2022年12月15日木曜日

私たちは循環の破壊をとめられるか?

 ある日、気持ちよく晴れた午前中に畑の玉ねぎの苗の様子を見ていた時、不意に風が吹いて、周りの雑草がゆるく風に揺れていた。その瞬間、何かちょっとした瞑想状態というか、違う次元を感知するような瞬間があり、でも周りに友人たちがいてハッと我に帰った。自然の一部として決して切り離すことのできない人間である私たちは、目に見えない次元であっても知らない間にさまざまに感応しあっている。動物たちも、植物たちも、わたしたちが普段意識しない、そういった深い繋がりがある。その一方で、互いに競い合うように、あるいは高め合うように拮抗しあってもいる。食べたり、食べられたり、寄生したり、されたり、土の栄養や太陽からの栄養をより多く求めたり。その二つのまるで真逆とも思えるような働きが同時にあることの不思議。

しかし、例えば聖書の中に植物や動物が人間のために神から与えられたというような記述があるように、自然のシステムの中から人間だけを特別の枠組みに切り離すという考え方が一般化した。そこから自然をコントロールし、栄養を得る、あるいはそれによって金銭的な利益を得る、という発想になっていったのかもしれない。農薬や肥料を施し、はては遺伝子を組み替えて、そのことで収穫が増える。あらゆる産業は、自然をもとにしなければ成り立たないにもかかわらず、線引きされた産業の発展や技術の進歩に、それで得られる利権や利益のため、ひたすら何かを破壊しながら突き進む。自分達で勝手に引いてみた特別な線引きなど何の役にも立たず、そのことで起きる循環の偏りが私たちの身心を蝕む。そうなることは理性的に考えれば分かるが、その理性を失わせる作用が、特別の枠組みを設定することで起きてしまうのだろうか。ずっと前から産業によって押しつぶされ続けているが、そこに依存し離れることができない。

翻って、人を線引きし、例えば誰かが自分達だけを特別の枠組みに切り離し、枠組み以外の人たちを侵略しても良い、あるいは略奪しても良いという理由づけにしてしまう。特別な枠組みを羨む人が自分も次に特別な枠組みの中へ行こうと線引きし、それ以外から略奪し、一度始まってしまったシステムは下へ下へと線引きを繰り返して、略奪する側に回ろうとする。それは、自然の中から自分達を特別の枠組みに線引きしたときすでに始まっていたのかもしれない。現在、特別の枠組みにいると思っている人たちが、それ以外の人たちをコントロールして、植民地主義的な行為を繰り返し、侵略、略奪し、社会の中でその影響が拡大し、とんでもない歪みが生じたら、おそらく、特別な枠組の中からコントロールしてる側にも、その害は必ず到達する。自然から人間を線引きしたところで、全ての害が人間に至るのと同じように。それがわからないのは、やはり理性を失っているからなのだろう。

ところで、さまざまな古い神話や儀式の読み解きをする中で、オオゲツヒメ神話やニューギニアのマヨ祭のように栽培の起源を理解するための物語に注目している。そこにはちょっと残酷な殺害シーンがあり、その死骸から食物が生え出てくるシーンが描かれ、あるいは儀式で再現される。また、ケルト神話においても、人間の犠牲を捧げられて満足する恐ろしい神「クロム・クルアク」に関する解釈として、人間の犠牲が豊穣を促すという信仰、というものがある。殺戮するという手段を取りつつ、再生のサイクルを維持する、その活力を促すためには人間の犠牲がなくてはならないという信仰なのだと言う。実際に生贄の犠牲となった遺体も発掘されている。人はあるとき、自分達が循環を壊しうる存在であるということに気づいてしまったのかもしれない。そのとき、それをどうやったら止めうるか?という何かしら哲学にも近い世界への構造的理解というものを求めた結果、こういった神話や儀式が生まれたのかもしれない(生贄を肯定するという意味ではもちろんない)。しかし、「どうやって止めうるか?」という問いは、産業の発展を加速させる近代システム、すなわち「線引き」のシステムによってかき消され、世界への構造的理解は失われた。そして、循環の破壊され続ける世界の中で、人は人を侵略、略奪し、殺し続ける。この殺害はいったい何を意味するのだろうか?



2022年11月8日火曜日

ちょっとした散歩の記録 2022年11月8日

一人でのんびりしようと横になっても、なんだか頭がどんどん忙しくなって、一人きりだとぼーっとしてるとき却って、いろいろな記憶や思いや考えが頭を忙しく行き来する。だから、むしろ歩いたりした方が良さそうって思って、大した距離じゃないんだけど日曜日に一人で2時間10分ほど、いつも電車に乗るところを3駅くらい歩いた。歩くことでそこを行く間に自分が受け取る情報の解像度が上がるんだよなあと思いながら、でもそこに期待を持ちすぎて歩くと意外と、そんなに自分の解像度が上がってないことになんとなく不満というか…。でもそんなことは構わないで歩き続けると、いつもは目に止まらないものに少しずつ目がいくようになっていった。

住宅地を歩いているときにお婆さんの鼻歌がどこかの家の中から聞こえてきた。何かの作業しながらみたいで、演歌のメロディーがところどころ音が外れ、音量が大きくなったりしている。掃除でもしてるのかな?トイレ掃除かな?お風呂掃除かな?


また歩いていくと今度は、電柱の影にかくれてどこかを覗き見している小学生に出会った。私のことなどぜんぜん眼中になくて、必死で身を隠しながら何かを見ている。鬼ごっこでもしてるのかな?と思って公園の方を見ると、そこではドッチボールしている男女金剛七人〜八人くらいがいた。ということは、このチームで遊んでるメンバーじゃないんだろうね。何かドラマを感じる。


ある駅でもう遅くなり過ぎだなあと思って電車に乗って目的の駅に向かう。電車の一駅ってこんなに速かったっけ。

目的の古本屋さんからの帰りにとぼとぼ歩いていると、汚めな用水路の脇の電柱に「人生相談」という手書きの看板を見つける。その場所にひっそりと、佇むこの看板を出した人の人生を想像する。

のんびりしようという気持ちだったけどなんだか頭が活性化しちゃった…。

歩いたのは11月6日

2022年11月6日日曜日

魂を貶められたくない 2022年11月6日

朝、目覚めぎわに、頭の中で何がしかの怒りみたいなものが私を突き上げていた。

寝がけに読んだ村上春樹の文章、「エルサレム賞」の受賞挨拶を読んだせいかもしれない。

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただの一つです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに搦め取られ、貶められることのないように常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。」

私にとって自分の活動は人々が「社会からの振り付けの外に出る」可能性を探ることだと思っている。それはやっぱり一人一人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためにちがいない。システムに貶められたくない。

3年ほど前から世界が一丸となって行こなってきた人々への全体主義的行動の強要はまさに一人一人の魂の尊厳を貶める行為であると私は感じている。人と人の距離を引き離し、集わせず、歌わせず、踊らせない。もしそれらがしたいなら、マスクをつけ、ワクチンをして、テストを受け、体温を測らなければならない。人々が互いに監視し、管理しあう世界。この全体主義的世界への移行は過去に起きたような強くて怖くて悪い指導者による圧力を必要とせず、人々が自らそれらを求めるように押し進められた。世界中が一丸となって「何か」との戦いをするために「団結」するという美談は人々に「連帯感」らしき感覚を味あわせたかもしれないが、実際には、人と人は分断され、プラスチックパネル越しに悲しく引き離され、連帯のための「黙食」や「黙浴」を強いることで孤立させる。世界全体の「連帯」なんてものを信じるのはとても恐ろしいことだ。「〇〇のため」公益を優先させなければならない、なんていうセリフは権力者の常套手段だということを何度でも思い出さなければならない。何かの措置がどうしても必要だとしても、人権を侵害することをギリギリまで避け続けなくてはならないはずだ。プロパガンダとそうでないものの区別を、目的のためのレッテル貼とそうでないものの区別を検証しつづけるべきだし本当に慎重に見極める試行錯誤をし続けるべきだ。芸術を行うことで世界に向き合うなら、舞台活動を行うことで人々の魂に何かを語りかけるのなら、それらをバックアップするために社会と芸術の間に立つのなら、自分の立場でもできる何某かの可能性を見つけ続けるべきだ。そうじゃないだろうか?

