2011年4月14日木曜日

不安の観察−5

放射能の被害が実際に現実に目に見える形であらわれていくまでの時間はどのくらいだろう。
3年後、5年後、10年後あたりに、浮上するだろうか。
少しずつ、少しずつ、病気が増えて初めて人は何が起きたのかを知るだろう。
非常に長期に渡って裁判が開かれる。裁判に勝つのは至難の業だ。いまのところ、放射能と癌を直接結びつける証拠などない。そういった現実世界をどのように生きるか?できるかぎり想定して、受け止めつつ、自分を見失わずに乗り越えて生きる心の準備をするなら、悪いことについて想定するのは決して悪くない。それらを見据え、私たちはあらゆる可能性にいての試行錯誤に心を開いていかなければならない。

今、何を選択して食べたら安全か分からない。水も野菜も牛乳や肉も、食物連鎖の中で放射能は濃縮されるし、遺伝子の深いところを傷つけるから何世代にも渡って被害が出る。でも、予言めいたことをいっても、実際の世界に現れないと人は認識できないものだ。それなら予測するだけ自分を傷つけるだけになるのかもしれない。
でも、考えてみたら、化学調味料にしても保存料にしても農薬にしても、空気の汚染にしても海の汚染にしても、本当は今に始まった事じゃなくて、ずっと前から本当は、何を食べたらいいのか分からない今と同じ状況だったのだ。たぶん。でも、できるだけ鈍感でいた方がのほほんと生きられるのだし、人はいつかは死ぬのだし、病気の原因は分からないから、そうしていただけなのだ。私自身も結局そうやって生きてきた。でもだから今もそのままでいいじゃん、とは思えないでいる。はっきりとした危機感を肌に感じている。

鎌仲ひとみの「ヒバクシャ」と「六ヶ所村ラプソディー」を見て、現実を一番動かすのはなんといってもお金なのだと実感。その力の大きさを思い知ると絶望的な気分になる。人は動くと思えるときは自分も動くし、動かないと思っているときは自分も動かない。
今起きていることは、動かせる僅かな契機となりうる、今日はそう感じている。

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