2010年11月22日月曜日

最後の改良点


昨日でパフォーマンスの日程は終わった。
なんというか、今までやった事の無いような一対一対応でお客さんと何かをやるというものをやった訳だけど、このような形式になったのもなんか不思議だ。

昨日までのやり方に付け加えて最後の改良したのは

4)中間の物事はなんですか?

の後に更に

5)その反対にあたることはなんですか?

というシツコイ質問を入れてみた。すると

例えば、4)で「普通な事」になった場合
5)で「狂気的な事」となったりする。
これはもちろんすごく幅のある事だけど、これらは
「神聖さ」と「その逆」の間に入っているものごとだということになる。
こういうことを繰り返す事で、人にとっての「神聖さ」をまわりから位置づける可能性のあるマップが作成できるかもしれない。

また、なんだか分からない不思議な場所に最後たどり着けたらもっと素敵だ。

実際の人々の応えについてはまた後日何らかの形で提示しようと思う。

2010年11月20日土曜日

やったこと2つ



昨日私がやったことは、本番前に今回一緒にやるフィンランドの仲間がそれぞれにお客さんとやるエクササイズを一緒に体験させてもらい、そのあと、その反対側のエクササイズをやるとしたらどんなことか?またその両方の一番中間にあたることをやるとしたらどんなことか?それぞれ聞いて、一緒に体験させてもらった。何がその人のモチベーションの根源なのかが私に伝わって来たり、別の可能性について模索している瞬間を一緒に経験したりすることが私の深いところで求めていることなのかもしれない。

本番は、

「Please take me to your favorite CAFE 」

というカードを胸に付けて目をつむって立っていて、人々が来て私を連れてカフェに連れて行ってもらって、そこで

1)あなたの国の言葉でSacredという意味に当たる言葉は何ですか?
2)その言葉をあなたの感覚で他の言葉に言い換えて下さい。
3)その言葉の反対の言葉は何ですか?
4)その2つの中間にあたることはなんですか?
5)その中間に当たる事を私と一緒に今やれることはありますか?

という手順で、最後に何かを一緒にやって終わる。

やってみて、とにかく誰も私を連れて行かない時間がとてつもなく長い。最初90分くらい誰も来なくて待っていた。
けれども、その待っていると言う時間が思った以上に良かった。その間に自分の感覚も体も少しずつ変容して行く。
托鉢とコールガールの中間のような感じ。
「あきらめる」とか「何も期待しない」ということと
「常に可能性があると感じる」ということが
かなり近い距離のものごととして感じるようになってくる。

何を少し改善したらいいか?これから考えようと思う。

2010年11月19日金曜日

あっという間に本番


フィンランドに来てから、二週間近くが経とうとしてますが、あっという間に今日が本番です。
リサーチというものは、分かるようで分からない言葉なので、それぞれにとって何を意味するかがたぶん微妙に違うのだろうなあとか、Sacredという言葉も同様に、どの辺の事を指すのか、共有できているようで共有できてなかったり、また、それぞれに全く違うだろうと思っていると思わぬところで共有している何かを知ったりというような謎のことがらだなあと思ったり。

でもSacredということに対する誠実さで戦争が起きてしまったりもする。だから、その違い、受け入れられなさのようなものがあったら、それをしっかり観察しなければならないだろう。

今回のリサーチでお互いのそういった作業ができたのか?と言えば、ちょっと甘かったなあというのが感想です。

それぞれ違っていい、って口で言うのは簡単だけど、それを口で言う、という程度の事にはあまり意味が無い気がする。
だって、潜在的に抱えている違和感、拒絶間、不信感、そういったものごとが世界を動かしているのだから。

それについて、何かできたらいいなあ。いつかは。

今日と明日のパフォーマンスを自分がやっていく中で、その予感を掴む可能性を模索したい。最後まで諦めずに。
適わなくても、そこに向かうモチベーションを保つことができるか?どんな状況でも?それが私のサバイバルな戦いなのかもしれない。

2010年11月13日土曜日

sacredとは


フィンランド語で、「sacred」は「プハー」と言うそうで、これは「境界」を意味するらしい。
日本の感覚とも近いのではないだろうか?
あの世とこの世の境
その出入り口がたくさんあるのが八百万の神という感覚なのだろうか?
その出入り口を一つに絞ったのが、一神教的な感覚だろうか?

八百万の感覚が私自身にも潜在的にあると思われる。
だから、非常に当たり前の日々に埋没してこそ、それらを感じ取っているとも言える気がしてしまう。
むしろ、「神聖さ」を意識することによって、すべてそれらしい単なる「イメージ」になってしまう気もする。
「神聖さ」というものは、そこに意識を向けようとすればするほど、嘘くさくなってしまう気がする。
だから、別の事に埋没する遠回りする素敵な方法が見つかればいいのだろうか?

また、様々なエクササイズをする中で、何か瞑想的な方向に集中するという方向性と、
何か、前提を一つ外したり、といった「出口」を示されるような方向と2つある気がした。
私は、好みとしては出口的なものが好きだなあと思った。
三つ目の方向性として、チューニングするというのがある。これは、瞑想にも近い印象があるが、そうではなく、もっと具体的で特別ではない何かにチューニングするということによって別の次元を感じてしまう可能性が開かれるというもの。
トチアキさんが、街の中の落とし物を拾いに行くというのを提案して一緒にやった時にそれを感じた。

2010年11月12日金曜日

ヘルシンキ


ヘルシンキに来ている。
リアリティーリサーチセンターという、アーティストのグループの方たちと、私を含め神村さん、トチアキさん、岸井さん、石黒さんの日本人チームとの共同リサーチであり、何らかのアウトプットをする。
テーマは「Sacred」これを日本語に訳すとひとまず「神聖さ」ということだと思うけれど、日本語として古くからの言語であったものではなく、訳語だろうと推測される。

「聖」という言葉はおそらく中国から輸入された言葉だと思われる。

日本という概念自体がいつも微妙に定義され得ないし、私自身、あるいは私たちの根っこにあるものを指そうとする時に、同じ根っこを指す事ができるかすら分からないから、言語化しようとする時にいつも悩む。
しかし、ある言語によってある程度意識を限定されてしまう事はあるだろう。その言語を使うことで意識がある方向に引っ張られたり、分けられたり認識させられたりする部分が必ずあるし、そういったことを手がかりにするしかないような気もする。そうでないと、このテーマ自体を漠然としたイメージの中での記号的な了解の仕方になってしまいそうだ。

今日で三日目。議論と、エクササイズのバランスで進んでいる。立体的にこのテーマを照らしていくような作業ができたらと思う。