芸術も、舞台活動も、どんな分野でもみんなでこのことに協力しつづけている状況がここまで続いてしまったのには大まかに言えば3つの恐怖による突き上げがあったのではないだろうか?

1.自分が感染の当事者になるのが怖い

2.人にうつすのが怖い/それが連鎖することが怖い

3.人に糾弾されるのが怖い

確かに、感染による被害が大きいかもしれなければ恐ろしいし人にうつしてその人が重症になってしまう可能性を「想像」してしまえばとても恐ろしいことだ。そのことだけにクローズアップすれば。しかし、一番怖かったのはやっぱり三つ目なのだと思う。人々がそれを恐れるようにたくさんの「魔女狩り」が行われ続けた。感染対策が完璧じゃないためにクラスターを起こしたとか、打ってなかったから罹ったとか、たくさんの、本当にたくさんの「魔女狩り」は行われ続けた。だから人々はそれに怯え続けた。時には「魔女狩り」を恐れるあまり「魔女狩り」をする側にまわる。自分が「正しい側にいること」を証明するために。これが庶民の弱さでもある。今も、まださめやらぬ恐怖があって、まだまだこの全体主義的傾向は終わらない。終わらないうちに、次の一手が繰り出されてしまうかもしれない。ある動画配信のインタビューで聞いた法則はかなり正確にこのことを言い当ててるように思う。

大衆形成が長引くと

個人と個人の間の連帯感が吸い取られ

個人と集団の間に注入され投資される

集団への帰属意識の方が個人間の結びつきより強くなる

根っこは寂しさや孤独感だ

でも集団への帰属意識を高めた結果、結局はより一層の寂しさを生む

それによって次の大衆形成に対してさらに更に脆弱になる

次の大衆形成はさらに熾烈で破壊的かもしれない



2022年9月9日金曜日

均一化から逃げるための保留 2022年9月9日

 ある土地を訪れてとある民俗芸能をリサーチしたり、とある本を読んでいたりする時に、それまで自分が思っていた認識が大きくずれる時がある。また、さまざまな人の営みの細部にはそれぞれ独特の流儀や感覚が働いていることもあるけれど、そういったことがこの世にあることをすっかり忘れてしまっていたことに驚くことも多い。ある物事が起きれば、その物事に対する感じ方や考え方、その影響の仕方は実際にはとても多様であるということを、すっかり忘れて生きていることに自分でも驚く。実際に、自分が見えない部分は全て、自分の知らないことであり、知っていることに比べてそれらが無限に等しく広がっていることを忘れてしまうなんて…。その原因の一つは、テレビなどのメディアや学校からの情報が均一化されていることではないだろうか?研究者の学説なども、メジャーであるか、そうでないかが重要になっていき、マイナーなものは人の目に触れることも少ないし、触れて話題になっても「とんでも」というレッテルを貼ればほとんどゴミ箱行きになってしまう。そうやって共通の「前提」が作られる。でもその「前提」に疑問を持った人たちが多様な見解に心を開き続けられるかどうか、というとそれもまた怪しくて、ある種の偏りの深みにハマってしまうこともよく目にする。それは、攻撃されることへのある種の防御の姿勢なのかもしれない。背を向けて突き進むような…。

ところでマイナーというレッテルを貼られた人が後になって正しかったことはよくあることだが、人はそういった可能性について、保留にしておくということが難しい生き物なのかもしれない。逆に、均一化された「前提」を疑った時に見えてくる別の「前提」に対しても、「そうだ」と決めつける前に保留にしておくことができれば、保留と保留を持ち合っていくらでも対話が可能になると思う。

でも、日本での人の感じ方の中には保留という感覚が他の文化圏より多いような気もする。「どうかな…よくわからない…」という感じ。悪く言えば日和見だが、保留にしておく力は今のような世の中には一番必要な弾力性なのかもしれない。よく言えばそれが謙虚な姿勢かもしれない。だって、わからないことの方が世の中にはたくさんあるのだから。

2022年8月31日水曜日

見えないマイノリティー 2022年8月31日

 マイノリティーという言葉について考えている。

社会的に広く認知されているマイノリティーの枠組みがあり、しかし、認知されない領域で起きていることは依然として全く考慮されずに、追い詰められたり糾弾されたりしているように思う。学校の中で、一般的に正しいとされていることに違和感がある時、自分の意に沿わないことをすることに抵抗があると言う場合がある。その時、周りの目や、高いところに設定され固定されている基準が自分を睨んでいるように感じる。そんなとき、自分の感じていることを他者に理解してもらうことの難しさ、どんな言葉で自分の違和感を伝えればいいのか?どうやって、その基準に満たされた他の人たちと一緒に生きていけばいいのか?とても苦しい思いをすることになる。でもその苦しみはなかなか可視化されない。でも、その感覚を捨てずに大人になって、自分が高いところにある基準を睨み返すことができたら、その時自分の中に内側から湧き上がる違和感を受け止めることの大切さを、改めて信じることができるようになる。そのことが、さまざまな世論操作に押し流されそうになる世界の中で、分断ではないコミュニケーションの方法を探し、多様な感じ方考え方の共存する世界に自分を繋ぎ止めることができる。見つけられずに苦しんでいるマイノリティーの人の、小さな戦いにエールを送りたいと心から思う。

2022年6月28日火曜日

人権と民主主義を維持できるかどうか 2022年6月28日

新型コロナはよくインフルエンザと比べられたけれど、今にして思えば、比べる相手が間違っていたと思う。新型コロナは旧型コロナと比べるべきだったと思う。旧型コロナは人間との長い付き合いの中しょっちゅう変異し、毒性もその時々でちがっただろうと思う。そして、一番大きいのは数をカウントしたことがなかった、ということだ。感染者数をカウントする方法がなかったのだ。PCR検査は、感染者をカウントするために使われたことがなかった。そのような方法が不適切だったから。そのため、旧型コロナから重症になった人の人数も、重症になった人への取材もしたことがなかった。旧型コロナからの関連死亡数もカウントしたことがなかった。どのくらいの頻度で流行ったり、流行らなくなったりの波がくるのかも調べたことがなかった。でも、そこを比べなければ、実際のところ「新型」コロナがどのくらい危険かわからないなと思う。「人が死んでいる」とか「後遺症が」と強調されたけれど、ネガティブな部分を強調し、視野を狭くすれば大抵のものは「脅威」になってしまう。今回の「新型コロナ」の発明は数をカウントし、それをメディアで大々的に公表したことだ。そして、「無症状感染者」というのもひとつの発明で、感染対策をおこたれば感染を拡大する犯人のように扱うことが可能になる。そのようなプレッシャーで人々がお互いに監視し合う「全体主義的」世界が完成する。微小なウイルスを人間がコントロールできるわけではないにもかかわらず、感染対策と称して人を直接会わせない、集まらせない、自由に行動させない、それらを行っても感染者数が減らず、カウントすればするほど感染者数が増え、人々の心がどんどんおかしくなり、弱っていき、自分で考えられなくなり、SNSの依存になり、強い権力に「守って欲しい」と思い始め、人権を放棄していく。悪循環だ。

ただ、日本では人々がそこまで深刻に考えない人も多く、つまり怖がっている人に合わせたり、怖がってない人に合わせたり、そこは適当に日和見で行動していく人が多い。つまり自分がどう感じるか?ということを保留して、いざとなれば行動を変えることができる人が多いということかもしれない。そういった振る舞いは、このような世界の中では生き残るよい戦略なのかもしれない。

