2010年11月13日土曜日

sacredとは


フィンランド語で、「sacred」は「プハー」と言うそうで、これは「境界」を意味するらしい。
日本の感覚とも近いのではないだろうか?
あの世とこの世の境
その出入り口がたくさんあるのが八百万の神という感覚なのだろうか?
その出入り口を一つに絞ったのが、一神教的な感覚だろうか?

八百万の感覚が私自身にも潜在的にあると思われる。
だから、非常に当たり前の日々に埋没してこそ、それらを感じ取っているとも言える気がしてしまう。
むしろ、「神聖さ」を意識することによって、すべてそれらしい単なる「イメージ」になってしまう気もする。
「神聖さ」というものは、そこに意識を向けようとすればするほど、嘘くさくなってしまう気がする。
だから、別の事に埋没する遠回りする素敵な方法が見つかればいいのだろうか?

また、様々なエクササイズをする中で、何か瞑想的な方向に集中するという方向性と、
何か、前提を一つ外したり、といった「出口」を示されるような方向と2つある気がした。
私は、好みとしては出口的なものが好きだなあと思った。
三つ目の方向性として、チューニングするというのがある。これは、瞑想にも近い印象があるが、そうではなく、もっと具体的で特別ではない何かにチューニングするということによって別の次元を感じてしまう可能性が開かれるというもの。
トチアキさんが、街の中の落とし物を拾いに行くというのを提案して一緒にやった時にそれを感じた。

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