2023年1月12日木曜日

利益と不利益のシステムとは違う小さな流れ 2023年1月12日(木)

 畑をやり始めて、今年は田んぼにも取り組むことになって、狩猟にも手をつけようとしている今、否応なく循環について考えざるを得ない状況が続いている。同じ作物をたくさん育てることは、自然がバランスをとる絶妙なやりとりを無理やり変更させるという側面があるということを、否応なく実感してしまう。なぜなら、絶妙なバランスをとるといっても自然の一つ一つの命は一見バラバラに、個々の都合で伸びたり食べたり繁殖したりしているように見える。見方によっては勝手にそれぞれ自分のことだけ優先して戦っているようにも見える。でも、そのバラバラな物事が奇跡のような響き合いで補い合ったり助け合ったり、結果的になっていて、本来人間もその循環の輪の中にいるはずだったのだと思う。そのことを、自然と生きることで実感していた時代はあっただろう。そこから切り離されていったのはなぜなのだろう?切り離されようとしたときに生まれた神話や儀式があって、なんとか、循環に繋ぎ止めようとしていたのかもしれない。祈りのように。

一方、原発もワクチンも戦争も、そこから利益を得る人がいる限り決して止めることはできない、という達観した気持ちが湧き始めている。利益を得るのは巨大多国籍企業やその富を吸い上げる1%の人たちだけではなく、その人たちが意のままに振る舞うためにふりまく利益を得る人、またその人が自分の役割のために誰かにふりまく利益を得る人、と、結果的にかなり多くの人にその利益がふりまかれることになる。たとえばワクチンを打つことで旅行が安くなるというように末端の人々にさえある種の利益がふりまかれる。そして、それらの結果足元からヒタヒタと不利益が滲み出てきて下の方から犠牲になっていく。利益と不利益はまるで次元が違うように見える。けれども、ある種、利益のための何かがもたらす不利益は線引きに囲われた物事の継ぎ目から滲み出てきた自然の循環の力、と言うこともできるのかもしれない。この利益と不利益のシステムから完全に外に出ることは誰であっても不可能にさえ思える。つまり、その被害の拡大がもうどうしようもなく溢れかえって循環が息を吹き返すまでそれらは続くのかもしれない。これはあまりにも悲観的な見方だろうか?それならどうしたらよいのか?

できることは、小さな流れを感じ取ること。小さな流れどうしが少しずつ交わって小さな循環を作ること。それらができるだけ大きな利益と不利益のシステムに絡め取られないように、独自の内発的な流れのままでいること。それらは意識してできることだろうか?目的意識が強ければ不自然極まりないものになってしまうかもしれない。そんな絶妙なバランスを、自然から学べるだろうか?観察を続けるしかない。

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