人権を放棄させ、何かに依存させて操りやすくするのは、「国」を操る経済的利権者なのだと思う。だから国やその指導者をどんなに糾弾しても届かないし、だれか良い人を選んでみても、本当に良いことをやったらいつでも潰されてしまう。そんな状況の中で、とりあえず、人権、民主主義をなんとしても維持する方法はないものか…

人権というと、弱者の人権という文脈でのみ語られることが多い。それがわかりやすく「正しいこと」だから。しかし、人権というのは私の人権でありあなたの人権のことであることを忘れてしまう人は多い。誰かが行きたいところに行く権利、会いたい人に会う権利、人と集まる権利、マスクをする権利、しない権利、ワクチンをする権利、しない権利、選択の自由、意に沿わないことを強要されることから逃げる権利。それが保証されるべきであり、それは生まれながらに人が持っている権利のことだ。それらをいろいろな理由をつけて取り払いたい経済的利権者がメディアと国を使って「恐怖」をテコに操作してくる。そのからくりを見抜く力を人が持てるかどうか、人権と民主主義を維持できるかどうかはそこにかかっている。

2022年6月8日水曜日

産業・デザインされた振る舞いの外側 2022年6月8日

 産業化の成り立ちについてぼんやり考えている。どんな人も収入を安定させていたい。なんなら、収入が少しずつ増えていてほしい。収入というのは誰かが何かを買ってくれるということだ。何かを買い続けてくれたらもっといい。だから、今まで人が気づかなかったニーズを新たに作る。それまで人々が欲していなかった何かを「欲する」状態をつくる。そしてそれなしでは生きられないほどに依存させることで、今までになかった莫大な利益が見込まれる。それは会社にとっての正義だ。それらの買い換えるペースが早いほど儲けは大きい。スマホやパソコンもそうだけど、薬などの医薬品も一度それがないと生きれないようにしたり、不安を煽ってたくさん摂取させたりするほど儲かる。そのための宣伝、あるいは、それがないと不安であると思ってもらえるプロパガンダが必要。ライバルを潰すべくプロパガンダもプロに依頼できる。お金を使って外注し、様々な工作を行って、依頼された側はただ仕事をこなすだけだ。それらすべては売り上げ向上という会社にとっての正義だ。産業のため、売り上げのため、会社の利益のために「うそをつくこと」も正当化されてしまう、という状況が加速している。命を守ろうとする行為が命を脅かし、反戦を叫ぶ振る舞いが戦争を拡大していくカラクリ。

フェイク、「陰謀論」、ネガティブなレッテルは強烈に作用する。そのレッテルを貼られないように振る舞うか、開き直ってムキになってしまうか、その場合でも逆の振る舞いを振り付けられたようになってしまう。

「公益」を巡る正義が広く示される中で、効果がなくても実行する規制、リスクがあってもそれを負ってでも順守しようとする人々の態度とその積み重ねは、多くの人が何に対しても「服従」を容認する世界への変化を促進するだろう。「人権」という概念が問われることなく変化が進む。むしろ、それを人々に示すショーが行われているがごとくだ。またそのことを人々が受け入れるという意味でコントロールする側の勝利となってしまう。そして、そのために起きることはコントロールする側にも帰ってくるだろう。

しかし、こういったことも大きな自然という概念でいえば自然なのだろうか?人間すべてを消し去ってゼロから初めても同じ結果になるかもしれない。今最高の勝ち組の人たちが全て消え去っても、残った中から同じことをする人が現れて結局同じになるかもしれない。今まであったどの革命でも同じようにもっとひどい指導者による圧政にとって代わるだけだったことも多い。

デザインされた振る舞いの外に出ること。意に沿わないことを強要されることから逃げ切ること。たとえ、ごく身近な人の「正義」の立場からの訴えであっても。そこにある種の不和が生じると感じても。粘り強くコミュニケーションを重ねながらそれができたら…。

最近、デザインされた振る舞いの外に生きているたくさんの人に出会うことが多くなった。その人たちと一緒にいる間は、デザインのことなんて全く忘れてしまうほどだ。自分もそういった生き方の方に意識をもっと集中した方が良いのかもしれない。精神衛生が極めて良い。その人たちから多くを学んでいる。頭ではわかってたことでももっと身体的に受け取れることが多くなった。「自然に沿う」とは起きたことを受け取り、そこから学ぶ態度のことなのかもしれない。

2022年4月6日水曜日

感じ方考え方が違うのは当たり前 2022年4月6日

世の中にはいろいろな人が生きている。だから考えること、感じることが違うのは当たり前だ。そのような状態でもみんなそれなりに違いを受け入れながら生きていたのだ。たとえば宗教が違っても一緒に生きていた人たちが、何かの工作をきっかけに憎み合うようになり紛争がはじまってしまうように、医療に関する考えや感じ方、ワクチンへの考え方もいろいろな人がいてもそれが分断のきっかけになるようなこともなかったのに、今ではそれが分断の主流になってしまった。分断を煽って深刻化させる動機となるような投稿も工作として行われているように感じる。

極端な陰謀論の投稿やホームページや実際のデモのグループも、懐疑的な人々にレッテルを貼るための工作として行われている可能性もあるかもしれない。そのようなレッテルを貼られることを恥ずかしいと感じるのでそのことへの議論が行われなくなる。

分断が助長されるのもいやなのでそのことを人と話すことを避けるようになる。

疑問を持っている人は孤立していく。

ショッキングな映像、画像、エピソードによる恐怖、混乱は物事を多角的に見る態度を消失させ、死角を作る。そこへ有無を言わさぬ「正義感」に満ちた投稿や、そのことで困窮した人々の画像や映像が使用され、人々を感情的に刺激する。

ところで、なんでそんなことを?

私の考えではこういったことは要するにある産業の利権や利益のために行われていると思う。たとえば遠因をあたえた戦争を「仲裁」してエネルギーの利益を得るため、邪魔者を排除して腐敗政権を打ち立てることで利益をえるため、戦争経済を活発化して利益を得るため、ワクチン接種者を極限まで増やし、依存させて余すところなくその利益を得るため。原発の莫大な利権を守るためにメディアに悪いことが一切乗らないように黙らせることにお金をつぎ込んで利権を維持するため。つまり、ビジネスの一環としてそれぞれがプロの仕事をしているだけだ。その効果をあげるために広告代理店にお金を支払い、誰かを黙らせるためにその人の利益いをちらつかせ、軍事下請け会社を通してSNSをつかった工作も行う。庶民が分断して違いに感情的に言い争っていてくれたら、本来の問題点や不正に目が向くこともなく安泰である。

でもこういったことは別段特殊なことではないのかもしれない。というのも、農業は天候や虫の害などさまざまなリスクがあって安定しない。なので、少しでも多くとれるように、安心して農業が営めるように様々な努力を重ねてきた。その努力の中に化学肥料も農薬もある。種の品種改良もどんどん行う。もう少し改良すればもう少し収入があがる、もうちょっと危険なものでもたぶん大丈夫だろう、そういった繰り返しが気がつけば人の健康にもなんらかの影響が出るようになってきたのかもしれない。食品添加物も、工場の汚染も、すべて、少しでも売り上げをあげようという努力の積み重ねの結果なのかもしれない。それを止めようとする人は売り上げの努力を邪魔する「敵」とみなされるのかもしれない。そして、利権や利益を守ろうとしていた側の人々も平等にそれらの害を被っていく。なんとか分断や孤立を防いで感じ方考え方の違いを受け入れあいながら少しでも害の少ない未来への道筋を共に考えられないものだろうか?

