2014年1月30日木曜日

人前で歌う

昨日、自分から歌が生まれるまでのプロセスを探る作品を人に見せた。人前で歌うという基本的な恥ずかしい状況というのを久しぶりに体感した。歌が生まれるというのと、人前で歌うということは実は少しだけズレているのだろうか?ダンスの場合は人がいた方がやりやすいのに、歌は完全に逆転してしまった。自分の中で、歌に向かって開かれるような感覚を得たけれど、それは見ている人にとって実は不快なことにすぎないのではないか?という不安も生まれたりした。試行錯誤している実感だけが確かで、それを続けるしかないという覚悟である。

2014年1月28日火曜日

渋谷

久しぶりに渋谷の交差点に行った。昔そこらへんをうろうろしていた時も、さまざまな新興宗教、政治家のアピール、署名運動、大画面での露骨な宣伝、行き交う多様な人々がいたのだが、その感じを特別に思ったことは無かった。久しぶりにそこに行ってみると、選挙カーやそれを撮影するテレビ局の人、今問題になっているさまざまな署名活動、撮影しようとカメラを持ってうろうろしている若いアーティスト、楽器を持っているグループ、テレビ番組の大きな宣伝カー、大画面のコマーシャル、そういったものであふれかえっていて、でも今起きていること、起きつつあることがここに反映されているような、人々の反応が肌身で感じられるような臨場感みたいなものをすごく感じた。ひとつの演劇を見ているような、あるいはSF映画の中に入っているような、そうやって観察している時の自分はなぜか透明人間になったような、過去からやって来た時間の旅行者のようなそんな感じもしてくる。すごく不思議な時間だった。

2014年1月22日水曜日

間にある歌詞

山中カメラさんと一緒に、ふたりだけで「間にあるものとしてそこに置く」の最初の言葉のところの実験をやって、実験から出して来た言葉に少しだけ補足の言葉をつけたら、すぐに歌になった。

砂場の向こうに
オーストラリア
雨つぶの色は、黒
グレイは見ていた
ポリネシア
海の彼方から

ものすごく不気味な世界だ。
これに、ど演歌調、アイドル風などいろいろなメロディーで歌ってみると、どんなふうにもできて、自由に曲を作れてしまう。それは、日々のテレビやラジオやちまたから流れる音楽やらが、有無を言わさず自分の中に蓄積されているのだろうなあ。芸能が立ち上がるのも、こういう感覚かもしれない。その時代の中に流れている物を体に取り込んで自由に取り出せるというような。



歌になるまで

いま、人の中から、あるいは人々の中からどうやって歌が立ち上がってくるのだろう?ってことについてずっと考え続けている。近々やる『野良』というイベントでも労働歌やいろいろなアプローチでそれに向き合う予定だけれど、特にソロの新作に相当する取り組みとして歌が自分の中からどんなふうに立ち上がるか?の実験をやる。ここ3日くらいずっとその実験を続けている。1日目はとにかく何か楽器で音をならしながら声を出すということをやって、2日目は目についた物を声に出してしゃべることを歌にしてみたり、カードに片っ端から目に入ったものを書き出して、そのカードをトランプみたいに切って、引いていって片っ端から歌にしたりした。今日は3日目で、どちらを試みてもちっとも歌が立ち上がらないので、机をペンで叩いてリズムを作ってみた。ペンから手に変えて、叩いた音から次の音までを、円を描くようにイメージしながら叩いて、声を出そうとしたらすごく小さな声しかでない。でもすぐに勝手に言葉が出て来て、それがまるで子守唄みたいになる。なんでかというと、このリズムが、子供の背中を叩く感じなんだった、そうだそうだ、なんて思いながら、なんか小さな声の子守唄を歌うような感じが、様々に自分の記憶を引き出してしまうから感極まったりした。

2014年1月13日月曜日

天然脱構築

さっき、息子に促されて民俗芸能ごっこみたいなことをやった。棒の先に手鏡をくくりつけて掲げ、反対の手には木槌を持ち、頭に黄色いヘルメットのオモチャをかぶり、片足で跳んでは反対の足を曲げ、えせ民俗芸能の音楽を口三味線で奏でながら飛び回る。一緒に即興で芸能を作って行く。どこで、こういうエッセンスが出てくるんだろうなあ。今まで一緒に連れ歩いた各地の古い芸能、ビデオ、その時々では半分以上観ていないように見えるけどなんか、そういったものを全身で吸収し、体の中で再編成されて出てくるのがすごい。そういう形で得たものが彼の中で未来の何かに繋がっていくとしたらそれは凄いおもしろい。でも、これからの反抗期でそういうものにすべて背を向けて都市的な価値観にシフトしてしまうかもしれない。自分の興味に付き合わせつつも、反抗期で鬱屈しないためにかなり気を使っている。どんなことする人になるのか知らないけど、何らかの形で、私の試行錯誤の要素を繋いで行ってもらいたいって、どこかで思っている所があるのかなあ…。

2014年1月11日土曜日

マイノリティーの嗅覚

子どもを持って、古いコミュニティーのあるところに暮らしていると、ある一定の法則にしたがってマジョリティーの営みに追随しなければならないような、そういう営みの日々の憂さに波長を合わせなければならないような窮屈さを感じるときもある。けれども、一度、大きくたがを外して生きてみると様々なマイノリティーの人の営みに触れる瞬間も少しずつ増えて行く。そういうところに行き当たることが多くなって、なにか鼻が利くようにもなってくる。そうすると、そこには楽に呼吸ができるような喜びがある。新先前よりも、そういう喜びの方に大きく舵を切ることが迷いなくできるようになってきた。

2014年1月8日水曜日

聞こえる音が変化する

部屋に楽器を持ってきてみた。
チラシを作るにあたって、その内容を今掴もうとしている企画の深部が浮かび上がってくるようにしたいと思うと、まず自分の時間が必要で、自分の時間といっても、自分の時間になるような空気というのが必要で、ただ、メールのチェックしたり実務や家事をやってるだけだと自分の時間にならないのだ。それで、その濃密な時間に変化させるきっかけとして楽器を持ってきた。一人きりで、コーヒーとストーブと楽器(ウクレレとレインスティック)があるというだけで、部屋の空気が変わってくる感じがする。外は雨が降っていて、そういった音の意味が違って聞こえてくる。

2014年1月7日火曜日

カラダの中の火

自分にとって、深いところに火をつけられるような文章や、舞台というのがある。そういうときは、体の深いところが急に熱くなって、自分がそれに動かされて行くような予感が自分を突き上げたりする。そういう経験が、だれかが作ったものを観たときに起きる、一番価値のあることなんじゃないかな?と思う。なんていうか、恋に落ちる感じとかにも似てるのかな?似てるので、そういう舞台がらみでいろいろな人間関係が複雑に絡んでいってしまうこともあるのだろう。そんなとき実際に、行動を起こすのと火を灯しているだけなのでは違うし、行動を起こしてしまうとそれで火は燃え尽きてしまうようにも思う。灯を灯して、新しい何かにいつでも燃え広がることができる持続可能な種火のように、大事にしていた方が、自分には向いている。私のキャラでは「恋」とかいう言葉が出ること自体、意外性が強すぎるという趣旨のことも言われたばかりだけれど…。でも、逆に、どうしてもげんなりしてしまってエネルギーが鎮火してしまうように感じることもある。そうすると老け込んだような気分になる。自分の中に種火が灯った感覚をいつでも思い出せるようにしていたい。今は歌いたいという気もちが、恋に似た種火として私の奥にはある。