2011年1月11日火曜日

リサーチの手法

リサーチをどのように行うかという方法が、今ひとつ確立できないでいる。
どうしても漠然としてしまう。

ただ、点的に芸能を見たというだけでは何も見えて来ない気がする。その土地の何を観察すれば良いのか?

例えば、その土地に生きている人々をインタビューする。
会話を採集し、所作を観察する。
そこで行われているコミュニケーションがどのようになされているか?を見る。
どのような自治的動きがあるか?を観察。

など。
何をどのように組み合わせてみて行けば良いのか?自分の身体的実感とともに何かを考察できるためには何が必要か?

Asia Interactive Research のアイデア

1)共同リサーチをコーディネートしあう。
それぞれの国又は地域で、アーティストがその地の民俗芸能リサーチをコーディネートする。
例えば3箇所の祭り又は芸能、又は文化といえる暮らしそのもの。

2)言葉についてのワークショップ
国の違うそれぞれのアーティストが、それ自体がアートワークになるように言葉を教え合う。
また、同じ言語圏においては、言葉をそれぞれどのようにイメージしているかについて、そのズレを観察するワークショップをする。

垂直な緊張感VS「いずこ」への祈り


高千穂と壱岐の神楽(花祭り・獅子舞などとの対比)

12月18日高千穂の夜神楽、20日壱岐の大大神楽に思いがけず行く事になる。
夜行バスに乗っている間、最果ての異界に行くようなワクワク感に襲われる。
どちらも、交通の便が悪いので時間もお金も懸かる。けれども、それだけの価値があった。

どちらも九州だけれど、まず福岡に入ったとき、あまりの垢抜けた感じに度肝を抜かれた。
東京以上に東京的というか…。東京ってどんな感じかというのも曖昧だけれども、要するに中央的な匂いがするということか?
高千穂も、記紀神話のど真ん中と言ってもいい。また、花祭りと違って、そこに浸かるというよりは人々は見に来ているという感じがはっきりある。また、神様というものをある場所に祀ってあるその特定されるどこかに対する緊張感というものを感じる。愛知県の花祭りや、関東一帯に残っている三匹獅子舞などには、そういったものを感じない。特定され得ない「いずこ」に対する祈りの感覚とでも言ったら良いだろうか?その違いをもう少し観察できたら良いのだが。そういう意味では壱岐の神楽は、その具体的な神様に対する緊張感が、こんなに強烈な祭りは見た事がないという感じで、これまた度肝を抜かれた。垂直に神様に向かう線とでもいうような何かが共有されていて、そこには得体の知れない緊張感がある。とにかく、九州のあたりは、かつて中央であったであろうという実感と、それらは韓国や琉球など外側を意識させる、文化や行き交いによって生じた物事なのではないか?などいろいろな興味が湧く。

マイノリティーなエネルギー

ヨコラボ中間発表

12月23日に横浜の小劇場STスポット主催の「ヨコラボ」中間発表が行われた。
人のマイノリティーな側面というものがとてもいとおしく感じられた。どうにもならないマイノリティーな感覚や判断というものを、無条件に肯定したいという衝動。そういった部分を抑圧する表層的な「正しさ」への嫌悪感がある自分に気づかされる。
もう一組の中村さんチームはとても洗練された作品に仕上がっていてビックリしてしまった。
我が自己探求チームのメンバーには、なるべく具体的な判断やアイデアを言わないように気をつけた。自分の感覚を信じる訓練でもあるからだ。他者の判断を勝手に想定しないで自分の実感を信じる事の難しさも感じたが、今回発表してくれた皆は果敢に挑んでくれて、私の活動を更に勇気づけてくれた。