2022年3月6日日曜日

ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の招待を暴く ナオミ・クライン 岩波書店 抜粋その2

第6章 戦争に救われた鉄の女

p187

ニクソンの在任中、フリードマンは厳しい教訓を得た。資本主義と自由はイコールであるという教義を打ち立てたものの、自由の国の人々にはかれの助言に従う政治家に投票する様子がまったく見えない。もっと悪いことに、自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった。このため70年代を通じてシカゴ学派のなだたる学者たちはアメリカ政府による裏切りに不満を漏らしつつ、世界中の軍事政権を飛び回った。右派独裁政権が成立した国という国のほとんどにシカゴ学派の影がちらついていた。ハーバーガーは1976年、ボリビアの軍事政権の顧問となり、79年にはアルゼンチンのトゥクマン大学から名誉学位を授与されている(当時、同国の大学は軍事政権の管理下にあった)。さらに彼ははるかインドネシアでも、スハルトとバークレー・マフィアに助言を与えた。フリードマンは抑圧的な政策をとる中国共産党が市場経済への移行を決めた際、経済自由化計画を立案した。

 カリフォルニア大学の筋金入りの新自由主義政治学者ステファン・ハガードは、「発展途上世界におけるもっとも広範な改革への取り組みのいくつかが、軍事クーデター後に行われた」という「悲しい事実」を認め、南米南部地域やインドネシアのほかに、トルコ、韓国、ガーナといった国をあげている。また、それ以外に改革が成功した例として、メキシコ、シンガポール、香港、台湾といった一党支配体制にある国を挙げている。ハガードはフリードマン理論の中心をなす主張とは正反対に、「良いこと_例えば民主主義と市場志向型の経済政策_は必ずしも両立しない」と結論している。実際のところ、80年代諸島には全力をあげて自由市場経済化を進めている複数多党制の民主主義国家はただの一例も存在しなかった。

中略

 


大西洋湾の向こうでは、サッチャーが「所有者社会(オーナーシップ・ソサエティー)」とのちに呼ばれるようになった政策を掲げて、イギリス版フリードマン主義を実行しようと企んでいた。その要となったのは公営住宅である。サッチャーは、国家は住宅市場に介入すべきではないという思想的根拠から、公営住宅に反対していた。公営住宅の住民の大部分は、自分たちの経済的利益につながらないという理由で保守党には投票しない人たちが、もしその人々を市場に参入させられれば、富の再分配に反対する裕福な人々の利害を理解するようになるはずだとサッチャーは確信していた。

中略

公益住宅売却は、民主主義国家における極右経済政策の成功へのかすかな望みをもたらしたものの、サッチャー政権が一期限りで終わりそうな気配はまだ濃厚だった。1979年、サッチャーは「労働党は機能していない」というスローガンを掲げて政権の座に就いたが、1982年には失業者は倍増し、インフレ率もしかりだった。サッチャーはイギリスでもっとも強力な労働組合のひとつである炭鉱労組と対決し、組合潰しにかかるが失敗に終わる。首相就任から3年後支持率は25%にまで低下、政権の支持率も18%にまで落ちた。総選挙が迫るなか、保守党が大衆民営化と労働組合解体という野心的な目標を達成するのを待たずして、サッチャー主義は早々と不名誉な終わりを迎えるかに思われた。サッチャーがハイエクに対し、チリ型の経済改革はイギリスでは「とうてい受け入れられない」と丁重に断りの手紙を書いたのは、この困難な状況のさなかのことだった。

中略

シカゴ学派の提唱する急進的で高い利益をもたらす政策は、民主主義体制かでは生き延びられないということだ。経済的なショック療法が成功するには、クーデターであれ、抑圧的な政策による拷問であれ、何か別の種類のショックが必要なのは明らかに思われた。

 こうした見方は、とりわけアメリカの金融業界にとって憂慮すべきものだった。というのも80年代始め、世界ではイラン、ニカラグア、ペルー、ボリビアなど独裁政権が次々と崩壊し、まだ多くの政権が後に続く様相を呈していたからだ。のちに保守派の政治学者サミュエル・ハンティントンは、これを民主化の「第三の波」と名づける。これは危惧すべき状況だった。第二、第三のアジェンデが出現してポピュリズム的政策を打ち出し、人々の信任と指示を得ることを防ぐ手立てはあるのだろうか。

 アメリカ政府は1979年、イランとニカラグアでまさにそのシナリオが現実になるのを目の当たりにした。イランではアメリカの指示を受けた国王が、左翼陣営とイスラム主義者の連合勢力によって打倒された。最高指導者アヤトラ・ホメイニやアメリカ大使館人質事件などが報道を賑わせる一方、アメリカ政府は新政権の経済的側面にも懸念を募らせていた。まだ本格的な独裁政権には以降していなかったイラン・イスラム政権は、まず銀行を国有化し、次には土地再分配計画を導入。また王制時代の自由貿易政策から逆転して輸出入の統制を行った。五ヶ月後、ニカラグアではアメリカを後ろ盾にしたアナスタシオ・ソモド・ドバイレ独裁政権が市民の蜂起によって倒れ、サンディニスタ民族解放戦線による左派政権が誕生した。サンディニスタ政権はイランと同様、輸入を統制し、銀行を国有化した。

 これらの動きはすべて、グローバル自由市場への見通しを暗くするものだった。80年代初頭フリードマン主義者は自分たちの進めてきた革命が10年も経たずして、新たなポピュリズムの波に押されて頓挫するという状況に直面していた。

p191

救いの神としての戦争

 サッチャーがハイエクに手紙をしたためてから6週間後、彼女の考えを改めさせ、コーポラティズム改革の命運を変える事件が起きる。1982年4月2日、アルゼンチン軍がイギリス植民地主義の名残で同国が実効支配していたフォークランド諸島に侵攻、フォークランド紛争が火蓋を切って落とされたのだ。もっともこれは歴史的に見れば、激しくはあったが小規模な武力紛争にすぎなかった。当時、フォークランド諸島には戦略的な重要性は何もなく、イギリスにとって自国から何千キロも離れたアルゼンチン起きに浮かぶこれらの島々は、警備や維持に高いコストがかかった。アルゼンチンにとっても、了解にイギリスの前哨基地があることは国家の自尊心への侮辱ではあるにせよ、この諸島の有用性はほとんどないに等しかった。伝説的なアルゼンチンの作家掘るヘ・ルイス・ボルヘスはこの紛争を、「二人のハゲ頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と痛烈に揶揄した。

 軍事的観点からも、三ヶ月にわたった戦闘にはほとんどなんの歴史的意義も認められない。しかし見過ごされているのは、この紛争が自由市場プロジェクトに与えた影響の甚大さだ。西側民主主義国に初めて急進的な資本主義改革プログラムを導入するのに必要な大義名分をサッチャーに与えたのは、ほかでもないフォークランド紛争だったのである。

中略

自国の労働者を「内なる敵」と位置付けたサッチャーは、国家の総力をあげてストライキの鎮圧にかかった。ある一回の対決だけでも8000人もの負傷者が出た。ストライキは長期にわたったため、負傷者は数千人にも及んだ。『ガーディアン』紙のシェイマス・ミルン記者による炭鉱ストライキのドキュメント『内なる敵_炭鉱労働者に対するサッチャーの秘密の戦争』によれば、サッチャーはセキュリティーサービスに、炭鉱労働組合とりわけアーサー・スカーギル委員長の監視を強化するように明治、その結果「イギリスでは前代未聞の監視活動」が行われることになる。

中略

1985年、サッチャーはこの戦争にも勝利した。労働者たちは生活の逼迫から、もはやストを続行できなくなったのだ。その後966人の労働者が解雇された。

中略

イギリスでは、サッチャーはフォークランド紛争と炭鉱ストでの勝利を利用して、急進的な経済改革を大きく前進させた。

中略

 ミルトン・フリーマンが『資本主義と自由の序で、ショック・ドクトリンの本質をつく影響力のきわめて大きい次の一節を書いたのは1982年のことだ。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんな構想があるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち既存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可避になるまでそれを維持し、生かしておくことである。」新しい民主主義の時代において、この言葉はフリードマンの提唱する改革にとってのスローガンとなる。アラン・メルツアーはこう解説する。「構想というのは、危機の際に変化の触媒となるために控えている選択肢のことだ。フリードマンの功績は、そうした構想を正当な理論として十分耐えられるものにし、チャンスが到来したときに試す価値のあるものにする、その道筋を示してみせたことにある。」

