが2階の向かい側の柵から対面してさっきと同じようにこちらを見ていた。さっきまであちらのグループにいたので、向こう側にいるグループの時間が入り込み並行世界のように、自分の経験じゃないのに自分経験のようにも思える。また、同じように、向こう側のグループに見られながら階段を降りた。最初もそうだったけど、見られていると、自分の頭の中で把握している空間の範囲が、階段だけではなく、見ている人までの距離の直径の円の範囲まで広がっていた。また神村さんのグループに入り、神村さんについていくと、途中で走りながら、ポップな服屋さんに入った。普段は服を買わないのに入ると罪悪感があるけど、別の目的があると堂々と入ってみれたのが面白かった。ルールが頭の中で少し変わって、入れる場所に入る、という感じだった。また同じルートを歩いてから二人が合流して二人が並んだ。二人が並んだ時、記憶の中の映像のように思った。記憶の中の映像を見る時、自分だけの記憶より、二人以上の記憶の方がなぜか浮かぶ。その記憶の中の映像と重なった。並んだ二人の後ろ姿を、今起きているのに、前の記憶のように思いながらついていっていた。記憶とは関係ないけれど、二人が一緒にくしゃみしている姿はなぜか面白かった!あと、手塚さんと神村さんが急に走り出した時、周りにいた集団が唖然と見ていた。笑ってる人は誰もいなくて、皆何が起こっているか、頭が追いついていない感じだった。

何回も同じルートを辿り、場所と体の別の使い方をしていると産業とは別の自分達の道と記憶を自分達で作っているんだと思えた。そして、そこに記憶の交差が加わると、その記憶が自分の中で強制的な時間を超えた記憶になり、大切なものと思えた。美術とかの展示をみて、興味深いとか面白いとかいう気持ちになることはあるけど、嬉しい!と、感じることはない。でもこのパフォーマンスは、なぜかとても嬉しいものだった。それは、たぶん、自分達の道と記憶をつくって、その記憶が自分の脳内で交差していく中で外部として見た事実のようなものではなく、身体化(脳内の細胞?の中だけで、身体の外にはない存在が起こっているという意味で。)されていったからではないかと思う。なぜか嬉しい、大切な記憶になった。

紙を渡されて、ルートをたどり、観客だけで周ったとき、追いかけながら見ていた時には見えてこなかった建物の外観とかが、記憶の中の道にもう一度対面したかのように、嬉しさの中で細部まで見えてきた。それは追いかけた時の記憶の前提、事実とは違う自分の記憶としての道があったからだと思う。細部まで見る時にそういう記憶が必要になることもあるんだと思った。

最後とか、ゴールした時に、キラキラした紙吹雪をお二人が落としてくれたけれど、それまでの時間がなければ、ちゃっちい紙吹雪が落ちてきた、、は?みたいな感じなんだろうけど、それまでの時間で嬉しい大切な記憶となって身体化されていたので、キラキラ紙がめちゃくちゃバカ嬉しかった。そういう、は?みたいなものが、バカ嬉しくなるのは、とても良いことだ!!と思った。

日常に流れる円の一部と、今回のパフォーマンスの円の一部が重なった時に観客としていなかったひとは呆然としていた。私も同じ立場だったら呆然とするけど、ちょっとこれからは、ついていってみようかなっと思った。


あの時間、すごく記憶とか時間のあり方がなんか複雑でした!こうやって伝わるように文にすると時系列になっちゃうけど、一直線の時間で見なくていいパフォーマンスだと感じました。正確にふりかえられることができないのも、なんだか良いと思えます。時間から自由になれるのはとてもいいです!!!ありがとうございました!!!


尾畑さくら