 フリードマンの年頭にあった危機とは、軍事的なものではなく経済的なものだった。通王の状況では、経済的決断は競合する利害同士の力関係に基づいて下される。労働者は食と賃上げを要求し、経営者は減税と規制緩和を求め、政治家はこうした対立する絵視力感のバランスを保とうとする。しかし、通貨危機や株式市場の暴落、大不況といった深刻な経済的危機が勃発すると、他のことはすべてどこかへ吹き飛び、指導者は国家の緊急事態に対応するという名目のもとに必要なことはなんでもできる自由を手にする。危機とは、合意や意見の一致が必要とされない、通常の政治にぽっかりあいた空隙_言わば民主主義から解放された“フリーゾーン”なのだ。

 

 市場の暴落が革命変革にとっての触媒になるという考え方は、極左思想においては長い歴史を持つ。なかでも有名なのはハイパーインフレが通貨の価値を破壊し、それによって大衆は資本主義そのものの破壊へと一歩近づく、というボルシェビキの理論である。ある種の党派的な左翼が、資本主義が「危機」に陥る条件を厳密に割り出そうとしたり、福音派キリスト教徒が「携挙(ラプチャー)」の兆候を見極めようとしたりするのも、この理論で説明がつく。この極左理論が80年代半ば、シカゴ学派の経済学者に注目されたことで力強い復活を遂げる。市場の謀略が共産主義革命を促進するのと同様、これを極右(注)の反革命の起爆剤にもすることができるとかれらは主張した。のちに「危機仮説」と呼ばれるようになる理論である。

 

注)このばあいの”極右”は著者の言う原理主義的資本主義者という意味だと推察する。

2022年3月5日土曜日

ショック・ドクトリン ナオミクライン 抜粋 その1

ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の招待を暴く ナオミ・クライン 岩波書店

〜〜〜抜粋に入る前に、ちょっとだけ前振りとして内容を自分で整理した導入〜〜〜

自由放任資本主義推進運動の教祖的存在で、過剰な流動性を持つ今日のグローバル経済の教科書を書いた功績で知られる経済学社ミルトン・フリードマンが編み出した方法、つまり壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がる行為を、著者は「惨事便乗型資本主義(さんじびんじょうがたしほんしゅぎ) 」すなわち、ショックドクトリンと名付けた。そして、その信奉者には、ここ数代のアメリカ大統領からイギリス首相、ロシアの新興財閥(オリガルヒ)、ポーランドの財務大臣、第三世界の独裁者たち、中国共産党書記長、国際通貨基金(IMF)理事、米連邦準備制度理事会(FRB)の過去3人の議長までが連綿と連なっている。

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以下抜粋

P6

フリードマンはきわめて大きな影響力を及ぼした論文のひとつで、今日の資本主義の主流となったいかがわしい手法について、明確に述べている。私はそれを「ショックドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。彼の見解はこうである。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが、真の変革をもたらす。危機が発生したときに取られる対策は、手近にどんなアイデアがあるかによって決まる。われわれの基本的な役割はここにある。すなわち現存の政策に変わる政策を提案して、政治的に不可能だったことが政治的に不可欠になるまで、それを維持し、生かしておくことである」。大災害に備えてカンズメや食料水を準備しておく人はいるが、フリードマン一派は大災害に備えて自由市場構想を用意して待っているというわけだ。このシカゴ大学教授の確信するところによれば、いったん危機が発生したら迅速な行動をとることが何よりも肝心で、事後処理にもたついたあげくに「現状維持の悪政」へと戻ってしまう前に、強引に襲撃をかけて改革を強行することが重要だという。「新たな陣営が大改変を成し遂げるには半年から9ヶ月かかると予測される。その間にもし断固とした行動を取るチャンスは二度とやってこないであろう」。負傷を追わせるなら”一気呵成に”襲い掛かれというマキャヴェリ思想のバリエーションであるこの考え方は、フリードマンの提唱した戦略のなかでももっとも長く構成に影響を及ぼす遺産となった。

 大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官の経済顧問を勤めた1970年代半ばのことだった。ピノチェトによる暴力的なクーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、現在、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減規制緩和、といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようアドバイスした。その結果、チリ国民は公立学校が政府の補助金を得た民間業者の手に渡っていくのを呆然と身も守るしかなかった。チリの経済改革は資本主義の大改革のなかでもいまだかつねないほど激烈なものだった。この手法が「シカゴ学派」の改革と呼ばれるようになるのも、ピノチェト政権下のエコノミストの多くが過去にシカゴ大学のフリードマンのもとで学んでいたからである。フリードマンは、意表をついた経済転換をスピーディーかつ広範囲に敢行すれば、人々にも「変化への適応」という心理的反応が生じるだろうと予測した。苦痛に満ちたこの戦術を、フリードマンは経済的「ショック治療」と名付けた。以後数十年にわたり、自由市場政策の徹底化を測る世界各国の政府はどこも、一気呵成に推し進めるこのショック治療、または「ショック療法」を採用してきたのである。

 経済的ショック療法に加え、ピノチェトは彼独自のショック療法も採用した。ピノチェト政権が数多く儲けた拷問室の中で、資本主義的変革に楯つく恐れがあるとして捉えられた人々の体に、すさまじい暴力が加えられるという形のショック療法である。多くのラテンアメリカ人は、何千万者国民を貧困に追いやる経済的ショック療法と、ピノチェト路線とは違う社会を願ったことへの罰として与えられた数十万の人々への拷問の横行が、表裏一体の関係にあると見た。ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノはこう問うている。「電気ショックの拷問なくして、どうしてこんな不平等社会が存続できようか?」

 軍事クーデター、経済改革、暴力的弾圧という三つのショックがチリに襲いかかってからちょうど30年後、ふたたび同じ手法が、より大規模な暴力を伴ってイラクの地に登場してくる。まず初めに戦争がしかけらえた。『衝撃と恐怖』に書かれた軍事戦略によれば、それは「敵の意志、認識、理解力をコントロールし、その軍事行動あるいは反撃を封じるため」だという。それに引き続き、アメリカによって送り込まれたポール・ブレまー連合国暫定当局(CPA)代表によって、まだ戦火の止まぬうちから徹底的な経済的ショック療法が導入された。それが大規模な民営化、完全な自由貿易、15%の一律課税、政府の大幅縮小、といった政策だった。当時、イラクで暫定通産大臣の役にあったアリ・アブドゥル=アミール・アラウィは、「われわれイラク人は実験台にされるのにいいかげんウンザリしている。これほどの衝撃が全土を襲ったうえに、今更経済ショック療法など必要ないではないか」と苦言を呈した。これに抵抗したイラク人たちはたちまち検挙されて収容所へと送り込まれ、さらなるショック療法をあたえられた。もはや比喩どころの話ではない、本物の「ショック療法」が心身に施されたのである。

 大惨事のショック時に自由市場がいかに便乗するか、私が調査を開始したのは2003年5月にイラクが占領統治されてから間もない頃だった。2005年、バグダッドに赴いた私は、アメリカ政府が「衝撃と恐怖」作戦に引き続いて行ったショック療法の失敗に関する記事を書き上げてから、その足ですぐにスリランカへと向かった。2004年末に大津波がスリランカを襲ってからすでに数ヶ月経っていたが、私はここでも同じような手口を目撃するようになる。災害後、外国投資家と国際金融機関はただちに結託してこのパニック状況を利用し、村を再建しようとした数十万人の漁民を海岸沿いから締め出したうえで、この美しいビーチ一体に目をつけていた起業家たちの手に引き渡したのだ。彼らは瞬く間に大規模リゾート施設を海岸沿いに建設していった。スリランカ政府は「悲惨な運命のいたずらとはいえ、今回の天才はスリランカにまたとないチャンスをプレゼントしてくれた。この大惨事を乗り越え、我が国は世界でも一流の観光地となるだろう」と発表した。要するに、ニューオーリンズで共和党政治家とシンクタンクと不動産開発業者が三者一体となり、「白紙の状態」を口にして浮き足立つずっと以前から、これが企業の目標を推進するうえで好ましい手法だという理解はすでに確立していたのだ。つまり、人々が茫然自失としている間に急進的な社会的・経済的変革を進めるという手口である。

中略

彼の解く原理主義的資本主義は、常に大惨事を必要としてきた。



2022年3月4日金曜日

アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 一部抜粋

 アメリカの巨大軍需産業 広瀬隆 集英社新書

p198  インドネシアへの兵器輸出とティモール・ギャップの石油利権

20世紀の戦争を動かしたのが石油であれば、その問題を21世紀に持ち越したのがインドネシアからのティモールの独立紛争であった。97年以来のアジアの金融崩壊が続いた後、98年5月にスハルト独裁体制が崩壊し、政権交代という劇的な変化をもたらしたが、ディモール独立の背後には仕組まれた罠があった。動乱1年後の99年5月から、インドネシアでは自由選挙がおこなわれ、9月1日に主要政党の顔ぶれが決定した。

 主要5政党のうち、東ティモールの独立を認めなかったのは、第1党の紛争民主党だけであった「人権外交」の国際社会から強く批判されたのが、彼女と支持者が望んだのは、東ティモールの独裁的支配ではなかった。過去に東ティモールの独裁的支配をおこなってきたのは、逆に欧米の石油メジャーの傀儡政権だった与党ゴルカルと国軍のスハルト体制である。それを知るメガワティは、東ティモールをインドネシアから切り離して、欧米の利権者が「新たに独立した小国・東ティモール」に群がる未来を望まなかった。

メガワティの父は、インドネシア独立の父スカルノ大統領であった。背後に欧米の情報工作機関が動くなか、スカルノは失脚し、スハルト体制に移行した。99年総選挙は欧米支配体制を再度ひっくり返し44年前の気運を再来させる出来事であった。しかし、欧米が黙ってこれを見過ごすはずがなかった。インドネシアは石油と天然ガスの宝庫だからである。オーストラリアとティモール島のあいだにあるティモール・ギャップ海域には、石油と天然ガスが埋蔵量数十億バレルあると推定され、オーストラリアのBHP(ブロークン・ヒル・プロプライエタリー)、モービル、ロイヤル・ダッチ・シェルのメジャーが70年代から探査をおこなってきた。

 75年7月、ポルトガル本国で政変が怒ると、これに乗じて、ポルトガル領の東ティモールで独立運動が高まり、8月11日にクーデターが発生して、欧米の石油利権が消失する寸前まで事態が進んだ。そこで現地は、欧米の石油企業による代理戦争に様相を一変し、内戦に突入していった。12月7日にはインドネシア軍が介入し、首都ディリを占領して臨時政府を樹立すると、インドネシアによって東ティモールが併合されたのである。

 しかしこのインドネシア軍の東ティモール真縫う二日前に、首都ジャカルタでスハルトと会っていたのは、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官であった。彼ら二人は、スハルトに対して東ティモール侵入にゴーサインを出し、同時にアメリカからインドネシアへの兵器輸出の約束をとりつけた。しかもその購入資金は、IMFやアメリカ輸出入銀行など欧米の金融機関やペンタゴンからの援助によって、アメリカに還流するよう仕組まれ、インドネシア財閥のサリム・グループやリッポ・グループらがアメリカ軍需産業の代理人となっていた。

 バハルディン・ハビビが当時その主役をつとめた。のちにスハルト失脚後、大統領に就任した人物である。彼は西ドイツ時代のメッサーシュミットで育てられ、副社長に出世して、同社が提携したボーイングとも関係を持っていた。そのためインドネシアに帰国すると、76年から大臣として大幅な軍備拡張を推進し、反乱軍鎮圧用の航空機ロックウェル・インターナショナルOV10、ロッキーオドの大型輸送機C130、GMの軍用車などを続々とアメリカから輸入した。それに乗じてアメリカ軍需産業は、ライフルなどの消化器やヘリコプター、大砲に至るまであらゆる種類の武器を送り込み、やがてハビビはインドネシアに国産飛行機工場を建設するまでに勢力を拡大した。さらにカーター政権になると、副大統領モンデールが攻撃機スカイホークA4を提供する交渉に当たり、フォード時代の4倍以上という膨大な兵器貿易を行うようになった。特に東ティモールで住民殺戮に効果的だったのは、ベル車の軍用ヘリコプターであった。

 カーターがインドネシアに深いリシア動機は、いらんと同様、ベルの親会社テクストロン社長から財務長官に転じたミラーの差し金にあった。アメリカの企業最高幹部は、退任後に事業に口を出さないが、その会社の株券と債権を大量に保有し、株価が私生活の財産を保証する関係にある。レーガン政権になっても、インドネシアに対する兵器輸出はほぼ同じ規模で続いたが、86年になって突然それまでの5000万ドル規模とは桁違いの3億ドルを超える兵器がインドネシアに流入した。フィリピンの独裁者マルコスが失脚したアジア動乱の機器を米良って、ゼネラル・ダイナミックスの戦闘機F16が初めて12機売却されたからである。以後、ブッシュ政権で少し落ち着いたが、クリントン大統領が再び大幅な武器輸出に踏み切ろうとした矢先、インドネシアに政変が怒ってホワイトハウスは沈黙を保たざるをえなうなった。

 この経過が物語る通り、欧米が意図したのは、スハルト体制にほるインドネシア軍の利用であった。その負担は、インドネシアにとって重かった。18世紀にはじまったコーヒーさいばいで、ひとり当たりの生産額が年間400ドルにしかならない東ティモールに大金を次子m刺されたのは、独裁者スハルトであった。

 ところがこれら欧米の利権車は98年5月以来、手の平を返したように、東ティモールの独立を支援する側に転校した。飼い慣らしてきたスハルト体制が崩壊し、インドネシア国民が一人歩きしはじめたからである。99年8が雨t30日には、国連管理下で東ティモールの住民投票が実施され、欧米の宣伝工作が功をそうして投票率98・6%のなか、独立先生はが圧倒的な勝利を収めた。突然寝返った欧米に不満を抱くインドネシア国軍は、ブリティッシュ・エアロスペース製の攻撃機ホークを使って、東ティモール独立賛成派を威嚇した。このホークはイギリスのメジャー政権が96年にインドネシア向けに16機売却を許可し、99年4月に、ブレア政権が2機納入したものであった。

 さらにインドネシア系住民による東ティモール独立はへの弾圧が横行し始めるのを待って、人権外交を看板に掲げる欧米は、99年9月に国連の主導という形で東ティもオールへの国際舞台の投入に踏み切った。そのしれ意見を握ったのは、アメリカから膨大な額に上兵器を輸入してきた隣国オーストラリアであった。ところが99年9月14日〜17日にかけて、イギリスで過去最大規模の国際兵器見本市が開催され、50カ国600社以上の軍需産業が出展するなか、この兵器ショーに、東ティもオール問題で国際的に批判されていたインドネシア政府が招待され、イギリスの二枚舌が大きな問題となった。

 欧米のメディアに踊らされた市民運動家と国際世論は、背後の事情も知らずに、独立を求める東ティモール住民の味方についたが、東ティモーオルの住民感情を巧みにコントローオルしてきたの誰だったのか。

 オーストラリアはその10年前の98年12月にインドネシアと石油・天然ガスん共同開発プロジェクトに正式調印していた。その調印こそ、当時インドネシアが肝炎に制圧していた東ティモールと、オーストラリア北部のあいだに位置するティオール会でのプロジェクトに関するものであった。その海域には、推定10億バレルの原油が埋蔵されていると見られたが、共同開発計画は難航し、10年の歳月をかけた交渉の末に実ったものであった。しかも正式調印がなされても、まだインドネシアとオーストラリアの領域の線引きは確定しなかった。その後、原油と天然ガスの推定埋蔵量は数十億バレルにふくらみ、オーストラリアは一応の了解の線引きをおこなったが、何としてもインドネシアから東ティモールを独立させようと、時期を狙ってきた。独立させることによって、小国を相手に、原油の利権を自由に獲得できるようになるからである。 

 東ティモール住民を弾圧するインドネシア国軍を非難するのは容易である。オイル・メジャーの罠にはまったのは、国際世論であった。


注)2001年ごろに書かれたもので、著者の視点による調査と見解なので、ひとつの側面として見ています。


2022年3月3日木曜日

メディア・コントロール ノーム・チョムスキー(1991年)

「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」ノーム・チョムスキー

注)これを書かれたのは1991年のようです。現状はもちろん変化していると思われます。

p23 広報(Public Relations)

広報(PR)産業を開拓したのはアメリカである。

業界の指導者たちも認めるように、その目的は「大衆の考えを操作する」ことだった。彼らはクリール委員会の成功や、「赤狩り」とそれにつづく世論形成の成功に多くを学んだ。

広報産業は巨大になり、1920年代には大衆が企業の原則にほぼ全面的に従うまでになった。その成功があまりにもみごとだったので、1930年代に入る頃には、連邦議会の委員会がこの業界を調査しはじめたほどだ。このときの調査によって、私たちは広報産業に関して多くのことを知るに至った。

広報は、いまや年間10億ドル近くが注ぎ込まれる一大産業となっている。そして、その目的は一貫して「大衆の考えを操作する」ことだった。だが1930年代に、第一次世界大戦時に生じたのと同様の大問題が発生する。大恐慌が怒って、堅固な労働者組織ができたのである。労働者は1935年に初めて合法的な勝利まで勝ちとった。労働者の団結権と団体交渉権を認めるワグナー法、いわゆる「1935年全国労働関係法」の制定によって、とまどえる群が団結する権利を手にしたのである。

中略

大衆の組織化などあってはならないことだ。大衆が組織されれば、行動の傍観者にとどまらなくなる恐れがある。かぎられた資源しか持たない人びとが大勢集まって団結し、政治に参入できるようになったなら、彼らは観客ではなく、参加者になってしまうかもしれないのだ。それはまぎれもない脅威である。二度と労働者が合法的勝利を得ることがないように、民主主義社会を危うくする大衆の組織化がこれ以上進まないように企業側は対策を講じた。その目論見は当たった。労働者はそのあと二度と合法的な勝利を得られなかった。

中略

これは偶然ではない。何しろ相手は財界である。こうした問題を処理するのにいくらでも金と労力をかけられる。知恵もある。広報産業を利用し全米製造者協会やビジネス円卓会議などの組織に働きかけることもできるのだ。

中略

そして1937年に、最初の試みがなされた。ペンシルヴァニア州西武のジョンズタウンで大規模な鉄鋼ストライキが起こったときのことである。企業が労働者を制圧する新しい手法を試したところ、それがことのほかうまくいった。(中略)スト参加者への反感を世間に広めスト参加者は世間にとって有害な、公益に反する破壊分子だと思わせるのが狙いだった。

 公益とは、ビジネスマンも労働者も主婦もすべての人間を含む「私たち」全員の利益である。私たちは団結して調和をはかり、アメリカニズムの名のもと、一緒になって働きたい。それなのに、ストの参加者のような破壊分子が問題を引き起こし、調和を見出し、アメリカニズムを侵害している。

中略

必要なのは、誰も反対しようとしないスローガン、だれもが賛成するスローガンなのだ。それが何を意味しているのか、誰も知らない。

中略

彼らをつねに怯えさせておくことも必要だ。自分たちを破壊しにやってくる内外のさまざまな悪魔を適度に恐れ怯えていないと、彼らは自分の頭で考えはじめてしまうかもしれない。それはたいへん危険なことだ。そもそも彼らには考える頭などないのだ。したがって、彼らの関心をそらし、彼らを社会の動きから切り離しておくことが重要である。

p33 世論工作

1954年、バーネイズがユナイテッド・フリーツカンパニーのために広報作戦を展開すると、それに乗じてアメリカはグアテマラに進出し、資本主義を報じる民主的な政府を転覆させ、凶悪な暗殺者集団が牛耳る社会を出現させた。

 その体制は今日まで続いており、ずっとアメリカから支援されている。もちろん、アメリカの目的はグアテマラが空虚なかたちで民主的な変更をしないようにすることだった。国民が反対する国内政策を実施するには、ゴリ押しをつづけるしかない。だが、国民にしてみれば、自分にとって有害な構内政策を支持するいわれはない。

 この場合も、大々的な宣伝が必要になる。そういう例はこの10年のあいだにいくつもあった。たとえば、レーガン政権の数々の計画は圧倒的に不人気だった。1984年の「レーガン圧勝」時にも、有権者のおよそ5分の3はレーガンの政策が法制化されないことを願っていた。軍備の増強にしろ社会的支出の削減にしろ、レーガンの計画はことごとく国民の強い反対にあった。

 しかし、国民が社会の周辺においやられ、自分の本当の関心から目をそらされて組織をつくることも自分の意見を表明することも許されず、他人の同じ考えをもっていることを知るすべさえなかったら、軍事支出よりも社会支出のほうが大事だと考え、世論調査にはそのように答える人々も、そんなばかげた考えをもっているのは自分だけだろうと思い込んでしまう。現実に、圧倒的多数がそう思い込んだのだ。

 そういう意見はどこからも聞こえてこない。誰もそういう風にはかんがえていないのだろう。したがって、そういうことを考え、そういうことを世論調査で答えようとする自分あhきっと変人にちがいない。意見を同じくする人、その意見に自信をもたせてくれる人、その意見を表明させてくれる人と知り合って団結する機会はどこにもないので、自分が変わり者のような、ひねくれ者のような気がしてしまう。


p45 敵の量産

医療、教育、ホームレス、失業、犯罪、犯罪人口の激増、投獄率、スラム地区の治安の悪化など、これら数々の深刻な問題に、真摯な対策は何一つ講じられていない。こうした状況は誰でもしっているのだが状況は悪くなる一方だ。

中略

こうした状況にあっては、とまどえる群の注意をなんとかして別のところへ反らす必要がある。彼らがこれに気づき始めれば、不満が噴出するかもしれない。これによって苦しむのは彼ら自信だからだ。

中略

いつでお都合よくつくり出せる怪物は、かつてロシア人だった。ロシア人なら、つねに自分らを守る必要のある敵に仕立てることができた。ところが昨今、ロシア人は敵としての魅力を失いつつある。ロシア人を利用するのは日を追って難しくなっている。そこで、何か新しい怪物を呼びださなければならなくなった。

中略

そこで、国際テロリストや麻薬密売組織、アラブの狂信者、新手のヒトラーたるサダム・フセインなどに、世界征服に乗り出させることになった。そうした輩を次から次へと出現させなければならないのである。国民を怯えさせ、恐怖におとしいれ、臆病にさせて、怖くて旅行もできない、家にじっととぢこまっているしかない状態にさせる。(中略)

架空の怪物を仕立て上げては、それをたたきつぶしに出向いていく。

p49 認識の偏り

恐ろしい敵をでっちあげることが長きにわたってつづいてきた。その例をいくつか紹介しておこう。

1986年5月に、獄中から解放されたキューバの政治犯、アルマンド・バヤダレスの回想録が出版された。メディアはさっそくこれに飛びつき、盛んに書き立てた。メディアはバヤダレスによる暴露を「カストロが政敵を処罰し、抹殺するために巨大な拷問・投獄システムを用いていることの決定的な証拠」と表した。

この本は「非人間的な牢獄」や血も涙もない拷問についての「心を騒がせる忘れがたい記述」であり、また新たに登場した今世紀の大量殺人者の一人のもとで行われた国家暴力の記録である。

 この殺人者は、少なくともバヤダレスの本によれば、「拷問を社会統制の手段として正当化する新しい独裁政治を構築している」のであり「[バヤダレス]がくらしていたキューバはまさに地獄だった」。

 これが『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された批評である。カストロは「独裁者の暴漢と称された。極悪非道な彼の行為はこの本で完全に暴露されたことでもあり、「よほど軽率で冷酷でもないかぎり、この暴君を用語する欧米の知識人はまず皆無だろう」(ワシントンポスト)とされた。

だが、これはある個人の身に起こったことの記述である。

これがすべて真実だとしよう。バヤダレスは拷問されたと言っているのだから、彼の身に起こったことについて被疑を呈するのはやめよう。ホワイトハウスの人権デー記念式典で、バヤダレスはロナルド・レーガンから名指しされ、血に飢えたキューバの暴君の恐ろしい残虐行為に耐え抜いた勇気を称えられた。

 その後、バヤダレスは国連人権委員会のアメリカ代表に任じられ、そこでエルサルバドル政府とニカラグア政府を擁護する意向を述べた。いくら仕事とはいえ、、バヤダレスの被害もささやかに見えるほどの残虐行為を避難されている両政府をどうして擁護できるのだろうと思うがそれが現実なのである。

中略

1986年5月のことだった。なるほど、「合意のでっちあげ」とはこんなところから始まるのかもしれない。同じ5月に、エルサルバドル人権擁護委員会の生き残りメンバー(指導者たちは殺されていた)が逮捕され、拷問された。

 そのなかには、委員長のエルベルト・アナヤも含まれていた。彼らはエスペランサ監獄に送られたが、獄中でも人権擁護運動をつづけた。法律家のグループだたので、囚人から先生供述書を取りつづけた。監獄には全部で432名の囚人がいた。彼らが署名した430人分の氏先生供述書には、囚人たちが受けた電気ショックをはじめとする残虐な拷問について詳細に記されている。


2022年1月18日火曜日

拮抗、耐性、必要なものは無尽蔵にすぐそばにある 2022年1月18日

 自然の中で生き物は拮抗し合っている。人間も本来はそういう拮抗しあった関係の中にいるはずだったのだと思う。命を保つために栄養を獲得して次世代に命を繋いで…。それは戦いのようでもあるが、戦うというのは何かしら主体みたいなものが想定されないと戦いにならない。生き物に主体ってあるのかな?主体の感覚って人間が勝手に想定しているだけだ。人にとっての主体の感覚も、時代によって変わってきたのだろう。

生き物の定義は難しいけれど、菌もウイルスもその機構の中にあるものだ。それらが拮抗しあってある種のバランスを見つけているのかもしれない。響き合っているのかもしれない。

無重力の場所に行くと人は筋力がすぐに落ちて歩けなくなってしまう。それと同じで無菌状態のところに長くいたら、人は菌やウイルスへの耐性がすぐになくなってしまう。

必要なものは無尽蔵にすぐそばにある。「価値がある」とされるものは何かしら希少性があって、珍しかったり、手に入りにくかったり、手の込んだ技術や、お金をつぎ込んだり、とんでもない天才が作り出したものだったり、ものすごいプロフェッショナルな人が行ったことだったり、と考えらえがちだと思う。でも実際には、必要なものは無尽蔵にすぐそばにあって、ちょっとした工夫で自分でなんでも作れたり手に入れたりできるものなんじゃないだろうか?そういう感覚は狩猟採集的な感覚なのかもしれないけれど。

誰かに伝えようとかわかってもらおうとか考えずに、好奇心で突き進んだことが結果的に役割になったらいい。ダンスの活動はそうやってやってきたのだから、それ以外のこともそれでできるんじゃないだろうか?

2022年1月11日火曜日

ノーム・チョムスキー:「合意のでっちあげ」について 2022年1月11日 

 ベルリンにいる間、言葉の問題もあるけれど、ロックダウンが長かったり、ロックダウンがあけても制限があるなかで人に会いづらかったりして、私自身が感じていることを人とシェアすることが難しくなっていった。そしてSNSでのやりとりが多くなった。私は自分が感じていることが他の周りのひととは著しく違うことで孤立感を感じたし、思ったことをSNSで書きづらくなった。書けなくなった。それは、重たく暗い「暗黙の了解」として空を覆った。後日、意を決して何人かの人と直接話をした。また、日本に帰ってきてからいろいろな人と話した。結果、自分と同じように感じている人はとてもたくさんいた。具体的に言えば、コロナを怖がっている人はさほど多くなく、またワクチンの安全を信じている人はほとんどいなかった。このことは、SNSの投稿を見た雰囲気ととても大きなギャップがあったので驚いた。でもそれを声に出すことはほとんどないようだった。そして、そうであっても流れに逆らうことは難しいとみんなが感じていた。旅行に行けないから、行動が不自由だから、周りの目がきになるから、ベルリンでは法整備もされ、規制が行動を大きく遮ることもある。

今、ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」を読み直している。1991年には書かれていた。今起きている「合意のでっちあげ」には古い歴史がある。そう考えると「とんでも無いことが起きている」というよりは「いつもと同じことが起きている」とも言えそうだ。

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さて、これで民主主義社会には二つの「機能」があることになった。責任をもつ特別階級は、実行者としての機能を果たす。公益ということを理解し、じっくり考えて計画するのだ。その一方に、とまどえる群れがいるわけだが、彼らも民主主義社会の一機能を担っている。

 民主主義社会における彼らの役割は、リップマン(*)の言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することでは無い。しかし、彼らの役割をそれだけにかぎるわけにもいかない。何しろここは民主主義社会なのだ。そこでときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。(中略)これを選挙という。(中略)われわれは、とまどえる群れを飼いならさなければならない。とまどえる群れの激昂や横暴を許して、不都合なことを起こさせてはならない。(中略)

 そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。政治を動かす階級と意思決定者は、そうしたでっちあげにある程度の現実性をもたせなければならず、それと同時に彼らがそれをほどほどに信じ込むようにすることも必要だ。ここには暗黙の前提がある。(中略)どうしたら意思決定の権限をもつ立場につけるのか、という問題に関係している。もちろんその方法は、「真の」権力者に仕えることだ。社会をわがものとしている真の権力者は、ごくかぎられた一部の人間である。

 特別階級の一人がそこへ行って「あなたのために便宜をはかれます」と言えば、彼は支配階層の一員になれる。そんなことを公言してはならない。(中略)そこで一部の者を責任ある特別階級へといざなう教育のシステムが必要になってくる。国家と企業の癒着関係に代表されるような私的権力がどんな価値観をもち、何を利益としているかを、徹底的に教え込まなければなら無い。それが理解できたなら、特別階級の一員になれる。

 残りのとまどえる群れについては、つねに彼らの注意をそらしておくことが必要である。彼らの関心を全く別のところに向けさせろ。面倒を起こさせるな。何があっても行動を傍観しているだけにさせるのだ。

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「合意のでっちあげ」はつまり「みんなで、そう思っているふりをする」ことなのだろう。日本でよりもヨーロッパでの方がより、自分を騙してでも「ふり」を貫く根深さ、強固さを感じた。「ふりをする」ことはは「振り付けにしたがう」ことかもしれない。無意識のうちに。その背景には「正当性」を逸脱する恐怖があるようにも感じた。長い歴史を感じた。

しかし、実際SNSでは、何かを傍観しているような感じてはなく、みんなが権力にあらがっていると思い込んだ正義の言動をしているように見えた。そして、その結果、全体主義へとまっすぐ突き進む方向への賛同を(言動や行動で)示しているように見えた。それはSNSを利用した「合意のでっちあげ」のための新しい手法かもしれ無い。(あるいは古い手法なのかもしれない)。タチが悪いのは、「あらがっている」ように思わせながら「振り付けにしたがわせる」という巧妙さだ。

*リップマンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3